このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

【芥川】触らん、神に祟りあり




書架の狭間をさすらって、今夜眠るまでのお供を物色する。
これは終業後のささやかな冒険。図書館に住み込む労働者の特権。
朝になったら、始業までに戻しておけばいい。

「今日は海外ミステリー……いや、児童文学かな……」

昨日はある大統領の伝記漫画、一昨日はアフリカの夜を写した写真集だった。

これと決めた本と出会いに行くのではない。出会った本をこれと決めるのだ。
惰性で視線を滑らせていても、必ず在る。
ふっと呼び止められる一冊が。
引き寄せられて手に取ってしまう、一冊が。

「懐かしい……」

作者はたしかパイロットで、空で命を落としたんだっけ。
人間は生命の危機を感じると、子孫を残そうと性欲が高まると言うけれど。
死と隣接した時代を生きた作家たちは、作品という子どもを産み落とそうとしたのではないだろうか。
先生たちにはそんなこと聞けやしないけれど。
だから答えを探すために、冒険のために、読む。今夜はこれに決めた。


「また夜更かしかい?」

音もなく背後に忍び寄り、高い背丈でわたしに影を落とす人。
振り返れば、ああ、やっぱり。

「……芥川龍之介大先生こそ」
「ふふ、からかわないで欲しいな」

冒険の時間を奪われたようでちょっと口惜しいけれど。

「お話、しましょうか」



食堂のケトルがけたたましく主張する。お湯が沸いたよ、さあ注ぎなさいと。
すると探すまでもなく、愛用のティーカップが差し出される。
「はい、君のはこれだね」
「よく覚えられますね。ありがとうございます」

手の凝ったものでなく、ティーバッグを投げ入れただけのミルクティー。そこに蜂蜜をひと匙。
「せんせ、」
「僕はいいよ」
まだ何も言ってないのに。
「君を眺めて、香りがあって、それで充分だからね」

二人横並びで席に着く。神様に真正面でとらえられるのは、些か恐ろしい。

「その本のこと、教えて欲しいな」

「……これはわたしが小学生のころに、夏休みの課題図書として薦められていたんです。海外の名作だから、たまにはこういうのも読んでごらんって、司書さんに推されて借りて」
「ふうん」
多分先生はこういうことを聞いたんじゃない。

「一番有名な一節は、『いちばんたいせつなことは目に見えない』ですかね」
「おや、日本にも似た詩が無かったかな」
「ふふ、あれも小学校の教科書で読みましたよ」

「『たいせつなことは目に見えない』か……」
「それが見える人達が作家になるんじゃないでしょうか」

文字に起こすことで可視化された「たいせつなこと」が、私のような見えない人間にも見えるようになる。小説はレンズだ。ルーペであり、眼鏡であり、望遠鏡でもある。

「先生は絶対的に与える側で、一読者にしかなり得ない私とはすごくすごく遠い存在で」

例えば先生を悩ませた歯車だって、教えてもらわなければ私には見えないのだ。そういう視点を持つことすら無かったから。
絶対的に違う存在。彼は読者たちにレンズを、視点を与える存在。

「……どうしてそう思うんだい?」
言うなればあなたは。

「あなたは神様だから」

「やめてくれ!」
しくった。
「君まで僕を祀りあげる!結局誰も彼もみな、僕を人間でいさせてくれない!僕が人間であることを赦さない!」
踏み抜いてしまった。
「せ、先生、ごめんなさい、ごめんなさい」
誰にでもある、特に彼はいっとう敏感な、触れられたくない部分を。

「僕は神じゃない、だって、だってだって」
先生の白く長い指が、わたしの喉元にかかる。
あれ、なんで見下ろされてるの。

「神は人間を、平等に愛するだろう?」

がしゃん、と騒音が耳に刺さり、ティーカップが倒れたことを理解した。
ミルクティーが白い本を汚していくのを横目に、呑気にも考えごとをしていた。
よくも公費で管理している本を、とか、ティーバッグもう一回くらい使えたのにな、とか、マグカップなら倒れなかったかも……とか。

あ、わたし机に押し倒されたんだ、とか。


「なにも充分じゃないんだ、いや、充分過ぎたのかもしれない」
彼の手と共鳴するかのように震える声は、今にも泣きそうに聴こえた。私が神様なら、あなたを抱きしめられたのに。
「あ、あ……」

逃げられない。だってこれは神様を怒らせているから。神様と呼ばれたくない神様を。

「僕はねえ、ほかの誰でもない、きみの双眸に認められたいんだ」
ああもう、これはきっと天罰なのだ。
「薬局に用があれば新薬で殺してくれまいか、食堂に出向けば包丁で刺してくれまいか、君の手を見ればその細い指で首を絞めてくれまいか考えていたんだよ」
特務司書とか錬金術師とか、どんなに特異な肩書きが付いていたって所詮私は凡人に過ぎない。たとえ頼まれたって、神様を殺す力なんか持ち合わせていないのだ。
「そう、こんなふうにさっ……!」
喉の皮膚に彼の指がめり込むや否や、気道がぎゅっと狭まった感覚があった。
こんなに力があるのに、どうして子どもみたいに震えるの。どうしてそんなに危うく脆いの。

「せんせっ……息、出来な……」
「苦しいかい?苦しいよね?僕も苦しいよ、君が苦しそうで。君を苦しめなきゃいけなくて」
小学生の頃プールに潜った時間を競ったり、道端の煙草の煙や車の排気ガスが嫌で、過ぎ去るまで息を止めたりしていたのを思い出した。

「何か言い残したいことはあるかい?」
意識がふらふらと浮遊し始めた。まずい気がする。

「……あ、あいは」
「愛は?」

あのね、先生。神様にも分かっていないことがあると思うの。私が本に教わったこと。

「『愛は、お互いを見つめることではなく、同じ方向を向くことである』……」

そのとき泣き出しそうに揺れた彼の瞳は、たしかに、たしかに、脆く小さい人間のものだった。

「ははっ……それなら、愛してくれなくていいよ」

首を締める彼の手が脱力しても、そこから逃れようとは思わなかった。
2/2ページ
スキ