Happily Ever After

【02:kanon】
───July of the first year

[Happily Ever After]

 
 
 
 爽やかな初夏が過ぎ、日毎に空気が重さを増していく蒸し暑さと長くまとわりつくように降る雨に慣れず、城戸家の居候達は早々に音をあげている。
彼らが慣れ親しんだ1年を通じてからりと乾いたギリシャの気候と違い、日本はとても湿度が高い。
特にこれからの季節は、と聞いて修行地が灼熱の地であった数人の兄弟達以外は既にうんざりとした表情になったものだ。

 双子だから、と当てがわれた寝室が複数ある客間スイートルームの居間。
その窓際に据えられたソファに項垂れるように座り込んだカノンは耳障りな強い雨音に眉を顰めながら目の前のテーブルに置いたブラックラムの瓶へ手を伸ばし、空のロックグラスへとなみなみと注ぐ。
ストレートで飲むのならショットグラスで楽しむアルコール度数が高く癖の強い酒だが、今の状態ではこれくらいでなければ酔えそうに───いや、寝付けそうになかった。

「カノン」

 同じソファの端で読書に耽っていたサガが嗜めるような声音で名を呼ぶが、カノンは構わずに半分程を煽った。
そして、深く重いため息を吐く。
グラスに映る眉間に寄ったシワと目の下にくっきりと浮かぶクマによって随分と荒んだ顔付きは、ひょっとしたら今なら兄と双子とは思われないかもしれない、と歪んだ笑みも浮かんだ。

 雨が降り続くようになって2週間程が経ち、カノンは雨の強い夜は寝付けず、寝入ったとしても悪夢に苛まれて長くは眠れずにいる。
過去の所業───海皇を唆し、長く大雨を降らせて地上を水没させようと企んだ事が、今になってカノンの精神を蝕んでいるのだ。

 弟が何事かに苦しんでいると察したサガは心配はしているけれど、かつてのように一方的な説教や見当違いなアドバイスをしてはこない。
どうやら弟が馬鹿をやる遠因となった自身の所業を省みて、かけるべき言葉を見つけられずにいるだけのようだが。

 それはそれでありがたく感じつつ、雨足の強い夜はキツいアルコールで無理に寝入り、悪夢に魘されながら浅い眠りで夜をやり過ごす。
しかし、梅雨の長雨はまだ半月は続くと聞き、そろそろ誤魔化すのも限界か、とカノン自身も悟っていた。

 グラスに残ったラムを舐めるように喉へ落とし込みながら、さてどうしようかとカノンは不眠と鈍い酔いでぐらつく重い意識を巡らせる。
何も、解決策など思い浮かばないけれど。

 不意に、サガが立ち上がるとドアへと向かっていった。
どうやら来客があったらしい。

 ノックの音にも気付けなくなったかと自嘲し、同時にこんな夜更けに誰だろうかと興味をそそられる。
こんな醜態をこの邸の住人に見られてはいけない、と思い至る思考力すら失っていると気付けないまま。

「そんな物を飲んでいるから、眠れなくなるんだ」

 呆れ声と共に伸びてきた腕が、カノンの手からラムが指1本分程残ったグラスを奪い取っていった。
目線だけでグラスを追いかけた先には、いつもよりゆったりとしたTシャツとハーフパンツ姿の一輝が立っている。

「ほら、こっちを飲め」

 そんな言葉と共に押し付けられたのは、かすかに甘い香りの立つ温かなホットミルクが6割程注がれたマグ。
サガにも同じマグを渡すと、テーブル上からブラックラムの瓶を取り上げて蓋をきつく締め直し、居間の片隅に作り付けられたバーカウンターの戸棚へと仕舞い込んでしまった。
そのままカノンから取り上げたグラスはミニキッチンへ中身を捨て、軽く洗って伏せている。

「もったいねえ」

 高い酒なんだぞ、とカノンがボヤいた所で一輝は気にしない。

「飲んだ所で眠れんなら一緒だ」

 と素気無かった。

「まあ、この長雨でお前が眠れなくなる、というのは正直予想外だったがな」

 などと揶揄うような言葉まで告げてくる。

 お前に何が分かると返したかったが、不眠と酔いで鈍った思考といつもの滑らかさを失った口がカノンに不機嫌な沈黙を選ばせた。
それに、海底神殿での戦いで幻魔拳により過去の所業を洗いざらい白状させただけでなく、本人すら気付かずに居た戦女神の慈悲を指摘した一輝以上にカノンの過去を知っている者は居ない。

 ホットミルク入りのマグに口をつけるでもなく、所在無げに片手で包み込んだままソファの両端に座るサガとカノンを気遣う素振りもなく、一輝は向かいのソファの真ん中を陣取るとローテーブルに視線を落として話し出した。

「似たような事をやらかした俺から言わせて貰えば、お前たちの悩みは考えるだけ無駄だ」

 それはカノンもサガも理解している。
既に13年───いや、そろそろ14年も昔に起因する出来事で、やらかした事の尻拭いは一輝とその兄弟達によりなされ、神々の思惑によって人々の記憶も改変された。
罰として聖闘士の能力も失っている。
今更、何もできない。
過去を悔い、悩む以外に。

 そう、思い悩む以外になにも出来ないと思い込んでしまっている双子へ、一輝は思ってもいなかった言葉を投げつけてきた。

「だいたい、カノンよ。海皇に地表を水没させる意図がなかった、と何故気付かない」

「……はっ?」

「どういう事だね、一輝?」

 突拍子のない言い分に、カノンは瞬きを忘れて瞠目し、サガは訝しげに問い返す。
すると、一輝は繋がりのなさそうな質問を投げてきた。

「雨は何処から降るか、理解しているよな?」

 双子がどういう事かと目線で互いの思惑を探り合い、答えが導き出せないままカノンが当たり障りなく答えてみる。

「……空、いや、雲だろ」

「その雨雲はどこから?」

 すかさず一輝に問い返され、サガがしばし考えてから返答する。

「……それは、海、だな」

「そうだ。海から蒸発した水蒸気が雲を作り、地上で雨となって海へと戻る。だが、それでは水が循環しているだけだ。海水の量が増えないのだから、海面は上昇しない」

 指摘されれば、確かに言われた通りだ。

 海皇が世界中に大雨を降らせた時、普段はあまり降水量のない地域や治水が整っていない地域が大規模な水害に見舞われたけれど、ただ循環させるだけでは地表を水没させるには至らない。
過去には200万年も雨が降り続いた時代もあったそうだが、その時も地表は水没しなかったのだから。

「海皇が本気で地表を水没させるつもりだったなら、まず極地や高地の氷結した水を全て溶かしていた筈だ」

 そうやって海水の総量その物を増さなければ、海面が上昇する事はない。
それをしなかった、という事実が海皇には地表を水没させる気がなかった、と一輝に言わせる根拠なのだろう。

 では何故、海皇はカノンの口車に乗り、地上に長く雨を降らせるなど戦女神に宣戦布告するような真似をしたのか。

「海皇は膠着状態にある戦女神と冥王の聖戦に、なんらかの横槍を入れたかった。俺にはそう思える」

 もしくは姪っ子のニチアサヒロインごっこに付き合う伯父さんムーブか、はたまた暇を持て余した神々の遊びか。
巻き込まれる人間にとってはとんでもない事態だったが、神々にとってはその程度の認識。
口には出さないものの、どうせそんな物だろうと一輝は考えている。
神など、碌でもない、と。

 要はカノンが海皇を誑かした訳ではなく、タイミングよく手駒が転がり込んできたから体良く使われただけ。
だから裏切りが露見し、戦女神を庇って離反を示しても、海皇は然程気にしていなかったのかもしれない。
それどころか、冥王との決戦前に黄金聖衣をエリュシオンへ送り込む、なんて褒美のような支援までしてくれたのだし。

「だからこそ、神々の影響で起きた被害は、なかった事にはなってないんだ」

 多くの人類から聖闘士や聖衣の記憶は神々の意向により改竄されたが、聖戦やその前哨戦において引き起こされた天変地異に伴う災害はなかった事にはなっていない。

 海皇が降らせた大雨での水害や、海底神殿の崩壊により起こった高波は世界各地で甚大な被害をもたらした。
現在、海皇の憑座よりましとなった青年はその被害に心を痛め、私財を投げ打って復興に尽力している。

「グラード財団も被害地域への支援をしているのは知っているな? そこへ投入する資金の調達、そして集めた資金の分配や支援の方策、考えなけりゃならん事だらけだ」

 答えの出ない、出たとしても今更どうにもできない過去に思い悩むくらいなら、現在するべき事とどう未来を作っていくかを考えろ。
一輝はそう双子へ告げた。

「思い悩むな、とは言わん。しかしな、やれる事をやるのが先だ」

 似たような事をしでかした、と前置いたように、一輝も心に重くのしかかる過去を抱えているのはサガもカノンも知っている。
けれど、彼は他人にそれを悟らせる事なく、前を向いて未来へと進んでいるのだ。
その姿勢が双子にはとても眩しい。

「金と虚栄心しか持ってない奴らから復興資金をふんだくる方法、お前なら幾らでも思いつくだろう。なあ、カノン?」

 挑発的に問いかけられたカノンは苦く笑う。

「ああ、そうだな。一輝」

「金を集めたとしても、支援の行き届いていない地域は多く、迅速に支援方法を探して、的確な資金分配をしなきゃならん。そうだろう、サガ?」

 視線を向けられたサガも、決意を持った微笑みで応えた。

「大変な事業だが、やりがいはあるな」

 それぞれ決意を示すように、手にしたマグから冷めかけたホットミルクをあおる。
微かにミントが香り、爽やかな後味に少し物足りなさを感じた。
けれど、冷えた指先が暖かさを取り戻し、気力が満ちていくような気がする。

 双子が人心地ついたのを見計らって、一輝は立ち上がって2人からマグを回収した。
そのまま、ミニキッチンで軽く濯いでグラスの横に伏せる。

「さて、いい加減寝るか」

 だが、そう言って寝室のドアを開けようとする一輝に双子はひどく慌てた。

「待て待て待て、一輝!」

「そこはカノンの寝室だぞ」

 一輝は何をそんなに、と小首を傾げて訝しげに見返すが、双子としてはこのまま彼を寝室に入れる訳には行かなかった。

 日本人の感覚では理解し難いのだが、欧米は個室文化───同じ寝室で寝る者には肉体関係がある、と見做されるから親子兄弟であっても寝室は別なのが当たり前なのだ。
子供が一緒に居て、と強請っても親は寝付くまで寝室のドアを開けたまま寝台の側で見守りはするけれど、同じ寝台で一緒に寝る事は絶対にしない。
たとえ寝台が別であっても、寝室が同じならばそういう関係だ、と思われるからだ。

 その為、とある有名な探偵小説では同じ部屋で夜を過ごさねばならなくなった男性2人について、1人は1晩中椅子に腰掛けて思案していたと言い訳のように描写されている。

「私たちの感覚では、寝室に入れる事がもう、その、そういう行為をしているのと変わらないんだ。だから、君を、カノンの寝室に入れる訳には、行かない」

「そうだぞ、一輝。お前だって嫌だろう? オレと、その、同じベッドとか……」

 必死にサガとカノンが引き止めるものの、ここは日本であり、幼い頃から施設で同年代の子供たちと雑魚寝で育った一輝にその道理は通じない。
同じ部屋どころか同じ布団で寝かされていた兄弟がいるのだ。
気にする方がおかしい、とすら思う。
だからこそ、自信満々に請け負ってみせる。

「安心しろ、昔から寝かしつけは得意だ」

 2才になった頃から、生まれたばかりの弟の面倒を見てきただけでなく、1年間共に暮らした兄弟全員から憧れのお兄ちゃん扱いされていたのだ。
寝ぐずる子供の扱いはお手のものである、と。

「……それはそうかもしれんが……」

 カノンとしては手の掛かる弟扱いされている事はなんとなく嬉しくもあり、しかし年上としての矜持もあり、複雑な気持ちになる。
サガにしても双子の弟が10才以上年下の少年に子供扱いされているのは情けないし、同時にとても申し訳ない。

「まあ、ここで揉めても時間が無駄だ。お前たちの言い分も聞く。親が子供を寝かしつける時みたいに寝室のドアを開けておけば、問題なかろう?」

 受け入れられなくもない譲歩をされ、双子は一輝の提案を受け入れざるを得なかった。
カノンが先に寝室に入り、入り口で心配そうに見守るサガを他所に気負いなく一輝が続く。

「……明るいと眠れないんだが?」

「安心しろ。1時間以内に寝付けなかったら、強制的に寝かせてやる」

 寝台に腰掛けてドアから漏れる隣室の光を睨みながら呟くカノンへ、頼もしく拳を掲げて一輝が宣言した。
幻魔拳の暗示で、と。

「……せめて、いい夢にしてくれ」

「任せておけ」

 過去にその拳によって己の悪行を自白させられた経験上、今夜は間違いなく眠れるとポジティブに考えることにしたカノンは観念して寝台へ転がった。
寝巻きではなく部屋着だが、もう着替えることすら億劫になっている。
天井を向き、薄手のブランケットを被って、強く目を閉じた。

 カノンの閉じた瞼に落ちかかる隣室の光を遮るように、暖かな手が重ねられる。
寝台の端が沈んだ感覚があったから、一輝がベッドに腰かけたのかもしれない。

「寝る時は、何も考えるなよ。今、お前がしなきゃならん事は、寝る事だ。考える事じゃない」

 穏やかな声で、一輝が語りかけてくる。

「余計な事を考えそうになったら、額に『A』の文字が浮かぶのをイメージしろ」

 禅宗の瞑想では『阿』の文字を思い浮かべるのだが、ギリシャ人にはアルファベットの方が馴染みがあるだろうと考えて一輝は言い換えていた。

「人間ってのはどんなに頭の回転が早くても、1度に考えられるのは1つだけだ」

 だから、辛い過去や嫌な未来が眠りを妨げてきた時は、1つの文字をひたすらに思い浮かべるだけで、思考はリセットできる。

「お前がするべき事は、寝る事だ。寝て、体調を整えて、明日からやれる事を全力でやる為に、寝ろ」

 いつの間にか、カノンには雨音が聞こえなくなっていた。
代わりに、心地よい声だけが静かに響いている。
強張っていた手足から力が抜けていき、やがてカノンは人生最速で健やかに寝落ちた。
 
 
 
 翌朝、あまりに深く寝過ぎてちっとも寝た気がしないのに、すっきりとカノンは目覚めていた。
窓の外は明るくなりかけているらしく、まだしとしとと雨が降っているが、昨日ほど雨音が気にならない。
梅雨寒というのか、少し肌寒い空気に抱きしめていた温もりを更に引き寄せ、2度寝に入ろうとした。

 そこで、気付く。

 自分は一体、何を抱きしめて寝ているのか。

 恐る恐る目を開ければ、見慣れた癖の強い黒髪の少年が背中を向けて密やかな寝息を立てていた。
必死で昨夜のことを思い返してみるが、自分を寝かしつける為にベッドの縁に腰掛け、額に手を当てられていた記憶が最後だ。
なにがどうなって、彼を抱きしめて寝ていたのか、カノンには分からない。

「……なんで……」

「目が覚めたか、カノン」

 聞き慣れた低い声に、つい肩がすくむ。
これは機嫌の悪い兄の声だ。
恐る恐る振り返れば、サガは寝室ではなく、拳ひとつ分程開けられていた隣室とのドアのすぐ近くに椅子を置いて座っているらしい。

「……ああ。なんで、こんな事になったのかは、理解できんが……」

 カノンは心底困惑していると告げ、この状況を説明して貰えないか、兄へ願う。
ずっと状況を見ていたのだろうサガは呆れも隠さず、弟が寝入った後の事を語った。

「お前が寝入った後、一輝が部屋を出ようとしたんだが、寝ぼけたお前が彼を抱きしめて離さなかったんだ。ようやく寝たお前を起こすのは忍びないという彼にブランケットを渡して、お前と一緒のベッドで休んでもらった」

 きっとサガと一輝の間ではもっと互いを説得するやりとりがあったのだろうが、結局はサガが折れたらしい。
そして、心配のあまり、徹夜で見張りをしていた、と。

「それでお前は一晩中、そこにいた訳か。済まなかったな、兄さん」

「全くだ。それで、どうする?」

「……外を走ってくる。一輝はこのまま寝かせておくから、お前も部屋に戻って寝てくれ」

「そうさせてもらおう」

 ベッドから起き上がり、クローゼットからトレーニングウェアを取り出すカノンの背に、サガが釘を刺してくる。

「カノン、お前は一輝専属の運転手でもあるんだ。寝不足で事故なんか起こせば、彼だけでなく、多くの人に迷惑をかけるだろう。眠れなくなったら、もっと早めに周囲を頼れ」

「……また、こんなことがあれば、そうするさ」

 指摘されるまでもなく、1人で抱え込んでも解決しない事はもう思い悩むつもりもなく、代わりのいる役目なら代わって貰う方が迷惑をかけずに済むと学んだ。
だからこそ、カノンも言っておかねばならない。

「眠れぬ夜があればすぐに言ってくれよ、兄さんも」

「できるだけ、そうならないようにするさ」

 そうでなければ、世話焼きなお兄ちゃんが寝かしつけにくるからな、と双子は密かに笑い合った。
 
 
 
★ ☆ ★ ☆ ★

 
 
 
 そろそろ梅雨が明けるか、という時期。
グラード財団の海外支援部門の代表として城戸一輝がチャリティパーティーへ参加する為、サガとカノンも秘書と運転手として随伴する事となった。

 そのパーティーの主催者がジュリアン=ソロだと、招待状で知っている。
彼がグラード財団総帥である城戸沙織へプロポーズした事も、カノンによって封印から解き放たれた海皇ポセイドンの憑座よりましであった事実も共有済みだ。

 世界でも有数の大商会を率いる若き実業家であったジュリアン=ソロは世界中で同時多発した大規模な水害に酷く心を痛め、私財を投げ打って被災地の支援と慰問に奔走すると同時に、世界中でチャリティコンサートやチャリティパーティーを開いて多くの寄付を募ってもいる。
社会的には立派な篤志家、もしくは世間を知らぬ偽善者、と様々に名を馳せていた。

 ただ、ジュリアン=ソロがこのような活動に熱を入れるに至った一端をカノンは担ってしまっているし、つまり遠因はサガでもある。
そういった意味合いでは、双子は非常に顔を合わせずらい人物だ。

「グラード財団とソロ商会、お互いの支援活動は協力し合っているし、手を差し伸べる地域が被らないよう調整もある。今後も何かと顔を合わせる相手だ。最初に蟠りや懸念は解消しておいた方が後々揉めずに済む」

 そう、上司である一輝に言われてしまえば、お供せざるを得ない。

「ジュリアン本人にオレたちとの面識はないんだ。海皇厄介なのが出てこなければ、問題はなかろう」

 そう一輝は言うが、多分、出てくるだろうな、とカノンは予感していた。
それだけでなく、ジュリアンにはソレントが常に付き従っている。
海将軍の1人であるセイレーンの海闘士であった、カノンの背信を赦していない男が。

「ようこそ、グラード財団海外支援部門代表の方ですね。はじめまして、ジュリアン=ソロです」

 にこやかに出迎える華やかな主催者の背後で、見覚えのある美青年が公共の場でして良い限度を越えそうな嫌悪の表情でカノンを睨みつけてきた。
それを正面から受け流し、そしらぬフリで一輝も対応する。

「お招きありがとう、ソロ氏。本日は総帥が参加出来ずに申し訳ない。城戸沙織の叔父で、城戸一輝だ。よろしく」

「沙織嬢の叔父上ですか! では、私が彼女にプロポーズした件はお聞きですか?」

「本人から聞いている。だが、それは別として今回のチャリティの主旨に賛同したからこそ、ここへ来た。今日はそちらの話をしよう」

「ありがとうございます。是非、あちらで詳しく話をさせてください」

 主催者たるジュリアン直々にパーティー会場の一角に用意された商談用だろう半個室へ招かれ、参加者の注目を集めながら一輝はサガとカノンを伴って続く。

 絶妙に配置された衝立越しに誰と誰が会談をしているのかを見せながら、詳細は近くにいる者にしか聞かれないような距離感で設けられた場には、4脚の1人掛けソファが対面して置かれていた。
一輝に勧めたソファの対面にジュリアンは腰を下ろし、それぞれの背後にサガとカノン、ソレントが立つ。

 ソレントの表情がカノンを赦していない、と如実に語ってくるので、一輝は先にこの2人に話をさせるべきだと判断した。

「実はうちの秘書の1人が、そちらの彼と知り合いでね。我々が支援の話している間に、彼らに話をさせてもらっても? 個人的にやりとりがある方が、今後の取引はスムーズになるだろうし」

「それは願ってもない。良いだろうか?」

 一輝からの申し出に、瞬時にメリットを弾き出したジュリアンはソレントへ振り返る。
問われた美青年は先ほどまでとは打って変わった涼しげな笑みで、了承を示した。

「ええ。では、場所を変えましょうか」

「……ああ」

 一輝が提案し、ジュリアンが受け入れ、ソレントが了承したのなら、カノンに拒否権はない。
最初に蟠りは解消しておけ、と言われていた以上、こうなる事も予想はしていた。
未練がましく兄と上司を見遣ってから、カノンはソレントの後を追う。

 尚、ジュリアン=ソロに付き従っていた美青年についていく弟の背中に、何故か末っ子トリオが口ずさんでいた仔牛が売られていく悲しげな歌が聞こえた、とは後日の兄の弁である。
 
 
 
「まさか、またあなたと顔を合わせる事になるとは、ね」

「それは、オレにも予想外だったよ」

 パーティー会場に設けられたラウンジの端、窓辺のカウンターに1人分の距離を置いて並んだカノンとソレントは、互いに顔を見合わせる事なく、正面の窓に映る自分自身と窓外に広がる庭園の景色を睨みながら言葉を交わす。

「死ぬ覚悟で冥界へ下り、実際に死んだのだ。女神の恩恵により、こうしているがな」

 だから、どんなに恨まれていても殺されてやる訳にはいかない、と牽制し、カノンは言葉を続ける。

「今は兄と共に、幼少期から迷惑をかけてしまったあいつらを支えながら、自分のしでかした尻拭いの手伝いをしているんだ」

 いつまでかかるか分からないが、その後でなら殺しに来い、と物騒な誘いで締めくくる。

 それにソレントは呆れたように、いりませんよ、と返した。

「今更、あなたの命を取った所で、私に犯罪歴がつくだけだ。だったら、そちらの財団とジュリアン様の為に、馬車馬のように働いてくれないか」

 赦してはいない許しの言葉に、カノンは我が耳を疑う。

「あなたが、私たちを偽っていた事は赦しはしない。だけど、あなたがあの封印を解いていたからこそ、私たちが救われたのもまた、事実だ」

 海闘士となる者の多くは、海難事故などで海底深くに沈み、死の1歩手前で鱗衣に導かれて海底神殿に辿り着いて命拾いしていた。
アイザックだけではない。
他の海将軍らも、似たり寄ったりな経緯で集まったのだ。
当然、ソレントも。

「あなたには偽りでも、私たちには真実、救いだったのを、覚えておけ」

 彼の怒りの意味と、その深さを知ったカノンはソレントの方を見ないまま、苦笑を浮かべ、頼みがある、と告げた。

「アイザックに、あいつの師匠と弟弟子の連絡先を渡して貰えないか? 連絡をするしない、はアイツに任せる。だが、心配している、とだけ伝えてくれ」

「預かろう」

 カノンは内ポケットから予め用意していた封書を差し出し、中身は改めて貰って構わん、と言い添える。
ソレントは、そんな無粋な真似をするとでも、とそのままポケットへしまったが。

「それにしても」

 通りすがりのボーイから受け取った炭酸水を含んだソレントは深く息を吐いて、呟く。

「本当に、あなたと同じ姿の人間がいるものなのだな……」

 その言葉は、カノンには少し擽ったい、新鮮な驚きを齎した。

 今までは、サガを先に見知った者がカノンと遭遇していたから、逆の事を言われてきたのだ。
サガと同じ顔だ、と。
だが、ソレントをはじめとした海将軍たちはカノンと先に出会っていて、いずれサガを見て驚くのだろう。
カノンと同じ姿だ、と。

 その場面を想像したら愉快で、楽しみで、カノンは笑い出しそうになる。

「……何がおかしい?」

「いや、すまん。お前とこんな風に話せるとは思っていなかったのと、またアイツらの顔が見られると思ったらな」

 カノンにとって海闘士、海将軍、海竜という立場は虚構の立場だった。
けれど、他の海闘士らとの交流は、カノン自身が築いた初めての他人との関係である。
いや、カノンでもなかったけれど、サガの代わりでもなく居られた、初めての。

 今更ながら、カノンは自覚した。
海将軍として活動していた自分は、サガに対抗していずれ自身が地上を支配する野望に取り憑かれてはいたけれど、同時に自分が聖闘士であったらこうでありたかったという理想を演じていた気もする。
強く、他の海闘士から尊敬され、頼られる、サガの表の顔のような。

「アイツらに合わせる顔がないのは承知している。だが、いっぺんは、殴られてやらんと互いに収まりもつかんだろう。だから、いずれ、会いに行く、と伝えてくれ」

 若いというより幼いと言った方が的確な、今考えると気恥ずかしいばかりの振る舞いに付き合わせてしまった彼らからどんな言葉を浴びせられようと、暴力を振るわれようと、受け入れる覚悟はしていた。
まず、ソレントから、と腹を括って会ってみれば、随分な肩透かしを食らってしまったが。
これから再会するであろう、元海将軍らがどんな反応をするのかは、分からない。
だからこそ、覚悟だけは、しておいても無駄にはなるまいと思っていたが、きっとこの先、カノンの覚悟に出番はないだろう。

「……おかしな趣味だ」

 心の底から呆れた声音で呟くと、理解不能という視線を向け、ソレントは手にしていたグラスから炭酸水を飲み干す。

「伝言は確かに。そろそろ戻りましょう。あまり野放しにしておくと、厄介なのが出てくるので……」

「……いや、それなら、もうちょっと話してから戻った方がいい、と思うが……」

 どうやら彼も海皇アレを厄介者と認識しているようだ。
そして、カノンの勘は、既に来ているから、今戻る方が面倒になる、と告げている。

 その勘働きを信じるか否かはソレントに任せたが、しばしの沈黙の後、彼はボーイを呼び止めた。
炭酸水を追加で頼み、無言で庭園へ視線を戻す。

「……今後の連絡方法について、話しておこうか……」

「……そうだな」

 互いに財団と商会を通して、とだけ伝え合えば済むのを理解していて、あーだこーだと取り止めもない意見を交わす。
場繋ぎでしかない会話は、不思議と両者の蟠りをほんの少し解いてくれたのかもしれない。
結局は、仕事用の携帯電話へ連絡をしあう事となった。

 場合によっては、戦女神や海皇からの伝言を伝え合わねばならない事もあると考えれば、それが最も安全かつ確実だろうから、と。

 充分な話し合いを終え、カノンとソレントはそれぞれの主の下へ戻る。
そちらの方でも有意義な話し合いが行われたようで、一輝とジュリアンは握手を交わしていた。
一輝の背後に控えるサガは妙に疲れているように見えるが、多分、問題ないだろう。
何かあるのなら、自主的に申告し合おうと約束したばかりなのだし。
 
 
 
 【続く】 
‡蛙女屋蛙姑。@iscreamman‡ 
WRITE:2023/11/04〜2024/11/05
UP DATE:2024/11/05 
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