ちいろの海

【3:赤い波涛】



 頭と背にかなりの重さの衝撃を受け、沈みかけた意識は浮上した。

「しっかりしやがれっ」

 意識を飛ばしかけたカカシを、アスマは容赦なくはたいてくれる。
 多少くらむが、カカシはみっともなく昏倒せずにすんだ。

「あんがと……」

 ぐらぐらする頭を振って立ち上がり、辺りを見渡す。

 アスマ以外は、何故カカシが急に倒れたのか分かっていないようだ。
 不思議そうに、戦闘前に醜態をさらしかけた名高い上忍の様子を伺っている。

「いいか、前に出んじゃねえぞ……」

 カカシにだけ聞こえるよう声を落として言い、アスマは部下全体へ気を配れる位置へ戻る。

「コイツみてーになりたくなきゃ、前に出すぎんじゃねえぞっ」

 普段あり得ない命令に、訝しげに見返す部下たちへにらみを効かせた。
 
「敵が出ても構うな。下がりまくれっ」

 しかし返事は───納得した声はない。

「……くるぞ」

 アスマは、そしてカカシも、巡らせた視線を最後に海へ向ける。

 夜明けの近い、いやに白々しい空と暗い冥い海は、凪いでいた。
 外海に面し、水の国の島々を通る複雑な海流のせいで荒れることで有名な海域であるのに。

 鏡のように漣一つ立ってはいない。
 美しい光景だ。
 この景色の中で何が行なわれようとしているのか知らなければ。

 そんな海から奇声を発し、霧隠れの忍が飛び出してきた。

「構うなっ!」

 アスマはそう指示を出し、自らクナイを放つ。
 たかがクナイ1本と、チャクラを練って避けようとしたその忍は額から血を噴出した。

「飛び出してきやがったら、手裏剣でもなんでも投げてやれ」

 木ノ葉の忍は、痙攣する霧の忍を見つめる。
 だが何が起こったのか、分からなかった。
 アスマの声は、聞こえていないかもしれない。

「掠りさえすりゃ───チャクラ練りゃ、こうなっちまうからよ……」

 だから、こうなりたくなきゃな。

「……オメエらは、海に近付くんじゃねえぞっ」
 
 再び忠告し、アスマはカカシに視線を移す。

 他の者はともかく、カカシには───チャクラの流れを見取ることもできる写輪眼ならば、今何が起こったか分かったはずだ。

 だが見えたからと言って、すぐに飲み込めるものでもない。
 カカシも他の者と同様に呆然と、ゆっくりと死んでいく霧隠れの者を見ていた。

「ボケッとしてっと、引きずりこまれっぞっ!」

 また1人、海から這い上がって来ている。

 木ノ葉の忍に囲まれていると気付く暇もなく、不快な破裂音を上げて落ちていった。
 崖の下からは波の砕ける音に混じり、何か重いものが落ちていく音が聞こえる。
 多分、海から上がりきらずに力尽きた霧隠れの者だろう。

 次第に明るくなり、周囲の色が蘇っている。
 だが反対に、木ノ葉隠れの者の間には暗澹たる空気が淀んでいるようだった。
 遠く海の面に赤黒い花が開いては、波に洗われ消えていく。

「……あんなに、潜んでたのか……」

 誰かの呟きに水面に咲いた花の正体に、目の前で起こった出来事に、みな言葉をなくしていた。

 恐怖で。

 恐れるなというほうが無理だ。
 その者が本当に味方なのか、分からなくなっていく。

 これを成した者はこの場にいない。

 ふいに、カカシは数刻前のアスマの言葉を思い出していた。

───アイツは忍の天敵だ

 急速に重みと現実感を増していく言葉だ。

 天敵。

 まさに、文字通りの能力だ。

 カカシには分かる。
 海が、チャクラに覆われていた。
 中心にいるのは、イルカ。

 敵は彼のテリトリーに侵入した途端、体内のチャクラが暴走して死んでいく。

 額が破裂するのが、その証拠だ。

 忍を目指す子供たちは自身の額に意識を集中することから始め、チャクラの練り方を覚える。
 その癖は呼吸をするようにチャクラを練る上忍になっても抜けず、多くの者が額へ意識を集中する。
 そうでない場合は丹田───つまりは臍の下や、心臓の辺り。
 そこは急所でもある。
 傷つけば命に関わる。

 つまり忍は、決してイルカに勝てない。

 チャクラを練れば死ぬが、練らなければ敵わない。
 あの強力な反チャクラ地帯とも言える領域で、ただ1人、忍でいられるイルカ。

 誰も、敵わない。

 その時、空気の重さが変わった気がした。

 夜明けが訪れている事に気付く。
 
 空の一画を溶かすように昇る朝日を背景に、黒々とした軍船の影が沈んでいく。

「……終わった、みてぇだな……」

「……そー、みたいね」

 アスマとカカシの背後で、部下たちが糸が切れた人形のようにへたり込んでいく。
 何の被害も損傷もない戦いだったが、精神の疲弊は酷かった。

 嫌な疲れ方───酷い勝ち方だ。

 こんな戦い方を続けていたら、前線にいる忍は壊れていく。
 いや、こんな勝ち方を知ってしまった上層部が暴走するのが先か。

「アスマ」

 小さく、カカシは同僚を呼んだ。

 自身とイルカを知る、最も上層部へ意見を通しやすい者の名を。

「わーってるよ」

 いつの間に火をつけたものか、薄く紫煙を吐き出しながら呟きが返る。

「里に帰ったら、5代目かご意見番にでも言っとくわ……」

「うん。あんがと」

 素直に気持ちを口に出すと、彼は言葉を吐き出しつづけた。

「よせ、気味悪ぃ」

 と、半ば本気で制してから。

「里の為だろーが……」

 オメエの、ましてやアイツの為でもねえ、と。



   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 へたり込んでいる部下を急きたて、撤収準備として集落へ戻した。

 すっかり夜の明けた海岸に立つのは、カカシとアスマだけである。

 流石に、あの惨状のままにしておくこともできず、這い上がって力尽きた霧隠れの忍を海へ戻した。
 岩場に残った血溜まりは水遁で洗い流す。
 そういった処理を終えて崖っぷちに立つと───感傷というものではないが、やりきれない思いが湧きあがってくる。

 岩場には何体もの躯が打ちあがっていた。
 海の色は平素と変わらず、青暗い。
 完全に事切れた体からはもう血が流れることはなかった。
 例え全ての人の血を注いだとしても、海の色が変わることはない。
 それほどに海は広く、深い。

 今、目の前に広がるこの海が、全てを飲み込む魔物のようにカカシには思えた。

 人の愚かな業さえも全て受け止めてくれる慈母のようだと思ったこともあったというのに。

「……そういや、イルカ先生は?」

 何気なく、その行方を訊ねていた。

 無性に、彼の顔が見たい。

「さぁなぁ」

 吸いきったタバコを崖下へ落とし、新しいタバコを取り出しながらの返事。

「こんまま、行っちまうかもしんねぇし……」

「そんなっ……ワケ、ないデショ」

 自身へ確認するかのように、カカシは呟く。

「あの人、装備、置きっぱなしじゃない」

「そうだったか?」

「そーうだーよ」

 互いに視線は遠く──すっかり沈みきってしまった敵船のあったあたりを見つめながら言葉を交わす。

 カカシの脳裏にはイルカの姿が浮かんでいた。

 こんな状況に陥る前、初めて彼を知った頃の屈託のない笑顔が。
 理由は自分でも分からなかったが、あの笑顔に会いたかった。

「イルカ、先生……」

 その呟きに反応したのはアスマ。

 視線を近くへ戻し、海から上がってきたその姿を見つけた。

「なんだよ、わざわざ泳いで来やがったのか」

 軽い口調だが、どこかよそよそしい。

「イルカ先生ー、お疲れ様ーっ」

 そんな風に手を振ろうとしたカカシは、言葉を失う。

 浜辺に現れた、イルカの姿。

 足元にぼたぼたと落ちる滴の溜まりは、離れていても潮臭いだけでない匂いがしている。
 濡れた手で濡れた顔を拭うそばから、海水と赤黒い水が髪から滴り落ちていった。
 
 この海ですら洗い流せぬ、返り血。

 それが、どれだけの数の忍だったか。



 【続く】
‡蛙女屋蛙娘。@iscreamman‡
WRITE:2005/05/06
UP DATE:2005/06/30(PC)
   2009/01/02(mobile)
RE UP DATE:2024/08/07
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