見習い事変(完)
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目を覚ますと、白い天井が見えた。ここはどこだろうか。私はいったい。
「おはようございます。ご無事でなにより、ですね」
扉の開く音のあとに、そう声をかけて入ってきたのは白衣に身を包んだ知らない女性だった。
「いやぁ、驚きました。まさか神気を吸い出しただけで倒れるほどになっていたとは」
思い出した。
水仙君に札を貼られたんだ。でも、それならどうして私は生きているんだろう。
「私、呪殺札を貼られたんですけど……」
女性は、ああ、そういえばそうだった、といったような顔をすると、私の状態について話してくれた。
「あれはそんな大層なものじゃないですよ。ただの、神気を吸い出す札です。普通なら倒れることなんてないんですけどね。もちろん神気で構成されている付喪神の無力化はある程度叶いますが。それでも、末端とはいえ真っ当な神を問答無用で殺すほどのものではありません。ですが、あなたの中には相当な量の神気が入っていたようでした。ほぼ神気によって生かされている状態でしたね。だから、それが抜かれたときに、脳が起きているのが困難になってしまったんでしょう」
なるほど、そういう訳か。
「あれから3日経ちますが、これだけ早く回復できたのは奇跡のようなものです。本来ならば一週間かそれ以上は意識が戻らないのですが。よほど神様から気に入られていたようですね。回復力が桁違いです」
「それでも3日も経っているんですか……。私、かなり危なかったんじゃ」
「ええ。その通りです。助かってよかったですね」
でも少し待ってほしい。なぜ私の身体にそんな大量の神気が詰まっていたのだろうか。
何故水仙君は『呪殺札』と偽って、神気を吸い出す札を持ち込んだのだろうか。
「歌仙は、皆はどうなりましたか」
私の初期刀は。私の大切な刀剣男士たちは。
しかし女性は申し訳なさそうな顔をして、ただ「分かりません」とだけ言った。
というか私はさっきからこの女性を勝手に、私に起きたことをすべて知っている政府の方だと思いこんでいたが、実際はどうなのだろうか。
「あの、今更なんですけど、ここはどこですか。それから、あなたは一体……」
「ここは時の政府が管轄する、審神者の為の医療センターです。普通の療法ではどうしょうもない方や、審神者にしか起りえない症状の方のための施設です。私はここで働いている、神気専門の医者のようなものです。菖蒲とお呼びいただければ」
なるほど。あの後何が起こったのかはわからないが、どうにかしてここに運び込んでもらえたのだろう。
「あの」
「なんでしょう」
「私は、本丸に戻れますか」
気づけば、そう聞いていた。もしこれで否と返ってきたら、どうしよう。
もう、戻れないのかもしれない。神気を注がれていたということは、謀反の可能性があったということどほぼ同義。
本丸は解体、もしくは別の審神者が引き継ぐことになるわけだが、そうなったら、二度と彼らに会うことはできない。
それにしても、自分が危ない状態であったという実感が沸かない。結局最後まで頼りにしていたのは歌仙だったし、みんなのことも、乗っ取られているだけだ、と思っていた。
まだ全部を知った訳ではないけれど、今思えば水仙君は悪い人じゃなかったはず。そうでなければ、神気を吸い出す札を呪殺札などと偽らない。きっと彼は、私のためにあれを使ってくれたのだと思う。それに刀剣男士や本丸の所有権が短期間で上書きされたことの説明が付かない。
こんのすけが頼れと言った人だ。信頼していいだろう。
しかし、私の本丸に何か大きな問題があったことは確かだ。早く彼に全ての事情を教えてもらわないと。
ごちゃごちゃと考えていた私に、菖蒲さんは一言
「とりあえず、本丸へ行ってください」
とだけ言った。
三日前の出来事であっても、体感時間としてはつい昨日のことだ。たった一晩で崩れてしまった私と彼らの関係は、心の溝は、戻すことはできるのだろうか。無理だろうか。一度壊れてしまったものは二度とはもとに戻らない。それでも、新しく築くことができたなら。
玄関の戸を開けると、水仙君が待っていた。
「おかえりなさい」
「た、ただいま」
四日前なら笑顔と共に聞こえたその言葉は、今日はやたらと重々しかった。
「あなたに話さねばならないことがあります。ついてきてください」
「ええ。……あの、本丸の皆はどうしたの」
「一時的に、顕現を解いています。大広間に集めてありますよ」
「歌仙は、どうなったの」
「歌仙兼定も他の刀剣と同様、顕現を解いた状態になっています。刀解も可能でしたが、それではあなたが悲しむでしょうから」
「そう……。ありがとう」
それきり、会話はなかった。ただ無言で歩き続けて、やっと彼の足が止まったのは、執務室の前だった。
彼はちらりとこちらを見ると、やはり無言で扉を開け、中に入った。
私もそれに続き、後ろ手で扉を閉める。
彼は執務室にあったソファに座ったので、私は丁度彼と向かい合う位置にあるソファに腰を降ろした。
そして私と目が会うやいなや、重々しく口を開いた。
「この本丸は、解体されます」
まさか、そんな。
ある程度の処遇は覚悟の上だったが、考えうる限り最悪の返答。咄嗟に言葉が出てこなかった。
「これは政府の決定です。未遂とはいえ神隠しが行われた本丸を残しておくわけにはいかない。おそらく、刀剣も刀解処分になるでしょう。そしてあなたは新たな本丸へ行き、また一から運営を始めることになる」
「みんな……。ああ、なんでこんなことに」
目の前が、真っ暗だ。ここまで私が積み上げていたものは。成してきたことは。すべて失われるというの?
「あなたは刀剣に好かれる体質のようです。俺には分からないのですが、魂がどうとか。……四周年のお祝いのこと、覚えていますか」
四周年のお祝いという言葉に、ハッとする。それは私がどうしても思い出せなかった、彼らとの思い出。
「どうしてそれを」
「歌仙兼定から聞きました。それで、どうなんです」
「……覚えていないの。誰のお願いも、思い出せない」
私は確かに、みんなからお願いを聞いたはずなのに。どうして。思い出そうとするたびに、頭痛がする。靄がかかる。
「そうでしょうね。何せ、彼らがあなたに願ったのはあなたの真名ですから」
一瞬、脳が動きを止めた。
「え」
未だに言葉を咀嚼しきっていない私に、水仙君は説明を続けた。
「四周年のプレゼントとして、ここにいる刀剣男士は皆、あなたの真名を願いました。そうしてあなたは刀剣男士に真名を握られたんです。しかし、名前だけでは彼らは神隠しは行えない。そこで歌仙はあなたを信頼という感情で縛りました。四周年のとき、他とは違って、彼だけがあなたに欲しいと伝えたもの。それは信頼だったんです。あなたは歌仙を信頼して任務を預けたし、神気を受け入れた。多くの刀剣男士に取られている真名と、あなたの中にあった歌仙の神気が上手く均衡を保っていたからあなたはまだここにいるんです。……本当に、あなたが無事で良かった」
それじゃあ、私は歌仙に助けられていたのか。
「歌仙は、私を守っていてくれたの?」
「いいえ。神気を注いだ後、隠す予定だったようです。何故ここまで待っていたのかは謎ですが」
本人から直接聞きました。間違いはありません。水仙君は苦い顔でそう言った。
「そう……」
かなり気分が落ち込んだが、私にはもう一つ、彼に聞き出さねばならないことがある。
「ねえ、どうして、神気を吸う札を呪殺札だと言ったの?わたしが神気を含んでいると、なぜ分かったの?」
「それは……」
水仙君は辛そうな顔をして一瞬言い淀んだ。
「……、俺の、施設での成績はごぞんじですか?」
施設、とは、おそらく審神者養成施設のことだろう。私は行ったことはないが、スムーズに審神者を排出できるよう政府が用意した、いわば審神者の学校だ。
研修先に選ばれた本丸は、申請すれば見習いの成績を開示してもらえる。
私はなんとなく、人の成績を勝手に見るのが申し訳なくて、見ていなかった。というのは建前で、普通にその制度を忘れていた。受けいれの準備で忙しかったのだ。許してほしい。
「ごめんなさい、知らないわ」
「いえ、良いんです。知ってたら、きっとあんなに良くして貰えなかったろうから」
ぽつり、水仙君は語りだす。
「俺の霊力の保持量、生成力とコントロール能力は、他の生徒よりも数倍高いんです。おまけに呪術の才能もあった。……実は俺、研修を何回も断られているんです。どこの本丸も、この成績じゃあ、乗っ取りを恐れて受け入れてはくれなかった。やっと受け入れてくれたのが、あなたの本丸だった。嬉しかった。ここからは、その、関係ないのですが……。いつの間にか、あなたに特別な感情を抱いていました。こんな俺でも、人から愛情をもらえるのだと、そう思わせてくれたあなたに」
「それって」
「恋と言うには重すぎて、愛と呼ぶには軽すぎる、そんな感情でした」
「……。」
「いいえ、分かっています。きっとこの思いは報われることはない。それでも、あなたの傍にいたいんです」
絞り出すようにそう言ってソファから床に降り、半ば土下座のような体制をとった。
「えっ、水仙くん、どうしたのいきなり」
水仙君は体制を変えずに続けた。
「本当に、すみませんでした。あなたには、謝っても謝りきれない。俺がしてきたことは、決して許されるものではない。……本当は、俺、乗っ取りなんかしなくたってあなたを守れた。守れたのに」
彼は自身の行いを告白し始めた。まるで人を殺したかのような悲壮感を彼から感じた。
「歌仙があなたを隠す心積もりだと知ったとき、またとないチャンスだと思った。このまま本丸を乗っ取って、ゲートを塞いでしまえば、あなたはずっとここにいてくれると思ったんだ」
それは心の底からの叫びであったように思う。『寂しい。助けてほしい。認めてほしい』きっとそんな欲望をぐちゃぐちゃに混ぜた、形容できない感情と一緒に、彼は謝罪の言葉を吐き出した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。あなたに、傍にいてほしかった。どこにも行ってほしくなかった。認めてほしかった。そんな思いだけで、あなたにあんな思いをさせた。本当に、ごめんなさい」
まるで幼児のように、ただ『ごめんなさい』を繰り返す。彼は何に怯えているのだろう。
彼の告白の間、私はずっと黙っていた。
怒っていたからでも、言葉が出なかった訳でもない。ただ、彼の見せた誠意に対して、それが最善の行動だと思ったのだ。
「顔を上げて」
彼の『ごめんなさい』に対して、どう答えればいいのか、私にはよくわからなかった。それでも、私は『許す』とだけは言ってはいけない。彼は、私が思っている以上に自分を責めている。彼に今必要なのは、赦しの言葉ではなく、償いの機会だろう。
「私は怒ってなんかないよ。きっと水仙くんがいなかったら、私は今頃ここにはいなかった。病院で言われたの。殆ど神気で生きているようなものだって」
「私を助けてくれて、ありがとう」
涙の滲む目で、彼は私を見上げた。
「あじさいさん……」
「とはいえ、やはりけじめはつけなくてはなりません。あなたを暫く私の監視下に置きます。……というのは口実で、私の本丸運営を手伝って。この本丸を失うという傷は簡単に癒えるものじゃない。私を、支えてほしい」
そういって右手を差し出すと、水仙くんはついに両の目からボロボロと涙を溢れさせた。
「おれは、おれは、あなたをあんな目に合わせたのに。……それでも、俺にできることなら、何でも言ってください。あなたを、支えさせてください。俺は、あなたに頼られる人間になりたい」
私達は右の手のひらを握りあった。
「それじゃあ、まずは住み込みで働いて貰おうかな。一人だと大変だし」
冗談交じりにそう言えば、水仙くんは泣き腫らした顔でくしゃりと笑った。
「任せてください」
それから深々と頭を下げる。
「あなたの優しさに感謝します。俺、頑張ります。だから、これからも、あなたの傍にいさせてください」
問わずともわかる。これはきっと愛の言葉だ。私は……、彼に対する気持ちが、一体どのように形容されるべきなのか、まだよく分からない。しかしその答えも時間が経てば見つかるだろう。
「よろしくね。水仙くん」
「はい、よろしくお願いします」
✻✻✻
俺は、まだ彼女に隠し事をしている。
だがそれは、彼女が知るべきことではない。
あじさいとの会話を終え、鶴丸国永が使用していた隠し部屋へ入る。ここは彼女でさえ存在を知らない場所だ。
「全く、手間をかけさせてくれたね。でも、お前とはこれでさよならだ」
見下ろした先にあるのは、細かく割れた歌仙兼定の本体。見ていると不快になるそれを足で除け、どこに捨てようかと思案する。
そうしているうちに、よく知った足音が聞こえてきた。
「水仙様、越中国支部より連絡が入っております。繋げてもよろしいですか」
やってきたのはやはりこんのすけで、仕事の連絡を持ってきたようだった。
「ああ。よろしく頼むよ」
「はい。こちら武蔵国第四支部」
『進捗の報告をお願いします』
「はい。先ほどほぼ完了しました。あと数カ月で完全に終わります。また、政府の所有する本丸の一つを掌握、改変することに成功しました。戦力も充分ですので、打ち合わせ通り、今後はここを拠点に出陣します」
『了解しました。一週間以内に報告書の提出をお願いします』
「はい」
『それから……、本当に、おめでとう』
「…ええ。ありがとう、ございます」
『それではまた。今後も期待しています』
その言葉を最後に、一方的に通信は切られた。
「しかし水仙様、よろしかったのですか?今回は大幅な改変でしたし…。うまくいくかどうか」
「大丈夫だよ。この十年間、必死で頑張ってきたんだ。この先の歴史は、俺が、いや、俺達が作ろう」
「水仙様、いえ、刀剣男士の皆様、こんのすけは、あなたの作る歴史を見届けたいです。許可していただけますか」
「もちろん」
「あの日失われた俺達の主は、今やっと、あるべき場所に戻った。全ての障害を退けた。これで本当に、ハッピーエンドだね」
十年前、俺の主は歌仙兼定に隠された。
全ての研修過程を終え、新しく審神者として新しい本丸に着任するはずだった見習いは、ゲートの手前で事切れていた。歌仙を止めようとして斬られたのだろう。
残されたのは見習いの遺体と、主を失った俺達。
俺たちは見習いの遺体を使い、歴史の渦を遡った。
何度も何度も見習いの過程を踏み、何度も審神者になった。
でもその度に、俺達の主は歌仙兼定に連れ去られる。
繰り返す歴史は、毎回少しずつ違っていた。前回失敗したところを上手く成功させると、別のところで失敗してしまう。その繰り返しだった。、
しかしようやく、数十回目の歴史改変で、俺達は勝利を手にした。これからは主と共に生きていく。
そのためにはまず、邪魔者の排除が必要だ。
「政府からの通達です。函館へ向かい、時間遡行軍を討伐してください」
「分かった。それじゃあ、こんのすけ。よろしくね」
「はい。偽装はお任せください」
✻✻✻
ぼんやりと、意識が浮上する。どうやら乗り換えは成功したようだ。
歌仙によって殺された見習いの体を残されたすべての刀剣で乗っ取り、一人の人間として機能させる。見習いと刀剣の複数の意識が混ざりあってしまったが、時期に一つの人格に収束するだろう。
「えっと、たしかこいつの名前は」
「何だったかな」
「思い出せないな。まあいいか……。そういえば、こいつは主から水仙の模様の着物を賜っていたな」
「うん、決めた。これから、俺の名前は『水仙』だ」
さあ、主を迎えに行こう。何度失敗したって諦めることなどできない。
この感情は、恋と呼ぶには重すぎて、愛と呼ぶには、歪すぎるから。
「おはようございます。ご無事でなにより、ですね」
扉の開く音のあとに、そう声をかけて入ってきたのは白衣に身を包んだ知らない女性だった。
「いやぁ、驚きました。まさか神気を吸い出しただけで倒れるほどになっていたとは」
思い出した。
水仙君に札を貼られたんだ。でも、それならどうして私は生きているんだろう。
「私、呪殺札を貼られたんですけど……」
女性は、ああ、そういえばそうだった、といったような顔をすると、私の状態について話してくれた。
「あれはそんな大層なものじゃないですよ。ただの、神気を吸い出す札です。普通なら倒れることなんてないんですけどね。もちろん神気で構成されている付喪神の無力化はある程度叶いますが。それでも、末端とはいえ真っ当な神を問答無用で殺すほどのものではありません。ですが、あなたの中には相当な量の神気が入っていたようでした。ほぼ神気によって生かされている状態でしたね。だから、それが抜かれたときに、脳が起きているのが困難になってしまったんでしょう」
なるほど、そういう訳か。
「あれから3日経ちますが、これだけ早く回復できたのは奇跡のようなものです。本来ならば一週間かそれ以上は意識が戻らないのですが。よほど神様から気に入られていたようですね。回復力が桁違いです」
「それでも3日も経っているんですか……。私、かなり危なかったんじゃ」
「ええ。その通りです。助かってよかったですね」
でも少し待ってほしい。なぜ私の身体にそんな大量の神気が詰まっていたのだろうか。
何故水仙君は『呪殺札』と偽って、神気を吸い出す札を持ち込んだのだろうか。
「歌仙は、皆はどうなりましたか」
私の初期刀は。私の大切な刀剣男士たちは。
しかし女性は申し訳なさそうな顔をして、ただ「分かりません」とだけ言った。
というか私はさっきからこの女性を勝手に、私に起きたことをすべて知っている政府の方だと思いこんでいたが、実際はどうなのだろうか。
「あの、今更なんですけど、ここはどこですか。それから、あなたは一体……」
「ここは時の政府が管轄する、審神者の為の医療センターです。普通の療法ではどうしょうもない方や、審神者にしか起りえない症状の方のための施設です。私はここで働いている、神気専門の医者のようなものです。菖蒲とお呼びいただければ」
なるほど。あの後何が起こったのかはわからないが、どうにかしてここに運び込んでもらえたのだろう。
「あの」
「なんでしょう」
「私は、本丸に戻れますか」
気づけば、そう聞いていた。もしこれで否と返ってきたら、どうしよう。
もう、戻れないのかもしれない。神気を注がれていたということは、謀反の可能性があったということどほぼ同義。
本丸は解体、もしくは別の審神者が引き継ぐことになるわけだが、そうなったら、二度と彼らに会うことはできない。
それにしても、自分が危ない状態であったという実感が沸かない。結局最後まで頼りにしていたのは歌仙だったし、みんなのことも、乗っ取られているだけだ、と思っていた。
まだ全部を知った訳ではないけれど、今思えば水仙君は悪い人じゃなかったはず。そうでなければ、神気を吸い出す札を呪殺札などと偽らない。きっと彼は、私のためにあれを使ってくれたのだと思う。それに刀剣男士や本丸の所有権が短期間で上書きされたことの説明が付かない。
こんのすけが頼れと言った人だ。信頼していいだろう。
しかし、私の本丸に何か大きな問題があったことは確かだ。早く彼に全ての事情を教えてもらわないと。
ごちゃごちゃと考えていた私に、菖蒲さんは一言
「とりあえず、本丸へ行ってください」
とだけ言った。
三日前の出来事であっても、体感時間としてはつい昨日のことだ。たった一晩で崩れてしまった私と彼らの関係は、心の溝は、戻すことはできるのだろうか。無理だろうか。一度壊れてしまったものは二度とはもとに戻らない。それでも、新しく築くことができたなら。
玄関の戸を開けると、水仙君が待っていた。
「おかえりなさい」
「た、ただいま」
四日前なら笑顔と共に聞こえたその言葉は、今日はやたらと重々しかった。
「あなたに話さねばならないことがあります。ついてきてください」
「ええ。……あの、本丸の皆はどうしたの」
「一時的に、顕現を解いています。大広間に集めてありますよ」
「歌仙は、どうなったの」
「歌仙兼定も他の刀剣と同様、顕現を解いた状態になっています。刀解も可能でしたが、それではあなたが悲しむでしょうから」
「そう……。ありがとう」
それきり、会話はなかった。ただ無言で歩き続けて、やっと彼の足が止まったのは、執務室の前だった。
彼はちらりとこちらを見ると、やはり無言で扉を開け、中に入った。
私もそれに続き、後ろ手で扉を閉める。
彼は執務室にあったソファに座ったので、私は丁度彼と向かい合う位置にあるソファに腰を降ろした。
そして私と目が会うやいなや、重々しく口を開いた。
「この本丸は、解体されます」
まさか、そんな。
ある程度の処遇は覚悟の上だったが、考えうる限り最悪の返答。咄嗟に言葉が出てこなかった。
「これは政府の決定です。未遂とはいえ神隠しが行われた本丸を残しておくわけにはいかない。おそらく、刀剣も刀解処分になるでしょう。そしてあなたは新たな本丸へ行き、また一から運営を始めることになる」
「みんな……。ああ、なんでこんなことに」
目の前が、真っ暗だ。ここまで私が積み上げていたものは。成してきたことは。すべて失われるというの?
「あなたは刀剣に好かれる体質のようです。俺には分からないのですが、魂がどうとか。……四周年のお祝いのこと、覚えていますか」
四周年のお祝いという言葉に、ハッとする。それは私がどうしても思い出せなかった、彼らとの思い出。
「どうしてそれを」
「歌仙兼定から聞きました。それで、どうなんです」
「……覚えていないの。誰のお願いも、思い出せない」
私は確かに、みんなからお願いを聞いたはずなのに。どうして。思い出そうとするたびに、頭痛がする。靄がかかる。
「そうでしょうね。何せ、彼らがあなたに願ったのはあなたの真名ですから」
一瞬、脳が動きを止めた。
「え」
未だに言葉を咀嚼しきっていない私に、水仙君は説明を続けた。
「四周年のプレゼントとして、ここにいる刀剣男士は皆、あなたの真名を願いました。そうしてあなたは刀剣男士に真名を握られたんです。しかし、名前だけでは彼らは神隠しは行えない。そこで歌仙はあなたを信頼という感情で縛りました。四周年のとき、他とは違って、彼だけがあなたに欲しいと伝えたもの。それは信頼だったんです。あなたは歌仙を信頼して任務を預けたし、神気を受け入れた。多くの刀剣男士に取られている真名と、あなたの中にあった歌仙の神気が上手く均衡を保っていたからあなたはまだここにいるんです。……本当に、あなたが無事で良かった」
それじゃあ、私は歌仙に助けられていたのか。
「歌仙は、私を守っていてくれたの?」
「いいえ。神気を注いだ後、隠す予定だったようです。何故ここまで待っていたのかは謎ですが」
本人から直接聞きました。間違いはありません。水仙君は苦い顔でそう言った。
「そう……」
かなり気分が落ち込んだが、私にはもう一つ、彼に聞き出さねばならないことがある。
「ねえ、どうして、神気を吸う札を呪殺札だと言ったの?わたしが神気を含んでいると、なぜ分かったの?」
「それは……」
水仙君は辛そうな顔をして一瞬言い淀んだ。
「……、俺の、施設での成績はごぞんじですか?」
施設、とは、おそらく審神者養成施設のことだろう。私は行ったことはないが、スムーズに審神者を排出できるよう政府が用意した、いわば審神者の学校だ。
研修先に選ばれた本丸は、申請すれば見習いの成績を開示してもらえる。
私はなんとなく、人の成績を勝手に見るのが申し訳なくて、見ていなかった。というのは建前で、普通にその制度を忘れていた。受けいれの準備で忙しかったのだ。許してほしい。
「ごめんなさい、知らないわ」
「いえ、良いんです。知ってたら、きっとあんなに良くして貰えなかったろうから」
ぽつり、水仙君は語りだす。
「俺の霊力の保持量、生成力とコントロール能力は、他の生徒よりも数倍高いんです。おまけに呪術の才能もあった。……実は俺、研修を何回も断られているんです。どこの本丸も、この成績じゃあ、乗っ取りを恐れて受け入れてはくれなかった。やっと受け入れてくれたのが、あなたの本丸だった。嬉しかった。ここからは、その、関係ないのですが……。いつの間にか、あなたに特別な感情を抱いていました。こんな俺でも、人から愛情をもらえるのだと、そう思わせてくれたあなたに」
「それって」
「恋と言うには重すぎて、愛と呼ぶには軽すぎる、そんな感情でした」
「……。」
「いいえ、分かっています。きっとこの思いは報われることはない。それでも、あなたの傍にいたいんです」
絞り出すようにそう言ってソファから床に降り、半ば土下座のような体制をとった。
「えっ、水仙くん、どうしたのいきなり」
水仙君は体制を変えずに続けた。
「本当に、すみませんでした。あなたには、謝っても謝りきれない。俺がしてきたことは、決して許されるものではない。……本当は、俺、乗っ取りなんかしなくたってあなたを守れた。守れたのに」
彼は自身の行いを告白し始めた。まるで人を殺したかのような悲壮感を彼から感じた。
「歌仙があなたを隠す心積もりだと知ったとき、またとないチャンスだと思った。このまま本丸を乗っ取って、ゲートを塞いでしまえば、あなたはずっとここにいてくれると思ったんだ」
それは心の底からの叫びであったように思う。『寂しい。助けてほしい。認めてほしい』きっとそんな欲望をぐちゃぐちゃに混ぜた、形容できない感情と一緒に、彼は謝罪の言葉を吐き出した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。あなたに、傍にいてほしかった。どこにも行ってほしくなかった。認めてほしかった。そんな思いだけで、あなたにあんな思いをさせた。本当に、ごめんなさい」
まるで幼児のように、ただ『ごめんなさい』を繰り返す。彼は何に怯えているのだろう。
彼の告白の間、私はずっと黙っていた。
怒っていたからでも、言葉が出なかった訳でもない。ただ、彼の見せた誠意に対して、それが最善の行動だと思ったのだ。
「顔を上げて」
彼の『ごめんなさい』に対して、どう答えればいいのか、私にはよくわからなかった。それでも、私は『許す』とだけは言ってはいけない。彼は、私が思っている以上に自分を責めている。彼に今必要なのは、赦しの言葉ではなく、償いの機会だろう。
「私は怒ってなんかないよ。きっと水仙くんがいなかったら、私は今頃ここにはいなかった。病院で言われたの。殆ど神気で生きているようなものだって」
「私を助けてくれて、ありがとう」
涙の滲む目で、彼は私を見上げた。
「あじさいさん……」
「とはいえ、やはりけじめはつけなくてはなりません。あなたを暫く私の監視下に置きます。……というのは口実で、私の本丸運営を手伝って。この本丸を失うという傷は簡単に癒えるものじゃない。私を、支えてほしい」
そういって右手を差し出すと、水仙くんはついに両の目からボロボロと涙を溢れさせた。
「おれは、おれは、あなたをあんな目に合わせたのに。……それでも、俺にできることなら、何でも言ってください。あなたを、支えさせてください。俺は、あなたに頼られる人間になりたい」
私達は右の手のひらを握りあった。
「それじゃあ、まずは住み込みで働いて貰おうかな。一人だと大変だし」
冗談交じりにそう言えば、水仙くんは泣き腫らした顔でくしゃりと笑った。
「任せてください」
それから深々と頭を下げる。
「あなたの優しさに感謝します。俺、頑張ります。だから、これからも、あなたの傍にいさせてください」
問わずともわかる。これはきっと愛の言葉だ。私は……、彼に対する気持ちが、一体どのように形容されるべきなのか、まだよく分からない。しかしその答えも時間が経てば見つかるだろう。
「よろしくね。水仙くん」
「はい、よろしくお願いします」
✻✻✻
俺は、まだ彼女に隠し事をしている。
だがそれは、彼女が知るべきことではない。
あじさいとの会話を終え、鶴丸国永が使用していた隠し部屋へ入る。ここは彼女でさえ存在を知らない場所だ。
「全く、手間をかけさせてくれたね。でも、お前とはこれでさよならだ」
見下ろした先にあるのは、細かく割れた歌仙兼定の本体。見ていると不快になるそれを足で除け、どこに捨てようかと思案する。
そうしているうちに、よく知った足音が聞こえてきた。
「水仙様、越中国支部より連絡が入っております。繋げてもよろしいですか」
やってきたのはやはりこんのすけで、仕事の連絡を持ってきたようだった。
「ああ。よろしく頼むよ」
「はい。こちら武蔵国第四支部」
『進捗の報告をお願いします』
「はい。先ほどほぼ完了しました。あと数カ月で完全に終わります。また、政府の所有する本丸の一つを掌握、改変することに成功しました。戦力も充分ですので、打ち合わせ通り、今後はここを拠点に出陣します」
『了解しました。一週間以内に報告書の提出をお願いします』
「はい」
『それから……、本当に、おめでとう』
「…ええ。ありがとう、ございます」
『それではまた。今後も期待しています』
その言葉を最後に、一方的に通信は切られた。
「しかし水仙様、よろしかったのですか?今回は大幅な改変でしたし…。うまくいくかどうか」
「大丈夫だよ。この十年間、必死で頑張ってきたんだ。この先の歴史は、俺が、いや、俺達が作ろう」
「水仙様、いえ、刀剣男士の皆様、こんのすけは、あなたの作る歴史を見届けたいです。許可していただけますか」
「もちろん」
「あの日失われた俺達の主は、今やっと、あるべき場所に戻った。全ての障害を退けた。これで本当に、ハッピーエンドだね」
十年前、俺の主は歌仙兼定に隠された。
全ての研修過程を終え、新しく審神者として新しい本丸に着任するはずだった見習いは、ゲートの手前で事切れていた。歌仙を止めようとして斬られたのだろう。
残されたのは見習いの遺体と、主を失った俺達。
俺たちは見習いの遺体を使い、歴史の渦を遡った。
何度も何度も見習いの過程を踏み、何度も審神者になった。
でもその度に、俺達の主は歌仙兼定に連れ去られる。
繰り返す歴史は、毎回少しずつ違っていた。前回失敗したところを上手く成功させると、別のところで失敗してしまう。その繰り返しだった。、
しかしようやく、数十回目の歴史改変で、俺達は勝利を手にした。これからは主と共に生きていく。
そのためにはまず、邪魔者の排除が必要だ。
「政府からの通達です。函館へ向かい、時間遡行軍を討伐してください」
「分かった。それじゃあ、こんのすけ。よろしくね」
「はい。偽装はお任せください」
✻✻✻
ぼんやりと、意識が浮上する。どうやら乗り換えは成功したようだ。
歌仙によって殺された見習いの体を残されたすべての刀剣で乗っ取り、一人の人間として機能させる。見習いと刀剣の複数の意識が混ざりあってしまったが、時期に一つの人格に収束するだろう。
「えっと、たしかこいつの名前は」
「何だったかな」
「思い出せないな。まあいいか……。そういえば、こいつは主から水仙の模様の着物を賜っていたな」
「うん、決めた。これから、俺の名前は『水仙』だ」
さあ、主を迎えに行こう。何度失敗したって諦めることなどできない。
この感情は、恋と呼ぶには重すぎて、愛と呼ぶには、歪すぎるから。
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