ちいろの海

【10:潮騒の旋律】



 里を出て、イルカの派遣された任地へと急ぐカカシにアスマとイビキが村雨を確保した報がもたらされたのは、火の国特有の巨木が生い茂る森の木々の合間から国境の岩場が見え始めた辺りだった。
 撤退を装い待ち合わせていた国境常駐部隊へ5代目火影からの新たな指令書を渡し、カカシは更に歩を早める。

 今、北部国境にいる木ノ葉隠れの忍はイルカ1人。
 部隊長によれば、既に打ち合わせた作戦の始まっている時刻だ。
 けれど、カカシの《眼》には、いつか見たあのイルカのチャクラは感じられない。

───どういうことだ?

 綱手に現状を訴えたイルカが村雨に反抗し、作戦にない行動をとっているだろうとは想像がつく。

 だが、味方が誰もいない国境での単独行動では、雲隠れの正規部隊ならまだしも、抜け忍にでも遭遇したら戦闘は不可避。
 隠密行動と言うより、まるでついて来いとばかりにイルカは痕跡を残し過ぎている。

───それが、狙い……とも思えないな

 勿論、手練れの襲撃者がどれほど居ようとも相手が忍であれば、イルカには関係ない。

 ただ、綱手に宛てた密告書で自身が村雨にとって要たる兵器であり、同時に彼にとって最大の弱味でもあると告げていた。
 イルカという存在を取り上げ、良いように使えなくさせれば、村雨は何もできなくなる、と。

 その最も簡単な手段。

───まさかっ

 想像もしたくない、恐ろしい可能性から逃れるように、カカシは大きく跳んだ。
 巨木の森を抜ければ、海岸まで岩場が続く。
 起伏が激しく迷路のように積み上がった岩のせいで見通しが利かない上に、多数の抜け忍が潜伏する地域だ。

 慎重に周囲を警戒しつつ、真っ直ぐに海岸を目指して疾駆するカカシは、届かないと分かっているのに心中で彼の名を呼び続ける。

───イルカ先生!

 彼を、うみのイルカという男を戦争の犠牲───それも兵器としてとか、誰かの不始末で、失いたくはなかった。
 それはカカシの個人的な感情でしかなかったが、多くの同意者と協力者もいる。
 彼らの思いを託されて、カカシはこの地にいる。

「……あれはっ!?」

 不意に視界の端で、岬の突端に立ち上がる人影を捉えた。
 と同時に、そちらへと進路を変更する。

 その人影は、自分へ向けて突進してくる忍の姿に動じることなく、荒れた北の海を背に佇んでいた。
 強い風に結い上げた黒髪をなびかせ、一歩後ろに下がれば暗い海へと落ちる崖の際で、困ったような微笑みを浮かべ待ち構えている。

「イルカ、先生っ!」

 教え子達が親しげに彼へ飛びついていく姿そのままに、カカシはイルカに縋りつく。
 自分が少しでも腕を緩めたら、この男はなんの未練も感じさせず、落ちていってしまう恐怖で力がこもった。

「……まさか、アナタが来るなんて、考えもしませんでした」

 迷子の子供を宥める口調で、穏やかにイルカはカカシをたしなめる。

「カカシさん」

 飛び降りるつもりなんてないですから、離してください。

「でなきゃ、2人とも真っ逆さまです」

 それとも心中でもする気ですか。

 と、苦笑混じりに訴えられれば、恐る恐るカカシも縋る手を緩めるしかない。
 確かにこんな崖っぷちで立ち上がっているイルカの膝辺りをカカシが抱え込んでいては、ちょっとしたハプニングで2人とも海へ放り出されてしまう。

「その様子だと、綱手様から聞いていない、みたいですね?」

「……ハイ」

 適度な距離を保って対峙したイルカには動揺も悲嘆もなく、常の受付と変わらぬ口調で、カカシは面食らっていた。
 けれど同時に、明晰な頭脳は綱手にからかわれていたことにも気づく。

「綱手様のことだから、誤解させるような言い方をしたんでしょう?」

「ハア、面目次第もないと言いますか……」

「仕方ないですねえ」

 こんな状況であっても茶目っ気を出す綱手か、それとも良いように遊ばれてしまったカカシか、どちらに向けたか分からない曖昧な呆れ顔を一瞬見せたイルカ。

「まあ、アナタの役割は簡単です」

 表情を引き締めると、自身の額当てを差し出した。

「この額当てを里に持ち帰り、綱手様にオレが《戦時行方不明》となったと報告してくれるだけで……」
 
 失敗した作戦の検討を名目に村雨キョウを取り調べ、後は綱手と尋問部が手筈通りに彼の罪を明らかにする。
 村雨を拘禁する理由ができるまでの間、イルカはこの地で抜け忍狩りとサバイバル演習をしながら待つだけだ。

 あっけらかんと語られたイルカの企みに拍子抜けしながらも、繰り上げられた予定をカカシも告げる。

「えと、既に村雨は身柄を拘束されて、イビキの尋問を受けてるみたいですケド?」

「でしたら、アナタの救援でオレは無事に帰還する、という筋書きに変更ですね」

 そう言ってにかりと普段通りの顔で笑うイルカに、名状しがたい感覚を覚えてカカシは押し黙った。



   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 当初の予定をさして詰めることもなく、北部国境を木ノ葉隠れと雲隠れの警備部隊で完全封鎖したことを確認し、カカシとイルカは連れ立って帰還の途につく。
 里の大門を潜ったその足で、真っ先に火影の執務室へと向かった。

 綱手の労いも遮って、イルカはこの件の決着を願い出る。

「村雨キョウと、話しができませんか?」

「構わんが……恨み節でもぶつけるつもりか?」
 
「そんな無益なことはするつもりもありません。ただ、そろそろあの人にも、現実を知って貰わなければならないかと」

 自分が彼を断罪する。

 言外にそう告げたイルカに、綱手は自らも立ち会う事で、2人の接見を許可した。

 その場には尋問部を統括するイビキは当然として、カカシやアスマも姿を隠して隣室から見守る中、接見室にイルカが入ってくる。
 既に待機させられていた村雨キョウは、拘束された身体を目一杯寄せて恨みがましく喚き立てた。

「……お前っ、お前のせいでっ!!」

「いいえ。アナタの自業自得ですよ」

 村雨の罵倒をイルカは丁寧な語句で装飾し、数倍の威力を乗せて冷徹に返す。

「あの九尾襲来の時、なんの訓練もしていないオレを前線に引きずりだしたアナタの父親が里を思う気持ちを否定するつもりはありません。けれど、作戦部に所属する者としては確実性のない浅慮であったし、なにより独断専行です」

「なんだとっ!? 父さんは里を……」

「けれど、アナタがしたことは……里を裏切る行為なんですよ」

 尊敬してきた父親の英断を容赦なく切り捨てられ、更に正当性を訴えようとした村雨に反論さえも許さず、イルカは鋭い断罪の言葉を叩きつける。

「里がオレの能力を秘匿していたのは、戦略的かつ政治的な意義があります。一介の特別上忍が私怨で好き勝手に運用して良いものではないでしょう。ましてや上層部に報告もなく秘密裏に行っていたのなら、他国に通じて情報を漏洩させていたと疑われても文句はいえませんよ?」

「だがっ、私はっ!」

「確かに、個別の戦局での勝利はしていました。ですが、アナタは戦後処理を疎かにし過ぎた」

「……なんの、ことだ?」

 今も全く思い至らないといった様子からも見て取れるが、村雨は終息した戦場には見向きもしてこなかった。
 それが他国へどのような心象を与え、戦後交渉でどのような配慮をすべきなのかすら。

「戦闘が終わっても、外交は続くんです。アナタはそれを理解していない。圧倒的な戦力さえ見せつければ、何もかも有利に働くなんて短絡的な考えで行動するのは、夢物語に憧れる子供と変わらない」

 強すぎる力は抑止力にもなるけれど、同時に使い所を間違えば周辺国に反発を生み出し、疑念も抱かせる。
 だからこそ、そんな力を持ってしまった国はより配慮ある言動を心掛けなければならないのに、肝心の情報が上層部に伝わっていなければそれもできない。
 これでは外交は掛け違い、周囲は不信感を募らせるかとになる。

「この里が向かう先を決めるのは、アナタでもオレでもない。この里、この国に住まう全ての人々だ」

 だから、イルカは行動した。

「オレは里の意志を仰いだ」

 綱手に村雨親子がうみのイルカの能力を使ってしようとした事、してきた事の全てを報告した。
 そして自身の処断も。
 里が望むなら、このまま兵器として使われようとも、里の脅威として葬られようとも、厭わず受け入れると。

「結果、綱手様はオレを戦地に取り残された1人の忍として保護し、アナタを裏切り者として拘束した」

「ち、がう……これはっ」

 裏切っていない。
 里の為を思って。
 父の遺志を継いで。

 必死に言い募る村雨に私心はない。
 けれど、それだけに質が悪かった。

 静かに、イルカは告げる。

「アナタは自分の父親の影───過去ばかり見ていて、後に続く者がどんな思いをするか考えていないでしょう?」
 
 少なくともアナタの父親は、アナタに遺してくれていたのに。

「アナタは、木ノ葉隠れの忍として最も大事な《火の意志》を蔑ろにしたことで、自分の父親の遺志をも裏切っていたんです」

 心の拠であった父親への背信を突きつけられ、村雨キョウは沈黙するしかなくなった。



   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 結局、カカシやアスマが奔走するまでもなく、イルカは自分で解決すべく手を尽くしていたらしい。
 当事者であるから彼らよりも情報はあるし、調査もさして必要がなかったから、より早く的確だった。

 双方の動きが村雨の確保という場面で重なったから良かったものの、下手をすれば互いの行動が干渉しあって最悪の結果を招いていたかもしれない。
 むしろカカシたちは大袈裟にしただけに終わり、アスマに至っては過去の恥ずかしい自分を晒しただけであった。

 つまり。
 骨折り損の草臥れ儲け。
 まったく、めんどくせえ。

 ふてくされる2人を労ってイルカは自宅に招いてのささやかな酒宴を催した。

 単身者用の手狭な共同住宅の一室で振る舞われる寡暮らしも長い男の手料理とは言え、なんの気兼ねもする必要もないことが最大の持て成しである。
 小さな食卓には料理だけでなく、イルカが3代目から譲られた秘蔵の銘酒と、5代目が臨時手当てとして届けてくれた名酒も並んだ。

 やがて3人それぞれに程よく酔いも回った時分、満たされた杯に向けて独り言のようにぽつりとイルカが呟いた。

「3代目が、言ってたんです」

 オレの能力は、忍の技ではない。
 忍を越えた力だ。
 制御するには、人として心を強く持て。

「利用しようと近寄ってくる者を逆手にとって、首尾良く物事を運ぶくらいに強かであれ、と……」

「……親父らしい」

 アスマは懐かしげに笑う。
 カカシは身の置き所がないといった風情で、俯く。

「してやられました……」

 イルカは利用されているだけで、あのような根回しをして反撃を企てるとは思ってもいなかった。
 それどころか、自ら命を絶つのではといらぬ心配までして、彼を侮るにも程がある。

「……イルカ先生、あの」
 
 申し訳なさに堪えきれず、筋違いの謝罪をしようとしたカカシを制して、イルカは静かに宣言する。

「オレは、死ねません。生きて、償う道を選んだのだから……」

「……償うって、なにを?」

「オレはあの夜、ナルトに全てを背負わせてしまった」

 あの夜のイルカは突然の事に動揺し、能力を使うことすらできなかった。
 それは仕方のない事だし、今更だ。

 けれど、もしも、幼いイルカが能力で九尾を制御できていれば4代目火影───ナルトの両親は命を落とさなかったかもしれないし、新たな人柱力としてナルトの人生を犠牲にすることもなかったかもしれない。
 それに、イルカを養育していた両親や、村雨の父親も死なずに済んだだろう。

 イルカはずっと、あの夜を悔いていた。

「……すいません。こんなこと、お話すべきじゃありませんでしたね」

 笑って終わろうとするイルカに、アスマは聞いていないふりで、カカシは小さく頷いて、促す。

 しばらく戸惑ったものの、ここまで巻き込んでしまっては中途半端も申し訳ないと開き直り、イルカは吐露を続けた。
 
「アカデミーでは罪悪感が先だって、結局はぎこちない接し方しかできなかった。卒業の時にも、本当の事を教えてやれなかった……」

 確かに卒業時の騒動で結果的に2人は心の距離を縮めた。
 しかし真実を知らぬミズキの介在で、ナルトは必要のない申し訳なさを抱いている。

「だから、アイツが帰ってきたら……今度こそ、殴られるの覚悟で、本当のことを言いたいんです、けどね……」

 そう言って、暗い夜の海を思わせる瞳を眇めて笑い、杯をあおって満たしてた酒を一気に飲み干した。

 その傍らで、垣間見てしまったイルカの抱える闇にカカシは暗澹たる気分になる。

 イルカを利用しようとする者をいくら排除しても、誰が手を差し伸べようとも、彼が救われることはない。

 イルカを救えるのは、ナルトの赦しと、イルカ自身の気持ちだけだ。
 ナルトが真実を知れば、葛藤はしても最終的にはイルカを許すだろうし、彼を拒絶する事などない。
 だが、きっとイルカが自身を許すことはないだろう。

 それでも、なんの慰めにもならないと知っていても、カカシは言わずにはいられなかった。

「……イルカ先生は、頑張ってると思います、ヨ」
 
 薄っぺらい言葉しか出てこない自分に、カカシは自己嫌悪を抱く。
 けれど、こんな言葉にも嬉しそうに頷き返すイルカの顔を見れば、これでも良かったのだと思う。

 底の知れない、深く暗い海を満たすにはまだ足りないけれど。



 【了】
‡蛙女屋蛙娘。@iscreamman‡
WRITE:2013/07/26
UP DATE:2013/07/27(mobile)
RE UP DATE:2024/08/07
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