幸福の王子
【幸福の王子】
[いちる 2nd Anniversary]
子供たちとの任務を終えたはたけカカシが、報告書の提出に受付所へ入ったのはもう、とっぷりと日も暮れた頃だった。
いつもなら───カカシが遅刻をしまくっても、ここまで遅くなることは滅多にない。
ただ時たま今日のように、失せ物探しの任務では運悪く時間がかかることもあるのだ。
カカシが、まだ子供でしかない部下たちを遅くまで働かせぬよう気を配っていても。
───ま、今のうちだけ……だけどネ
カカシは1人、子供たちが泥だらけになって無事に見つけ出した依頼品と、記入の終わっている報告書を手に受付の扉をあけた。
薄明るい部屋にはくつろぐ数人の忍びと受付に座って書類を整理している2人の忍び。
「あれ?」
ふいにカカシが声を上げてしまったのは、予想していた者の姿がなかったからだ。
真っ直ぐ受付へ進み、手にしていた報告書と探し出した物とを差し出しながら問いかける。
「今日はイルカ先生じゃないの」
「いえ。さっき交代したところです」
名うての上忍にも臆することなく、慣れた様子で年若の忍びが対応する。
「そ」
報告書の内容と探し物は手際よく確認され、判をつかれた書類が次の処理へ渡る。
明日には依頼主に発見の一報が入り、依頼された品物と交換に里へ報酬が支払われるのだ。
「では報告書は受理いたしましたので任務終了となります」
会釈をされ、カカシも軽く目礼で答えて踵を返す。
だが、扉に手をかけ、出て行こうとする耳に声を潜めた会話が飛び込んできた
「おい。良かったのかよ」
「え? 構わないだろ。別に」
「鉢合わせなんかしたら修羅場だぜ」
「大丈夫だろ? そんな風じゃないし」
それは明らかに自分の関わる内容だと思ったカカシはそのまま気にせず出て行った振りをする。
受付から見えぬところまで歩き、気配を消して耳をそばだてた。
「そうかあ?」
「しかし、イルカも大変だよな」
「あそこまでモテるとな」
「まあ、お陰で楽させてもらってる気はするけど」
気の毒な同僚を案じる気持ち半分。
他人の不幸を面白がる気持ち半分。
そんな噂を耳にして、またかとカカシは思う。
とても続きを聞く気になれず、そっと離れた。
───イルカ先生も大変だよねえ……
カカシも最近気づいたのだが、イルカはモテる。
教え子である子供たちはもちろん、保護者や里の上層部。
同僚や受付で顔を合わせる面々など。
老若男女に大人気だ。
きっと(火影を含めても)この里で最も好かれている人かもしれない。
ただ時々、迷惑な好意というものもあるのだ。
特に、恋愛の枠から大きく外れた人々からの熱烈すぎるラブコール。
ゴールすることでなく、シュートすることに意義があるとは言え、やはり枠に飛んでいないボールは危険だ。
あの光景は───いい年をした大の男がもじもじと頬を染めて男に告白をする様は、傍で見ているほうに類が及ぶ。
せめて人目につかないところでやってもらいたい。
大体、うみのイルカという男は本当に印象が『普通』なのだ。
それも『忍びの世界において』ではなく普通の『人間らしい』自然な言動。
いっそ凡庸とか、中庸とか言ってもいいだろう。
それでいて教師は天職のような包容力と指導力。
ここまで聞くと信じがたいが、忍びとしても優秀な部類だという。
そんな男が普通のはずはないのだが、見えるのだから仕方がない。
里中に響き渡る愛情に満ちた怒声に、朗らかな許しの言葉。
例え上忍であっても、正しいと信じていることは決して曲げない頑固さ。
あれが全て擬態だとしたら、相当なものだ。
多分、嘘ではない。
もし演じているなら、あそこまで不器用な生き方にはならないはずだ。
まだ青いだけかもしれない。
周囲が、信じたいだけかもしれない。
ただ一つ言えるのは、うみのイルカが多くの人々を惹きつける魅力的な人物だということだ。
子供たちを撫でたり書類を処理していく手。
鍛えられ、若木のようにしなやかに伸びた肉体。
お日様のようとしか形容できない笑顔や、照れた時に鼻筋を渡る古傷を掻く癖。
イルカの特徴や仕草一つ一つを思えば、カカシにだって玉砕してゆく野郎どもの気持ちも分からなくない。
───って、なに考えてんのよ、オレ!
そこで、上忍待機所への階段を上りかけていた足が止まった。
すぐ側にある受付の建物とアカデミーを繋ぐ通路の外れに人の気配がある。
一方は普通にしているのに、もう一方は人目を避けたいらしい。
けれど動揺でもしているのか、気配を殺しきれていない。
「困ります」
いつもより少し強い、拒絶の声はイルカ。
途端、カカシは階段を一つ跳びにし、手近の踊り場から身を乗り出して声をかけていた。
「イルカ先生?」
思ったとおり、眼下ではイルカと彼の腕を掴んで引き寄せようとしている男の姿。
名は知らないが、5つ6つ年上のあまり出来のよくない上忍だ。
白々しいコトを承知でカカシは言葉を続ける。
「アレ? お邪魔でしたか?」
忌々しげな男の視線を物ともせず、ほっとした声が返った。
「い、いえ」
「じゃ、ちょっとよろしいですかね」
「はい。すみません、失礼します」
ぺこりと慌しく会釈をし、イルカはカカシの元へゆく。
すいと掴まれていた手を外し、追いすがろうとする上忍をかわして。
中忍のイルカが上忍を恐れていなかったばかりか、結局はあしらってしまった。
強がりや過剰な自信ではなく、それだけの確かな実力と経験で。
あの男は気づいていないが、カカシは知ることが出来た。
それがたまらなく、愉快だった。
* * * * *
カカシも階段を下り、イルカと合流する。
置いてきぼりを食らったあの男の情けない顔に思わず漏れた苦笑を隠しもせず。
「イルカ先生も大変だーネ」
「いえ、お見苦しいところをお見せしました」
だが、面白げに語りかけるカカシの態度を誤解したのか、イルカは恐縮してしまう。
「ご不快、ですよね……」
「や、イルカ先生は悪くないデショ」
歩きかけていたカカシは足を止め、慌てて訂正する。
「どっちかってーと、1番被害被ってるし」
「オレはもう、慣れました」
揺ぎ無い声は、返って意図して出しているのが分かってしまう。
「でもなんで、オレなんかって……」
自嘲する明るい声をカカシは思わず遮った。
「分からなくもないんですケドねえ」
「はっ?」
「えっ? いやっ。なんでもないですっ」
ただ、咄嗟に口走った言葉が自分でも信じられず、誤魔化してしまう。
止まっていた足を踏み出し、話の先を無理に促す。
「だけど正直、大変デショ」
「ええ」
「いっそのこと、誰かとおつき合いしちゃったらどうです?」
「ええっ!」
過剰に驚くイルカに一瞬怯みそうになるが、すぐに思い直す。
告白してくる誰かと付き合えと、誤解したのだろう。
「や。あの。別に、ああいうのじゃなくても、いいなーって思うお嬢さんくらい、いるんデショ?」
「……い、いますが……でも」
イルカにも好意を抱く女性がいるということに軽い衝撃を受けた自身に気づかず、カカシは黙って彼の告白を聞いた。
「あの、実は以前、見かねた同僚が許婚がいるって噂を流してくれたことがあるんです」
「へえ」
それで、と続きを促しながら、その同僚の本心が別にあるように思えた。
周囲への牽制とイルカへの点数稼ぎ。
疑いすぎかもしれないが、そういうコトを考えた人間はいるはずだ。
「色々あって収まるどころか、逆に騒ぎが大きくなりまして」
「失敗しちゃったんですね」
「ええ。それに、中にはムチャをする人もいますからねえ」
「ヘタな人間に恋人役はさせられない、と……」
特に、本当に好きな人間ではダメだ。
好きだからこそ、何をされるか分からない状況に巻き込みたくはない。
カカシは指を折り、恋人役に必要とされる条件を挙げてみた。
「まず、今んとこフリーでー」
他に恋人や想い人のいる人間では、カモフラージュだとバレる。
うまくいったとしても、当人の生活を壊すことになりかねない。
「誰もが納得できるような人なら問題ないですよね」
例えば、誰も口出しも手出しもできない実力者だとか。
「って、そんなの火影さまくらいじゃない」
「それはっ」
あんまりな例えに、呆れながらもイルカは吹き出してしまう。
けれど、この指摘は間違いでもなかった。
ハンパな力の持ち主では、数を頼んだ場合、対処しきれなくなる。
里で誰もが認める人物でなければ。
そう、考えが至ったところで、イルカはふと目の前の人を見た。
逆立った髪の先までひょろっとした猫背はぼんやりと歩いているように見えるのに、まったく隙が無い。
千の技を会得し、国内外に名を轟かせる里屈指の忍びの1人。
それでいて奢ったところもなく、妙な人懐っこさや愛嬌も見せる。
常に成年指定の愛読書を携帯して読み耽りもするが、規律には誰よりも厳しいらしい。
子供たちからは遅刻を諌められたりもしているが、教え導く姿は真面目で好感が持てる。
考えてみれば、はたけカカシ以上の人物はいない。
「……それじゃあ」
思ったイルカの口はうっかり言っていた。
「カカシ先生」
無理は承知で、言うだけは只だという軽い気持ちで。
「オレの恋人になってください」
* * * * *
「オレの恋人になってください」
誰もいない廊下での突然のイルカの発言に驚き、カカシは刹那、言葉を失う。
まさか、こんなことを言い出すとは思っていなかった。
けれど、冷静に考えればその気持ちも分かる。
行過ぎた好意が暴走した実力行使から自身や周囲を守る為の算段を、笑い話にしたばかりだ。
誰もが認めるほどの実力者でなければ、彼の恋人にはなれないと。
「いいですよ」
「えぇっ! いいんですかっ?」
自分で提案しておいて驚くイルカもおかしいが、カカシも自身の判断を疑問に思っていた。
元々、疎まれやすい身であるから、これ以上の面倒はゴメンだという気持ちは強い。
ただこの提案を、他人に譲ってやるつもりもなかった。
自分以上にやれる者はいないだろうという自負もある。
「ええ、面白そうですし」
何かを含んだ笑いを見せておいて、カカシは言う。
「イルカ先生なら、悪くないかな~って思ってたし」
「はあ」
「ま、これからヨロシクね」
「はい。こちらこそ」
微笑み返すイルカも気づいている様子だ。
背後で慌しく、中には目に涙まで浮かべて去っていく有象無象に。
「じゃ、早速ですけど、食事でもどうです」
馴れ馴れしくイルカの肩を抱き、誘う声がどこかはしゃいでいるようだったことに、カカシは気づいていなかったけれど。
* * * * *
それから1週間。
2人っきりの廊下でなされたイルカの告白は、何故かその日のうちに里中に知れ渡っていた。
知らせて回る手間が省けたと当初は喜んだカカシだったが、今となってはため息も鼻血もでやしない。
なんというか、敵が多すぎる。
流石に、陰湿な嫌がらせだとかは一切ない。
ないならないでいいが、拍子抜けしたカカシにしてみれば「いかんね最近の忍者は。たるんどるよ」などと言ってみたくもなる。
けれど、アカデミーの女の子たちの無邪気な図星つきまくりの嫌味には、大人気なくも拳を握り締めてしまったりもする。
下忍から中忍の少女たちに至ってはどこか歓迎してくれているようではあるが、それはそれで不気味だし。
いわゆる結婚適齢期の女性たちからは殺されそうなほどの怨念のこもった視線が絡み付いてくるし。
もはや女性であったとしか形容できない部類に至っては、コメントもしたくない。
そして、つくづくと実感する。
女は生まれた瞬間から女で、世界最強で最も恐ろしい生き物だと。
そんなものを見てしまうと男など情けないというか、可愛いものだ。
影からこっそりと覗き、2人の仲睦まじげな様子やカカシという存在に肩を落として涙する中忍以下の若いイルカフリークども。
なんとか一言と意気込んではくるものの、肝心の場面で何も言えなくなる特上ども。
とっくに諦めているのか、ただ我関せずを決め込んでくれる上忍仲間などありがたいくらいだ。
それでも、やはり数は怖い。
2人仲良くアカデミーでも歩いていようものなら、四方八方からの視線にさらされるのだ。
嫉妬と羨望、それからちょっと公の場では口に出せないような感情がこもりまくったのが。
はっきり行って、カカシに味方はいなかった。
てゆーか、四面楚歌。
中でも陰湿なのは、この里の最高権力者にしてイルカの保護者を自称する者だった。
「どうやってたぶらかしたものかの」
高ランクの任務を受け、また報告に行く度、苦々しく言われてはたまらない。
「たぶらかしたもなにも、告白してきたのはイルカ先生のほうですよ」
ささやかな反論だったが、この事実が最も堪えるらしい。
よく言われるのだ。
───イルカもこの野郎のどこがいいんだか
───イルカちゃんて男の趣味だけは悪かったのね
───意外っすよね、イルカから告白なんて
───イルカに酷いこと、しないでくださいね……
───幻術、誘導術、薬……何を使おうが、長続きはせんぞ
───ねえねえ、毎日ご馳走責めにして言わせたってホント?
───なんでイルカ先生もわざわざこんなの……
───いつか貴様も殺す
日頃、周囲からどう見られていたかを改めて認識させられ、ほんのちょっとだが反省した。
なんというか、自分のこれまでを省みてしまいたくなるような。
何故ここまで言われなければならないのか。
淋しいことに、唯一の味方はちぃっとズレとる部下1人だけ。
バカな子ほどかわいいとはこういう心境かと思ったりもする。
───カカシ先生とイルカ先生が仲いいとオレも嬉しいってばよっ!
この無邪気で、なーんも分かってない一言がカカシを支えているといっていい。
それと勿論、イルカの存在もだ。
「お主もお主じゃ」
まだ続いていた3代目火影様のありがたくも耳に入ってこない説法に、カカシはなんとか意識をむける。
「イルカが好意を寄せとったというのはともかくとしてじゃな」
一番大事なところを棚上げし、認めようとしない頑固爺は止まらない。
「それを即、色恋沙汰に結び付けて関係を強要するのは感心できんぞ」
第一、いくらイルカがかわいいといっても、お主はおなごのほうが好きじゃったろう。
「お主のその来る者拒まずといった態度で、イルカが傷ついたらかわいそうとは思わんのかっ」
「お言葉ですが火影様」
何度も繰り返してきた問答だが、カカシは一言も省略せずに言い切る。
「オレもね、イルカ先生のことは嫌いじゃないんです」
イルカの嘘の告白を受け入れてから何度も言ってきた言葉だ。
誰に見透かされることのないよう、本当にそういう気持ちで言ってきたつもりだ。
そして、もしかしたら元々イルカに好意は抱いていたのだと気づくこともできた。
まあ、その好意が恋愛感情かどうかは定かではないが。
「そーゆーワケですから、イルカ先生にオレのあることないこと吹き込むのもうやめてくださいね」
一番、言いたかったことを言い捨て、じゃこれでと踵を返す。
背後でまだ火影さまがわめいておられるようだったが、いつものことだと無視を決め込んだ。
* * * * *
執務室を出、のんびりと階段を下りていく。
あと数段というとこで、見慣れた姿が見えた。
アカデミーのほうからカバンや書類を抱え、てくてくと歩いている。
「イルカ先生っ」
声を掛ければすぐに気づいてかけよってきてくれる。
カカシも一足跳びに階段を下り、隣りへ並んだ。
「今、お帰りですか」
「はい。カカシさんは」
「今、任務終わったとこです」
特に意識しなくとも同じ歩幅と速度で歩けるのは気が楽だ。
「イルカ先生」
どうしましょうか。
周囲には、やはりまだイルカにつきまとう者は多い。
彼らを、という意味だと伝わっているはずだが、イルカははにかむように微笑んで違ったことを告げる。
「実は、いいお酒を頂いたんですよ。よろしければこれから、いらっしゃいませんか?」
「えっ、いいんですか」
「はい」
嬉しそうに目を細めるイルカの笑顔一つで、街角に潜んでいたストーカーたちはばたばたと散っていく。
心なしか、じわじわと道の端が湿ってきたようにも思えるぐらいだ。
「じゃ、お邪魔しようかな」
カカシが睨みを利かせるより、よっぽど効果的にイルカの笑顔は彼らの足を止める。
楽しげにイルカとカカシの行く道筋には、累々と恋の屍が積みあがってゆく。
「カカシさんは、あては何がいいですか」
分かってやっていたのだとしたら、相当なものだ。
「や、飲む時ってあんま食わないんでー」
「そうなんですか。じゃ、箸休め程度に何か用意しますね」
「それは楽しみです」
本当に自分といる間、嬉しそうにしているイルカに、うっかりカカシも勘違いをしそうになる。
この関係が───感情が、本物だと。
けれど、イルカがカカシに求めたのは、周囲を牽制するための一時的な恋人役だった。
この熱狂が落ち着くか、本当に好きな人ができるまでの。
それを思うと、カカシは酷く淋しかった。
恋人の振りをしているだけなのに、イルカの側は居心地がいい。
程ほどに気を使ってくれるし、それなりに砕けていて気疲れすることがない。
逆にカカシも気楽にしている分、ここという時には気遣ってやりたくなる。
気持ちの良い関係というのはこういうことなのだろう。
まだたった1週間の関係だったが、この場所を失いたくなくなっていた。
いつか、誰かがこうやってイルカと微笑みあっているのを、あの街角で涙の海に沈んでいる者の1人として見たくはない。
そのための方法は、一つだけだ。
「あの、イルカ先生」
「なんですかー」
途中立ち寄った八百屋や魚屋でおまけしてもらった果物や干物をぶらぶらとさせながらイルカは歩いている。
オレのことって、只のカモフラとしか思ってませんか、なんて。
───聞ける訳ないじゃないのー
「どうしました?」
頭を抱えてしまったカカシを覗き込んでくるイルカの目は誰かを髣髴とさせるほど、邪気がない。
その目を見てときめいてしまったカカシは今、はっきりと自覚した。
もう、後戻りは出来ないけれど。
道は間違ってしまったけれど。
里中の人間が落とせなかったつわものだが、覚悟は決まった。
ただ、その気持ちはまだ当分、告白できそうにない。
【了】
‡蛙女屋蛙娘。@ iscreamman‡
WRITE:2006/05/20
UP DATE:2006/08/10(PC)
2009/11/11(mobile)
RE UP DATE:2024/07/28
[いちる 2nd Anniversary]
子供たちとの任務を終えたはたけカカシが、報告書の提出に受付所へ入ったのはもう、とっぷりと日も暮れた頃だった。
いつもなら───カカシが遅刻をしまくっても、ここまで遅くなることは滅多にない。
ただ時たま今日のように、失せ物探しの任務では運悪く時間がかかることもあるのだ。
カカシが、まだ子供でしかない部下たちを遅くまで働かせぬよう気を配っていても。
───ま、今のうちだけ……だけどネ
カカシは1人、子供たちが泥だらけになって無事に見つけ出した依頼品と、記入の終わっている報告書を手に受付の扉をあけた。
薄明るい部屋にはくつろぐ数人の忍びと受付に座って書類を整理している2人の忍び。
「あれ?」
ふいにカカシが声を上げてしまったのは、予想していた者の姿がなかったからだ。
真っ直ぐ受付へ進み、手にしていた報告書と探し出した物とを差し出しながら問いかける。
「今日はイルカ先生じゃないの」
「いえ。さっき交代したところです」
名うての上忍にも臆することなく、慣れた様子で年若の忍びが対応する。
「そ」
報告書の内容と探し物は手際よく確認され、判をつかれた書類が次の処理へ渡る。
明日には依頼主に発見の一報が入り、依頼された品物と交換に里へ報酬が支払われるのだ。
「では報告書は受理いたしましたので任務終了となります」
会釈をされ、カカシも軽く目礼で答えて踵を返す。
だが、扉に手をかけ、出て行こうとする耳に声を潜めた会話が飛び込んできた
「おい。良かったのかよ」
「え? 構わないだろ。別に」
「鉢合わせなんかしたら修羅場だぜ」
「大丈夫だろ? そんな風じゃないし」
それは明らかに自分の関わる内容だと思ったカカシはそのまま気にせず出て行った振りをする。
受付から見えぬところまで歩き、気配を消して耳をそばだてた。
「そうかあ?」
「しかし、イルカも大変だよな」
「あそこまでモテるとな」
「まあ、お陰で楽させてもらってる気はするけど」
気の毒な同僚を案じる気持ち半分。
他人の不幸を面白がる気持ち半分。
そんな噂を耳にして、またかとカカシは思う。
とても続きを聞く気になれず、そっと離れた。
───イルカ先生も大変だよねえ……
カカシも最近気づいたのだが、イルカはモテる。
教え子である子供たちはもちろん、保護者や里の上層部。
同僚や受付で顔を合わせる面々など。
老若男女に大人気だ。
きっと(火影を含めても)この里で最も好かれている人かもしれない。
ただ時々、迷惑な好意というものもあるのだ。
特に、恋愛の枠から大きく外れた人々からの熱烈すぎるラブコール。
ゴールすることでなく、シュートすることに意義があるとは言え、やはり枠に飛んでいないボールは危険だ。
あの光景は───いい年をした大の男がもじもじと頬を染めて男に告白をする様は、傍で見ているほうに類が及ぶ。
せめて人目につかないところでやってもらいたい。
大体、うみのイルカという男は本当に印象が『普通』なのだ。
それも『忍びの世界において』ではなく普通の『人間らしい』自然な言動。
いっそ凡庸とか、中庸とか言ってもいいだろう。
それでいて教師は天職のような包容力と指導力。
ここまで聞くと信じがたいが、忍びとしても優秀な部類だという。
そんな男が普通のはずはないのだが、見えるのだから仕方がない。
里中に響き渡る愛情に満ちた怒声に、朗らかな許しの言葉。
例え上忍であっても、正しいと信じていることは決して曲げない頑固さ。
あれが全て擬態だとしたら、相当なものだ。
多分、嘘ではない。
もし演じているなら、あそこまで不器用な生き方にはならないはずだ。
まだ青いだけかもしれない。
周囲が、信じたいだけかもしれない。
ただ一つ言えるのは、うみのイルカが多くの人々を惹きつける魅力的な人物だということだ。
子供たちを撫でたり書類を処理していく手。
鍛えられ、若木のようにしなやかに伸びた肉体。
お日様のようとしか形容できない笑顔や、照れた時に鼻筋を渡る古傷を掻く癖。
イルカの特徴や仕草一つ一つを思えば、カカシにだって玉砕してゆく野郎どもの気持ちも分からなくない。
───って、なに考えてんのよ、オレ!
そこで、上忍待機所への階段を上りかけていた足が止まった。
すぐ側にある受付の建物とアカデミーを繋ぐ通路の外れに人の気配がある。
一方は普通にしているのに、もう一方は人目を避けたいらしい。
けれど動揺でもしているのか、気配を殺しきれていない。
「困ります」
いつもより少し強い、拒絶の声はイルカ。
途端、カカシは階段を一つ跳びにし、手近の踊り場から身を乗り出して声をかけていた。
「イルカ先生?」
思ったとおり、眼下ではイルカと彼の腕を掴んで引き寄せようとしている男の姿。
名は知らないが、5つ6つ年上のあまり出来のよくない上忍だ。
白々しいコトを承知でカカシは言葉を続ける。
「アレ? お邪魔でしたか?」
忌々しげな男の視線を物ともせず、ほっとした声が返った。
「い、いえ」
「じゃ、ちょっとよろしいですかね」
「はい。すみません、失礼します」
ぺこりと慌しく会釈をし、イルカはカカシの元へゆく。
すいと掴まれていた手を外し、追いすがろうとする上忍をかわして。
中忍のイルカが上忍を恐れていなかったばかりか、結局はあしらってしまった。
強がりや過剰な自信ではなく、それだけの確かな実力と経験で。
あの男は気づいていないが、カカシは知ることが出来た。
それがたまらなく、愉快だった。
* * * * *
カカシも階段を下り、イルカと合流する。
置いてきぼりを食らったあの男の情けない顔に思わず漏れた苦笑を隠しもせず。
「イルカ先生も大変だーネ」
「いえ、お見苦しいところをお見せしました」
だが、面白げに語りかけるカカシの態度を誤解したのか、イルカは恐縮してしまう。
「ご不快、ですよね……」
「や、イルカ先生は悪くないデショ」
歩きかけていたカカシは足を止め、慌てて訂正する。
「どっちかってーと、1番被害被ってるし」
「オレはもう、慣れました」
揺ぎ無い声は、返って意図して出しているのが分かってしまう。
「でもなんで、オレなんかって……」
自嘲する明るい声をカカシは思わず遮った。
「分からなくもないんですケドねえ」
「はっ?」
「えっ? いやっ。なんでもないですっ」
ただ、咄嗟に口走った言葉が自分でも信じられず、誤魔化してしまう。
止まっていた足を踏み出し、話の先を無理に促す。
「だけど正直、大変デショ」
「ええ」
「いっそのこと、誰かとおつき合いしちゃったらどうです?」
「ええっ!」
過剰に驚くイルカに一瞬怯みそうになるが、すぐに思い直す。
告白してくる誰かと付き合えと、誤解したのだろう。
「や。あの。別に、ああいうのじゃなくても、いいなーって思うお嬢さんくらい、いるんデショ?」
「……い、いますが……でも」
イルカにも好意を抱く女性がいるということに軽い衝撃を受けた自身に気づかず、カカシは黙って彼の告白を聞いた。
「あの、実は以前、見かねた同僚が許婚がいるって噂を流してくれたことがあるんです」
「へえ」
それで、と続きを促しながら、その同僚の本心が別にあるように思えた。
周囲への牽制とイルカへの点数稼ぎ。
疑いすぎかもしれないが、そういうコトを考えた人間はいるはずだ。
「色々あって収まるどころか、逆に騒ぎが大きくなりまして」
「失敗しちゃったんですね」
「ええ。それに、中にはムチャをする人もいますからねえ」
「ヘタな人間に恋人役はさせられない、と……」
特に、本当に好きな人間ではダメだ。
好きだからこそ、何をされるか分からない状況に巻き込みたくはない。
カカシは指を折り、恋人役に必要とされる条件を挙げてみた。
「まず、今んとこフリーでー」
他に恋人や想い人のいる人間では、カモフラージュだとバレる。
うまくいったとしても、当人の生活を壊すことになりかねない。
「誰もが納得できるような人なら問題ないですよね」
例えば、誰も口出しも手出しもできない実力者だとか。
「って、そんなの火影さまくらいじゃない」
「それはっ」
あんまりな例えに、呆れながらもイルカは吹き出してしまう。
けれど、この指摘は間違いでもなかった。
ハンパな力の持ち主では、数を頼んだ場合、対処しきれなくなる。
里で誰もが認める人物でなければ。
そう、考えが至ったところで、イルカはふと目の前の人を見た。
逆立った髪の先までひょろっとした猫背はぼんやりと歩いているように見えるのに、まったく隙が無い。
千の技を会得し、国内外に名を轟かせる里屈指の忍びの1人。
それでいて奢ったところもなく、妙な人懐っこさや愛嬌も見せる。
常に成年指定の愛読書を携帯して読み耽りもするが、規律には誰よりも厳しいらしい。
子供たちからは遅刻を諌められたりもしているが、教え導く姿は真面目で好感が持てる。
考えてみれば、はたけカカシ以上の人物はいない。
「……それじゃあ」
思ったイルカの口はうっかり言っていた。
「カカシ先生」
無理は承知で、言うだけは只だという軽い気持ちで。
「オレの恋人になってください」
* * * * *
「オレの恋人になってください」
誰もいない廊下での突然のイルカの発言に驚き、カカシは刹那、言葉を失う。
まさか、こんなことを言い出すとは思っていなかった。
けれど、冷静に考えればその気持ちも分かる。
行過ぎた好意が暴走した実力行使から自身や周囲を守る為の算段を、笑い話にしたばかりだ。
誰もが認めるほどの実力者でなければ、彼の恋人にはなれないと。
「いいですよ」
「えぇっ! いいんですかっ?」
自分で提案しておいて驚くイルカもおかしいが、カカシも自身の判断を疑問に思っていた。
元々、疎まれやすい身であるから、これ以上の面倒はゴメンだという気持ちは強い。
ただこの提案を、他人に譲ってやるつもりもなかった。
自分以上にやれる者はいないだろうという自負もある。
「ええ、面白そうですし」
何かを含んだ笑いを見せておいて、カカシは言う。
「イルカ先生なら、悪くないかな~って思ってたし」
「はあ」
「ま、これからヨロシクね」
「はい。こちらこそ」
微笑み返すイルカも気づいている様子だ。
背後で慌しく、中には目に涙まで浮かべて去っていく有象無象に。
「じゃ、早速ですけど、食事でもどうです」
馴れ馴れしくイルカの肩を抱き、誘う声がどこかはしゃいでいるようだったことに、カカシは気づいていなかったけれど。
* * * * *
それから1週間。
2人っきりの廊下でなされたイルカの告白は、何故かその日のうちに里中に知れ渡っていた。
知らせて回る手間が省けたと当初は喜んだカカシだったが、今となってはため息も鼻血もでやしない。
なんというか、敵が多すぎる。
流石に、陰湿な嫌がらせだとかは一切ない。
ないならないでいいが、拍子抜けしたカカシにしてみれば「いかんね最近の忍者は。たるんどるよ」などと言ってみたくもなる。
けれど、アカデミーの女の子たちの無邪気な図星つきまくりの嫌味には、大人気なくも拳を握り締めてしまったりもする。
下忍から中忍の少女たちに至ってはどこか歓迎してくれているようではあるが、それはそれで不気味だし。
いわゆる結婚適齢期の女性たちからは殺されそうなほどの怨念のこもった視線が絡み付いてくるし。
もはや女性であったとしか形容できない部類に至っては、コメントもしたくない。
そして、つくづくと実感する。
女は生まれた瞬間から女で、世界最強で最も恐ろしい生き物だと。
そんなものを見てしまうと男など情けないというか、可愛いものだ。
影からこっそりと覗き、2人の仲睦まじげな様子やカカシという存在に肩を落として涙する中忍以下の若いイルカフリークども。
なんとか一言と意気込んではくるものの、肝心の場面で何も言えなくなる特上ども。
とっくに諦めているのか、ただ我関せずを決め込んでくれる上忍仲間などありがたいくらいだ。
それでも、やはり数は怖い。
2人仲良くアカデミーでも歩いていようものなら、四方八方からの視線にさらされるのだ。
嫉妬と羨望、それからちょっと公の場では口に出せないような感情がこもりまくったのが。
はっきり行って、カカシに味方はいなかった。
てゆーか、四面楚歌。
中でも陰湿なのは、この里の最高権力者にしてイルカの保護者を自称する者だった。
「どうやってたぶらかしたものかの」
高ランクの任務を受け、また報告に行く度、苦々しく言われてはたまらない。
「たぶらかしたもなにも、告白してきたのはイルカ先生のほうですよ」
ささやかな反論だったが、この事実が最も堪えるらしい。
よく言われるのだ。
───イルカもこの野郎のどこがいいんだか
───イルカちゃんて男の趣味だけは悪かったのね
───意外っすよね、イルカから告白なんて
───イルカに酷いこと、しないでくださいね……
───幻術、誘導術、薬……何を使おうが、長続きはせんぞ
───ねえねえ、毎日ご馳走責めにして言わせたってホント?
───なんでイルカ先生もわざわざこんなの……
───いつか貴様も殺す
日頃、周囲からどう見られていたかを改めて認識させられ、ほんのちょっとだが反省した。
なんというか、自分のこれまでを省みてしまいたくなるような。
何故ここまで言われなければならないのか。
淋しいことに、唯一の味方はちぃっとズレとる部下1人だけ。
バカな子ほどかわいいとはこういう心境かと思ったりもする。
───カカシ先生とイルカ先生が仲いいとオレも嬉しいってばよっ!
この無邪気で、なーんも分かってない一言がカカシを支えているといっていい。
それと勿論、イルカの存在もだ。
「お主もお主じゃ」
まだ続いていた3代目火影様のありがたくも耳に入ってこない説法に、カカシはなんとか意識をむける。
「イルカが好意を寄せとったというのはともかくとしてじゃな」
一番大事なところを棚上げし、認めようとしない頑固爺は止まらない。
「それを即、色恋沙汰に結び付けて関係を強要するのは感心できんぞ」
第一、いくらイルカがかわいいといっても、お主はおなごのほうが好きじゃったろう。
「お主のその来る者拒まずといった態度で、イルカが傷ついたらかわいそうとは思わんのかっ」
「お言葉ですが火影様」
何度も繰り返してきた問答だが、カカシは一言も省略せずに言い切る。
「オレもね、イルカ先生のことは嫌いじゃないんです」
イルカの嘘の告白を受け入れてから何度も言ってきた言葉だ。
誰に見透かされることのないよう、本当にそういう気持ちで言ってきたつもりだ。
そして、もしかしたら元々イルカに好意は抱いていたのだと気づくこともできた。
まあ、その好意が恋愛感情かどうかは定かではないが。
「そーゆーワケですから、イルカ先生にオレのあることないこと吹き込むのもうやめてくださいね」
一番、言いたかったことを言い捨て、じゃこれでと踵を返す。
背後でまだ火影さまがわめいておられるようだったが、いつものことだと無視を決め込んだ。
* * * * *
執務室を出、のんびりと階段を下りていく。
あと数段というとこで、見慣れた姿が見えた。
アカデミーのほうからカバンや書類を抱え、てくてくと歩いている。
「イルカ先生っ」
声を掛ければすぐに気づいてかけよってきてくれる。
カカシも一足跳びに階段を下り、隣りへ並んだ。
「今、お帰りですか」
「はい。カカシさんは」
「今、任務終わったとこです」
特に意識しなくとも同じ歩幅と速度で歩けるのは気が楽だ。
「イルカ先生」
どうしましょうか。
周囲には、やはりまだイルカにつきまとう者は多い。
彼らを、という意味だと伝わっているはずだが、イルカははにかむように微笑んで違ったことを告げる。
「実は、いいお酒を頂いたんですよ。よろしければこれから、いらっしゃいませんか?」
「えっ、いいんですか」
「はい」
嬉しそうに目を細めるイルカの笑顔一つで、街角に潜んでいたストーカーたちはばたばたと散っていく。
心なしか、じわじわと道の端が湿ってきたようにも思えるぐらいだ。
「じゃ、お邪魔しようかな」
カカシが睨みを利かせるより、よっぽど効果的にイルカの笑顔は彼らの足を止める。
楽しげにイルカとカカシの行く道筋には、累々と恋の屍が積みあがってゆく。
「カカシさんは、あては何がいいですか」
分かってやっていたのだとしたら、相当なものだ。
「や、飲む時ってあんま食わないんでー」
「そうなんですか。じゃ、箸休め程度に何か用意しますね」
「それは楽しみです」
本当に自分といる間、嬉しそうにしているイルカに、うっかりカカシも勘違いをしそうになる。
この関係が───感情が、本物だと。
けれど、イルカがカカシに求めたのは、周囲を牽制するための一時的な恋人役だった。
この熱狂が落ち着くか、本当に好きな人ができるまでの。
それを思うと、カカシは酷く淋しかった。
恋人の振りをしているだけなのに、イルカの側は居心地がいい。
程ほどに気を使ってくれるし、それなりに砕けていて気疲れすることがない。
逆にカカシも気楽にしている分、ここという時には気遣ってやりたくなる。
気持ちの良い関係というのはこういうことなのだろう。
まだたった1週間の関係だったが、この場所を失いたくなくなっていた。
いつか、誰かがこうやってイルカと微笑みあっているのを、あの街角で涙の海に沈んでいる者の1人として見たくはない。
そのための方法は、一つだけだ。
「あの、イルカ先生」
「なんですかー」
途中立ち寄った八百屋や魚屋でおまけしてもらった果物や干物をぶらぶらとさせながらイルカは歩いている。
オレのことって、只のカモフラとしか思ってませんか、なんて。
───聞ける訳ないじゃないのー
「どうしました?」
頭を抱えてしまったカカシを覗き込んでくるイルカの目は誰かを髣髴とさせるほど、邪気がない。
その目を見てときめいてしまったカカシは今、はっきりと自覚した。
もう、後戻りは出来ないけれど。
道は間違ってしまったけれど。
里中の人間が落とせなかったつわものだが、覚悟は決まった。
ただ、その気持ちはまだ当分、告白できそうにない。
【了】
‡蛙女屋蛙娘。@ iscreamman‡
WRITE:2006/05/20
UP DATE:2006/08/10(PC)
2009/11/11(mobile)
RE UP DATE:2024/07/28
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