Happily Ever After
[01 Saga[2]]
最初は提案だった筈が、既にサガが手伝う事を前提にカノンは話を進めていたらしい。
思いたったが即断即決の事後報告はこの弟らしい、と不意に苦笑が湧き上がってくる。
忘れていた双子の弟の性格を思い出し、懐かしさと情けなさで泣きそうになりながらサガはぐっと眉間に力を込めて睨みを利かせた。
「おい、カノン。お前は最初から私を巻き込むつもりだったのか?」
「当然だろう。第一、嫌だとは言わせんし、お前には言う権利もなかろう? 違うか、サガ?」
「……ああ、そうだったな。私も、お前と一緒に彼を支えよう」
初めて弟と共に同じ目標へ向かう事の出来る嬉しさを気取られぬように。
午前中にテラスで読書を始め、昼と午後のお茶を挟んでの夕食前のひと時───陽の暮れ出す少し前の頃、自室にとあてがわれた客室の居間でソファに腰掛けたサガは読み終えた本を閉じて膝に置き、用意されていたポットからまだ暖かい紅茶を不作法だなと思いながら飲みかけのティーカップへと注ぎ足した。
少し渋めに抽出された紅茶に少しの甘みを加えるのがサガの好みである。
ティースプーン1杯分を垂らしたジンジャー漬けの蜂蜜はまろやかな辛味が紅茶の渋味と混じり合い、ほのかな甘味も引き立ててくれるので気に入っている。
「読み終わったのか?」
「ああ。短いものだったからな」
同じソファの反対側に座って雑誌を眺めていた双子の弟から勧められてサガが読んでいたのは、この国の神話を英訳した薄い書籍だった。
まだ古文を読む程には日本語に精通していないカノンにこの本を勧めたのが一輝であり、ギリシャ神話と共通する部分はありながらもこの国独特の結末や神々が無闇矢鱈と敵対したりうっかり世界が危機に陥る事のない平穏さが面白いのだ、と勧めてきた時に聞いている。
元々興味もあったので目を通してみたのだが、多くの神話にもある冥界下りの顛末には確かに独特で驚いたし、何より神々同士では殆ど争わない事に考えさせられた。
英雄たちの活躍も然程大々的ではなく、ただ多くの神々が存在している事を知らせ、神々が担う役割を紹介していく文字通りの神話である。
「実に興味深い神話だった。特に冥界下りの顛末。アレは恐ろしいな」
「だろう? オレはスサノオが姉のアマテラスに謀反を疑われた場面が好きでな」
「身につまされでもしたか?」
「疑いが晴れたのに難癖をつけてくる姉が、誰かを思い出させてなあ」
サガのからかいに、カノンは人の悪い笑みを返す。
蘇ってからまだ1ヶ月程だが、こうして冗談を言い合えるくらいには2人の関係は修復されていた。
互いにこめかみや口元が引きつっているのは、まあ、今は仕方がない。
「実に有意義な読書だったお陰で読書欲求が高まってしまったな。カノン、お前は今、何を読んでる?」
「この国の軍記物や中国の演義物をな。特に演義物は日本の創作にも多く影響を与えているから理解する為に読んでおくといい、と一輝に言われた」
カノンは休憩がてら眺めていた経済誌をソファに置き、途中まで読み進めていた分厚い書籍をテーブルから取り上げてサガに手渡す。
英訳された物だが、サガも知っている題名だった。
古代中国で繰り広げられた壮大な軍記物は、確かにこの弟好みであろう。
そしてサガ自身も興味のある内容だ。
「……なるほど。私も一輝にお勧めを聞いてみるか」
そのまま読み進めたくなるのを堪え、分厚い書籍をカノンへと返す。
受け取ったカノンは表紙を撫でて組んだ膝に置き、我がことのように得意げに語り出した。
「それがいい。アイツの選書に外れは無いってデスマスク達も言ってたからな」
「彼らも? どんな本を薦められたのか聞いているか?」
まだ安定した収入のない居候の身であるからか、単に手近だからなのかは分からないが、一輝はこの邸の書庫にある書籍から勧めてくれるようだ。
元々、海外からの客人が暇を潰す為にと設けられた施設であるからか、この国の古典から近代までの文学、その日本文学に影響を与えた中国の古書、そしてそれらの英訳が多数揃えられているので正しい選択といえる。
単にこの世間知らずな外国人の居候たちを野放しに町の書店や図書館に解き放つ事に懸念を抱いたから───かもしれないが。
「デスマスクは、200年以上前に出版された1つの食材をメインに100ものレシピを載せた料理本と言っていた。まあ、原本ではなく写しの英訳だったらしいが。それでも幾つか興味深い料理法があったみたいでな。最近、なんかやってるだろ?」
「……ああ。だから近頃、彼が当番の時は玉子料理が多いのか……」
「あとな。名店をランク付けしたバンヅケ?とかいうリーフレットを集めて解説してる本。100年とか200年前のバンヅケに載ってる中に、今でもやってる店も幾つかあってな。いつか絶対行ってやるって張り切ってた」
楽しげに話すカノンの笑みが、なにか良からぬことを企んでいるかのように見えてしまうのは、未だにサガがこの双子の弟を全面的に信頼するに至っていないからであろう。
それは弟のふざけた態度だけではなく、サガの心の持ちようが原因だ。
この弟が自分を悪の道へと唆した───ずっとそう思い込んでいたのではないか。
弟に事実を誤認する情報を与え、己に都合の良い事を言わせていただけだったのではないか。
そう気付いてしまった弊害で今のサガは自分自身とカノンの言葉に疑いを抱き、素直に受け入れられない時がある。
特に、同意や肯定、擁護の言葉を。
本当はきちんと話し合って深い溝を埋めていかねばならないのに、自分も相手も信じられない事へのもどかしさと情けなさも相まって、益々踏み出せなくなる。
下手をすればまたあの悪循環に陥りそうな2人がこうして当たり障りのない会話ができているのは、思い込みから誤解を生じそうになると橋渡しをしてくれる女神をはじめとするこの邸の住人たちのおかげだ。
特に一輝はサガとカノンの双方と所縁があるせいか、それとも多くの兄弟を持つ者として似た事例を目にしてきた経験からか、最も的確なタイミングで2人の行き違いを正してくれる。
散々迷惑をかけてきた罪滅ぼしとして彼を支えようと決めているのに、こうして手数をかけさせているのは本末転倒なのでは、と思わないでもないが。
「……本当に彼は博識だな。あれだけの蔵書から的確な選書ができるとは」
「アイツ、ガキの頃に全部読んだって言ってたからなぁ……」
城戸邸の蔵書室は一般的な学校の図書室並みの規模があり、蔵書量も多いが収められている書籍も子供向けとは言い難い。
成熟した大人の知識欲を刺激する、そんなラインナップである。
修行地に送られる前の1年───8歳から9歳の一輝が読めるだろうか。
そう疑問を抱いた所で、彼なら読んでいただろうな、とサガは思い至った。
彼の師から聖闘士としての戦い方や敵となる神々の知識など学ぶ事には真摯に取り組むし、飲み込みも早いから教える事がなくなる、と弟子の才能を認める報告を偽教皇として受けている。
多分だが、冥王と遭遇した一輝は弟を守る為に小宇宙に目覚め、無意識のうちに聖闘士としての特性を発揮していたのだろう。
聖闘士に1度見た技は効かない───目にした物を1度で全て記憶し、それを理解して自身の知識として使う。
それを戦闘ではなく学習に応用すれば、とても効率的だ。
全ての人───いや、他の大多数の聖闘士にだって容易にできる事ではないけれど。
「……本当に彼は規格外だな……」
「ああ。そう、ん?……」
サガが感嘆の声を漏らすのに同意しかけたカノンだが、不意に言葉を切ってドアの方へ顔を向けた。
聞き耳を立て、気配を探っているように見える。
「……おい、どうした。カノン?」
弟の様子を不思議に思ったサガが問い掛けたのとほぼ同時に、ゆっくりと確認するようなノックが響いた。
こんな扉の叩き方をする人間はこの邸には1人きりしかいない。
兄の了承を得るためか振り返ったカノンに頷いて見せれば、素早く立ち上がってドアを開けると訪れた者に声を掛けた。
「どうした、一輝? オレに何か用か?」
「……いや。ちょっと、入っても構わないか?」
「勿論だ」
何かに追われてでもいるのか背後を気にしながら、一輝は素早く部屋へ入り込んできた。
一体何が彼をこれ程に追い詰めているのか、不思議に思いサガは問う。
「やあ、一輝。一体どうしたのだ? 何やら背後を気にしている様子だったが」
「大した事ではない。それより15分ほどでいい。匿ってくれ」
「匿う? 構わないが、穏やかではないな。本当に、何があるというのだ?」
「あー、弟共、だろ。この間、お前を蔵書室まで追いかけてきて騒いでたしな。そこに座ってろ。何か飲むか?」
今まで自分の座っていたソファの隣───サガとの間に席を勧め、飲み物を尋ねるカノンに断りを入れ、一輝は用件を告げる。
「いや、いい。すまんが、少し休ませてくれ」
「……どうしたというのだ? ここでよければ、私たちは構わないが……」
「すまんな。気は使わないでいい……」
一輝にも自室があるのだが、どうやらそちらでは落ち着けない理由があるようだ。
カノンに勧められた場所ではなく、双子と対面したソファのドアから死角になった位置へ一輝はもたれ込む。
深く息を吐いて目をつぶってしまうと、もう身動ぎもしない。
相当に参っている様子だ。
「……さっき、蔵書室まで追いかけてきて騒いだというのは、星矢か?」
一輝の休息を邪魔しないよう、サガは元の位置に座り直したカノンへ小声で問いかける。
「それと、瞬だ。あと、あの時は邪武もか。アイツら暇さえあれは構ってくれと一輝を追いかけ回してる……」
呆れまじりに、だが同じく声を潜めてカノンはサガの問いに答え、その時の事を話し出した。
「一輝が学園に通うのは月曜日だけだし、他の日は財団で仕事してるからな。大好きなお兄ちゃんと居られる時間が少なくて弟共は不満なんだろう。隙あらば構ってくれと自室に突撃されるんだと」
一応、休日には共に訓練をしたり、勉強を見てやったりと一輝も弟たちと関わろうとはしているけれど、何しろ10人兄弟では1人1人と触れ合える時間は短い。
年嵩の兄弟たちも末の弟たちを多少優遇しているのだが、それでも末っ子連中には物足りないようで一輝がようやく捻出した自分の為の時間にまで度々乱入しているのだ。
既に自室には幾度となく突撃し、かなりこっ酷く叱られているのに末っ子共はそれすら構って貰えて嬉しいらしく、ちっとも懲りない。
そこで一輝が広い邸のひと気のない場所を見つけてひと息入れていれば、そちらも見つけ出して───という事を繰り返している。
何しろ末っ子共の中には高性能な索敵能力を有する聖衣の保持者がいるのだ。
広大とはいえ限りある邸の敷地内では、次元を越えて目的の相手を見つけ出す星雲鎖からは逃げ場がない。
「アイツらと違って学園で出された課題や授業の予習復習だけでなく、財団の仕事や社会の知識を学ぶ時間だって必要なのが分かってないんだろう……」
「それと、情報を整理する時間と、休息もだな……」
財団での補佐役として一輝を側で見ている2人だからこそ、彼がどれだけ忙しいかを理解している。
仕事の殆どは文書や電話での海外とのやりとりだが、会議では親子程も歳の離れた口が達者で根回しの得意な重役たちが相手だ。
本人は総帥である沙織より御し易いなどと言っているが、主流派から外れた役員が現総帥の叔父という立場に擦り寄ってくるのは面倒でしかないだろう。
そういった輩の炙り出しを狙い、敢て素性を明らかにしているとは言え。
そればかりか、邸にいる間は自分の学習だけでなく弟たちの面倒も見ているし、時には世間知らずの居候の相手もしている。
手料理が食べたいと強請る弟たちと、それを羨ましげに見ていた居候たちに週1回の弁当作りだけでなく、弁当には向かない料理のリクエストに応えて料理好きな居候の手を借りはするが、休日の昼食か夕食まで一輝が作るのだ。
材料は事前に頼む事も出来るが、時々は買い物にも出ているし、下拵えにも時間が掛かるというのに。
その合間に自身の鍛錬も欠かさないし、兄弟たちと訓練もしているのだから、一輝の自由になる時間などあってないようなものだ。
「……まだ若いから肉体的には問題ないのかもしれないが、精神的な疲労が心配だな……」
かつて精神的に追い込まれて大変な事をしでかしたサガの懸念はとても実感がこもっていて、ひどく現実味がある。
しかし、同意もしづらいカノンは他の気掛かりを上げた。
「いや、若いからこそ休息は大事だろ。コイツの活動量に休息と栄養が追いついてるとは、とても思えんぞ」
肉体は運動と休息、そして栄養のバランスによって構築されるのだが、どうも日本人の多くは運動以外を軽視するどころか不要とさえ見做している節がある。
聖域をはじめとする聖闘士の修行地の多くは過酷な修行を課しても、それに見合った休息と充分な食事が与えられるのだが。
だからこそ、一輝の食事量の少なさは城戸家全員が頭を悩ませている問題のひとつである。
これは幼少期から充分な食事が与えられて来なかった中でも弟を優先してきた慣習と、修行地の過酷過ぎる環境によって最悪だった食糧事情に耐え切ったせいだ。
以前、一輝の朝食の少なさをデスマスクが揶揄した際、修行地で口にしていた1日分の食糧より多いと事もなげに返され、全員が言葉を失った光景は絶対に忘れられない。
これについては後日、彼が孤児として扱われるに至った要因であり、修行地の環境を改善しなければいけない立場にいたのに放置したサガが原因だとカノンから指摘され、双子の間でかなり本格的な肉体言語による話し合いがされた。
決着はつかなかったが、サガは全面的に非を認めている。
本当に一輝には迷惑をかけ通しだ。
「邸の食事は充分に用意されてんのに、なんでか弟共は一輝にたかるしなぁ……」
「一輝も一輝で、強請られれば与えてしまうし……」
朝食は家族全員で、と家長たる沙織が宣言してしまっているから今更撤回して貰うのも心苦しいし、今まで離れ離れだったのだから家族揃っての時間は絶対に必要だと彼らも考えているから除外して。
財団でのミーティングや、関連企業との会食やパーティーにも出席しなければならない昼食や夕食の機会はどうにかできないものだろうか。
「せめて週に数回、弟共や財団の役員共も居ない食事の時間を確保してやりたいな」
「……後でスケジュールを見直して、時間を作ろう……」
そんな風に2人でこっそりと今後の方針を話していると、またカノンが周囲を警戒する猟犬の如くドアの方を向く。
「……弟共が嗅ぎつけたな。ちょっと時間を稼いでくる。後は頼むぞ、サガ」
そう言って立ち上がると、音も立てずにドアを開閉して廊下へ消えた。
邸の分厚いドアと壁は多少の物音は遮断してくれるのだが、あのカノンはどうやって訪問者がいると気付くのか不思議である。
サガには全く感じられない───野生の勘だろうか。
「……それにしても、後は頼む、とは……」
初めて言われたな、と面映い気持ちでサガは独言る。
これまで一方的に押し付けてばかりで、弟から何かを託された事などなかった。
そう考えると情けないばかりなのだが、あの弟から信頼されるのは存外悪い気分ではない。
それに《神をも誑かした男》とまで言われる程に弁の立つカノンであるから、少年たちを丸め込むくらい造作もなく、きっとサガの出番はないだろう。
妙な入れ知恵をしていないか、という不安は拭えないけれど、ここで匿っている一輝に今1番心を砕いているのがカノンだ。
けして彼の不利になるような事はしない、はずである。
「……まずは、この平穏を守り切れれば良いか……」
穏やかな呼吸で休んでいる一輝を強い西日が照らしているのに気付き、せめて自分にできる事───カーテンを閉めるくらいはしようとサガは立ち上がった。
【続く】
‡蛙女屋蛙姑。@iscreamman‡
WRITE:2017/01/02〜2020/09/9
UP DATE:2017/02/01〜2020/09/9
RE UP DATE:2024/08/16
最初は提案だった筈が、既にサガが手伝う事を前提にカノンは話を進めていたらしい。
思いたったが即断即決の事後報告はこの弟らしい、と不意に苦笑が湧き上がってくる。
忘れていた双子の弟の性格を思い出し、懐かしさと情けなさで泣きそうになりながらサガはぐっと眉間に力を込めて睨みを利かせた。
「おい、カノン。お前は最初から私を巻き込むつもりだったのか?」
「当然だろう。第一、嫌だとは言わせんし、お前には言う権利もなかろう? 違うか、サガ?」
「……ああ、そうだったな。私も、お前と一緒に彼を支えよう」
初めて弟と共に同じ目標へ向かう事の出来る嬉しさを気取られぬように。
★ ☆ ★ ☆ ★
午前中にテラスで読書を始め、昼と午後のお茶を挟んでの夕食前のひと時───陽の暮れ出す少し前の頃、自室にとあてがわれた客室の居間でソファに腰掛けたサガは読み終えた本を閉じて膝に置き、用意されていたポットからまだ暖かい紅茶を不作法だなと思いながら飲みかけのティーカップへと注ぎ足した。
少し渋めに抽出された紅茶に少しの甘みを加えるのがサガの好みである。
ティースプーン1杯分を垂らしたジンジャー漬けの蜂蜜はまろやかな辛味が紅茶の渋味と混じり合い、ほのかな甘味も引き立ててくれるので気に入っている。
「読み終わったのか?」
「ああ。短いものだったからな」
同じソファの反対側に座って雑誌を眺めていた双子の弟から勧められてサガが読んでいたのは、この国の神話を英訳した薄い書籍だった。
まだ古文を読む程には日本語に精通していないカノンにこの本を勧めたのが一輝であり、ギリシャ神話と共通する部分はありながらもこの国独特の結末や神々が無闇矢鱈と敵対したりうっかり世界が危機に陥る事のない平穏さが面白いのだ、と勧めてきた時に聞いている。
元々興味もあったので目を通してみたのだが、多くの神話にもある冥界下りの顛末には確かに独特で驚いたし、何より神々同士では殆ど争わない事に考えさせられた。
英雄たちの活躍も然程大々的ではなく、ただ多くの神々が存在している事を知らせ、神々が担う役割を紹介していく文字通りの神話である。
「実に興味深い神話だった。特に冥界下りの顛末。アレは恐ろしいな」
「だろう? オレはスサノオが姉のアマテラスに謀反を疑われた場面が好きでな」
「身につまされでもしたか?」
「疑いが晴れたのに難癖をつけてくる姉が、誰かを思い出させてなあ」
サガのからかいに、カノンは人の悪い笑みを返す。
蘇ってからまだ1ヶ月程だが、こうして冗談を言い合えるくらいには2人の関係は修復されていた。
互いにこめかみや口元が引きつっているのは、まあ、今は仕方がない。
「実に有意義な読書だったお陰で読書欲求が高まってしまったな。カノン、お前は今、何を読んでる?」
「この国の軍記物や中国の演義物をな。特に演義物は日本の創作にも多く影響を与えているから理解する為に読んでおくといい、と一輝に言われた」
カノンは休憩がてら眺めていた経済誌をソファに置き、途中まで読み進めていた分厚い書籍をテーブルから取り上げてサガに手渡す。
英訳された物だが、サガも知っている題名だった。
古代中国で繰り広げられた壮大な軍記物は、確かにこの弟好みであろう。
そしてサガ自身も興味のある内容だ。
「……なるほど。私も一輝にお勧めを聞いてみるか」
そのまま読み進めたくなるのを堪え、分厚い書籍をカノンへと返す。
受け取ったカノンは表紙を撫でて組んだ膝に置き、我がことのように得意げに語り出した。
「それがいい。アイツの選書に外れは無いってデスマスク達も言ってたからな」
「彼らも? どんな本を薦められたのか聞いているか?」
まだ安定した収入のない居候の身であるからか、単に手近だからなのかは分からないが、一輝はこの邸の書庫にある書籍から勧めてくれるようだ。
元々、海外からの客人が暇を潰す為にと設けられた施設であるからか、この国の古典から近代までの文学、その日本文学に影響を与えた中国の古書、そしてそれらの英訳が多数揃えられているので正しい選択といえる。
単にこの世間知らずな外国人の居候たちを野放しに町の書店や図書館に解き放つ事に懸念を抱いたから───かもしれないが。
「デスマスクは、200年以上前に出版された1つの食材をメインに100ものレシピを載せた料理本と言っていた。まあ、原本ではなく写しの英訳だったらしいが。それでも幾つか興味深い料理法があったみたいでな。最近、なんかやってるだろ?」
「……ああ。だから近頃、彼が当番の時は玉子料理が多いのか……」
「あとな。名店をランク付けしたバンヅケ?とかいうリーフレットを集めて解説してる本。100年とか200年前のバンヅケに載ってる中に、今でもやってる店も幾つかあってな。いつか絶対行ってやるって張り切ってた」
楽しげに話すカノンの笑みが、なにか良からぬことを企んでいるかのように見えてしまうのは、未だにサガがこの双子の弟を全面的に信頼するに至っていないからであろう。
それは弟のふざけた態度だけではなく、サガの心の持ちようが原因だ。
この弟が自分を悪の道へと唆した───ずっとそう思い込んでいたのではないか。
弟に事実を誤認する情報を与え、己に都合の良い事を言わせていただけだったのではないか。
そう気付いてしまった弊害で今のサガは自分自身とカノンの言葉に疑いを抱き、素直に受け入れられない時がある。
特に、同意や肯定、擁護の言葉を。
本当はきちんと話し合って深い溝を埋めていかねばならないのに、自分も相手も信じられない事へのもどかしさと情けなさも相まって、益々踏み出せなくなる。
下手をすればまたあの悪循環に陥りそうな2人がこうして当たり障りのない会話ができているのは、思い込みから誤解を生じそうになると橋渡しをしてくれる女神をはじめとするこの邸の住人たちのおかげだ。
特に一輝はサガとカノンの双方と所縁があるせいか、それとも多くの兄弟を持つ者として似た事例を目にしてきた経験からか、最も的確なタイミングで2人の行き違いを正してくれる。
散々迷惑をかけてきた罪滅ぼしとして彼を支えようと決めているのに、こうして手数をかけさせているのは本末転倒なのでは、と思わないでもないが。
「……本当に彼は博識だな。あれだけの蔵書から的確な選書ができるとは」
「アイツ、ガキの頃に全部読んだって言ってたからなぁ……」
城戸邸の蔵書室は一般的な学校の図書室並みの規模があり、蔵書量も多いが収められている書籍も子供向けとは言い難い。
成熟した大人の知識欲を刺激する、そんなラインナップである。
修行地に送られる前の1年───8歳から9歳の一輝が読めるだろうか。
そう疑問を抱いた所で、彼なら読んでいただろうな、とサガは思い至った。
彼の師から聖闘士としての戦い方や敵となる神々の知識など学ぶ事には真摯に取り組むし、飲み込みも早いから教える事がなくなる、と弟子の才能を認める報告を偽教皇として受けている。
多分だが、冥王と遭遇した一輝は弟を守る為に小宇宙に目覚め、無意識のうちに聖闘士としての特性を発揮していたのだろう。
聖闘士に1度見た技は効かない───目にした物を1度で全て記憶し、それを理解して自身の知識として使う。
それを戦闘ではなく学習に応用すれば、とても効率的だ。
全ての人───いや、他の大多数の聖闘士にだって容易にできる事ではないけれど。
「……本当に彼は規格外だな……」
「ああ。そう、ん?……」
サガが感嘆の声を漏らすのに同意しかけたカノンだが、不意に言葉を切ってドアの方へ顔を向けた。
聞き耳を立て、気配を探っているように見える。
「……おい、どうした。カノン?」
弟の様子を不思議に思ったサガが問い掛けたのとほぼ同時に、ゆっくりと確認するようなノックが響いた。
こんな扉の叩き方をする人間はこの邸には1人きりしかいない。
兄の了承を得るためか振り返ったカノンに頷いて見せれば、素早く立ち上がってドアを開けると訪れた者に声を掛けた。
「どうした、一輝? オレに何か用か?」
「……いや。ちょっと、入っても構わないか?」
「勿論だ」
何かに追われてでもいるのか背後を気にしながら、一輝は素早く部屋へ入り込んできた。
一体何が彼をこれ程に追い詰めているのか、不思議に思いサガは問う。
「やあ、一輝。一体どうしたのだ? 何やら背後を気にしている様子だったが」
「大した事ではない。それより15分ほどでいい。匿ってくれ」
「匿う? 構わないが、穏やかではないな。本当に、何があるというのだ?」
「あー、弟共、だろ。この間、お前を蔵書室まで追いかけてきて騒いでたしな。そこに座ってろ。何か飲むか?」
今まで自分の座っていたソファの隣───サガとの間に席を勧め、飲み物を尋ねるカノンに断りを入れ、一輝は用件を告げる。
「いや、いい。すまんが、少し休ませてくれ」
「……どうしたというのだ? ここでよければ、私たちは構わないが……」
「すまんな。気は使わないでいい……」
一輝にも自室があるのだが、どうやらそちらでは落ち着けない理由があるようだ。
カノンに勧められた場所ではなく、双子と対面したソファのドアから死角になった位置へ一輝はもたれ込む。
深く息を吐いて目をつぶってしまうと、もう身動ぎもしない。
相当に参っている様子だ。
「……さっき、蔵書室まで追いかけてきて騒いだというのは、星矢か?」
一輝の休息を邪魔しないよう、サガは元の位置に座り直したカノンへ小声で問いかける。
「それと、瞬だ。あと、あの時は邪武もか。アイツら暇さえあれは構ってくれと一輝を追いかけ回してる……」
呆れまじりに、だが同じく声を潜めてカノンはサガの問いに答え、その時の事を話し出した。
「一輝が学園に通うのは月曜日だけだし、他の日は財団で仕事してるからな。大好きなお兄ちゃんと居られる時間が少なくて弟共は不満なんだろう。隙あらば構ってくれと自室に突撃されるんだと」
一応、休日には共に訓練をしたり、勉強を見てやったりと一輝も弟たちと関わろうとはしているけれど、何しろ10人兄弟では1人1人と触れ合える時間は短い。
年嵩の兄弟たちも末の弟たちを多少優遇しているのだが、それでも末っ子連中には物足りないようで一輝がようやく捻出した自分の為の時間にまで度々乱入しているのだ。
既に自室には幾度となく突撃し、かなりこっ酷く叱られているのに末っ子共はそれすら構って貰えて嬉しいらしく、ちっとも懲りない。
そこで一輝が広い邸のひと気のない場所を見つけてひと息入れていれば、そちらも見つけ出して───という事を繰り返している。
何しろ末っ子共の中には高性能な索敵能力を有する聖衣の保持者がいるのだ。
広大とはいえ限りある邸の敷地内では、次元を越えて目的の相手を見つけ出す星雲鎖からは逃げ場がない。
「アイツらと違って学園で出された課題や授業の予習復習だけでなく、財団の仕事や社会の知識を学ぶ時間だって必要なのが分かってないんだろう……」
「それと、情報を整理する時間と、休息もだな……」
財団での補佐役として一輝を側で見ている2人だからこそ、彼がどれだけ忙しいかを理解している。
仕事の殆どは文書や電話での海外とのやりとりだが、会議では親子程も歳の離れた口が達者で根回しの得意な重役たちが相手だ。
本人は総帥である沙織より御し易いなどと言っているが、主流派から外れた役員が現総帥の叔父という立場に擦り寄ってくるのは面倒でしかないだろう。
そういった輩の炙り出しを狙い、敢て素性を明らかにしているとは言え。
そればかりか、邸にいる間は自分の学習だけでなく弟たちの面倒も見ているし、時には世間知らずの居候の相手もしている。
手料理が食べたいと強請る弟たちと、それを羨ましげに見ていた居候たちに週1回の弁当作りだけでなく、弁当には向かない料理のリクエストに応えて料理好きな居候の手を借りはするが、休日の昼食か夕食まで一輝が作るのだ。
材料は事前に頼む事も出来るが、時々は買い物にも出ているし、下拵えにも時間が掛かるというのに。
その合間に自身の鍛錬も欠かさないし、兄弟たちと訓練もしているのだから、一輝の自由になる時間などあってないようなものだ。
「……まだ若いから肉体的には問題ないのかもしれないが、精神的な疲労が心配だな……」
かつて精神的に追い込まれて大変な事をしでかしたサガの懸念はとても実感がこもっていて、ひどく現実味がある。
しかし、同意もしづらいカノンは他の気掛かりを上げた。
「いや、若いからこそ休息は大事だろ。コイツの活動量に休息と栄養が追いついてるとは、とても思えんぞ」
肉体は運動と休息、そして栄養のバランスによって構築されるのだが、どうも日本人の多くは運動以外を軽視するどころか不要とさえ見做している節がある。
聖域をはじめとする聖闘士の修行地の多くは過酷な修行を課しても、それに見合った休息と充分な食事が与えられるのだが。
だからこそ、一輝の食事量の少なさは城戸家全員が頭を悩ませている問題のひとつである。
これは幼少期から充分な食事が与えられて来なかった中でも弟を優先してきた慣習と、修行地の過酷過ぎる環境によって最悪だった食糧事情に耐え切ったせいだ。
以前、一輝の朝食の少なさをデスマスクが揶揄した際、修行地で口にしていた1日分の食糧より多いと事もなげに返され、全員が言葉を失った光景は絶対に忘れられない。
これについては後日、彼が孤児として扱われるに至った要因であり、修行地の環境を改善しなければいけない立場にいたのに放置したサガが原因だとカノンから指摘され、双子の間でかなり本格的な肉体言語による話し合いがされた。
決着はつかなかったが、サガは全面的に非を認めている。
本当に一輝には迷惑をかけ通しだ。
「邸の食事は充分に用意されてんのに、なんでか弟共は一輝にたかるしなぁ……」
「一輝も一輝で、強請られれば与えてしまうし……」
朝食は家族全員で、と家長たる沙織が宣言してしまっているから今更撤回して貰うのも心苦しいし、今まで離れ離れだったのだから家族揃っての時間は絶対に必要だと彼らも考えているから除外して。
財団でのミーティングや、関連企業との会食やパーティーにも出席しなければならない昼食や夕食の機会はどうにかできないものだろうか。
「せめて週に数回、弟共や財団の役員共も居ない食事の時間を確保してやりたいな」
「……後でスケジュールを見直して、時間を作ろう……」
そんな風に2人でこっそりと今後の方針を話していると、またカノンが周囲を警戒する猟犬の如くドアの方を向く。
「……弟共が嗅ぎつけたな。ちょっと時間を稼いでくる。後は頼むぞ、サガ」
そう言って立ち上がると、音も立てずにドアを開閉して廊下へ消えた。
邸の分厚いドアと壁は多少の物音は遮断してくれるのだが、あのカノンはどうやって訪問者がいると気付くのか不思議である。
サガには全く感じられない───野生の勘だろうか。
「……それにしても、後は頼む、とは……」
初めて言われたな、と面映い気持ちでサガは独言る。
これまで一方的に押し付けてばかりで、弟から何かを託された事などなかった。
そう考えると情けないばかりなのだが、あの弟から信頼されるのは存外悪い気分ではない。
それに《神をも誑かした男》とまで言われる程に弁の立つカノンであるから、少年たちを丸め込むくらい造作もなく、きっとサガの出番はないだろう。
妙な入れ知恵をしていないか、という不安は拭えないけれど、ここで匿っている一輝に今1番心を砕いているのがカノンだ。
けして彼の不利になるような事はしない、はずである。
「……まずは、この平穏を守り切れれば良いか……」
穏やかな呼吸で休んでいる一輝を強い西日が照らしているのに気付き、せめて自分にできる事───カーテンを閉めるくらいはしようとサガは立ち上がった。
【続く】
‡蛙女屋蛙姑。@iscreamman‡
WRITE:2017/01/02〜2020/09/9
UP DATE:2017/02/01〜2020/09/9
RE UP DATE:2024/08/16