鶴丸国永
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昨日、大切な大切な友人が神様に隠された。許せなかった。
隠された彼女とは近々食事に行く予定だった。長い付き合いだったからよく分かる。彼女は約束を破るような人ではない。つまり、無理矢理隠されたと考えるのが妥当である。許さない。
二年前、彼女が誕生日のお祝いとして送ってくれた種を撒いて、ひまわり畑を作った。私はその向日葵の前で、体中の水分が無くなってしまうのではないかと思うほどに、涙を流している。
それを見た私の鶴丸国永が、どうしたんだと声をかけてきた。
鶴丸国永は、我が本丸の主戦力である。
まだ審神者を初めて間もない頃、私は初期刀と初鍛刀を折った。たった三振りの部隊で、実力不相応な戦場へ出陣させてしまった。馬鹿で未熟だった私が全て悪い。そんな中、唯一生き残って帰ってきてくれたのは、三振り目に来た刀、鶴丸国永だった。
それ以来、二振りの穴を埋めるかの様に働く彼には、頭が上がらない。一番強くて、信頼できる刀だ。
「つるまる」
そんな彼に、私はつい話してしまった。
友人が隠されたこと。隠した神を許せないこと。
ああ、彼女を連れ戻せたらどれだけいいことか。その為なら、私は悪魔に魂を売ったっていいのだ。
「それなら、俺に売ってみるかい」
いつもの調子で、そう言われた。
今はそういう冗談は求めていない。
そう言おうとした私の口を噤ませたのは、彼の真剣な表情だった。
「きみが望むなら、俺は悪魔にだってなれるさ」
笑い飛ばせる雰囲気ではなかった。いつも飄々としている悪戯爺が、これほど真剣な表情をするのは、あの二振りが折れたとき以来だった。
「大切なんだろう、その友人が。しかも望まぬ神隠しときた。救いたいんだろう」
それはそうだ。私には友人と呼べるのは彼女くらいだったし、彼女が幸せなら神隠しだって許せた。しかし、無理矢理隠された彼女が幸せな訳がない。それはどうしても許容できないのだ。
「具体的に、どうしてくれるの」
是とも非とも告げずに、彼に迫った。でも、ああ、これでは魂を売ると言ったようなものではないか。
鶴丸は見たことのない顔で笑った。真剣とも、冗談とも取れぬ、曖昧な顔だった。
「そいつの神域へ無断侵入してやろう。二人でな。何、俺なら造作ないことだ」
いいのかそれは。祟られやしないか。神様である鶴丸は何とかなるとして、問題は私だ。祟られ呪われ、苦しんで死ぬのなんて御免だ。
「怖いことはない。俺が守ろう。だが、もちろんタダとは言わないぜ。売ってくれるんだろう。きみの魂を」
それは、つまり、隠されろということか。
「ああいや、きみの予想とは少し違うかな。大筋は外れちゃいないが。賭けをしないか。きみの友人を連れ戻すに当たって」
鶴丸は向日葵の花弁に触れながら続ける。
「もしもきみの友人が、帰りたいという意志を少しでも示したのなら、きみの勝ちだ。俺は彼女を現世に連れ戻そう」
はらり、剥がれ落ちた花弁が一枚、宙を舞った。
「ただし、もしそうでなかったら。彼女が帰ろうという意志を示さなかったら、俺の勝ち。きみは俺に隠されてくれ」
もし断れば、この話は全くなかったことにしよう。お互いに。
私の心は酷く揺れた。
私は鶴丸のことを好いていないわけではない。ただ、好きという気持ちより、信頼、そして安心感が勝っているだけ。しかし、隠されるということは、この先の長い長い、気が遠くなるような時間を彼と過ごすということ。人ではない何かになって、悠久を生きるということ。耐えられるのか?私に?
悪魔に魂を売るなどと言ったが、どうやら私にはそんな覚悟はできていなかったようだ。自分が恥ずかしい。
もう一度、よく考える。
友人を助けたいのは事実。あの子が不幸になるなんて、あってはならないことなのだ。
彼女が帰ることを望まないなどありえない。
今まで私の人生に彩りを与えてくれたあの子。
審神者になる前の、引きこもりがちな私の手を引き、時には海へ、時には山へ、あの子は連れ回した。一緒に買い物も行ったし、食事へも行った。それは審神者になってからも変わらなかった。本丸同士の交流もあったし、関係は良好だった。「ずっとこのままがいいね」と笑いあったのはついこの間のことだ。なのに、なのに。
やはり私はあの刀剣を許してはならないのだと思う。私から彩りを奪ったあれに、ひとつ仕返しがしたいのだ。お前が私から奪ったのだから、お前も奪われて当然でしょう。
「分かった。その賭け、乗るよ」
よしきた、任せな。と言って鶴丸はにたりと笑う。
「それじゃあ、指切りげんまんだ。約束してくれるよな」
神との約束事はそう簡単には反故にできない。
それでも、どちらに転んでも構わないと思ったから。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った」
「まあこの場合は針千本じゃあなくて、太刀一本、ってところか」
「やめてよ。針千本よりつらそう」
「ははっ、どうだか」
これから私は、あの気に食わない刀剣への復讐を始めるのだ。
✽✽✽✽✽✽
私はすぐにでも神域に乗り込みたかったが、どうやらそれには準備がいるようだった。
先ず、少しずつ神気を体に取り込むこと。毎日少しずつだ。具体的にはお猪口一杯分。これを十日続けなければならない。
お猪口の中にはよく分からない味のする液体が入っている。透明で、澄んだ匂いのするものだ。
何だこれはと聞いてみたところ、「知りたいかい?」と悪戯顔で聞かれたので遠慮しておいた。
しかし準備期間が長すぎる。十日も待てない。
もっと早くどうにかならないのかと駄々をこねたところ、これまた良からぬことを考えているときの顔で「あるにはあるぞ」と言われた。あるのか、と聞き返した私に、鶴丸は笑みを深めた。
「もちろんだ。一日で準備を終える方法はある。きみと俺がまぐわえば良い」
まぐわう。その言葉に私は鶴丸から目をそらした。
「結構です。やっぱり、十日頑張る方で」
目を合わせずに言う私にかかと笑うと、鶴丸は自室の方へ消えて行った。
次に、私は鶴丸に自分の名前を渡さなければならなかった。
これはまあ、どうってことない。もとより全幅の信頼を寄せている相手だ。それに、神域へ行くなら必須の条件だろう。
中には真名を掴まずに神隠しを行って、その後で新しい名前を与える、なんていう恐ろしい事案もあるようだ。そんなことをされた人間の精神がどうなってしまうかなんて、された本人にしかわからないけど。名前を新しく神から貰うということは、今まで生きてきた名前を捨てるということ。それは記憶も人格も、何もかもが新しくなるということだ。果たしてそれは同一人物と呼べるのかどうか。恐ろしいことだ。
真名はとうに渡した。
そして、十日間、神気を取り込み続ける行為もやっと終えた。
これでやっと行けるのだ。はやく、はやく彼女を救わないと。
「それじゃあ、行こうか」
うん、と短く返事をし、目を瞑る。鶴丸に抱きしめられた感触がした。
✽✽✽✽✽✽
目を開けると、そこは椿が咲く庭園だった。
「ここが俺の神域だ。きみに案内してやりたいが、時間がない。機会があったら、だな」
鶴丸は私の手を引き、庭園を進む。私はそれに従い歩く。遠くの方に母屋らしきものが見えた。彼は私の歩幅を考えて、こちらに合わせて歩いてくれていた。この刀剣のそういう小さな優しさが私は好きだった。
やっと鶴丸の足が止まったそこにあったのは、鳥居だった。
「ここから行くんだ。普通なら互いの了承ありきで漸く行き来できるんだが、まあ今回は無理矢理行くからな。何があるか分からない。俺から離れるなよ」
ぎゅ、と掴む手に力を入れた。それを肯定と受け取った鶴丸は、「それじゃあ行くぞ」と鳥居に手を翳した。
目が眩むほどの光りがあふれ出して、私は咄嗟に目を瞑る。
「そのまま目を瞑っていた方がいい。あちらの門をこじ開けたら、合図する」
どのくらいそうしていただろうか。すごく短かった気もするし、長かった気もする。
「もういいぞ」
その合図と共に、私は目を開けた。ただただ暗い空間。目の前に、ぼんやりと光る鳥居が見える。
「あそこだ。さあ、行くぞ」
意を決し、鳥居を潜る。
「え」
鳥居を越えたそこは、見慣れた彼女の本丸だった。何回も遊びに行ったし、間違えるはずがない。
桜が美しく咲いている。春の景趣だ。
その桜を見ながら、縁側に座っているのは、ああ、大好きなあの子と、憎い刀剣と、それから、私。
「わたし?」
それは『私』だった。
彼女と楽しそうに話している人型のそれは、私が毎朝洗面所の鏡で対面するものと同じ。
彼女は三人で幸せそうに会話をしていた。きゃらきゃらと笑い声が聞こえてくる。
「そんな」
私は後先考えずに、彼女のもとへまっすぐ進んだ。鶴丸は何も言わずについてくる。無論、抜刀の準備はしているようだ。
憎い刀剣は私には気付いたようだった。それでも表情を崩さずに、翡翠色の目だけをこちらに向けて笑っている。これではまるで、彼が私の来訪を予期していたようで、そして私に勝ち目がないような。そんな考えが頭を過ぎってしまうではないか。勝つのは私だ。私なんだ。
「ねえ」
半ば叫ぶように声をかけると、あっ、という表情で彼女はこちらをみた。
そしてへらりと笑ったのだ。
「えへへ、もしかして、本物?すごいや。すごいね。ねえ、ナマエちゃん、この子見て。私のナマエちゃんだよ。作ってもらったの。ここの暮らしは悪くないんだけど、やっぱり私あなたがいないと寂しくってね」
でも、今は幸せなんだ、と笑う彼女。
「なんで、そんな、嘘だ」
私はきっと、彼女に謝罪を、それから感謝をして欲しかったのだ。
『助けてくれてありがとう。食事の予定、絶対埋め合わせせるからね!』
そう言って、また平穏な日常に戻ってきてほしかったのだ。私の日常に。
「ええ、どうしたの、何が悲しいの?」
「だって、ずっと友達だって……」
「ああうん。言ったね。言ったよそんなこと。でも、ずっとっていつまで?死ぬまで?死ぬのはいつ?二人で一緒に死ねるの?無理でしょ?だからわたしはお願いしたんだ。眷属になるから、ナマエちゃんを作ってくださいって」
ここは私の箱庭なの。そう言って顔を綻ばせる彼女は、嗚呼、もう既に狂ってしまっていた。
「そんなの偽物のだよ。本物はここにいるんだよ。ねえ、帰ろうよ」
声が震える。このまま彼女を連れ戻さなければ、私は、ああ。
「偽物?ううん、そんなの関係ないんだよ。私はあなたなら何だっていいの。私が本物だと思えば、本物でしょう」
希望が打ち砕かれる音がした。
ねえ、と彼女に問いかけられた偽物の『私』は、笑顔でそれを肯定する。私はこんな顔で笑うのだったか。彼女にはこう見えていたのか。これは彼女が理想とした私なのだろうか。それじゃあ、ここにいる私は一体何?あれは、いったい誰?私って、どこにあるの。
狂っている。この空間は狂っている。
先程から面白そうな顔をしてこちらを見ている憎い刀剣も、偽物の私も、大好きだった彼女も、この本丸も。何もかもが狂っているのだ。ここは、逆さにまわる時計。西から昇る太陽。自ら輝く月。そんなおかしなものだった。ありえるはずがないものだった。
「帰ろう、鶴丸」
ああ、と応える鶴丸を見ずに、私は踵を返した。入ってきた鳥居の前に立つ。
「それじゃ、ちゃんと捕まっててくれよ」
彼女がどんな顔をしているかなんて、見ていなくても想像がつく。きっと今だって幸せそうに笑っているに違いない。
ああ、悔しい。苦しい。憎たらしい。彼女を奪った刀剣も、偽物の私も、私を選ばなかった彼女も、鶴丸との賭けに負けた私も。
悔しさに唇を噛み締めている間に、移動は終わったようだった。椿の庭園で、私は鶴丸と向かい合う。
「さて、選んでもいいんだぜ。俺の神域で過ごすか、太刀一本飲むか」
半ば冗談のように半笑いで問う鶴丸。最初から答えは一つだと分かっていて、それでも私の口から言わせようとする。
もしかすると、こいつも狂っていたのか。私の大切なものは全て歪んでいたのか。いったい、いつから。
「痛いのは辛いだろうから、神域に来ることをオススメするぜ。なあきみ、そうしたら、俺と番になろう。楽しい日々を送ろう。未来永劫だ」
こいつは私が賭けに負けることを予期していたのだろうか。私はこの神様の掌の上で踊らされていたのだろうか。なんて、滑稽なんだろう。
もうどうにでもなってしまえ。私は涙を流したまま、鶴丸の手を取った。
いっそ私も狂ってしまいたい。そうしたら、この胸の痛みはなくなるだろうか。いいや、もう狂っているのかもしれない。始まりはきっと、彼女と出会ったその時、そして鶴丸を鍛刀したその日にあったに違いない。
私の彼女への執着も、鶴丸への信頼も、どこまでが普通なのか分からなくなっていた。だから私は彼女を神域まで追いかけたし、鶴丸に真名だって渡したのだ。
「きみが望むなら、この庭に向日葵を植えようか。丁度、本丸にあったようなのを」
向日葵。そうだ、彼女が私にくれた、大切な花。私の思い出。それをここに植えるのか。既に椿が植えてあるから、向日葵は酷く不釣り合いだろうなぁ。
「いらない」
口から出たのは、否定の言葉だった。どうしてかは、自分でもよく分からない。
彼女に捨てられたような気がしたからかもしれない。傷つけられたからかもしれない。だから、彼女の痕跡を残しておきたくなかったのだろうか。きっとそうだろう。
鶴丸は「そうか」とだけ言うと、私の肩を抱いた。
「きみの好きなもの、好きなこと。何だって与えよう。ここでは俺が神様だからな。大丈夫。きっと楽しいさ。毎日が驚きで溢れるような、そんな暮らしにしよう」
そして神域での暮らしが始まった。
そこまで現世での暮らしと差異はなく、違うことと言えば、隣に鶴丸しかいないことだった。
鶴丸は毎日私を驚かせた。彼の口癖は「時間は無限にあるんだ。驚きに満ち溢れた日々にしよう」だった。彼がどのタイミングでそれを言うのか、私はだんだんわかるようになっていった。
そして、数カ月がたったある日。
「おお、これは驚きだ。やっと変わったのか。もしかしたらずっと変わらないんじゃないかと不安だったんだ。いやぁ良かったよかった。ここに馴染んだ証拠だな」
鏡で見た私の瞳は、鶴丸と同じ金色に染まっていた。まるで夜に浮かぶ月のような、闇を照らす金色がそこにあった。
「きみの黒い髪に、その金色だと、月夜のようで風情があるな。きみを肴に晩酌したい程だ。本当だとも。いやしかし、同じ金でも、きみに収まるとこんなにも美しいのか。驚きだな」
鶴丸はそれはそれは嬉しそうに私の瞳を覗き込む。私も私で鶴丸の金色を見つめる。この金と同じ色が、私の眼孔に収まっているのか。
あの子の瞳も、誰かの色に染まってしまったのだろうか。確か、そう、あれの眼は翡翠色だったから、彼女も翡翠の目になったのだろうか。
その誰かが思い出せない程度には、私はここでの暮らしにどっぷり浸かっていた。もはや鶴丸無しで私の生活は成り立たない。
「なあきみ。きみの一等大切なものは何だ?」
そう聞かれて、以前は何と答えたのだったか。
確か、「あの子」と答えたような気がする。が、今は違う。そんなこと、鶴丸は分かっているはずなのに。こうして聞くのは、愛情の確認のためだろうか。意外と女々しいところもあるものだ。
「鶴丸だよ」
逡巡の後、そう答えた。
「そうか、そうか」
鶴丸は満足げに笑うと、悪戯を思いついたときの顔をした。この顔をしたときの彼は、何をするにしても、ろくなことがない。
「それじゃあ、俺以外の記憶を消してしまってもいいかい?」
にんまり。文字にするならそれがピッタリだろう笑顔で、そう聞かれた。
私は一瞬迷った。大切な記憶はたくさんある。鶴丸と天秤に掛けたときにどうなるかなんて、きっと、失った後でしか分からない。本当に大切なものは、失くして初めて気づくのだ。
「分からない」
正直にそう答えれば「そうかぁ」とやけに落ち着いた声が帰ってくる。
「それじゃあ、この問にきみが頷く日が来るまで、気長に待とう。そうさ。時間は無限にあるんだ」
そのセリフを聞いて、私は息を吸い込んだ。
そして、それから。
「「驚きに満ち溢れた日々にしよう」」
そう声が重なった。
狐につままれたような顔の鶴丸と、したり顔の私は、しばらくして声をあげて笑ったのだった。
私が彼の問に頷くようになるまで、そう時間はかからない。
隠された彼女とは近々食事に行く予定だった。長い付き合いだったからよく分かる。彼女は約束を破るような人ではない。つまり、無理矢理隠されたと考えるのが妥当である。許さない。
二年前、彼女が誕生日のお祝いとして送ってくれた種を撒いて、ひまわり畑を作った。私はその向日葵の前で、体中の水分が無くなってしまうのではないかと思うほどに、涙を流している。
それを見た私の鶴丸国永が、どうしたんだと声をかけてきた。
鶴丸国永は、我が本丸の主戦力である。
まだ審神者を初めて間もない頃、私は初期刀と初鍛刀を折った。たった三振りの部隊で、実力不相応な戦場へ出陣させてしまった。馬鹿で未熟だった私が全て悪い。そんな中、唯一生き残って帰ってきてくれたのは、三振り目に来た刀、鶴丸国永だった。
それ以来、二振りの穴を埋めるかの様に働く彼には、頭が上がらない。一番強くて、信頼できる刀だ。
「つるまる」
そんな彼に、私はつい話してしまった。
友人が隠されたこと。隠した神を許せないこと。
ああ、彼女を連れ戻せたらどれだけいいことか。その為なら、私は悪魔に魂を売ったっていいのだ。
「それなら、俺に売ってみるかい」
いつもの調子で、そう言われた。
今はそういう冗談は求めていない。
そう言おうとした私の口を噤ませたのは、彼の真剣な表情だった。
「きみが望むなら、俺は悪魔にだってなれるさ」
笑い飛ばせる雰囲気ではなかった。いつも飄々としている悪戯爺が、これほど真剣な表情をするのは、あの二振りが折れたとき以来だった。
「大切なんだろう、その友人が。しかも望まぬ神隠しときた。救いたいんだろう」
それはそうだ。私には友人と呼べるのは彼女くらいだったし、彼女が幸せなら神隠しだって許せた。しかし、無理矢理隠された彼女が幸せな訳がない。それはどうしても許容できないのだ。
「具体的に、どうしてくれるの」
是とも非とも告げずに、彼に迫った。でも、ああ、これでは魂を売ると言ったようなものではないか。
鶴丸は見たことのない顔で笑った。真剣とも、冗談とも取れぬ、曖昧な顔だった。
「そいつの神域へ無断侵入してやろう。二人でな。何、俺なら造作ないことだ」
いいのかそれは。祟られやしないか。神様である鶴丸は何とかなるとして、問題は私だ。祟られ呪われ、苦しんで死ぬのなんて御免だ。
「怖いことはない。俺が守ろう。だが、もちろんタダとは言わないぜ。売ってくれるんだろう。きみの魂を」
それは、つまり、隠されろということか。
「ああいや、きみの予想とは少し違うかな。大筋は外れちゃいないが。賭けをしないか。きみの友人を連れ戻すに当たって」
鶴丸は向日葵の花弁に触れながら続ける。
「もしもきみの友人が、帰りたいという意志を少しでも示したのなら、きみの勝ちだ。俺は彼女を現世に連れ戻そう」
はらり、剥がれ落ちた花弁が一枚、宙を舞った。
「ただし、もしそうでなかったら。彼女が帰ろうという意志を示さなかったら、俺の勝ち。きみは俺に隠されてくれ」
もし断れば、この話は全くなかったことにしよう。お互いに。
私の心は酷く揺れた。
私は鶴丸のことを好いていないわけではない。ただ、好きという気持ちより、信頼、そして安心感が勝っているだけ。しかし、隠されるということは、この先の長い長い、気が遠くなるような時間を彼と過ごすということ。人ではない何かになって、悠久を生きるということ。耐えられるのか?私に?
悪魔に魂を売るなどと言ったが、どうやら私にはそんな覚悟はできていなかったようだ。自分が恥ずかしい。
もう一度、よく考える。
友人を助けたいのは事実。あの子が不幸になるなんて、あってはならないことなのだ。
彼女が帰ることを望まないなどありえない。
今まで私の人生に彩りを与えてくれたあの子。
審神者になる前の、引きこもりがちな私の手を引き、時には海へ、時には山へ、あの子は連れ回した。一緒に買い物も行ったし、食事へも行った。それは審神者になってからも変わらなかった。本丸同士の交流もあったし、関係は良好だった。「ずっとこのままがいいね」と笑いあったのはついこの間のことだ。なのに、なのに。
やはり私はあの刀剣を許してはならないのだと思う。私から彩りを奪ったあれに、ひとつ仕返しがしたいのだ。お前が私から奪ったのだから、お前も奪われて当然でしょう。
「分かった。その賭け、乗るよ」
よしきた、任せな。と言って鶴丸はにたりと笑う。
「それじゃあ、指切りげんまんだ。約束してくれるよな」
神との約束事はそう簡単には反故にできない。
それでも、どちらに転んでも構わないと思ったから。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った」
「まあこの場合は針千本じゃあなくて、太刀一本、ってところか」
「やめてよ。針千本よりつらそう」
「ははっ、どうだか」
これから私は、あの気に食わない刀剣への復讐を始めるのだ。
✽✽✽✽✽✽
私はすぐにでも神域に乗り込みたかったが、どうやらそれには準備がいるようだった。
先ず、少しずつ神気を体に取り込むこと。毎日少しずつだ。具体的にはお猪口一杯分。これを十日続けなければならない。
お猪口の中にはよく分からない味のする液体が入っている。透明で、澄んだ匂いのするものだ。
何だこれはと聞いてみたところ、「知りたいかい?」と悪戯顔で聞かれたので遠慮しておいた。
しかし準備期間が長すぎる。十日も待てない。
もっと早くどうにかならないのかと駄々をこねたところ、これまた良からぬことを考えているときの顔で「あるにはあるぞ」と言われた。あるのか、と聞き返した私に、鶴丸は笑みを深めた。
「もちろんだ。一日で準備を終える方法はある。きみと俺がまぐわえば良い」
まぐわう。その言葉に私は鶴丸から目をそらした。
「結構です。やっぱり、十日頑張る方で」
目を合わせずに言う私にかかと笑うと、鶴丸は自室の方へ消えて行った。
次に、私は鶴丸に自分の名前を渡さなければならなかった。
これはまあ、どうってことない。もとより全幅の信頼を寄せている相手だ。それに、神域へ行くなら必須の条件だろう。
中には真名を掴まずに神隠しを行って、その後で新しい名前を与える、なんていう恐ろしい事案もあるようだ。そんなことをされた人間の精神がどうなってしまうかなんて、された本人にしかわからないけど。名前を新しく神から貰うということは、今まで生きてきた名前を捨てるということ。それは記憶も人格も、何もかもが新しくなるということだ。果たしてそれは同一人物と呼べるのかどうか。恐ろしいことだ。
真名はとうに渡した。
そして、十日間、神気を取り込み続ける行為もやっと終えた。
これでやっと行けるのだ。はやく、はやく彼女を救わないと。
「それじゃあ、行こうか」
うん、と短く返事をし、目を瞑る。鶴丸に抱きしめられた感触がした。
✽✽✽✽✽✽
目を開けると、そこは椿が咲く庭園だった。
「ここが俺の神域だ。きみに案内してやりたいが、時間がない。機会があったら、だな」
鶴丸は私の手を引き、庭園を進む。私はそれに従い歩く。遠くの方に母屋らしきものが見えた。彼は私の歩幅を考えて、こちらに合わせて歩いてくれていた。この刀剣のそういう小さな優しさが私は好きだった。
やっと鶴丸の足が止まったそこにあったのは、鳥居だった。
「ここから行くんだ。普通なら互いの了承ありきで漸く行き来できるんだが、まあ今回は無理矢理行くからな。何があるか分からない。俺から離れるなよ」
ぎゅ、と掴む手に力を入れた。それを肯定と受け取った鶴丸は、「それじゃあ行くぞ」と鳥居に手を翳した。
目が眩むほどの光りがあふれ出して、私は咄嗟に目を瞑る。
「そのまま目を瞑っていた方がいい。あちらの門をこじ開けたら、合図する」
どのくらいそうしていただろうか。すごく短かった気もするし、長かった気もする。
「もういいぞ」
その合図と共に、私は目を開けた。ただただ暗い空間。目の前に、ぼんやりと光る鳥居が見える。
「あそこだ。さあ、行くぞ」
意を決し、鳥居を潜る。
「え」
鳥居を越えたそこは、見慣れた彼女の本丸だった。何回も遊びに行ったし、間違えるはずがない。
桜が美しく咲いている。春の景趣だ。
その桜を見ながら、縁側に座っているのは、ああ、大好きなあの子と、憎い刀剣と、それから、私。
「わたし?」
それは『私』だった。
彼女と楽しそうに話している人型のそれは、私が毎朝洗面所の鏡で対面するものと同じ。
彼女は三人で幸せそうに会話をしていた。きゃらきゃらと笑い声が聞こえてくる。
「そんな」
私は後先考えずに、彼女のもとへまっすぐ進んだ。鶴丸は何も言わずについてくる。無論、抜刀の準備はしているようだ。
憎い刀剣は私には気付いたようだった。それでも表情を崩さずに、翡翠色の目だけをこちらに向けて笑っている。これではまるで、彼が私の来訪を予期していたようで、そして私に勝ち目がないような。そんな考えが頭を過ぎってしまうではないか。勝つのは私だ。私なんだ。
「ねえ」
半ば叫ぶように声をかけると、あっ、という表情で彼女はこちらをみた。
そしてへらりと笑ったのだ。
「えへへ、もしかして、本物?すごいや。すごいね。ねえ、ナマエちゃん、この子見て。私のナマエちゃんだよ。作ってもらったの。ここの暮らしは悪くないんだけど、やっぱり私あなたがいないと寂しくってね」
でも、今は幸せなんだ、と笑う彼女。
「なんで、そんな、嘘だ」
私はきっと、彼女に謝罪を、それから感謝をして欲しかったのだ。
『助けてくれてありがとう。食事の予定、絶対埋め合わせせるからね!』
そう言って、また平穏な日常に戻ってきてほしかったのだ。私の日常に。
「ええ、どうしたの、何が悲しいの?」
「だって、ずっと友達だって……」
「ああうん。言ったね。言ったよそんなこと。でも、ずっとっていつまで?死ぬまで?死ぬのはいつ?二人で一緒に死ねるの?無理でしょ?だからわたしはお願いしたんだ。眷属になるから、ナマエちゃんを作ってくださいって」
ここは私の箱庭なの。そう言って顔を綻ばせる彼女は、嗚呼、もう既に狂ってしまっていた。
「そんなの偽物のだよ。本物はここにいるんだよ。ねえ、帰ろうよ」
声が震える。このまま彼女を連れ戻さなければ、私は、ああ。
「偽物?ううん、そんなの関係ないんだよ。私はあなたなら何だっていいの。私が本物だと思えば、本物でしょう」
希望が打ち砕かれる音がした。
ねえ、と彼女に問いかけられた偽物の『私』は、笑顔でそれを肯定する。私はこんな顔で笑うのだったか。彼女にはこう見えていたのか。これは彼女が理想とした私なのだろうか。それじゃあ、ここにいる私は一体何?あれは、いったい誰?私って、どこにあるの。
狂っている。この空間は狂っている。
先程から面白そうな顔をしてこちらを見ている憎い刀剣も、偽物の私も、大好きだった彼女も、この本丸も。何もかもが狂っているのだ。ここは、逆さにまわる時計。西から昇る太陽。自ら輝く月。そんなおかしなものだった。ありえるはずがないものだった。
「帰ろう、鶴丸」
ああ、と応える鶴丸を見ずに、私は踵を返した。入ってきた鳥居の前に立つ。
「それじゃ、ちゃんと捕まっててくれよ」
彼女がどんな顔をしているかなんて、見ていなくても想像がつく。きっと今だって幸せそうに笑っているに違いない。
ああ、悔しい。苦しい。憎たらしい。彼女を奪った刀剣も、偽物の私も、私を選ばなかった彼女も、鶴丸との賭けに負けた私も。
悔しさに唇を噛み締めている間に、移動は終わったようだった。椿の庭園で、私は鶴丸と向かい合う。
「さて、選んでもいいんだぜ。俺の神域で過ごすか、太刀一本飲むか」
半ば冗談のように半笑いで問う鶴丸。最初から答えは一つだと分かっていて、それでも私の口から言わせようとする。
もしかすると、こいつも狂っていたのか。私の大切なものは全て歪んでいたのか。いったい、いつから。
「痛いのは辛いだろうから、神域に来ることをオススメするぜ。なあきみ、そうしたら、俺と番になろう。楽しい日々を送ろう。未来永劫だ」
こいつは私が賭けに負けることを予期していたのだろうか。私はこの神様の掌の上で踊らされていたのだろうか。なんて、滑稽なんだろう。
もうどうにでもなってしまえ。私は涙を流したまま、鶴丸の手を取った。
いっそ私も狂ってしまいたい。そうしたら、この胸の痛みはなくなるだろうか。いいや、もう狂っているのかもしれない。始まりはきっと、彼女と出会ったその時、そして鶴丸を鍛刀したその日にあったに違いない。
私の彼女への執着も、鶴丸への信頼も、どこまでが普通なのか分からなくなっていた。だから私は彼女を神域まで追いかけたし、鶴丸に真名だって渡したのだ。
「きみが望むなら、この庭に向日葵を植えようか。丁度、本丸にあったようなのを」
向日葵。そうだ、彼女が私にくれた、大切な花。私の思い出。それをここに植えるのか。既に椿が植えてあるから、向日葵は酷く不釣り合いだろうなぁ。
「いらない」
口から出たのは、否定の言葉だった。どうしてかは、自分でもよく分からない。
彼女に捨てられたような気がしたからかもしれない。傷つけられたからかもしれない。だから、彼女の痕跡を残しておきたくなかったのだろうか。きっとそうだろう。
鶴丸は「そうか」とだけ言うと、私の肩を抱いた。
「きみの好きなもの、好きなこと。何だって与えよう。ここでは俺が神様だからな。大丈夫。きっと楽しいさ。毎日が驚きで溢れるような、そんな暮らしにしよう」
そして神域での暮らしが始まった。
そこまで現世での暮らしと差異はなく、違うことと言えば、隣に鶴丸しかいないことだった。
鶴丸は毎日私を驚かせた。彼の口癖は「時間は無限にあるんだ。驚きに満ち溢れた日々にしよう」だった。彼がどのタイミングでそれを言うのか、私はだんだんわかるようになっていった。
そして、数カ月がたったある日。
「おお、これは驚きだ。やっと変わったのか。もしかしたらずっと変わらないんじゃないかと不安だったんだ。いやぁ良かったよかった。ここに馴染んだ証拠だな」
鏡で見た私の瞳は、鶴丸と同じ金色に染まっていた。まるで夜に浮かぶ月のような、闇を照らす金色がそこにあった。
「きみの黒い髪に、その金色だと、月夜のようで風情があるな。きみを肴に晩酌したい程だ。本当だとも。いやしかし、同じ金でも、きみに収まるとこんなにも美しいのか。驚きだな」
鶴丸はそれはそれは嬉しそうに私の瞳を覗き込む。私も私で鶴丸の金色を見つめる。この金と同じ色が、私の眼孔に収まっているのか。
あの子の瞳も、誰かの色に染まってしまったのだろうか。確か、そう、あれの眼は翡翠色だったから、彼女も翡翠の目になったのだろうか。
その誰かが思い出せない程度には、私はここでの暮らしにどっぷり浸かっていた。もはや鶴丸無しで私の生活は成り立たない。
「なあきみ。きみの一等大切なものは何だ?」
そう聞かれて、以前は何と答えたのだったか。
確か、「あの子」と答えたような気がする。が、今は違う。そんなこと、鶴丸は分かっているはずなのに。こうして聞くのは、愛情の確認のためだろうか。意外と女々しいところもあるものだ。
「鶴丸だよ」
逡巡の後、そう答えた。
「そうか、そうか」
鶴丸は満足げに笑うと、悪戯を思いついたときの顔をした。この顔をしたときの彼は、何をするにしても、ろくなことがない。
「それじゃあ、俺以外の記憶を消してしまってもいいかい?」
にんまり。文字にするならそれがピッタリだろう笑顔で、そう聞かれた。
私は一瞬迷った。大切な記憶はたくさんある。鶴丸と天秤に掛けたときにどうなるかなんて、きっと、失った後でしか分からない。本当に大切なものは、失くして初めて気づくのだ。
「分からない」
正直にそう答えれば「そうかぁ」とやけに落ち着いた声が帰ってくる。
「それじゃあ、この問にきみが頷く日が来るまで、気長に待とう。そうさ。時間は無限にあるんだ」
そのセリフを聞いて、私は息を吸い込んだ。
そして、それから。
「「驚きに満ち溢れた日々にしよう」」
そう声が重なった。
狐につままれたような顔の鶴丸と、したり顔の私は、しばらくして声をあげて笑ったのだった。
私が彼の問に頷くようになるまで、そう時間はかからない。
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