へし切長谷部
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
目を覚ますと、知らない場所で、知らない布団で、知らない服を着て寝ていた。
普通ならパニックになるだろう。または夢かと現実逃避するだろう。だがわたしは違った。なんかもうキャパオーバーして一周回って冷静になった。
うん、たぶん私、誘拐もしくは拉致されてる。脱出しなければ。
しかし、まだ悪意があるという確証がない。だってなんか好待遇だし。布団も服も非常に肌触りが良い。そしてここに至るまでの記憶もない。自分の名前、住んでいる所、職業は分かる。ただ、何故自分がここにいるのかだけが分からない。
とりあえず何か記憶の手がかりになりそうなものがないか、部屋を見てみる。
私がさっきいた布団、締め切られたカーテン、押入れ。この部屋にあるのはたったのそれだけだった。
ひとまず押入れの中を調べてみる。
滑らかに開いた襖の奥には、布団が数組入っているだけだった。
と、そこで誰かの足音が聞こえてきた。一定のリズムで、これは……、階段を登っているような音だ。よし、少なくともここは2階以上の高さにあるとみた。
それはともかく、きっとこの足音の主が、私をここに連れてきた犯人に違いない。目覚めているのを知られたら、何をされるか分かったものではない。よって私は押入れの中に隠れることを選んだ。幸い人一人分入れそうなスペースはあった。暫く息を潜めてやり過ごそう。もし見つかったら、その時はその時だ。何か他に考えよう。
私が押入れの扉を内側から閉めたその数秒後、静かに部屋の扉が開けられたのが分かった。
僅かに開いた隙間から、そっと部屋を除く。せめて犯人の顔くらいは拝んでおこう。警察に突き出すときに役に立つかもしれない。
バクバクと音を立てる心臓に手を当てながら、息を殺して犯人を探す。
ちょうど部屋の布団の前にいるそれの姿が見えた。
茶色の髪に、服の上からでも分かる、鍛えられた体。歳は20代後半くらいだろうか。横顔しか見えないが、とても整っていることが分かる。こんな状況でなければ喜んで観察するし、イケメンだイケメンだと騒ぎ立てるのだが、如何せん状況が良くない。
男は暫く空の布団を見つめたあと、狂ったように叫びだした。
「あ、い、いない、いない、いないいないいないいないいないいないいないいないいない!!!! あるじ、やっと見つけたあるじが、いない」
よく分からないが、あいつがヤバそうなやつだということは分かった。これではますます見つかるわけにいかなくなった。
男は慌てたように部屋を飛び出し、扉を閉めるのも忘れて階段を駆け下りていったようだった。
そっと押し入れから出て、部屋から廊下へ続く襖へ向かう。開きっぱなしのそれは、押入れの襖に比べて、少し年季が入っているようだった。やたらとしっかりしたデザインで、重厚感がある。
しんと静まり返った廊下には、階段と、それからもう一つ、別の部屋へと続くらしい襖があった。
襖に耳を近づけ、中から物音がしないことを確認すると、音を立てないよう慎重に、数ミリ動かした。中は薄暗く、よく見えないが、鉄臭い匂いがした気がした。
もう数センチ開けると、床に転がされた状態で縛られている人を見つけた。まさか私と同じような境遇の人がいるのだろうか。であれば、助けなくては。共に逃げ出す作戦を練れるかもしれない。そう思い、襖を開け放った。
「は」
一瞬、脳が追いつかなかった。
視界に広がる鈍色と暗赤色。
そこにあったのは、死体の群れだった。
私が先ほど視認した人は、縛られたまま、のどを掻っ切られて絶命していた。
その奥には、同じく喉を切られた死体が四人分。
いよいよパニックになった。私もこれらのように殺されてしまうのだろうか。嫌だ、怖い、怖い怖い怖い。
慌てて踵を返し、ピシャリと襖を閉める。
逃げないと。ここから逃げ出さないと。
その思いに支配され、階段を降りようとした。
しかし慌てすぎたのか、足を踏み外してしまった。
「っ!」
間一髪、手すりに捕まり事なきを得たが、代わりに、踏みとどまろうとして右足を思い切り床についため、ドンっと音をたててしまった。
その直後
「一体何が」
階段の下から、あの男が現れた。
男は私を見ると、まず目を見開き、それからニタリと笑った。
「っ、いやっ、いやだ」
震える足を動かして必死に最初にいた部屋へと戻る。しかし扉を閉めきる前の一瞬で、男は私に追い付き、手で扉を押しとどめていた。
至近距離で見たその男は、とても嬉しそうな顔をしていた。頬が上気し、瞳孔はガン開きだった。
それが余計に恐ろしく、力を込めて扉を閉めようとするが、男性の力には勝てず、結局勢い良く開けられてしまった。
そうなれば、もはや私には部屋の隅へ後ずさり震えることしかできない。
「あなたがいなくなったかと思って焦りましたよ。だめじゃないですか主。俺に心配をさせるなんて」
男の言っていることが、全く頭にはいって来ない。
「いや、来ないで」
私へと歩み寄るその一歩一歩が、死へのカウントダウンに思えてならない。男の顔が依然笑顔のままであるのが、更に恐ろしかった。
「?どうしてそのように怯えるのですか。俺ですよ。あなたの長谷部です。覚えていらっしゃいませんか?」
「し、しらない。お願い、やめて」
その間にも男はこちらへ近付いてきており、ついに目の前に立ち止まった。
「……そうですか。……では、今覚えてください。俺は長谷部です。ほら主、は、せ、べ
、ですよ。呼んでみてください」
「は、はせべ」
言われた通りに声に出せば、恍惚、といった表情で右手を自身の胸に手を当てた。
「ええ、そうです。あなたの長谷部です」
そのまま左手をこちらに差し出し、「お手をどうぞ」と言ってくる。
訳が分からずただ呆然とその手を見つめることしかできずにいると、男、いや長谷部はしゃがみ込み、目線を私に合わせる。
「どうしたのです、主」
「いや、殺さないで。お願い、殺さないで、死にたくない」
ボロボロと涙を流し、半ば叫ぶようにそう言う私に、男は混乱しているようだった。
「殺す?何を言っているのですか主。……ああ、あの部屋を見たんですね。安心してください。あれらは全て、俺とあなたの逢瀬を邪魔した者たち。あなたは主なのですから、命の心配などする必要はございませんよ」
にこにこ。にこにこ。笑みが堪えきれないといったような顔で長谷部という男は意味不明なことを言った。
「何言ってるの、逢瀬?邪魔?それにさっきから何なの、主って」
やはり、この男は危険人物だ。何だか話が通じない気がする。
男は尚もまくし立てる。
「あなたのことですよ。それすらもお忘れなのですか。まあ良いでしょう。そんなことは些細な問題です。ああ、こんなに泣いて。ああっ、擦らないでください。目が腫れてしまいますよ。落ち着いて。そうだ、何かお飲みになりますか?緑茶でも紅茶でも、何でもありますよ。あなたが好んだ玄米茶は多めに保存してあります。この部屋へ運んでも良いのですが、折角ですから、俺達の家をご覧になってください。最初は慣れないでしょうが、そのうち慣れますよ」
俺達。その言葉に、私は不安を覚えた。何故複数形なのだろうか。他に仲間がいるからに違いない。
「俺達?まだ誰かいるの?」
「何を言っているんですか。いませんよ。決まってるじゃないですか。あなたと俺の、家でしょう?」
「なんで、どうして、私が」
「約束ですからね」
約束とはなんのことだろうか。全く身に覚えが無い。もしかして、私とこの男は過去に会ったことがあるのだろうか。私が忘れているだけなのか。
それにしてもさっきから意味不明なことを語られている訳だが、どういうことなのだろう。私はこの男とは同居しないし、私はべつに玄米茶を好んではいない。これは本格的に人違いを疑うべきだろうか。しかしこの男が殺人鬼であり、要注意人物であることには変わりない。あとから私が偽物だとわかったら、どうなってしまうのだろう。想像したくはないが、惨い殺され方をするのではないか。あの死体たちのように。そこまで考えて、背筋が凍ったので頭を振った。考えないようにしよう。
「さあ、行きましょう。……、おや、腰が抜けてしまったのですね。お可哀そうなあるじ。俺が運んで差し上げましょう」
「ひぃっ」
女性の平均的な体重ほどの私を、まるで綿でも持つかのような軽やかさで、男は抱き上げた。
そのまま階段を難なく降りたとき、ついに私はこの家の玄関と対面した。
そして私は絶望した。
「南京錠……」
そこには三つの南京錠が掛けられていた。これでは、脱出など不可能ではないか。その気持ちが伝わってしまったのか、長谷部は私を慰めるような口調で言った。
「ああ、玄関ですか。出たければどうぞご自由になさってください。鍵はこの家のどこかにありますから、自力でお探しくださいね」
驚くほど穏やかな笑みだった。
「あなたは、いったい何がしたいの」
「あなた、ではなく長谷部ですよ、主。あなたは俺をそう呼ぶんです」
ニコリと笑んだその顔は、間違いなく整っているのだけれど、この状況ではそれは恐怖を煽る要因にしかならない。
心なしか圧をかけて訂正されたが、どうしてこの男はそんなに呼び方にこだわるのだろうか。
機嫌を損ねると何をされるのか分かったものではないので、迂闊に尋ねることはできない。というかそんな余裕はない。
そうこうしているうちに、どうやらリビングらしき部屋についたようだ。長谷部は私を革張りのソファに降ろすと、
「少々お待ちください」と言って、奥のカウンターキッチンへ向かった。
それにしても、見れば見るほど、普通の家なのだ。ここは。
異質なのは二階の死体と玄関の南京錠だけであって、今のところそれ以外は普通の一軒家だ。
彼の目的は分からない。なにせ今日初めて会ったのだ。
頭のおかしな殺人鬼、長谷部。
彼との面識はなかったはず。今日が初対面であるはずだ。しかし彼は私のことを知っていた。いや、私を誰かと勘違いしているのかもしれない。むしろその可能性のほうが高い。
これから私はこの家の鍵を探さねばならない。もしも彼が嘘をついていないのであれば、鍵はどこかに隠されているのだろう。罠かもしれないが、探してみる価値はあるはずだ。
ふと、窓が気になった。もしかしたら出られるのではないか。そう淡い期待を抱きながら見たそれは、はめ殺しになっていた。他の窓なら、と別のところへ視線をやるが、それも駄目だった。窓は開きそうだが、その先に鉄格子がついている。絶望だ。出口も入り口も、あの玄関ひとつだけ。いよいよ鍵探しをしなければならなくなった。死なずにここを出るためにはそれしかない。
二階は二部屋のみ。そのうち一部屋はもう二度と入りたくない。一階は未探索。何があるのかも、どの程度広いのかも分からない。
思考を巡らせていると、長谷部が戻ってきた。
「お待たせしました。玄米茶です」
目の前にコトリと小さな音を立てて置かれたそれは、とても香りの良い玄米茶だった。
美味しそうだ。美味しそうなのだが、飲むのは怖い。緊張と恐怖でカラカラに乾いた喉は水分を欲していたが、これに手を付けていいものか。考えあぐねていると、隣に腰を下ろした長谷部が不思議そうにこちらを見ていた。
「どうしたのですか。あなたの好んでいる玄米茶ですよ。さぁ、遠慮なさらずにどうぞ」
先程も思ったが、私は玄米茶を好んでいない。一体どこのだれと間違われているのだろうか。
「ああ、環境が変われば好むものも変わりますか。そうですよね。では、覚えてください。あなたは玄米茶を好むんです。この俺が淹れた玄米茶を最も好むんです」
さあ。飲んで。
そう言われてしまえば、震えながらそれに従う他ない。
やや震える手で湯呑みを持ち上げる。手のひらがじんわりと温かい。
緊張と共に飲み込んだ玄米茶は、とても美味しかった。この非常時に何を、と思うかもしれないが、とても美味しかったのだ。
「美味しい」
ついそう口に出した私を見て、長谷部は満足そうに笑んだ。
「そうですか。それは良かった。あなたに満足して頂くために、たくさん研究したのです」
ビックリするほど穏やかなその顔を見て、何故か”懐かしい”と思った。どうしてだろう。
「さぁ、主、これからのことを話し合いましょう」
「これからのこと?」
「ええそうです。日中は何をなさいますか?俺も常にお側にお控えいたしますが、退屈になるでしょう?ですから、何か娯楽を、と思うのです」
帰りたい。ただそれだけのセリフだが、言えるわけが無かった。あなたとは住まない。生活もしない。私は家に帰る。それが私の望む答えだ。
「そんなこと言われても……」
困り果てて、答えを出せないでいる私に、長谷部はニコニコと笑いかける。
「ねえ、どうやって私をここへ連れてきたの?」
「それはいずれお話しますよ。あなたが俺を思い出してくれたら、ですがね」
思い出すとはどういうことだろう。わたしとこの不審な男に接点があっただろうか。人の顔を覚えるのは得意ではないが、彼ほど顔が整っている人間を全く覚えていないなどあり得るだろうか。
不信がる私に、長谷部は未だニコニコと笑いかけている。何がそんなに楽しいのだろう。
「私は、これからどうなるの?」
「どう、と言われましても。ここで穏やかにすごしていただくだけですよ」
こいつはどうして私を探していたのか。どうしてここへ連れてきたのか。目的は何なのか。結局何も分からず終いだ。
何かせめて、得られる情報はないか。
「……長谷部と私が初めて会ったのは、いつだった?」
玄米茶のおかげか、先程よりも頭は冷静に回っていた。少しでもこいつから情報を聞き出そうと、今までにないくらいフル稼働している。フル稼働した結果がその質問か、とか言わないように。
「1月のことでした。寒さが厳しい年の。あなたの来ていた服の色だって覚えていますよ」
懐かしそうに目を細める長谷部は、優しい顔をしていた。
「……何色だったの?」
「紅色でした」
「べにいろ」
私はそんな派手な色の服を着ただろうか。全く思い出せない。ぐるぐる、ぐるぐる、思考が廻る。
そこでふと、この家の構造が気になった。先程まで混乱していたため、よく考えていなかったが、この家は少しおかしい。
まず、私が、最初にいた部屋だ。あの部屋は畳張りの和室だった。ただ、カーテンがかかっていて、扉は洋風だった。
次にに、あまり思い出したくないが、その向かいの部屋。あの凄惨な部屋だ。あそこはフローリングが張ってあったが、扉は和風。襖だった。その奥には障子があったのをなんとなく覚えている。
さらにこの部屋。この部屋の家具は洋が基調だが、所々に桐の箪笥や障子がある。なんてちぐはぐな場所。長谷部という男の好みなのだろうか。
「ねえ、内装は長谷部が全てやったの?」
「いいえ。お恥ずかしながら少し失敗しまして。後で直しておきます」
ますます分からない。あなたじゃないなら一体誰がやったの。そいつもグルなの?失敗って何?疑問が止まらない。
結局いたずらに謎を増やしただけで、このおかしな状況は全く変わっていない。はやく帰りたい。怖い。ただ怖い。自分の命の心配をする日が来るとは思わなかった。私はどうなってしまうのだろう。依然切り開けない道を憂いながら、薄く立ち昇る玄米茶の湯気を見つめることくらいしか今の私にはできないのだ。
普通ならパニックになるだろう。または夢かと現実逃避するだろう。だがわたしは違った。なんかもうキャパオーバーして一周回って冷静になった。
うん、たぶん私、誘拐もしくは拉致されてる。脱出しなければ。
しかし、まだ悪意があるという確証がない。だってなんか好待遇だし。布団も服も非常に肌触りが良い。そしてここに至るまでの記憶もない。自分の名前、住んでいる所、職業は分かる。ただ、何故自分がここにいるのかだけが分からない。
とりあえず何か記憶の手がかりになりそうなものがないか、部屋を見てみる。
私がさっきいた布団、締め切られたカーテン、押入れ。この部屋にあるのはたったのそれだけだった。
ひとまず押入れの中を調べてみる。
滑らかに開いた襖の奥には、布団が数組入っているだけだった。
と、そこで誰かの足音が聞こえてきた。一定のリズムで、これは……、階段を登っているような音だ。よし、少なくともここは2階以上の高さにあるとみた。
それはともかく、きっとこの足音の主が、私をここに連れてきた犯人に違いない。目覚めているのを知られたら、何をされるか分かったものではない。よって私は押入れの中に隠れることを選んだ。幸い人一人分入れそうなスペースはあった。暫く息を潜めてやり過ごそう。もし見つかったら、その時はその時だ。何か他に考えよう。
私が押入れの扉を内側から閉めたその数秒後、静かに部屋の扉が開けられたのが分かった。
僅かに開いた隙間から、そっと部屋を除く。せめて犯人の顔くらいは拝んでおこう。警察に突き出すときに役に立つかもしれない。
バクバクと音を立てる心臓に手を当てながら、息を殺して犯人を探す。
ちょうど部屋の布団の前にいるそれの姿が見えた。
茶色の髪に、服の上からでも分かる、鍛えられた体。歳は20代後半くらいだろうか。横顔しか見えないが、とても整っていることが分かる。こんな状況でなければ喜んで観察するし、イケメンだイケメンだと騒ぎ立てるのだが、如何せん状況が良くない。
男は暫く空の布団を見つめたあと、狂ったように叫びだした。
「あ、い、いない、いない、いないいないいないいないいないいないいないいないいない!!!! あるじ、やっと見つけたあるじが、いない」
よく分からないが、あいつがヤバそうなやつだということは分かった。これではますます見つかるわけにいかなくなった。
男は慌てたように部屋を飛び出し、扉を閉めるのも忘れて階段を駆け下りていったようだった。
そっと押し入れから出て、部屋から廊下へ続く襖へ向かう。開きっぱなしのそれは、押入れの襖に比べて、少し年季が入っているようだった。やたらとしっかりしたデザインで、重厚感がある。
しんと静まり返った廊下には、階段と、それからもう一つ、別の部屋へと続くらしい襖があった。
襖に耳を近づけ、中から物音がしないことを確認すると、音を立てないよう慎重に、数ミリ動かした。中は薄暗く、よく見えないが、鉄臭い匂いがした気がした。
もう数センチ開けると、床に転がされた状態で縛られている人を見つけた。まさか私と同じような境遇の人がいるのだろうか。であれば、助けなくては。共に逃げ出す作戦を練れるかもしれない。そう思い、襖を開け放った。
「は」
一瞬、脳が追いつかなかった。
視界に広がる鈍色と暗赤色。
そこにあったのは、死体の群れだった。
私が先ほど視認した人は、縛られたまま、のどを掻っ切られて絶命していた。
その奥には、同じく喉を切られた死体が四人分。
いよいよパニックになった。私もこれらのように殺されてしまうのだろうか。嫌だ、怖い、怖い怖い怖い。
慌てて踵を返し、ピシャリと襖を閉める。
逃げないと。ここから逃げ出さないと。
その思いに支配され、階段を降りようとした。
しかし慌てすぎたのか、足を踏み外してしまった。
「っ!」
間一髪、手すりに捕まり事なきを得たが、代わりに、踏みとどまろうとして右足を思い切り床についため、ドンっと音をたててしまった。
その直後
「一体何が」
階段の下から、あの男が現れた。
男は私を見ると、まず目を見開き、それからニタリと笑った。
「っ、いやっ、いやだ」
震える足を動かして必死に最初にいた部屋へと戻る。しかし扉を閉めきる前の一瞬で、男は私に追い付き、手で扉を押しとどめていた。
至近距離で見たその男は、とても嬉しそうな顔をしていた。頬が上気し、瞳孔はガン開きだった。
それが余計に恐ろしく、力を込めて扉を閉めようとするが、男性の力には勝てず、結局勢い良く開けられてしまった。
そうなれば、もはや私には部屋の隅へ後ずさり震えることしかできない。
「あなたがいなくなったかと思って焦りましたよ。だめじゃないですか主。俺に心配をさせるなんて」
男の言っていることが、全く頭にはいって来ない。
「いや、来ないで」
私へと歩み寄るその一歩一歩が、死へのカウントダウンに思えてならない。男の顔が依然笑顔のままであるのが、更に恐ろしかった。
「?どうしてそのように怯えるのですか。俺ですよ。あなたの長谷部です。覚えていらっしゃいませんか?」
「し、しらない。お願い、やめて」
その間にも男はこちらへ近付いてきており、ついに目の前に立ち止まった。
「……そうですか。……では、今覚えてください。俺は長谷部です。ほら主、は、せ、べ
、ですよ。呼んでみてください」
「は、はせべ」
言われた通りに声に出せば、恍惚、といった表情で右手を自身の胸に手を当てた。
「ええ、そうです。あなたの長谷部です」
そのまま左手をこちらに差し出し、「お手をどうぞ」と言ってくる。
訳が分からずただ呆然とその手を見つめることしかできずにいると、男、いや長谷部はしゃがみ込み、目線を私に合わせる。
「どうしたのです、主」
「いや、殺さないで。お願い、殺さないで、死にたくない」
ボロボロと涙を流し、半ば叫ぶようにそう言う私に、男は混乱しているようだった。
「殺す?何を言っているのですか主。……ああ、あの部屋を見たんですね。安心してください。あれらは全て、俺とあなたの逢瀬を邪魔した者たち。あなたは主なのですから、命の心配などする必要はございませんよ」
にこにこ。にこにこ。笑みが堪えきれないといったような顔で長谷部という男は意味不明なことを言った。
「何言ってるの、逢瀬?邪魔?それにさっきから何なの、主って」
やはり、この男は危険人物だ。何だか話が通じない気がする。
男は尚もまくし立てる。
「あなたのことですよ。それすらもお忘れなのですか。まあ良いでしょう。そんなことは些細な問題です。ああ、こんなに泣いて。ああっ、擦らないでください。目が腫れてしまいますよ。落ち着いて。そうだ、何かお飲みになりますか?緑茶でも紅茶でも、何でもありますよ。あなたが好んだ玄米茶は多めに保存してあります。この部屋へ運んでも良いのですが、折角ですから、俺達の家をご覧になってください。最初は慣れないでしょうが、そのうち慣れますよ」
俺達。その言葉に、私は不安を覚えた。何故複数形なのだろうか。他に仲間がいるからに違いない。
「俺達?まだ誰かいるの?」
「何を言っているんですか。いませんよ。決まってるじゃないですか。あなたと俺の、家でしょう?」
「なんで、どうして、私が」
「約束ですからね」
約束とはなんのことだろうか。全く身に覚えが無い。もしかして、私とこの男は過去に会ったことがあるのだろうか。私が忘れているだけなのか。
それにしてもさっきから意味不明なことを語られている訳だが、どういうことなのだろう。私はこの男とは同居しないし、私はべつに玄米茶を好んではいない。これは本格的に人違いを疑うべきだろうか。しかしこの男が殺人鬼であり、要注意人物であることには変わりない。あとから私が偽物だとわかったら、どうなってしまうのだろう。想像したくはないが、惨い殺され方をするのではないか。あの死体たちのように。そこまで考えて、背筋が凍ったので頭を振った。考えないようにしよう。
「さあ、行きましょう。……、おや、腰が抜けてしまったのですね。お可哀そうなあるじ。俺が運んで差し上げましょう」
「ひぃっ」
女性の平均的な体重ほどの私を、まるで綿でも持つかのような軽やかさで、男は抱き上げた。
そのまま階段を難なく降りたとき、ついに私はこの家の玄関と対面した。
そして私は絶望した。
「南京錠……」
そこには三つの南京錠が掛けられていた。これでは、脱出など不可能ではないか。その気持ちが伝わってしまったのか、長谷部は私を慰めるような口調で言った。
「ああ、玄関ですか。出たければどうぞご自由になさってください。鍵はこの家のどこかにありますから、自力でお探しくださいね」
驚くほど穏やかな笑みだった。
「あなたは、いったい何がしたいの」
「あなた、ではなく長谷部ですよ、主。あなたは俺をそう呼ぶんです」
ニコリと笑んだその顔は、間違いなく整っているのだけれど、この状況ではそれは恐怖を煽る要因にしかならない。
心なしか圧をかけて訂正されたが、どうしてこの男はそんなに呼び方にこだわるのだろうか。
機嫌を損ねると何をされるのか分かったものではないので、迂闊に尋ねることはできない。というかそんな余裕はない。
そうこうしているうちに、どうやらリビングらしき部屋についたようだ。長谷部は私を革張りのソファに降ろすと、
「少々お待ちください」と言って、奥のカウンターキッチンへ向かった。
それにしても、見れば見るほど、普通の家なのだ。ここは。
異質なのは二階の死体と玄関の南京錠だけであって、今のところそれ以外は普通の一軒家だ。
彼の目的は分からない。なにせ今日初めて会ったのだ。
頭のおかしな殺人鬼、長谷部。
彼との面識はなかったはず。今日が初対面であるはずだ。しかし彼は私のことを知っていた。いや、私を誰かと勘違いしているのかもしれない。むしろその可能性のほうが高い。
これから私はこの家の鍵を探さねばならない。もしも彼が嘘をついていないのであれば、鍵はどこかに隠されているのだろう。罠かもしれないが、探してみる価値はあるはずだ。
ふと、窓が気になった。もしかしたら出られるのではないか。そう淡い期待を抱きながら見たそれは、はめ殺しになっていた。他の窓なら、と別のところへ視線をやるが、それも駄目だった。窓は開きそうだが、その先に鉄格子がついている。絶望だ。出口も入り口も、あの玄関ひとつだけ。いよいよ鍵探しをしなければならなくなった。死なずにここを出るためにはそれしかない。
二階は二部屋のみ。そのうち一部屋はもう二度と入りたくない。一階は未探索。何があるのかも、どの程度広いのかも分からない。
思考を巡らせていると、長谷部が戻ってきた。
「お待たせしました。玄米茶です」
目の前にコトリと小さな音を立てて置かれたそれは、とても香りの良い玄米茶だった。
美味しそうだ。美味しそうなのだが、飲むのは怖い。緊張と恐怖でカラカラに乾いた喉は水分を欲していたが、これに手を付けていいものか。考えあぐねていると、隣に腰を下ろした長谷部が不思議そうにこちらを見ていた。
「どうしたのですか。あなたの好んでいる玄米茶ですよ。さぁ、遠慮なさらずにどうぞ」
先程も思ったが、私は玄米茶を好んでいない。一体どこのだれと間違われているのだろうか。
「ああ、環境が変われば好むものも変わりますか。そうですよね。では、覚えてください。あなたは玄米茶を好むんです。この俺が淹れた玄米茶を最も好むんです」
さあ。飲んで。
そう言われてしまえば、震えながらそれに従う他ない。
やや震える手で湯呑みを持ち上げる。手のひらがじんわりと温かい。
緊張と共に飲み込んだ玄米茶は、とても美味しかった。この非常時に何を、と思うかもしれないが、とても美味しかったのだ。
「美味しい」
ついそう口に出した私を見て、長谷部は満足そうに笑んだ。
「そうですか。それは良かった。あなたに満足して頂くために、たくさん研究したのです」
ビックリするほど穏やかなその顔を見て、何故か”懐かしい”と思った。どうしてだろう。
「さぁ、主、これからのことを話し合いましょう」
「これからのこと?」
「ええそうです。日中は何をなさいますか?俺も常にお側にお控えいたしますが、退屈になるでしょう?ですから、何か娯楽を、と思うのです」
帰りたい。ただそれだけのセリフだが、言えるわけが無かった。あなたとは住まない。生活もしない。私は家に帰る。それが私の望む答えだ。
「そんなこと言われても……」
困り果てて、答えを出せないでいる私に、長谷部はニコニコと笑いかける。
「ねえ、どうやって私をここへ連れてきたの?」
「それはいずれお話しますよ。あなたが俺を思い出してくれたら、ですがね」
思い出すとはどういうことだろう。わたしとこの不審な男に接点があっただろうか。人の顔を覚えるのは得意ではないが、彼ほど顔が整っている人間を全く覚えていないなどあり得るだろうか。
不信がる私に、長谷部は未だニコニコと笑いかけている。何がそんなに楽しいのだろう。
「私は、これからどうなるの?」
「どう、と言われましても。ここで穏やかにすごしていただくだけですよ」
こいつはどうして私を探していたのか。どうしてここへ連れてきたのか。目的は何なのか。結局何も分からず終いだ。
何かせめて、得られる情報はないか。
「……長谷部と私が初めて会ったのは、いつだった?」
玄米茶のおかげか、先程よりも頭は冷静に回っていた。少しでもこいつから情報を聞き出そうと、今までにないくらいフル稼働している。フル稼働した結果がその質問か、とか言わないように。
「1月のことでした。寒さが厳しい年の。あなたの来ていた服の色だって覚えていますよ」
懐かしそうに目を細める長谷部は、優しい顔をしていた。
「……何色だったの?」
「紅色でした」
「べにいろ」
私はそんな派手な色の服を着ただろうか。全く思い出せない。ぐるぐる、ぐるぐる、思考が廻る。
そこでふと、この家の構造が気になった。先程まで混乱していたため、よく考えていなかったが、この家は少しおかしい。
まず、私が、最初にいた部屋だ。あの部屋は畳張りの和室だった。ただ、カーテンがかかっていて、扉は洋風だった。
次にに、あまり思い出したくないが、その向かいの部屋。あの凄惨な部屋だ。あそこはフローリングが張ってあったが、扉は和風。襖だった。その奥には障子があったのをなんとなく覚えている。
さらにこの部屋。この部屋の家具は洋が基調だが、所々に桐の箪笥や障子がある。なんてちぐはぐな場所。長谷部という男の好みなのだろうか。
「ねえ、内装は長谷部が全てやったの?」
「いいえ。お恥ずかしながら少し失敗しまして。後で直しておきます」
ますます分からない。あなたじゃないなら一体誰がやったの。そいつもグルなの?失敗って何?疑問が止まらない。
結局いたずらに謎を増やしただけで、このおかしな状況は全く変わっていない。はやく帰りたい。怖い。ただ怖い。自分の命の心配をする日が来るとは思わなかった。私はどうなってしまうのだろう。依然切り開けない道を憂いながら、薄く立ち昇る玄米茶の湯気を見つめることくらいしか今の私にはできないのだ。
1/2ページ