隣の伊達さん
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「あつ~~~い!」
梅雨が過ぎて、夏がやってきた。あの紫陽花の日以来、光忠さんとは会えていない。なんだかちょっと意識してしまって会いにくいというのもあるし、光忠さんのお仕事が忙しくなってしまったという理由もある。
普段であればちょっと悲しいが、今はそのアンラッキーに救われている。
あの日貰ったクッキーはあまりにも造詣が美しかったので、写真に残した。写真フォルダを開くたびに思い出がよみがえってきて、思考が止まる。生活に一時停止の時間が入り込んできて、これは良くないなと思うけれど、消すなんていう選択肢はもちろん無い。
光忠さん、彼女とかいるのかな。聞いたことないけれど、いたって全然不思議じゃない。正国の話を信じるならいないようだけど、本当かは分からない。というかむしろいない方がおかしい。あんなにイケメンで、優しくて、お料理ができて、いい匂いで。ああ駄目だ。思い出すだけで顔が真っ赤になりそう。
ただでさえ暑いのに、これ以上熱くしてどうするんだ。火照った思考を一度落ち着けるために、麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けた。
そこにあったのは、2Lの容器に1cmだけ残された麦茶。
こんなことをするのは正国しかいない。あれだけ微妙に残すのやめてよって言ったのに。仕方がないので残された麦茶を飲み干し、新たに麦茶を作る。
伊達家は麦茶とか作るんだろうか。光忠さんの見た目で麦茶を飲んでいるところは全く想像できないが、あの人なぜかすごく庶民的で家庭的だから分からないな、と考えて、大きくかぶりをふった。いけない。気が付くと光忠さんのことを考えてしまっている。誰か私の脳から光忠さんのことを追い出して欲しい。
新しく作った麦茶、と言ってもまだ水だけど、それが入った容器を冷蔵庫に入れる。正国が帰ってきたらちょっとだけきつく言ってみよう。
今日は土曜日。時間は午前8時。これから何をしようかな。何か案を出すためにスマホを手に取った。
そのタイミングでLIMEから通知が来た。
「流しそうめん。国永が呼んでいる。昼の12時集合。」
広光くんからだった。この暑い季節に何とも魅力的なお誘いである。了解、と短く返して、身支度を整えにかかる。光忠さんがいるかもしれないので、少しでもかわいい自分で参加したい。
広光くんとは正国を通して何やかやで仲良くなり、敬語を使わない関係となっていた。普段の口数の少なさからは考えにくいが、私たちはそこそこの頻度でLIMEをする。このことを光忠さんは知らないだろうから、もし会えたら教えてあげよう。きっと驚いてくれるから。
◇◇◇◇
12時ちょうど。
伊達家のインターホンを鳴らす。
「お、来たな。準備は万端だ。鍵は開いているから、適当に入ってくるといい」
応対してくれたのは国永さんだった。言われた通りに扉を開け、リビングを目指す。相変わらず広い家だ。廊下が冗談みたいに長い。
リビングで待っていたのは仁王立ちの国永さんと、すこし疲れた顔をした広光君だった。
何があったのだろうか。
「あんたが来ると聞いて国永が酷く張り切ったのを手伝わされた。詳細は庭を見ればわかる」
そういって案内された庭には、なんとも立派な流しそうめんの台が堂々と鎮座していた。
「これは……」
「どうだ、驚いたかい?俺が竹を切って作った、流しそうめん台だ!」
竹を切って作った?一から?っていうか流しそうめんの台って自作可能なんだ。すごい長さだ。などなど、いろんな感想が一度に脳を埋めていく。
しかもこれ、長さを見るに竹が2本使われている。
2本も切ったのか、この長さの竹を。一体どうやって、とあたりを見回したところで、庭の端に寄せられている2本のノコギリが目に入った。いや、まさかね。
「いやあ、さすがに竹1本を手作業で切るのは骨が折れた。2本担いで歩くのも、初めてだったしな」
「二度とやりたくない」
まさかだった。うそでしょ、この人、いや、この人たち。
「さあ、せっかく来たんだ。はじめようじゃないか」
そういって国永さんは家の中に引っ込んでいった。2本担いで歩いたって何?これを、持って、街中を……?
残された広光君と私は、顔を見合わせて、苦笑した。
「まさかこんなに本格的だなんて思って無かったよ。すごいね、伊達家は」
「国永だけだ。一緒にしないでくれ。だが、アンタが楽しんでくれたらいいなとは思う」
おお、珍しく広光君がデレてくれている。やはり疲労と言うのは人間の脳をおかしくしてしまうのだろうか。かわいいね。
さて、せっかく呼んでもらえたのだ。何か仕事をしなくては。何かやることありますか、と家の中に引っ込んでいった国永さんに声をかけようとしたその時。
「待たせたな!今日はこれを使うぞ!」
上機嫌な国永さんが、右手に茹で上がったそうめん、左手に見知らぬ機械を持ってスキップしていた。ああ、嫌な予感がする。
「いやぁ、これが届くことをどれほど心待ちにしたことか!さあ、さっそく準備しよう」
国永さんはその機械を持って、キッチンから伸ばしてきたホースとドッキングさせた。そしてドッキングさせたそれを、流しそうめん台の最上流へ設置……。ああ、ものすごくいやな予感がする。
「よーし、始めるぞ!」
国永さんがその怪しい機械のスイッチを入れれば、やはり、案の定、ものすごい勢いの水が噴出される。とてもじゃないがそうめんを流せるような速度ではない。流しそうめん改め、発射そうめんである。
「これはな、自動で麺を流してくれるんだ。どうだ、驚いただろう」
いや、驚きましたけれども。私があっけに取られている間に、国永さんはそうめん発射装置に大量のそうめんを詰めていく。本当にやるんだ……。
広光君から渡されたお椀と箸を持って、流しそうめん台のサイドに立つ。
「じゃ、スイッチを入れるぞ!ちゃんと取れなくても下流に受け皿を用意しているから、安心してくれ」
そういってスイッチが押下された2秒後。
「わ゛―――――――!!!!!」
麺が、宙を舞った。
水の発射口とは別のところにある麺の発射口から射出された麺は、最初から宙に浮かんでいた。何せ発射口がそもそも上を向いていたのだ。数時間後の国永さん曰く、「あの発射口も自分で調整しなくてはいけなかったらしい。驚かせてすまない」とのこと。ふざけないでほしい。
さて、空中を泳いだ麺の行方だが。私の絶叫の1秒後に無事に着水した。
だが、着水した後もまともに流れたかと言われればそんなことはなく。すさまじい水流に呑まれ、アっという間に最終到達地点のザルの中に吸い込まれていった。もう私には、流しそうめんが何なのかが分からない。
「あの、私、ザルから取って食べていいですか。さすがにフライングそうめんをキャッチする自信も、あの速度で流れていくそうめんを掬う自信も、なくて」
「あ、ああ、そうだな。だがおれは挑戦する。下流で見ていてくれ。俺と、広光の勇士を」
「おい、勝手に参加させるな。俺は家の中で食う」
「もうそうめんは全て機械に詰めたぞ。選べるのは下流のザルか、流れる途中のものだけだ」
「チッ」
そうしてなぜか、大変アクティブな流しそうめんが再開された。空中でそうめんをキャッチする国永さんや、激流の中のそうめんを見事ゲットする広光君を見ることができた。それに、下流のザルにも、二人の温情でそこそこの量のそうめんが流れてきたため、お腹はいっぱいになった。二重の意味で大変満足である。
「ああ、楽しかった。国永さん、広光くん、誘ってくれてありがとうございました。」
途中で暴れだしたそうめん射出機により、ホースからの水でびしょびしょになり髪に数本のそうめんを付けた国永さんと、それに巻き込まれてこれまたびしょびしょになった広光くんにしっかりお礼を述べる。
ハプニングはあったが、これもまた新しい流しそうめんの形なのかな、と思う。完全に伊達家、というか国永さんに、「普通」という感覚を麻痺させられつつある気がするが。こんな休日も、アリだよね。目の前でどっちがどっちを濡らしただの、こっちの方が多く麺を取っただの、やいやいと言い合いをする二人を見ながら、微笑ましい気持ちになっていると、急に雷が落ちた。
「ちょっと兄さん!!何してるの!」
雷かと思ったそれは、おそらく仕事から帰宅したであろう光忠さんの怒声だった。
「あ、ナマエさんいらっしゃい。後でおもてなしするから、ちょっと待っててね」
先ほどすさまじい落雷を起こした彼は、私の姿を認めると、打って変わって凪のような声を出した。
「それで兄さん、すこし部屋で話をしようか。その前に、タオルで髪を拭いて着替えてくれる?その濡れたままの姿で部屋に入らないでね。そうめんもきちんと取って」
そして今度は、地を這うような低い声で国永さんに指示を出す。この短時間で彼の声を3種類聞いた気がする。彼は俳優にでもなるべきなのではないか。
同じくびしょびしょになっていた広光くんも同じ運命をたどってしまうのか。憐みの目を彼に向けたところ、なんといつの間にか服を着替え、髪の水分をある程度拭き取っていた。え、いつの間に、と目を丸くしてしまったが、よく見たらびしょ濡れの状態から乾いた上着を羽織っただけらしかった。ボトムスからはぽたりぽたりと水が滴っている。しかし、怒りで目の前が真っ赤になっている光忠さんの目を掻い潜るだけならそれで充分だったらしい。
「汗をかいた。風呂に入る」
こうして一人、この世の終わりみたいな顔をした国永さんを置いて、彼は安全地帯に逃げていった。伊達家のパワーバランス、分かりやすいな。
「ごめんね、兄さんとの話が終わったらすぐに行くから!久しぶりに会えてうれしいよ。そうだ、新しいお茶を買ったからそれを出すね」
幸い、全く濡れていなかった私は伊達家のリビングへの侵入を快く受け入れられた。
そうしてソファに腰を落ち着けたところで、目の前のテーブルに瓶に入った緑茶が置かれる。珍しいなと見つめていると、光忠さんは慣れた手つきで栓を抜く。そうしてきれいな切子のグラスにその緑色を注いで、ずい、と出してくれた。私はおしゃれなバーに来てしまったのだろうか。
「どうぞ。今日知り合いの店に寄ってね。きみにも飲んでほしくて買って来たんだ。いてくれてちょうどよかったよ。これはお茶請け。抹茶味の金平糖なんだって。ほかの味も入っているそうだよ。きっとお茶に合うと思うから、食べてみて。それじゃ、僕は兄さんと話してくるよ」
金平糖の乗った小皿をテーブルに置くその動作は至極穏やかで、どう見ても先ほどまで雷を落としていた人には見えなかった。抜いた栓の後始末をしたあとも、静かな足取りで国永さんの私室に向かっていった。
なんだ、思ったよりも怒っていないかもしれない。国永さんも、早めに戻ってこれそうだ。
と思っていたのが20分ほど前のことである。一番最初に私の前に姿を現したのは、お風呂上りの広光君だった。
ところで、伊達家の立派な家宅はもちろん防音にも優れているそうだ。窓を開けたりしていないかぎり、内側で発生した音はめったに外には漏れて来ない。数カ月隣に住んでいるが、あの国永さんが住んでいてなお、騒音どころか声を感じたことが無い。そしてそれはもちろん家の中にも適用されるそうで、隣の部屋の音ですらこれっぽっちも聞こえないのだ。現に、お風呂上りの広光君がリビングのドアを開けるまで、私は彼の気配を感じることは無かった。
どうしてこんな回想を挟んだのかと言うと、聞こえるからだ。光忠さんの声が。
もちろんはっきりとは聞こえない。何を言っているのかも分からない。それでも、「あ、国永さんすごい怒られてんな」と感じられる声が、ここ10分ほど、度々聞こえてくるのだ。
ご愁傷様です、としか言いようがない。私もあの場をしっかりと楽しんでしまったから、すこしだけ後ろめたい気持ちがある。
「あんなに怒る光忠は珍しい。でもアンタが気にすることは何もない」
そんな気持ちを見透かされていたのか、広光君が声をかけてくれた。手には私と同じようなグラスを持っていて、中では茶色の液体が揺れている。
「そうかなぁ。国永さん、大丈夫かな」
「そのうち戻ってくるだろ。あんたも、時間が許すならゆっくりしていくと良い」
「ありがとう。じゃあそうさせてもらおうかな。……、広光くん、それお酒?」
「俺が真昼間から飲んだくれる人間に見えるか?ただの麦茶だ」
「え、麦茶!私の所も最近は麦茶作ってるよ。あ、でもやっぱり伊達家は珍しい麦茶飲んでるのかな」
「珍しい麦茶って何だ。これは光忠が茶葉をポットに水を入れただけのものだぞ」
スーパーに200円くらいで売ってるだろ、と付け加えられた情報を聞いて、また驚いた。もう伊達家の冷蔵庫事情が分からないよ。数千円の肉とオーガニックの野菜と40パック200円の麦茶が同居する世界だ、混乱が極まる。
「光忠はそういうの、なんというか、大人数で暮らすことを想定したような生活が好きらしい。どこでそうなったのかは分からない。本人も無意識のうちにそちらに傾いている節がある。ま、本人が楽しそうだから俺はなんでもいいが」
「なんだかミステリアスだね。でも、家庭的であんなにかっこよくて仕事もできて。女の子はみんな光忠さんみたいな人が好きだろうなぁ」
「引く手数多ではある。何人か、家まで押しかけて来た迷惑なやつもいた。もちろん警察に突き出したが」
うへぇ、大変そう。さすがにストーカーになられちゃひとたまりもないだろうな。顔が良いってそういうところで苦労するんだ。
「……彼女、いるのかな」
つい、うっかり、ぽろっと口から出てしまった。ここでいるという事実を突きつけられたら、落ち込む自信があるくせに。私って面倒な女だ。
「俺はそういう事情には疎い。本人に直接聞いたらどうだ?」
それができたら困ってないよ。非難の意思を込めて広光くんを見つめる。その視線をものともせず、彼はお茶請けの金平糖を数粒攫っていった。
「はあ。俺に提供できる情報なんてほとんどない。だがまあ、家に上げたのはあんたが初めてだ」
顔が赤くなるのを感じる。それって、もしかして、ちょっとだけ期待してもいいやつかな。それとも隣人だからという理由かな。自分で言うのもなんだが、隣人という言葉で済ませるにはあまりにも距離感が近いんじゃないかな。動揺を悟られまいと、必死に話題を探す。ここで話題転換を図る時点で、かなり動揺していると言っていいような気もするが。
「そ、そうだ。国永さんは?恋人いるの?」
これ話題転換できてるか怪しいかもしれない。でも口から出てしまったものは引っ込められないので、泳いだ目で広光君を見やる。広光君は深くため息を吐いた。ああ、ますます面倒なやつだと思われただろうか。
「さっきも言ったが、詳しくは知らない。だが国永は『ああ』だからな。たまに恋人ができたと思ったら、すぐに振られてしまう」
「ああ……」
すごく想像できる。だってよく考えなくったって、本物の竹を二本担いで街中を闊歩する成人男性なんて全然普通じゃない。できれば近づきたくはないし、場所が場所なら不審者として通報されている。それに最初に出会ったとき、彼はダイニングテーブルと電子レンジを破壊していた。破天荒、というかぶっ飛びすぎている。あの人あっての光忠さんと広光君だと思うと、非常に納得である。3人から怒られそうなので本人たちには言わないが。
「少しは国永のストッパー役が増えると期待するが、毎回ぬか喜びに終わる」
親族の恋人に対する感想、それだけなんだ。なんてドライな男だろうか。抹茶味の金平糖を味わい、そうだ、ちょっとだけ意地の悪いことをしてみようと思いつく。にまにまとした私の心がそのまま表情に出てしまっていたのか、彼は私の顔を見て少し身構えた、ように感じた。
「じゃあ、広光くんは?いるの?恋人」
「おれはそういうのには興味が無い」
心底嫌そうな顔をして、予想できた答えをそのまま言ってくれた。
「いたことは?」
これにも無いと即答されるかと思ったが、意外にも苦虫を噛み潰したような顔をしてくれた。そうして本日二度目の舌打ちをして、ふいと顔を背けてしまう。それじゃあいましたと言っているのと何ら変わりないよ。こういうところで地味に素直なんだよね、広光くん。
ふーん、とからかうように視線を送って遊んでいると、リビングのドアがゆっくりと開き、待ちわびた二人が入ってきた。
「ごめんね、こんなに待たせちゃって。もっと早く来るつもりだったんだけど」
「待たせてずびばぜん……。」
颯爽とお茶のお代わりを注いでくれる光忠さんと、しおしおになってしまった国永さん。こってり絞られたようだ。心の中で手を合わせ、お疲れさまでしたの気持ちを送っておく。
「もう、流しそうめんするなら言ってよ。僕も参加したかったのに」
「次回はきちんと前もって予定を伝えます……」
「必ずだよ。それから、近所迷惑になるようなことはしないこと。あとナマエさんの迷惑になるようなこともやめるんだよ」
「ふぁい……」
「迷惑だなんてそんなこと思ってないですよ。とっても楽しかったです。誘ってくれてありがとうございました」
「君が楽しんでくれたなら本当に良かった。でも、優しすぎるよ。あまり兄さんを甘やかさないでね。すぐに調子に乗るんだから。もう。」
ふふふ、と曖昧に笑っておく。あまり具体的に回答すると、いつか嘘つきになってしまうかもしれないから。
「そうだ、夕飯一緒にどうだい?買い出しの時間をくれたら、腕によりをかけるよ」
「え!いいんですか!……あ、でもだめだ。正国が帰ってくるので、家にいないと。何時になるか分かりませんし」
「ああ、それは仕方がないね、ご飯はまた今度にしよう。でも、もう少しだけここにいてよ。久しぶりに会えたし、ちょっとお話がしたいな。……いいかな?」
「もちろん。私も、光忠さんと話したいなって思ってました」
流れるように私の隣に座った光忠さんの手には、これまた切子のグラスがあった。
「グラス、素敵ですね。江戸切子ですか?」
「分かってくれるかい?そう、江戸切子だよ。知り合いが作っていてね」
光忠さん、知り合い多いな。お茶を作ったのも知り合いで、グラスを作ったのも知り合い。この世は実は光忠さんの知り合いだらけなんじゃないか?うちの営業部の長谷部さんだって光忠さんの知り合いだったし。
「お知り合い、多いんですね」
「いつの間にか増えているんだよね。自分でも不思議に思うよ。妙な縁でも、あるのかも」
その『知り合い』のくくりの中に、一体どれほど女性がいるんだろうか。もちろん私にだって異性の友人はいるが、それはそれとして光忠さんの知り合いの女性は気になってしまう。そう考えれば考えるほどに、彼の目を見続けることはできなくて。ちらちらと盗み見みたいに顔の方に眼球を動かす。彼は私の向こう、どこか別の場所を見ているみたいに、蜂蜜色のの右目を瞬かせていた。
「そうだ、広光と何の話をしていたの?」
あなたに恋人がいるかどうかの話をしていました。そんなこと言える訳がなく、助けを求めて広光君を見る。いや、見ようとした。実際に私が見ることができたのは、やけに白い伊達家の壁と、洗練された家具たち。え、どこに行ったの。
部屋を見渡すと、ちょうど廊下へ続く扉を開けようとしている広光くんと、彼に襟首を掴まれて引きずられている国永さんだった。
どこ行くの?そう声をかけようとしたときには既に遅く、無情にも扉は冷たい金属の音を小さく立てて閉まっていった。
取り残された。何と誤魔化せばよいか、全力で脳みそを回転させる。こんなに頭を使っているのは大学入試以来かもしれない。こんなところでそんなに頭を使うような状況になるなという話でもあるし、普段あまりにも頭を使っていないのではないかという話でもある。どちらにせよ私が悪い。
「こ、交友関係の話をしてました」
「交友関係?」
「光忠さんって知り合い多いよなぁって」
嘘を吐いたことが気まずくて、光忠さんから目を逸らしてしまう。
「僕の知り合い?ああ、確かに多いかも」
「光忠さんくらいになると、やっぱりいろんな人が集まってくるんでしょうか」
類は友を呼ぶ。きっとすごい人の周りにはすごい人が集まってくるのだ。老若男女問わず、きっと人間は彼という人材を放っておかない。
「ふふ、僕くらいってなあに?僕は普通の人間だけど……」
いえ、容姿端麗な若い事業家の男の人は普通というくくりには入りません。普通の人代表といて抗議をすべく、彼がいかに魅力的かを伝える。光忠さんがお代わりを継ぎ足してくれたグラスをぐっと握る。熱弁の体制である。
「だって光忠さん、格好いいしお料理もできるしセンスもいいから」
「きみは僕をそう見てくれているの?それは嬉しいなあ」
完全無欠に見えますよ。まるでそう、神様みたい。心の中に留めたと思っていたその言葉は、どうやら私の口から出てしまっていたようだった。すこしこっぱずかしいセリフを言っただろうか。あわあわと言い訳を考える私をよそに、光忠さんはクスクスと笑っていた。
「、神様かぁ。それはまたすごい評価を頂いたね。でも僕にだって欠点や弱点はもちろんあるよ」
「えぇ、そんなものありますかね?うーん、例えば?」
そんなまさか、何でもできる光忠さんに実は弱点が?ピーマンが食べられないとかだったらどうしよう。それすらチャームポイントになってしまいそうだけれど。けれどこの後の回答が、私が唯一光忠さんに勝てるものになるかもしれない。さあ、あなたの弱点を教えてもらいましょう。急かすような目線を送る私に、何故だか光忠さんは困ったように眉を下げて、小さな声で言った。
「……きみ、とか」
ああ、神様仏様、あとなんかこの世のすごい存在の皆さま、私は今、夢を見ているのでしょうか。手の中のグラスが、酷く汗をかいていた。
梅雨が過ぎて、夏がやってきた。あの紫陽花の日以来、光忠さんとは会えていない。なんだかちょっと意識してしまって会いにくいというのもあるし、光忠さんのお仕事が忙しくなってしまったという理由もある。
普段であればちょっと悲しいが、今はそのアンラッキーに救われている。
あの日貰ったクッキーはあまりにも造詣が美しかったので、写真に残した。写真フォルダを開くたびに思い出がよみがえってきて、思考が止まる。生活に一時停止の時間が入り込んできて、これは良くないなと思うけれど、消すなんていう選択肢はもちろん無い。
光忠さん、彼女とかいるのかな。聞いたことないけれど、いたって全然不思議じゃない。正国の話を信じるならいないようだけど、本当かは分からない。というかむしろいない方がおかしい。あんなにイケメンで、優しくて、お料理ができて、いい匂いで。ああ駄目だ。思い出すだけで顔が真っ赤になりそう。
ただでさえ暑いのに、これ以上熱くしてどうするんだ。火照った思考を一度落ち着けるために、麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けた。
そこにあったのは、2Lの容器に1cmだけ残された麦茶。
こんなことをするのは正国しかいない。あれだけ微妙に残すのやめてよって言ったのに。仕方がないので残された麦茶を飲み干し、新たに麦茶を作る。
伊達家は麦茶とか作るんだろうか。光忠さんの見た目で麦茶を飲んでいるところは全く想像できないが、あの人なぜかすごく庶民的で家庭的だから分からないな、と考えて、大きくかぶりをふった。いけない。気が付くと光忠さんのことを考えてしまっている。誰か私の脳から光忠さんのことを追い出して欲しい。
新しく作った麦茶、と言ってもまだ水だけど、それが入った容器を冷蔵庫に入れる。正国が帰ってきたらちょっとだけきつく言ってみよう。
今日は土曜日。時間は午前8時。これから何をしようかな。何か案を出すためにスマホを手に取った。
そのタイミングでLIMEから通知が来た。
「流しそうめん。国永が呼んでいる。昼の12時集合。」
広光くんからだった。この暑い季節に何とも魅力的なお誘いである。了解、と短く返して、身支度を整えにかかる。光忠さんがいるかもしれないので、少しでもかわいい自分で参加したい。
広光くんとは正国を通して何やかやで仲良くなり、敬語を使わない関係となっていた。普段の口数の少なさからは考えにくいが、私たちはそこそこの頻度でLIMEをする。このことを光忠さんは知らないだろうから、もし会えたら教えてあげよう。きっと驚いてくれるから。
◇◇◇◇
12時ちょうど。
伊達家のインターホンを鳴らす。
「お、来たな。準備は万端だ。鍵は開いているから、適当に入ってくるといい」
応対してくれたのは国永さんだった。言われた通りに扉を開け、リビングを目指す。相変わらず広い家だ。廊下が冗談みたいに長い。
リビングで待っていたのは仁王立ちの国永さんと、すこし疲れた顔をした広光君だった。
何があったのだろうか。
「あんたが来ると聞いて国永が酷く張り切ったのを手伝わされた。詳細は庭を見ればわかる」
そういって案内された庭には、なんとも立派な流しそうめんの台が堂々と鎮座していた。
「これは……」
「どうだ、驚いたかい?俺が竹を切って作った、流しそうめん台だ!」
竹を切って作った?一から?っていうか流しそうめんの台って自作可能なんだ。すごい長さだ。などなど、いろんな感想が一度に脳を埋めていく。
しかもこれ、長さを見るに竹が2本使われている。
2本も切ったのか、この長さの竹を。一体どうやって、とあたりを見回したところで、庭の端に寄せられている2本のノコギリが目に入った。いや、まさかね。
「いやあ、さすがに竹1本を手作業で切るのは骨が折れた。2本担いで歩くのも、初めてだったしな」
「二度とやりたくない」
まさかだった。うそでしょ、この人、いや、この人たち。
「さあ、せっかく来たんだ。はじめようじゃないか」
そういって国永さんは家の中に引っ込んでいった。2本担いで歩いたって何?これを、持って、街中を……?
残された広光君と私は、顔を見合わせて、苦笑した。
「まさかこんなに本格的だなんて思って無かったよ。すごいね、伊達家は」
「国永だけだ。一緒にしないでくれ。だが、アンタが楽しんでくれたらいいなとは思う」
おお、珍しく広光君がデレてくれている。やはり疲労と言うのは人間の脳をおかしくしてしまうのだろうか。かわいいね。
さて、せっかく呼んでもらえたのだ。何か仕事をしなくては。何かやることありますか、と家の中に引っ込んでいった国永さんに声をかけようとしたその時。
「待たせたな!今日はこれを使うぞ!」
上機嫌な国永さんが、右手に茹で上がったそうめん、左手に見知らぬ機械を持ってスキップしていた。ああ、嫌な予感がする。
「いやぁ、これが届くことをどれほど心待ちにしたことか!さあ、さっそく準備しよう」
国永さんはその機械を持って、キッチンから伸ばしてきたホースとドッキングさせた。そしてドッキングさせたそれを、流しそうめん台の最上流へ設置……。ああ、ものすごくいやな予感がする。
「よーし、始めるぞ!」
国永さんがその怪しい機械のスイッチを入れれば、やはり、案の定、ものすごい勢いの水が噴出される。とてもじゃないがそうめんを流せるような速度ではない。流しそうめん改め、発射そうめんである。
「これはな、自動で麺を流してくれるんだ。どうだ、驚いただろう」
いや、驚きましたけれども。私があっけに取られている間に、国永さんはそうめん発射装置に大量のそうめんを詰めていく。本当にやるんだ……。
広光君から渡されたお椀と箸を持って、流しそうめん台のサイドに立つ。
「じゃ、スイッチを入れるぞ!ちゃんと取れなくても下流に受け皿を用意しているから、安心してくれ」
そういってスイッチが押下された2秒後。
「わ゛―――――――!!!!!」
麺が、宙を舞った。
水の発射口とは別のところにある麺の発射口から射出された麺は、最初から宙に浮かんでいた。何せ発射口がそもそも上を向いていたのだ。数時間後の国永さん曰く、「あの発射口も自分で調整しなくてはいけなかったらしい。驚かせてすまない」とのこと。ふざけないでほしい。
さて、空中を泳いだ麺の行方だが。私の絶叫の1秒後に無事に着水した。
だが、着水した後もまともに流れたかと言われればそんなことはなく。すさまじい水流に呑まれ、アっという間に最終到達地点のザルの中に吸い込まれていった。もう私には、流しそうめんが何なのかが分からない。
「あの、私、ザルから取って食べていいですか。さすがにフライングそうめんをキャッチする自信も、あの速度で流れていくそうめんを掬う自信も、なくて」
「あ、ああ、そうだな。だがおれは挑戦する。下流で見ていてくれ。俺と、広光の勇士を」
「おい、勝手に参加させるな。俺は家の中で食う」
「もうそうめんは全て機械に詰めたぞ。選べるのは下流のザルか、流れる途中のものだけだ」
「チッ」
そうしてなぜか、大変アクティブな流しそうめんが再開された。空中でそうめんをキャッチする国永さんや、激流の中のそうめんを見事ゲットする広光君を見ることができた。それに、下流のザルにも、二人の温情でそこそこの量のそうめんが流れてきたため、お腹はいっぱいになった。二重の意味で大変満足である。
「ああ、楽しかった。国永さん、広光くん、誘ってくれてありがとうございました。」
途中で暴れだしたそうめん射出機により、ホースからの水でびしょびしょになり髪に数本のそうめんを付けた国永さんと、それに巻き込まれてこれまたびしょびしょになった広光くんにしっかりお礼を述べる。
ハプニングはあったが、これもまた新しい流しそうめんの形なのかな、と思う。完全に伊達家、というか国永さんに、「普通」という感覚を麻痺させられつつある気がするが。こんな休日も、アリだよね。目の前でどっちがどっちを濡らしただの、こっちの方が多く麺を取っただの、やいやいと言い合いをする二人を見ながら、微笑ましい気持ちになっていると、急に雷が落ちた。
「ちょっと兄さん!!何してるの!」
雷かと思ったそれは、おそらく仕事から帰宅したであろう光忠さんの怒声だった。
「あ、ナマエさんいらっしゃい。後でおもてなしするから、ちょっと待っててね」
先ほどすさまじい落雷を起こした彼は、私の姿を認めると、打って変わって凪のような声を出した。
「それで兄さん、すこし部屋で話をしようか。その前に、タオルで髪を拭いて着替えてくれる?その濡れたままの姿で部屋に入らないでね。そうめんもきちんと取って」
そして今度は、地を這うような低い声で国永さんに指示を出す。この短時間で彼の声を3種類聞いた気がする。彼は俳優にでもなるべきなのではないか。
同じくびしょびしょになっていた広光くんも同じ運命をたどってしまうのか。憐みの目を彼に向けたところ、なんといつの間にか服を着替え、髪の水分をある程度拭き取っていた。え、いつの間に、と目を丸くしてしまったが、よく見たらびしょ濡れの状態から乾いた上着を羽織っただけらしかった。ボトムスからはぽたりぽたりと水が滴っている。しかし、怒りで目の前が真っ赤になっている光忠さんの目を掻い潜るだけならそれで充分だったらしい。
「汗をかいた。風呂に入る」
こうして一人、この世の終わりみたいな顔をした国永さんを置いて、彼は安全地帯に逃げていった。伊達家のパワーバランス、分かりやすいな。
「ごめんね、兄さんとの話が終わったらすぐに行くから!久しぶりに会えてうれしいよ。そうだ、新しいお茶を買ったからそれを出すね」
幸い、全く濡れていなかった私は伊達家のリビングへの侵入を快く受け入れられた。
そうしてソファに腰を落ち着けたところで、目の前のテーブルに瓶に入った緑茶が置かれる。珍しいなと見つめていると、光忠さんは慣れた手つきで栓を抜く。そうしてきれいな切子のグラスにその緑色を注いで、ずい、と出してくれた。私はおしゃれなバーに来てしまったのだろうか。
「どうぞ。今日知り合いの店に寄ってね。きみにも飲んでほしくて買って来たんだ。いてくれてちょうどよかったよ。これはお茶請け。抹茶味の金平糖なんだって。ほかの味も入っているそうだよ。きっとお茶に合うと思うから、食べてみて。それじゃ、僕は兄さんと話してくるよ」
金平糖の乗った小皿をテーブルに置くその動作は至極穏やかで、どう見ても先ほどまで雷を落としていた人には見えなかった。抜いた栓の後始末をしたあとも、静かな足取りで国永さんの私室に向かっていった。
なんだ、思ったよりも怒っていないかもしれない。国永さんも、早めに戻ってこれそうだ。
と思っていたのが20分ほど前のことである。一番最初に私の前に姿を現したのは、お風呂上りの広光君だった。
ところで、伊達家の立派な家宅はもちろん防音にも優れているそうだ。窓を開けたりしていないかぎり、内側で発生した音はめったに外には漏れて来ない。数カ月隣に住んでいるが、あの国永さんが住んでいてなお、騒音どころか声を感じたことが無い。そしてそれはもちろん家の中にも適用されるそうで、隣の部屋の音ですらこれっぽっちも聞こえないのだ。現に、お風呂上りの広光君がリビングのドアを開けるまで、私は彼の気配を感じることは無かった。
どうしてこんな回想を挟んだのかと言うと、聞こえるからだ。光忠さんの声が。
もちろんはっきりとは聞こえない。何を言っているのかも分からない。それでも、「あ、国永さんすごい怒られてんな」と感じられる声が、ここ10分ほど、度々聞こえてくるのだ。
ご愁傷様です、としか言いようがない。私もあの場をしっかりと楽しんでしまったから、すこしだけ後ろめたい気持ちがある。
「あんなに怒る光忠は珍しい。でもアンタが気にすることは何もない」
そんな気持ちを見透かされていたのか、広光君が声をかけてくれた。手には私と同じようなグラスを持っていて、中では茶色の液体が揺れている。
「そうかなぁ。国永さん、大丈夫かな」
「そのうち戻ってくるだろ。あんたも、時間が許すならゆっくりしていくと良い」
「ありがとう。じゃあそうさせてもらおうかな。……、広光くん、それお酒?」
「俺が真昼間から飲んだくれる人間に見えるか?ただの麦茶だ」
「え、麦茶!私の所も最近は麦茶作ってるよ。あ、でもやっぱり伊達家は珍しい麦茶飲んでるのかな」
「珍しい麦茶って何だ。これは光忠が茶葉をポットに水を入れただけのものだぞ」
スーパーに200円くらいで売ってるだろ、と付け加えられた情報を聞いて、また驚いた。もう伊達家の冷蔵庫事情が分からないよ。数千円の肉とオーガニックの野菜と40パック200円の麦茶が同居する世界だ、混乱が極まる。
「光忠はそういうの、なんというか、大人数で暮らすことを想定したような生活が好きらしい。どこでそうなったのかは分からない。本人も無意識のうちにそちらに傾いている節がある。ま、本人が楽しそうだから俺はなんでもいいが」
「なんだかミステリアスだね。でも、家庭的であんなにかっこよくて仕事もできて。女の子はみんな光忠さんみたいな人が好きだろうなぁ」
「引く手数多ではある。何人か、家まで押しかけて来た迷惑なやつもいた。もちろん警察に突き出したが」
うへぇ、大変そう。さすがにストーカーになられちゃひとたまりもないだろうな。顔が良いってそういうところで苦労するんだ。
「……彼女、いるのかな」
つい、うっかり、ぽろっと口から出てしまった。ここでいるという事実を突きつけられたら、落ち込む自信があるくせに。私って面倒な女だ。
「俺はそういう事情には疎い。本人に直接聞いたらどうだ?」
それができたら困ってないよ。非難の意思を込めて広光くんを見つめる。その視線をものともせず、彼はお茶請けの金平糖を数粒攫っていった。
「はあ。俺に提供できる情報なんてほとんどない。だがまあ、家に上げたのはあんたが初めてだ」
顔が赤くなるのを感じる。それって、もしかして、ちょっとだけ期待してもいいやつかな。それとも隣人だからという理由かな。自分で言うのもなんだが、隣人という言葉で済ませるにはあまりにも距離感が近いんじゃないかな。動揺を悟られまいと、必死に話題を探す。ここで話題転換を図る時点で、かなり動揺していると言っていいような気もするが。
「そ、そうだ。国永さんは?恋人いるの?」
これ話題転換できてるか怪しいかもしれない。でも口から出てしまったものは引っ込められないので、泳いだ目で広光君を見やる。広光君は深くため息を吐いた。ああ、ますます面倒なやつだと思われただろうか。
「さっきも言ったが、詳しくは知らない。だが国永は『ああ』だからな。たまに恋人ができたと思ったら、すぐに振られてしまう」
「ああ……」
すごく想像できる。だってよく考えなくったって、本物の竹を二本担いで街中を闊歩する成人男性なんて全然普通じゃない。できれば近づきたくはないし、場所が場所なら不審者として通報されている。それに最初に出会ったとき、彼はダイニングテーブルと電子レンジを破壊していた。破天荒、というかぶっ飛びすぎている。あの人あっての光忠さんと広光君だと思うと、非常に納得である。3人から怒られそうなので本人たちには言わないが。
「少しは国永のストッパー役が増えると期待するが、毎回ぬか喜びに終わる」
親族の恋人に対する感想、それだけなんだ。なんてドライな男だろうか。抹茶味の金平糖を味わい、そうだ、ちょっとだけ意地の悪いことをしてみようと思いつく。にまにまとした私の心がそのまま表情に出てしまっていたのか、彼は私の顔を見て少し身構えた、ように感じた。
「じゃあ、広光くんは?いるの?恋人」
「おれはそういうのには興味が無い」
心底嫌そうな顔をして、予想できた答えをそのまま言ってくれた。
「いたことは?」
これにも無いと即答されるかと思ったが、意外にも苦虫を噛み潰したような顔をしてくれた。そうして本日二度目の舌打ちをして、ふいと顔を背けてしまう。それじゃあいましたと言っているのと何ら変わりないよ。こういうところで地味に素直なんだよね、広光くん。
ふーん、とからかうように視線を送って遊んでいると、リビングのドアがゆっくりと開き、待ちわびた二人が入ってきた。
「ごめんね、こんなに待たせちゃって。もっと早く来るつもりだったんだけど」
「待たせてずびばぜん……。」
颯爽とお茶のお代わりを注いでくれる光忠さんと、しおしおになってしまった国永さん。こってり絞られたようだ。心の中で手を合わせ、お疲れさまでしたの気持ちを送っておく。
「もう、流しそうめんするなら言ってよ。僕も参加したかったのに」
「次回はきちんと前もって予定を伝えます……」
「必ずだよ。それから、近所迷惑になるようなことはしないこと。あとナマエさんの迷惑になるようなこともやめるんだよ」
「ふぁい……」
「迷惑だなんてそんなこと思ってないですよ。とっても楽しかったです。誘ってくれてありがとうございました」
「君が楽しんでくれたなら本当に良かった。でも、優しすぎるよ。あまり兄さんを甘やかさないでね。すぐに調子に乗るんだから。もう。」
ふふふ、と曖昧に笑っておく。あまり具体的に回答すると、いつか嘘つきになってしまうかもしれないから。
「そうだ、夕飯一緒にどうだい?買い出しの時間をくれたら、腕によりをかけるよ」
「え!いいんですか!……あ、でもだめだ。正国が帰ってくるので、家にいないと。何時になるか分かりませんし」
「ああ、それは仕方がないね、ご飯はまた今度にしよう。でも、もう少しだけここにいてよ。久しぶりに会えたし、ちょっとお話がしたいな。……いいかな?」
「もちろん。私も、光忠さんと話したいなって思ってました」
流れるように私の隣に座った光忠さんの手には、これまた切子のグラスがあった。
「グラス、素敵ですね。江戸切子ですか?」
「分かってくれるかい?そう、江戸切子だよ。知り合いが作っていてね」
光忠さん、知り合い多いな。お茶を作ったのも知り合いで、グラスを作ったのも知り合い。この世は実は光忠さんの知り合いだらけなんじゃないか?うちの営業部の長谷部さんだって光忠さんの知り合いだったし。
「お知り合い、多いんですね」
「いつの間にか増えているんだよね。自分でも不思議に思うよ。妙な縁でも、あるのかも」
その『知り合い』のくくりの中に、一体どれほど女性がいるんだろうか。もちろん私にだって異性の友人はいるが、それはそれとして光忠さんの知り合いの女性は気になってしまう。そう考えれば考えるほどに、彼の目を見続けることはできなくて。ちらちらと盗み見みたいに顔の方に眼球を動かす。彼は私の向こう、どこか別の場所を見ているみたいに、蜂蜜色のの右目を瞬かせていた。
「そうだ、広光と何の話をしていたの?」
あなたに恋人がいるかどうかの話をしていました。そんなこと言える訳がなく、助けを求めて広光君を見る。いや、見ようとした。実際に私が見ることができたのは、やけに白い伊達家の壁と、洗練された家具たち。え、どこに行ったの。
部屋を見渡すと、ちょうど廊下へ続く扉を開けようとしている広光くんと、彼に襟首を掴まれて引きずられている国永さんだった。
どこ行くの?そう声をかけようとしたときには既に遅く、無情にも扉は冷たい金属の音を小さく立てて閉まっていった。
取り残された。何と誤魔化せばよいか、全力で脳みそを回転させる。こんなに頭を使っているのは大学入試以来かもしれない。こんなところでそんなに頭を使うような状況になるなという話でもあるし、普段あまりにも頭を使っていないのではないかという話でもある。どちらにせよ私が悪い。
「こ、交友関係の話をしてました」
「交友関係?」
「光忠さんって知り合い多いよなぁって」
嘘を吐いたことが気まずくて、光忠さんから目を逸らしてしまう。
「僕の知り合い?ああ、確かに多いかも」
「光忠さんくらいになると、やっぱりいろんな人が集まってくるんでしょうか」
類は友を呼ぶ。きっとすごい人の周りにはすごい人が集まってくるのだ。老若男女問わず、きっと人間は彼という人材を放っておかない。
「ふふ、僕くらいってなあに?僕は普通の人間だけど……」
いえ、容姿端麗な若い事業家の男の人は普通というくくりには入りません。普通の人代表といて抗議をすべく、彼がいかに魅力的かを伝える。光忠さんがお代わりを継ぎ足してくれたグラスをぐっと握る。熱弁の体制である。
「だって光忠さん、格好いいしお料理もできるしセンスもいいから」
「きみは僕をそう見てくれているの?それは嬉しいなあ」
完全無欠に見えますよ。まるでそう、神様みたい。心の中に留めたと思っていたその言葉は、どうやら私の口から出てしまっていたようだった。すこしこっぱずかしいセリフを言っただろうか。あわあわと言い訳を考える私をよそに、光忠さんはクスクスと笑っていた。
「、神様かぁ。それはまたすごい評価を頂いたね。でも僕にだって欠点や弱点はもちろんあるよ」
「えぇ、そんなものありますかね?うーん、例えば?」
そんなまさか、何でもできる光忠さんに実は弱点が?ピーマンが食べられないとかだったらどうしよう。それすらチャームポイントになってしまいそうだけれど。けれどこの後の回答が、私が唯一光忠さんに勝てるものになるかもしれない。さあ、あなたの弱点を教えてもらいましょう。急かすような目線を送る私に、何故だか光忠さんは困ったように眉を下げて、小さな声で言った。
「……きみ、とか」
ああ、神様仏様、あとなんかこの世のすごい存在の皆さま、私は今、夢を見ているのでしょうか。手の中のグラスが、酷く汗をかいていた。
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