カカイル[短編]

【風呂トイレ別、徒歩10分】



 ドアを開けた第一声がその日の全てを物語る。

「あっちぃーっ!」

 足音高く駆けてきた勢いのまま、部屋を突っ切って窓を開ける。

 途端に、むっとした外気と圧倒的なセミの鳴き声が押し寄せた。
 それをかわすように返した足で床置きの冷風機のスイッチを入れる。

 部屋を1歩進むごとに、汗が流れていった。

 額当てとカバンとベストをひとまとめに床へ放り出し、そのまま風呂場へと向かう。

 夏の暑さは嫌いではない。
 だが、1日閉めきっていた狭いユニットバスの蒸し暑さには一瞬怯みそうになる。

 カランを回し、どほどほと水が落ちてくると幾分涼しさを感じる。
 けれど、その水が温度をあげて湯に変わる頃にはまた蒸し始めた。
 ただ、何故かその湯気は心地よい。

 湯が溜まりきるのを待たず、裸になった。

 湯船に立ってシャワーを浴びながら、考える。
 それがそのまま口に出た。

「越す、かなあ……」

 もう少しだけでいいから、広くて、洗い場があって、上背もあるから足の伸ばせる風呂というのは贅沢か。

 もちろん、トイレは別で。

 湯船の中でシャワーを浴びるたびに思ってきた。
 思うたびに、どうせ1人だし、誰かが遊びに──ましてや、泊まりにくるわけでもなしと、諦めながら。
 これまでは、それでもよかった。

 今は……と思い、シャワーを止め、濡れた髪を後へ流す。

「……今は、1人じゃあねえし……」

 そう自分で呟いておきながら、吹っ切るように髪を洗い出す。
 掻き毟るように泡立てる指の間から覗く耳は、やっぱり赤かった。



   * * * * *



 濡れた髪を夕方の涼しい風に乾かしながら、窓際で缶ビールを飲んでいると、ドアを叩く者がある。

「イルカせんせー」

 開けてやれば、へらりと笑う男。

「ただいまでーす」

 そんなことを言って抱きついてこようとするので、足蹴にして風呂場へいなした。

「酷いでーすっ! イルカせんせーっ」

「さっさと風呂入ってきてください」

 そしたら、抱きついたって避けやしませんよ。

 表情も変えずに囁いてやれば、浮かれたような足取りで風呂場へ飛び込んでいく。

 あの男が足しげく通ってくるようになって、それほど間がない。
 けれど、生活はすっかり変わってしまった。
 この先の生活設計だとかも。

 そのことはもういい。
 諦めたのではない。
 自分の選んだ道だと納得した。

 すぐ側にあるはずの風呂場から響く水音はささやかで、外から脅迫的に響くセミの声にかき消されてしまっている。


───しねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね───


 そんな風に聞こえるクマゼミの声。

 黙って聞いていると鬱々としてくるから、苦手だった。

「……あの声が聞こえないトコがいいな……」

 木々の豊富なこの里で、そんな場所があるワケがないと分かっている。

 それでも、あの声から離れていたかった。
 自分たちの生き方は、あまりにも死に近すぎるから。

「何がですかー」

 いつの間に上がったのか、カカシが髪を拭きながら聞いてくる。

 バスタオルを腰に巻き、勝手に冷蔵庫を開けて缶ビールを手にして。

「引越し先の希望です」

 遠慮の無い慣れた男の行動に眉をしかめながらも、イルカは続けた。

「越そうか、と考えてまして」

「いいですねえ」

 何を考えているのか丸分かりの表情。

「どんなトコにしましょーか?」

 自分もそこに暮らすつもりでいる男に、イルカは笑顔で答えた。

「風呂とトイレは別、アカデミーまで徒歩10分」

 これだけは譲れませんからね。
 と、付け加えて。

 まだ、クマゼミは鳴きやまない。



 【了】
‡蛙女屋蛙娘。@iscreamman‡
WRITE:2005/08/19
UP DATE:2005/08/20(PC)
   2009/06/26(mobile)
RE UP DATE:2024/07/26
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