鴉
【行き場を失くした子どもたち】
~ Out in the Cold ~
[SLY‡鴉]
「ね、1人?」
声は頭の上から、雨の隙間を縫うように落ちてきた。
1日、路上の片隅に居れば何度か大人たちが声をかけてくる。
純粋な親切心からの人もいるが、そうでない者ばかりだ。
だいたいは無体を働かれ、妙な店に売り飛ばされる。
運良く逃げ出せても、また道に立つしかないのが現実。
それでも、多くの子供が1時的に与えられる手に縋った。
たとえ1食でも、食べられる。
1晩だけでも、温かな寝床がある。
そんな些細な、けれど切実な望みのために。
「ね、1人?」
今まで、誰について行ったことはない。
どんなに空腹でも、寒くても、淋しくても。
だって、ひと時の慰めなど欲しくはない。
ただ、失くした居場所しか望んでいない。
誰にも贖えない。
だから、誰にも縋ったりしない。
待っているのは救いの手ではなく、最期の時。
「ね、1人?」
繰り返しかけられた声に、緩慢にうなずく。
そして初めて、その人を見上げた。
ずいぶん背が高いように思うが、歳は自分とさほと変わらないように見える。
身体つきはやけにほっそりとしていて、差し出された手の指は女性のように細くて白い。
けれど、使い込まれて傷つき、よく馴染んだ手甲をしていた。
中忍以上に支給されるベストは着ていないが、左目を庇うように斜めに額当てを締めている。
左目を隠し、口元を覆っているから顔つきはわからない。
ただ街灯に透ける銀の髪が、何かを思い出させる。
「おいで」
思考は躊躇したものの、優しい声に促されるまま差し出された手に自分の手を重ねていた。
柔らかく握り返された感触は冷たく、どこか曖昧だ。
前を行くたわんだ背とふらふらした足取りが、酷く頼りなく見える。
それでも、この人は木ノ葉隠れの忍だ。
そうと分かって生じる気持ちが安堵ではない。
自分はまだ忍者ではなく、この男は若いがきっと歴戦の忍だ。
対等な仲間ではないが、男は自分を庇護するほど年かさでもない。
この関係を、なんと言ったら良いのか。
考えながら歩くうち、男の足が止まった。
連れてこられたのは、通りの外れに立つ小さな宿。
男が暖簾をくぐったところで、出迎えがあるわけでもない。
気にもかけず、上がり込んだ男の背をぼんやりと見つめた。
不意に、ものすごく近さからのぞき込まれていると気づく。
「だいじょーぶ」
ぽん、と頭を撫でられた。
安心させる為でも騙す為でもなく、ただ発しただけの言葉としただけの行動。
感じないほど酷い空腹と疲労。
色々なものが思考を遮り、どんどんぼうっとしていく。
なのに、男も疲れているのは感じた。
惰性で話し、動く。
2人ともぼんやりと奥へ歩き、一番奥の部屋へ入った。
「お腹空いてる?」
膝の上に座らされ、白湯を注いだ湯呑みを差し出される。
受け取って口に含み、飲み込んだ。
途端に麻痺していた感覚が蘇って、欲するまま白湯を流し込む。
だが、長く水も口にしていなかった胃は、体温程の白湯すら受け付けなかった。
「ああ、ゆっくり飲まないから……」
吹き出した白湯に濡れることも厭わずに、男は膝に抱えた小さな背をさする。
呼吸が落ち着くと、新しい湯呑みに再び白湯を注ぐ。
顔の下半分を隠していた布を引き下ろし、白湯を含んだ。
あ、と思う間もなく、口付けられる。
触れ合った唇の隙間から舌が割り込み、温い湯が滴る。
染み込ませるようにゆっくりと与えられる水分に我慢が利かず、自分から男の舌に吸いついた。
まるで、そこから液体が湧き出しているかのように。
「キス、上手いね」
合間にそんなことも言われたが、恥ずかしいと思うこともできなかった。
時間をかけて、湯呑み半分程の白湯をすすった後、また男が頭を撫でる。
「も少し落ち着いたら、ご飯にしようね」
新たに白湯を注いだ湯呑みを渡され、今度は少量を含んでは飲み込んでいく。
もう、むせたりはしない。
「お風呂、入っておこうか」
頷く前に抱き上げられ、風呂へ運ばれる。
「はい、万歳」
甲斐甲斐しく世話を焼く男に脱がされ、床に落とされる服。
もとの色が分からないくらいに汚れていたのだと、知った。
あの日のまま、着替えも洗濯もしていない。
雨に濡れても、余計に汚れた。
「髪、解くよ」
固く結ばれていた紐を器用に解く。
ぱらりと幾筋かの束が顔に落ちかかってくる。
不意に、鼻の奥が痛みを訴えた。
「……うっ」
「どうかした?」
「ううっ……」
「悲しい? それとも、どっか痛い?」
必死に首を横に振って伝えるが、自分でも分からないまま、涙は溢れていく。
どちらでもない。
ただ、あの日に髪を結ってくれた母親はもういない。
解けた髪を結ってくれる人は、もう。
「だいじょーぶ」
抱きしめて頭を撫でてくれる男の手は、温かくも柔らかくもない。
慰めや叱咤の言葉も。
それでも、徐々に涙は止まりだす。
「落ち着いた?」
「……ん」
頷くと洗い場へ手をひかれ、匂いのいい湯がたっぷりと張られた湯船の脇へ座らせられる。
「お湯、かけるよ」
頭から伝い落ちる湯は、足先に広がるまでに泥が混じった。
何度も湯をかけられ、丁寧に洗われると流す湯も澄む。
「ん。……かわいくなったね」
嬉しそうな声で、男は笑った。
へにゃりと崩れる笑顔は、彼をずいぶん幼く見せる。
いや実際、傷だらけの細い身体は幼かった。
「良かった……」
背後から抱き込んで頭を撫でられる。
なのに、まるで縋られているように感じた。
ひたり、と冷たい水滴が肩に落ちる。
「……君が生きてて、本当に良かった……」
泣いていた。
忍の男が───いや、少年が肩を震わせて涙を流している。
きっとこの子は自分を知っていたのだろう。
心当たりはなかった。
アカデミーの友人はまだ誰一人、下忍ですらない。
振り返って顔を見ても覚えがなかった。
左目を塞ぐ新しい傷跡が痛々しい。
白銀の髪が淡く光を放っているように思えた。
誘われるまま手を伸ばして、触れる。
「だいじょうぶ」
さっき彼が言ってくれた言葉を呟いてみた。
確かなものなどなにもない。
それでも、前は向ける気がした。
「だいじょうぶ」
自分はもう、生きていける。
だからきっと、君も。
「だいじょうぶ」
言ってあげる。
いつでも、いつまででも。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
あの夜、多くの子供たちが居場所を失くしてから、12年。
子供たちの半分は今や大人だ。
残りはまだ成長の途中にいる。
いつしか皆、新たな居場所を得た。
失ったものとは違うけれど、自分自身で勝ち取った大切なもの。
どうしても拠り所を見いだせず、去った者も少なくない。
どんなに大事な人であっても相変わらず、失い続けている。
けれど、あの少年とは再び出会えた。
「あの夜、失くした居場所を贖ってくれたのは、アナタです」
そう言って微笑んだ人の手だけは、離さずにいたい。
───だいじょうぶ
と、誰にともなく言いながら。
【了】
‡蛙女屋蛙姑。@iscreamman‡
WRITE:2005/11/07
UP DATE:2009/08/01(mobile)
RE UP DATE:2024/08/18
~ Out in the Cold ~
[SLY‡鴉]
「ね、1人?」
声は頭の上から、雨の隙間を縫うように落ちてきた。
1日、路上の片隅に居れば何度か大人たちが声をかけてくる。
純粋な親切心からの人もいるが、そうでない者ばかりだ。
だいたいは無体を働かれ、妙な店に売り飛ばされる。
運良く逃げ出せても、また道に立つしかないのが現実。
それでも、多くの子供が1時的に与えられる手に縋った。
たとえ1食でも、食べられる。
1晩だけでも、温かな寝床がある。
そんな些細な、けれど切実な望みのために。
「ね、1人?」
今まで、誰について行ったことはない。
どんなに空腹でも、寒くても、淋しくても。
だって、ひと時の慰めなど欲しくはない。
ただ、失くした居場所しか望んでいない。
誰にも贖えない。
だから、誰にも縋ったりしない。
待っているのは救いの手ではなく、最期の時。
「ね、1人?」
繰り返しかけられた声に、緩慢にうなずく。
そして初めて、その人を見上げた。
ずいぶん背が高いように思うが、歳は自分とさほと変わらないように見える。
身体つきはやけにほっそりとしていて、差し出された手の指は女性のように細くて白い。
けれど、使い込まれて傷つき、よく馴染んだ手甲をしていた。
中忍以上に支給されるベストは着ていないが、左目を庇うように斜めに額当てを締めている。
左目を隠し、口元を覆っているから顔つきはわからない。
ただ街灯に透ける銀の髪が、何かを思い出させる。
「おいで」
思考は躊躇したものの、優しい声に促されるまま差し出された手に自分の手を重ねていた。
柔らかく握り返された感触は冷たく、どこか曖昧だ。
前を行くたわんだ背とふらふらした足取りが、酷く頼りなく見える。
それでも、この人は木ノ葉隠れの忍だ。
そうと分かって生じる気持ちが安堵ではない。
自分はまだ忍者ではなく、この男は若いがきっと歴戦の忍だ。
対等な仲間ではないが、男は自分を庇護するほど年かさでもない。
この関係を、なんと言ったら良いのか。
考えながら歩くうち、男の足が止まった。
連れてこられたのは、通りの外れに立つ小さな宿。
男が暖簾をくぐったところで、出迎えがあるわけでもない。
気にもかけず、上がり込んだ男の背をぼんやりと見つめた。
不意に、ものすごく近さからのぞき込まれていると気づく。
「だいじょーぶ」
ぽん、と頭を撫でられた。
安心させる為でも騙す為でもなく、ただ発しただけの言葉としただけの行動。
感じないほど酷い空腹と疲労。
色々なものが思考を遮り、どんどんぼうっとしていく。
なのに、男も疲れているのは感じた。
惰性で話し、動く。
2人ともぼんやりと奥へ歩き、一番奥の部屋へ入った。
「お腹空いてる?」
膝の上に座らされ、白湯を注いだ湯呑みを差し出される。
受け取って口に含み、飲み込んだ。
途端に麻痺していた感覚が蘇って、欲するまま白湯を流し込む。
だが、長く水も口にしていなかった胃は、体温程の白湯すら受け付けなかった。
「ああ、ゆっくり飲まないから……」
吹き出した白湯に濡れることも厭わずに、男は膝に抱えた小さな背をさする。
呼吸が落ち着くと、新しい湯呑みに再び白湯を注ぐ。
顔の下半分を隠していた布を引き下ろし、白湯を含んだ。
あ、と思う間もなく、口付けられる。
触れ合った唇の隙間から舌が割り込み、温い湯が滴る。
染み込ませるようにゆっくりと与えられる水分に我慢が利かず、自分から男の舌に吸いついた。
まるで、そこから液体が湧き出しているかのように。
「キス、上手いね」
合間にそんなことも言われたが、恥ずかしいと思うこともできなかった。
時間をかけて、湯呑み半分程の白湯をすすった後、また男が頭を撫でる。
「も少し落ち着いたら、ご飯にしようね」
新たに白湯を注いだ湯呑みを渡され、今度は少量を含んでは飲み込んでいく。
もう、むせたりはしない。
「お風呂、入っておこうか」
頷く前に抱き上げられ、風呂へ運ばれる。
「はい、万歳」
甲斐甲斐しく世話を焼く男に脱がされ、床に落とされる服。
もとの色が分からないくらいに汚れていたのだと、知った。
あの日のまま、着替えも洗濯もしていない。
雨に濡れても、余計に汚れた。
「髪、解くよ」
固く結ばれていた紐を器用に解く。
ぱらりと幾筋かの束が顔に落ちかかってくる。
不意に、鼻の奥が痛みを訴えた。
「……うっ」
「どうかした?」
「ううっ……」
「悲しい? それとも、どっか痛い?」
必死に首を横に振って伝えるが、自分でも分からないまま、涙は溢れていく。
どちらでもない。
ただ、あの日に髪を結ってくれた母親はもういない。
解けた髪を結ってくれる人は、もう。
「だいじょーぶ」
抱きしめて頭を撫でてくれる男の手は、温かくも柔らかくもない。
慰めや叱咤の言葉も。
それでも、徐々に涙は止まりだす。
「落ち着いた?」
「……ん」
頷くと洗い場へ手をひかれ、匂いのいい湯がたっぷりと張られた湯船の脇へ座らせられる。
「お湯、かけるよ」
頭から伝い落ちる湯は、足先に広がるまでに泥が混じった。
何度も湯をかけられ、丁寧に洗われると流す湯も澄む。
「ん。……かわいくなったね」
嬉しそうな声で、男は笑った。
へにゃりと崩れる笑顔は、彼をずいぶん幼く見せる。
いや実際、傷だらけの細い身体は幼かった。
「良かった……」
背後から抱き込んで頭を撫でられる。
なのに、まるで縋られているように感じた。
ひたり、と冷たい水滴が肩に落ちる。
「……君が生きてて、本当に良かった……」
泣いていた。
忍の男が───いや、少年が肩を震わせて涙を流している。
きっとこの子は自分を知っていたのだろう。
心当たりはなかった。
アカデミーの友人はまだ誰一人、下忍ですらない。
振り返って顔を見ても覚えがなかった。
左目を塞ぐ新しい傷跡が痛々しい。
白銀の髪が淡く光を放っているように思えた。
誘われるまま手を伸ばして、触れる。
「だいじょうぶ」
さっき彼が言ってくれた言葉を呟いてみた。
確かなものなどなにもない。
それでも、前は向ける気がした。
「だいじょうぶ」
自分はもう、生きていける。
だからきっと、君も。
「だいじょうぶ」
言ってあげる。
いつでも、いつまででも。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
あの夜、多くの子供たちが居場所を失くしてから、12年。
子供たちの半分は今や大人だ。
残りはまだ成長の途中にいる。
いつしか皆、新たな居場所を得た。
失ったものとは違うけれど、自分自身で勝ち取った大切なもの。
どうしても拠り所を見いだせず、去った者も少なくない。
どんなに大事な人であっても相変わらず、失い続けている。
けれど、あの少年とは再び出会えた。
「あの夜、失くした居場所を贖ってくれたのは、アナタです」
そう言って微笑んだ人の手だけは、離さずにいたい。
───だいじょうぶ
と、誰にともなく言いながら。
【了】
‡蛙女屋蛙姑。@iscreamman‡
WRITE:2005/11/07
UP DATE:2009/08/01(mobile)
RE UP DATE:2024/08/18
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