イルカ外伝
【思春期狂想曲〜参】
~ Adolescence Rhapsody ~
[nartic boy』7,610hits]
薄暗い通路には幾つもの結界がある。
指定の場所で正確に印を切り、隠された鍵を開け、手順どおりに仕掛けを解かねば先へは進めないのだ。
侵入者を想定しているものだからなんの目印もない。
教えられるとはいえ、不定期に変更されるそれらを全て把握できる下忍はそういないだろう。
今日も迷いなく通路を進み、イルカは最後の扉へたどり着く。
「イルカです」
そう告げ、戸に向かって符丁印を組んだ。
ゆっくりと重い戸が開く。
開ききるのを待たずにイルカは戸の隙間に身を滑り込ませる。
下忍が入ってきたのを確認した男は、閉めながらご苦労なことだなと呟いた。
忌々しげな響きの呟きに応えず、イルカは小上がりの戸を引く。
途端に、弱々しい子供の声があがった。
「ぁ~」
誰かを招くように、差し伸べられた細い腕。
必死に生きようとしている───多分、限りなく本能に近いだろうが、意思に満ちた小さな手。
這い寄ろうとするその子を抱き上げ、イルカは呟く。
「久しぶり」
そう声を掛けたが、昨日も世話をした。
低い体温と、排泄物の匂いに顔をしかめる。
かさついた肌の下には折れそうな骨しかない。
赤ん坊はもっと福々しくて柔らかく、暖かくて甘い香りがするものだ。
この子供は、誰にも構われることがない。
イルカもこの子の名を知らなかった。
教えられないのか、それとも名前すらないのかさえ分からない。
「よく、生きてたな。オマエ」
「ぅ~」
苦しげに微笑むイルカに縋りつく軽い体。
子供の自分でも片手で支えられることが驚きだった。
それでも、最初に引き合わされた頃よりはマシかもしれない。
「さ、風呂いれてやろうな」
入口との境になっている戸を立て、イルカは奥へ上がりこむ。
しがみついて離れない子供は、負い紐で固定した。
土間に作りつけの井戸からポンプを押して水を汲む。
自分の手を洗って大きな鍋に沸かした湯を、たらいの半ばまで張った。
部屋の隅に置かれた行李から手ぬぐいと新しい下着を出してきて、土間の側に広げた。
洗濯をする者がいないから、下着だけは常に新品を着せられる。
本当は何度も洗濯をして、こなれた物がいいのだけれど。
救いなのは、この子の肌が丈夫でかぶれたりしがないということ。
───……いや、そうじゃないか……
既にイルカも気付いている。
この子が何者なのか。
「おっと……」
たらいの湯に水を足し、温度を確かめるように混ぜる。
温めで、子供にはちょうどいいはずだ。
「さー、風呂入ろうな」
「やぅー」
背から下ろそうとすると嫌がる子をなだめ、昨日イルカが着せたままの服をはぐ。
腹の辺りに踏みつけられたような靴跡がついていたが、体に跡はなかった。
この子の世話を任されるようになる時にイルカも聞かされているし、実際に知っている。
この子が負った傷は一晩で消えてしまう。
傷が残らないから、この子への暴力はなかったことになる。
それが何を意味しているのか、分からない年ではない。
だが、縋ってくる手を払うことはできなかった。
「だってなー、オマエ……」
湯の中に座らせ、手ぬぐいで汚れを洗い落としてやりながらイルカは微笑む。
「イ~」
屈託なく笑い、そんな風に自分を呼ぶ、名前も知らない子供。
それが、とても愛しい。
* * * * *
夕食を与え、寝付いたのを見計らってイルカはその子の側を離れた。
夜中も一緒にいてやりたい気持ちはあるが、場所が場所だけに長居はできない。
なにしろ出入りができるのは火影の執務室からだけだ。
いつまでもここにいては、いらぬ勘繰りを受けることにもなる。
イルカにしてやれることは、少ない。
イルカ自身も鍛え、成長していかねばならない時期にある。
隠し通路から執務室へ戻ると、3代目が労う言葉をかけてくる。
「おお、ご苦労じゃったなイルカ」
どうじゃ、元気にしておったか。
実の孫の様子でも尋ねるような3代目の声に、イルカは思わず顔をそむけた。
「どうした」
「元気です。でも……」
あの子供には足りないものが多すぎる。
なにもないと言ってしまえば、済むほどに。
ただ、何か一つがあれば、それで全てが満ち足りるかもしれない。
けれど、イルカには、それをなんと言うのか分からなかった。
いや。
本当は分かるからこそ、口にできないのかもしれない。
イルカだってまだ欲しているものだ。
「……そうか」
全てを察しているような3代目の言葉に、こらえきれずイルカは執務室を飛び出した。
* * * * *
既に夕闇が西の空を支配していた。
イルカは商店街へ足を向け、夕飯をどうしようかと考えを巡らせる。
残っていた食材で何が作れるか、買い足すものはあるか。
八百屋の店先を覗きながら踏み出そうとした足に、小さな子供がぶつかった。
「ゴメンっ! 大丈夫か?」
尻餅をつきそうになる寸前で、腕をとって転ぶことだけは阻止してやれた。
呆然と見返してくるのは、びっくりしすぎて何がおこったのか理解しきれていないからだ。
小さな女の子の目線にしゃがみこんで、イルカは笑ってみせる。
「ごめんな、ぼうっとしてて。怪我しなかったか?」
「……あ、あの……わたしも、その、ごめんなさい……」
人見知りする性質なのか、俯きがちにぼそぼそとその子は喋る。
長く伸ばした前髪のせいで表情の殆どは隠れてしまっていて、彼女本来の可愛らしさが見えなくなっている。
けれど着ている服の新しさと慌てて駆け寄ってくる父親の姿に、この子が両親に愛されているのが分かった。
「服、汚さずにすんでよかったな。すごく似合ってるもんなあ」
ぶつかったことは気にしていないと含ませて、お気に入りらしい服を誉めてやれば、女の子もようやく笑顔をみせる。
「うんっ! ありがとう。お兄ちゃん」
「すいません、ありがとうございます」
ようやく追いついてきた父親は、まだ子供のイルカにさえ頭をさげて礼を述べてくる。
素直で暖かい家庭の伺える、こちらの心がぬくもるような親子だ。
「サクラ、行こうか。本当にありがとうございました」
「ばいば~い」
父親に促され、小さく頭を下げて女の子は帰っていく。
彼らに微笑んで手を振り、イルカも歩き出した。
ただ、胸の内は酷く重い。
あの女の子と、イルカが任務として面倒を見ている子供は多分、同じぐらいの年だ。
いくら女の子のほうが成長が早いとはいえ、差がありすぎる。
あの子はようやく伝い歩きができるようになった。
まだ片言だが、それでも一生懸命に話しかけてくるようになった。
───初めて会った頃に比べたら、随分マシになった……
なのに、同じ年頃の子と見比べると、見劣りする。
まるで自分自身への評価と、イルカには思えてくる。
自分を追い越してゆく騒がしい少年たちは、今年の下忍ルーキーだ。
他の班員より小柄な少年には、見覚えがある。
歩みを止めて見送る背中が立ち止まり、ゆっくりと路地へ視線を移す。
母親に手を引かれた、よく似た男の子が駆け寄っていった。
「にーちゃんっ」
「サスケ? 迎えにきてくれたのか?」
弾むように走り寄ってくる小さな弟を受け止めて、天才の誉れ高い少年は微笑む。
年上の仲間へ軽く手を上げて別れると、当然のように母親の持っていた荷を代わった。
空いた手で弟の手を引き、家族は一番小さな男の子の歩幅にあわせてゆっくりと家路を辿る。
イルカはとっさに胸を押さえた。
音を立てて、胸のうちに居たたまれなさが湧き上がる。
吐き出してしまいそうだ。
逃げ出したい。
そう思った瞬間にはもう、足が動いていた。
向かう先は考えていない。
ただ足が動くまま、駆けていく。
同じ通りを、任務から帰還した年若い忍者たちがすれ違う。
俯いて駆けてゆくイルカは、銀色の髪をした少年が自分をちらりと睨んで姿を消したことに気付かなかった。
【続く】
‡蛙女屋蛙娘。@iscreamman‡
WRITE:2005/07/08
UP DATE:2005/07/18(PC)
2009/01/03(mobile)
RE UP DATE:2024/07/29
~ Adolescence Rhapsody ~
[nartic boy』7,610hits]
薄暗い通路には幾つもの結界がある。
指定の場所で正確に印を切り、隠された鍵を開け、手順どおりに仕掛けを解かねば先へは進めないのだ。
侵入者を想定しているものだからなんの目印もない。
教えられるとはいえ、不定期に変更されるそれらを全て把握できる下忍はそういないだろう。
今日も迷いなく通路を進み、イルカは最後の扉へたどり着く。
「イルカです」
そう告げ、戸に向かって符丁印を組んだ。
ゆっくりと重い戸が開く。
開ききるのを待たずにイルカは戸の隙間に身を滑り込ませる。
下忍が入ってきたのを確認した男は、閉めながらご苦労なことだなと呟いた。
忌々しげな響きの呟きに応えず、イルカは小上がりの戸を引く。
途端に、弱々しい子供の声があがった。
「ぁ~」
誰かを招くように、差し伸べられた細い腕。
必死に生きようとしている───多分、限りなく本能に近いだろうが、意思に満ちた小さな手。
這い寄ろうとするその子を抱き上げ、イルカは呟く。
「久しぶり」
そう声を掛けたが、昨日も世話をした。
低い体温と、排泄物の匂いに顔をしかめる。
かさついた肌の下には折れそうな骨しかない。
赤ん坊はもっと福々しくて柔らかく、暖かくて甘い香りがするものだ。
この子供は、誰にも構われることがない。
イルカもこの子の名を知らなかった。
教えられないのか、それとも名前すらないのかさえ分からない。
「よく、生きてたな。オマエ」
「ぅ~」
苦しげに微笑むイルカに縋りつく軽い体。
子供の自分でも片手で支えられることが驚きだった。
それでも、最初に引き合わされた頃よりはマシかもしれない。
「さ、風呂いれてやろうな」
入口との境になっている戸を立て、イルカは奥へ上がりこむ。
しがみついて離れない子供は、負い紐で固定した。
土間に作りつけの井戸からポンプを押して水を汲む。
自分の手を洗って大きな鍋に沸かした湯を、たらいの半ばまで張った。
部屋の隅に置かれた行李から手ぬぐいと新しい下着を出してきて、土間の側に広げた。
洗濯をする者がいないから、下着だけは常に新品を着せられる。
本当は何度も洗濯をして、こなれた物がいいのだけれど。
救いなのは、この子の肌が丈夫でかぶれたりしがないということ。
───……いや、そうじゃないか……
既にイルカも気付いている。
この子が何者なのか。
「おっと……」
たらいの湯に水を足し、温度を確かめるように混ぜる。
温めで、子供にはちょうどいいはずだ。
「さー、風呂入ろうな」
「やぅー」
背から下ろそうとすると嫌がる子をなだめ、昨日イルカが着せたままの服をはぐ。
腹の辺りに踏みつけられたような靴跡がついていたが、体に跡はなかった。
この子の世話を任されるようになる時にイルカも聞かされているし、実際に知っている。
この子が負った傷は一晩で消えてしまう。
傷が残らないから、この子への暴力はなかったことになる。
それが何を意味しているのか、分からない年ではない。
だが、縋ってくる手を払うことはできなかった。
「だってなー、オマエ……」
湯の中に座らせ、手ぬぐいで汚れを洗い落としてやりながらイルカは微笑む。
「イ~」
屈託なく笑い、そんな風に自分を呼ぶ、名前も知らない子供。
それが、とても愛しい。
* * * * *
夕食を与え、寝付いたのを見計らってイルカはその子の側を離れた。
夜中も一緒にいてやりたい気持ちはあるが、場所が場所だけに長居はできない。
なにしろ出入りができるのは火影の執務室からだけだ。
いつまでもここにいては、いらぬ勘繰りを受けることにもなる。
イルカにしてやれることは、少ない。
イルカ自身も鍛え、成長していかねばならない時期にある。
隠し通路から執務室へ戻ると、3代目が労う言葉をかけてくる。
「おお、ご苦労じゃったなイルカ」
どうじゃ、元気にしておったか。
実の孫の様子でも尋ねるような3代目の声に、イルカは思わず顔をそむけた。
「どうした」
「元気です。でも……」
あの子供には足りないものが多すぎる。
なにもないと言ってしまえば、済むほどに。
ただ、何か一つがあれば、それで全てが満ち足りるかもしれない。
けれど、イルカには、それをなんと言うのか分からなかった。
いや。
本当は分かるからこそ、口にできないのかもしれない。
イルカだってまだ欲しているものだ。
「……そうか」
全てを察しているような3代目の言葉に、こらえきれずイルカは執務室を飛び出した。
* * * * *
既に夕闇が西の空を支配していた。
イルカは商店街へ足を向け、夕飯をどうしようかと考えを巡らせる。
残っていた食材で何が作れるか、買い足すものはあるか。
八百屋の店先を覗きながら踏み出そうとした足に、小さな子供がぶつかった。
「ゴメンっ! 大丈夫か?」
尻餅をつきそうになる寸前で、腕をとって転ぶことだけは阻止してやれた。
呆然と見返してくるのは、びっくりしすぎて何がおこったのか理解しきれていないからだ。
小さな女の子の目線にしゃがみこんで、イルカは笑ってみせる。
「ごめんな、ぼうっとしてて。怪我しなかったか?」
「……あ、あの……わたしも、その、ごめんなさい……」
人見知りする性質なのか、俯きがちにぼそぼそとその子は喋る。
長く伸ばした前髪のせいで表情の殆どは隠れてしまっていて、彼女本来の可愛らしさが見えなくなっている。
けれど着ている服の新しさと慌てて駆け寄ってくる父親の姿に、この子が両親に愛されているのが分かった。
「服、汚さずにすんでよかったな。すごく似合ってるもんなあ」
ぶつかったことは気にしていないと含ませて、お気に入りらしい服を誉めてやれば、女の子もようやく笑顔をみせる。
「うんっ! ありがとう。お兄ちゃん」
「すいません、ありがとうございます」
ようやく追いついてきた父親は、まだ子供のイルカにさえ頭をさげて礼を述べてくる。
素直で暖かい家庭の伺える、こちらの心がぬくもるような親子だ。
「サクラ、行こうか。本当にありがとうございました」
「ばいば~い」
父親に促され、小さく頭を下げて女の子は帰っていく。
彼らに微笑んで手を振り、イルカも歩き出した。
ただ、胸の内は酷く重い。
あの女の子と、イルカが任務として面倒を見ている子供は多分、同じぐらいの年だ。
いくら女の子のほうが成長が早いとはいえ、差がありすぎる。
あの子はようやく伝い歩きができるようになった。
まだ片言だが、それでも一生懸命に話しかけてくるようになった。
───初めて会った頃に比べたら、随分マシになった……
なのに、同じ年頃の子と見比べると、見劣りする。
まるで自分自身への評価と、イルカには思えてくる。
自分を追い越してゆく騒がしい少年たちは、今年の下忍ルーキーだ。
他の班員より小柄な少年には、見覚えがある。
歩みを止めて見送る背中が立ち止まり、ゆっくりと路地へ視線を移す。
母親に手を引かれた、よく似た男の子が駆け寄っていった。
「にーちゃんっ」
「サスケ? 迎えにきてくれたのか?」
弾むように走り寄ってくる小さな弟を受け止めて、天才の誉れ高い少年は微笑む。
年上の仲間へ軽く手を上げて別れると、当然のように母親の持っていた荷を代わった。
空いた手で弟の手を引き、家族は一番小さな男の子の歩幅にあわせてゆっくりと家路を辿る。
イルカはとっさに胸を押さえた。
音を立てて、胸のうちに居たたまれなさが湧き上がる。
吐き出してしまいそうだ。
逃げ出したい。
そう思った瞬間にはもう、足が動いていた。
向かう先は考えていない。
ただ足が動くまま、駆けていく。
同じ通りを、任務から帰還した年若い忍者たちがすれ違う。
俯いて駆けてゆくイルカは、銀色の髪をした少年が自分をちらりと睨んで姿を消したことに気付かなかった。
【続く】
‡蛙女屋蛙娘。@iscreamman‡
WRITE:2005/07/08
UP DATE:2005/07/18(PC)
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RE UP DATE:2024/07/29