スネイプの人形
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季節が八度巡った春の日。
窓の外では、鉛色の空から冷たい雨が降り始めていた。
ようやく突き刺すような寒さが終わり、草花を愛でる季節となったのに、やせこけたコウモリの瞳には映らない。
鏡の中に映る自分を眺め、カレンは静かに息を吐いた。
そこにはもう、十九歳の頃の、まぶしい若さを持った少女はいない。八年という歳月は、彼女の目元に消えない疲労の影を落とし、献身という名の毒でその輪郭を削り取っていた。
最後の決戦のあの日から、カレンの時計は止まったままである。
現在、カレンは聖マンゴで一般ヒーラーとして忙しく働いてた。普段は中級ヒーラーのサポートや患者対応から雑務まで長時間拘束されながれ昼夜問わず働いていた。
休憩時間や業務が終わると、難治性の呪いを受けた患者をケアする病棟の、そのまた奥にある特別隔離室にいるたった一人の患者の様子を見に訪れる。
患者は八年間眠り続けたままだ。
最終決戦のあの日、叫びの屋敷から強行した「姿現し」の先は、慣れ親しんだホグズミードの、カレンのベッドの上だった。
男を自分のベットに寝かせ、傷口を塞ぎ、ありとあらゆる守護呪文を編み込んで、逃げようとする彼の魂を肉体へと縫い付けたのである。
アバーフォースが戻ってくるまでの2日間、スネイプに己の血を分け与え、彼を死から隠し続けたのだ。
娘のベットの上に横たわる男の姿に「アズカバンに引き渡す」と憤る養父であったが、刺し違えるほどの気迫で脅し、隠し通しすことができたのは半月が限界だった。
しかし、ハリーのおかげでセブルス・スネイプは公式記録上「戦死」と処理された。
死者を裁く法律はない。特別隔離室という名の「檻」は、ハリーと魔法省長官キングズリーによる、法を逸脱した慈悲だった。
ハリーからスネイプの記憶を渡され、カレンも彼の幼少期から現在を覗きみた。
それは猛毒だった。
カレンは何度かスネイプの記憶を覗き、知らない素顔を知れる喜びと、心臓は抉り取られるような喪失感を味わった。
セブルス・スネイプが一生をかけて追い求めたのは、リリーという名の、決して手の届かない光。
自分がいかに彼を世間から隠し、献身を捧げても、彼の魂の最深部に居座っているのは自分ではない。その残酷な事実を、記憶の中の彼は無言で突きつけてくる。
けれど、カレンは絶望の淵で、ゆがんだ幸せを感じていた。
彼がこれほどまでにリリーに対する愛を抱えていたからこそ、カレンはその「模倣体」としてでも、彼の傍らにいることができたのだ。
彼の中に住まうリリーの幻影をなぞることでしか、彼と繋がれなかったあの日々。それは偽物などではなく、二人を繋ぐ唯一の接点だったのだと確信していた。
その後、周りのサポートのおかげで戦争裁判にかけられることなく、カレンはホグワーツを退職した。そして、滑り込みで聖マンゴに就職し、眠り続けるスネイプのそばに居続けたのだ。
彼をベットに縛り付ける原因はナギニの毒である。毒が神経を引き裂き、生きて呼吸していること自体が、魔法医学の奇跡であった。カレンは仕事の合間や業後に、必ず四肢をマッサージし、彼がいつ目覚めてもいいように風呂に浸からせ、髭をそり、音楽をかけたり、新聞を朗読し続けた。
だが八年間、一度も開くことのない彼の瞼。
カレンにとって、彼がこうして「物言わぬ人形」として自分の腕の中に留まっていることこそが、唯一無二の充足だった。
記憶の中の彼がリリーを愛すれば愛するほど、現実に彼の肉体を独占しているカレンの優越感は深まっていく。
彼女は、彼が目覚めることを、一分一秒、骨が軋むほどに望んでいた。
と同時に、ずっとこのままでいてほしいとも願っていた。
目覚めてしまえば、この美しい密室は壊れる。
彼が目を開け、その黒い瞳に自分を映したとき、そこに「リリーではない他人」への失望が宿ることを、彼女は何よりも恐れていた。
「……セブルス。まだ、起きなくていいのよ」
カレンは、彼に聞こえるはずのない囁きを落とす。
献身的な世話とカレンの軟化した態度に、周囲の人間も寛恕と打ち解けるようになった。
病室の扉が控えめにノックされ、入ってきたのは、彼女の弟であるハリー・ポッターだ。
彼はもう立派な闇祓い局長となり、その腕には、生まれたばかりの赤ん坊が抱かれていた。
「姉さん、調子は? 相変わらず、ここは少し冷えるね」
「変わりないわ。……温度調整はしてるけど。」
杖を一振りしストーブに薪をくべる。雨のせいで気温が下がっているのだ。
「その子は?」
弟の腕の中に抱かれる柔らかく小さな生命体に視線をやった。
「次男だよ。今日、ジニーが退院したから、その足で挨拶にと思って。ジェームズは、今朝からロンの家で大はしゃぎさ。あいつ、自分の弟が生まれたのがよっぽど嬉しいらしい」
ハリーは椅子に腰を下ろし、慣れた手つきで赤ん坊をあやした。かつて宿敵だった男が眠るベッドの傍らで、彼はごく普通の父親として、家族の些細な近況を語る。
「ロンとハーマイオニーは? 相変わらず喧嘩してるの?」
「ああ、先週も『家のカーテンの色』で一晩中やり合ってたよ。最終的にはハーマイオニーが論理でねじ伏せて、ロンが僕のところに泣きついてきた。三十手前の男がすることじゃないよね」
ふふ、とカレンは短く笑った。かつての、叫びの屋敷での激しい口論も、互いへの憎悪も、流れた時間がゆっくりと砂に埋めていった。
姉弟の間にあった厚い氷壁は、いつの間にか形を失い溶け去っていた。ハリーは今や、カレンにとって秘密を共有できる関係になっていた。
「名前は……決まったの?」
「……アルバス・セブルスにしたんだ」
「……嫌がらせ?」
「尊敬だよ。……僕を導いてくれた人と、僕を守ってくれた人。二人の勇敢な校長の名前だ」
ハリーは笑った。姉弟のわだかまりは、長い年月と共に氷解していた。
ハリーは穏やかに笑い、眠り続けるセブルスの枕元へ赤ん坊を近づけた。
「いつか彼が起きたら、真っ先にこの子を見せたかったんだ。姉さんが八年もかけて、繋ぎ止めてくれたこの命をね」
その時だった。
静寂が支配していた部屋に、布が擦れる微かな音が響いた。
その時、ベッドのシーツが、微かに擦れる音がした。
「……ん……」
空耳ではない。
ハリーが息を呑み、弾かれたようにベッドへ駆け寄る。
八年間、一度も動くことのなかったスネイプの睫毛が、蝶の羽のように微かに震えた。そして、重い幕を上げるように、漆黒の瞳がゆっくりと開かれた。
ハリーが息を呑み、弾かれたようにベッドへ駆け寄った。 セブルスの睫毛が震えている。八年間、閉ざされていた黒い瞳が、ゆっくりと、本当にゆっくりと開かれた。
焦点の定まらない瞳が、天井を彷徨い、そして枕元に立つ人物を捉えた。
黒髪。
眼鏡。
そして、緑の目。
「……ポッター……?」
掠れた、枯れ木のような吐息。
彼が目覚めて最初に見て、そして名を呼んだのは、愛するリリーの目を持つ息子、ハリーだった。
「先生……! 分かりますか、僕です!」
ハリーが身を乗り出した。
カレンは、ベッドから数歩離れた場所で、石像のように立ち尽くしていた。
ハリーと笑い合っていた穏やかな「日常」が、一瞬にして剥がれ落ちた。
彼が戻ってきた場所は、自分が用意した温かな檻ではない。
感動的な再会。
英雄と、その恩師。そして新しい命。
あまりにも完璧な「物語」だった。
ハリーが感激に震える声で何かを語りかけている。赤ん坊が小さく泣き声を上げる。
カレンの居場所はどこにもなかった。
目が覚めて。
本当に良かった。
自身の立場を受け入れて、ようやくスネイプの目覚めを喜ぶことができたカレンは、「婦長を呼んでくる」とハリーの背に声をかけて部屋を出た。
病室の扉を閉めた瞬間、防波堤が崩れるように涙が溢れ出した。
よかった。本当によかった。
心からそう思うのに、喉の奥を熱い塊が塞いで、まともに呼吸もできない。廊下を走る自分の足音が、他人事のように遠く響く。
逃げるように病室から出たカレンは、事情を知る上級ヒーラーに事情を説明した。
彼女たちが慌ただしく病室へ向かう背中を見送りながら、事務机に向かう。キングスリーへの緊急報告、魔法省への公式記録の書き換え申請、アバーフォースへの伝言。
彼が第2の人生をどうやって生きるかわからないが、彼が困らないようにしかるべきところには連絡をしておかなくてはならない。
それは、彼を世界へ返す儀式だった。
カレンという存在が彼の人生を勝手に独り占めしていた時間を、きれいさっぱり消し去るための清掃でもあった。
それからカレンは病室には戻らなかった。
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意識が浮上した瞬間、視界を焼いたのは不快なほどに白い光だった。
肺が引き攣るように空気を吸い込み、喉の奥で乾いた音が鳴る。最初に網膜に映ったのは、ぼやけた黒髪の輪郭だった。
(……ジェームズ・ポッターか。地獄も案外、騒がしい場所らしい)
不倶戴天の敵に迎えられる最期なら、それはそれで相応しい。そう自嘲しようとした瞬間、焦点が合い、眼鏡の奥の「緑の瞳」が露わになった。
「先生……! 分かりますか、僕です!…ハリー・ポッターです。」
生き残った男の子。
現実という名の劇薬が、一気に脳内を駆け巡る。死に損なったのだと、その時ようやく理解した。
それからの日々は、屈辱と倦怠の連続だった。
指一本動かすのにも、他人の介助を必要とする。かつて繊細な魔法薬を調合していた指先は、今や自分の腕を持ち上げることすら拒絶するほどに痩せ細っていた。
検査、投薬、そして呪わしいほどに地道なリハビリ。
自分に課せられた「英雄」という名のレッテルに苛立ちを覚えながらも、無駄のないスケジュールを淡々とこなした。生きるためではない。ただ、自分の身体が自分のものでないという、この耐え難い無力感から脱したかった。
八年。
ハリー・ポッターが持ってきた情報の断片は、あまりに膨大で、あまりに滑稽だった。
ヴォルデモートは滅び、魔法界は平穏を取り戻したという。そして何より、私が一生をかけて隠し通してきた「秘密」が、今や日刊預言者新聞のアーカイブにまで収められ、教科書に載るほどの「美談」に成り下がっている。
(吐き気がする)
寝るか、リハビリか、検査か。そんな灰色のルーチンが一週間過ぎた頃、ついに面会謝絶を言い渡した。英雄の再来を拝もうとする野次馬たちの視線など、不快なノイズでしかなかった。
静寂が戻った病室で、傍らに立つ上級ヒーラーに胸の奥で澱のように溜まっていた問いを投げかけた。
目覚めてから一度も姿を見せない、あの女の名を。
「……カレン・ポッターは、生きているか?」
ヒーラーは一瞬、戸惑ったように瞳を揺らした。
「……ええ。存じております。彼女が、八年間あなたを支えていましたから。」
でっぷりと太ったヒーラーは、カレンの献身を思い出したのか、今にも涙が溢れ出しそうな様子で言葉を継いだ。
「あなたが当院に入院されてから、カレンさんがずっとあなたのお世話をしておりました。……私からお伝えするべきではないと分かっておりますが、彼女はここで働きながら、給料のすべてをあなたの治療費に充てていたのです。」
私はその言葉を、ただの「事実」として淡々と処理しようと試みた。
その言葉を、ただの「事実」として淡々と処理しようと試みた。
「それで、今はどこに」
女は言いにくそうに言葉を切った。
女は言いにくそうに、視線を泳がせた。
「あなたが目覚めてから一週間ほどは勤務していたのですが……昨晩、辞めました」
その瞬間、頭がぐらりと揺れた。
一体、何を考えている。
怒りに任せて立ち上がろうとしたが、意思に反して四肢に力が入らず、私は無様にベッドのシーツへと埋もれた。
(逃げたのか。……私から、死を奪っておきながら、自分だけ消えようというのか)
彼女がなぜ去ったのか、その理由は測りかねた。
向こう見ずなほどに分かりやすい愛を、ただ当然の権利として享受してきたのだ。友でもなく、家族でもない。ただ魂の欠落を埋め合うように惹かれ合った、孤独な共同体。
彼女の献身を、支え続けているという事実を、学生時代から無意識のうちに優越を覚えていたのは確かだ。だが彼女は、スネイプの影として永遠にそこに留まるはずだった。
男はまだ震える手で杖を握り、銀色の守護霊を放った。
呼び出したのは、ハリー・ポッターではない。
小一時間後、病室の重い扉が開いた。
そこに立っていたのは、かつての教え子でありスネイプと同じく「死喰い人」の刻印を背負わされた男、ドラコ・マルフォイだった。
彼はどのような顔で私に会えばいいのか分からぬ様子で、戸口で所在なげにまごついている。
かつての傲慢でそしてひどくおびえていた青年はどこにもいない。そこにいるのは、歳月に削られ、静かな疲れを纏った一人の男だった。
「……老けたな、ドラコ」
容姿に対する端的な感想に、ドラコは毒気を抜かれたように、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……あなたにだけは言われたくありませんよ、先生。八年も眠っていたじゃありませんか」
ドラコは大きな紙袋をテーブルの上に置いた。
「先生が面会謝絶とは知らずに来たものですから、受付で叱られましたよ。特別隔離室に入院している患者はいないと無下に断られました。」
「ではどうやって入ってきたのだね?」
「姿をくらますキャビネットですよ。」
まさかドラコが冗談をいうとは思わず、スネイプは目を丸くした。
「冗談ですよ先生。箒で隣の窓から入ってきました。こんな朝早くに病院に忍び込もうとする魔法使いはいないでしょう。」
時の流れに驚きながら、スネイプは事前に指示し、持ってくるように頼んでいた洋服と魔法薬を紙袋から取り出した。
「先生、もし僕がカレンさんの住まいを知らなかったらどうするおつもりだったんですか。」
スネイプは魔法薬を口に含みすべて飲み干した。
「ひどい出来だな。」
かなり高級な元気爆発薬を購入したのだが、魔法薬学の天才からしたら大したことないらしい。
「……マルフォイ家の人脈を使うだけだ」
「眠っていたから知らないのでしょうが、もうマルフォイ家の名声は地に落ちているんです。」
ドラコはまるで何ともないとつぶやくと、着替えに苦戦している恩師のボタンを留めていく。
「先生、彼女は……カレンさんはその古いアパートにいます。妻の件で会ったときに家まで送ったんです。」
スネイプはちらりと左薬指に鈍く光る輪を見た。八年という歳月は思っていた以上に長い。
「では、ドラコ。箒は二人乗りできるか?」
プラチナブロンドの男は「シーカーだったとはいえ、二人乗りなんて初めてですよ。」と小言を言いながら、背中に病み上がりの男を乗せて聖マンゴからロンドンの市街地に降り立った。
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教え子が見送る中、春の温かい日差しと冷たい小風が通りを抜けていく。
ブラックスーツにトレンチコート、杖を出しながら歩く姿はマグルと溶け込んでいるようで、有名になった男は誰にも指摘されることなく古いアパートの前までたどり着いた。
慣れないアパートの階段を一段ずつ、確かめるように上る。
八年の空白は、彼の足取りをかつての流麗なものから、僅かに重いものへと変えていました。しかし、胸に灯る焦燥だけは、どの魔法薬よりも強く彼を突き動かしていた。
カレンの部屋の前で、彼は一度だけ深く息を吐き、指先で呼び鈴を押す。
「……はい、どなたですか?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、夢にまで見た、しかし記憶よりもどこか落ち着いた声。
恐らくのぞき穴から様子を伺ったのだろう、慌てて鍵が外れる音が響き、ゆっくりとドアが開く。
「先生……」
言葉が途切れた。
光の中に佇むカレンの瞳が、驚愕に見開かれる。
そこに立っていたのは、二度と合わないと決めたはずのかつての師であり、死ぬほど愛した男だった。
「……カレン」
スネイプの声は、魔法薬で無理やり繋ぎ止めた体力ゆえか、酷く掠れていた。
カレンは、杖で体重を支えるスネイプを部屋の中に入れた。彼は息も絶え絶えに壁にもたれかかり、無理してここまで来た事は明白だった。
男を支えながら一脚しかない椅子に座らせる。
「……先生? どうして……なんでここにいるんですか?」
カレンの声は震え、喜びよりも先に、心臓を鷲掴みにされたような恐怖がこみ上げる。落ち着かないのか狭い部屋を何度も往復し、頭を抱えていた。
「今すぐ病院に戻らないと…ここには何もないから、連絡しないと」
うろたえる姿に、スネイプはすっと目を細めた。
髪の毛は慌ててひとまとめしたせいでぐしゃぐしゃで、これから眠るところだったのかシャツにハーフパンツ姿は初めて見る格好だった。
それに金茶髪に染めていた髪は元のこげ茶色に戻り、暗く感情を表に出さない姿しか見てこなかったがゆえに、己の登場だけでこんなにも慌てている姿に愉快な気分を隠しきれなかった。
「何笑ってるんですか。婦長から外出許可は貰ったんですよね?いえ、絶対貰ってませんね?出すわけないですもんあの人!」
こんなにもコロコロ表情を変える女性ではなかったが、眠っている間にずいぶん成長したようだった。
「……カレン」
スネイプの声は大きくないが、それでもうろたえるカレンの動きを止めるには十分だった。
「私は死ぬ運命にあった。」
突然そう告げた瞬間、二人は八年前に戻っていた。
カレンはスネイプから顔を背け、ぎゅっと握りこぶしを作る。
「……ゆえに、今ここに私がいること自体、予定外だ。」
その言葉の棘は、自分自身の存在そのものを呪うかのように、鋭く、そして空虚に響いた。その棘が自分自身に向けられたものだと、カレンには痛いほど分かった。
「すみません、私……それでも、生きていてほしかったんです。予定外なんて言わないでください。先生が息をしているだけで、良かったの。」
カレンの震える声に、スネイプは自嘲的な笑みを深めた。
「いや死ぬべきだった。あの夜、すべてを終わらせるはずだった。……だというのに、なぜお前は逃げた? なぜ私の側から離れた。」
「逃げてないです。先生を助けるために、私っ…」
スネイプとようやく目が合ったカレンは、この1週間の出来事のことを指しているのだと気づいた。
「いいじゃないですか。疲れたんです。ただそれだけです。」
スネイプから目をそらし、カレンは必死で言い訳を考えていた。
「疲れた……? たかが八年、私の寝顔を眺めていただけでか。」
追及するような彼の言葉に、これまで張り詰めていたカレンの心の糸が、音を立てて切れた。
「そうです!眺めているのが辛かったんです!…最初から言ってくれればよかったじゃない! 『お前のことなんて愛していない、母親のことが好きで、お前はただ好きな人の娘だから義務で守ってきただけだ、勘違いするな』って……そう言って突き放してくれればよかった!」
溢れ出した言葉は止まらない。夜勤明けで頭も疲れ切っており、八年分、いや、それ以前から積み重なっていた想いが、叫びとなって彼にぶつかるのをもう止められなった。
「すっと寝たままだったから、現実から目を背けてこれたんです。だけど、私はもう…無理なの! もう先生の前で、お母さん の真似なんてできない。私とお母さんは全然違う。性格も、顔も、何もかも! なのに、あなたが私を見るたびに、誰を探しているのかを考えるのは、もう……もう嫌なの……!」
視界が涙で歪み、カレンは顔を覆った。
沈黙が部屋を支配した。
荒い呼吸を繰り返すカレンの前で、スネイプは椅子に深く背を預けた。
「……勘違いするな」
低く、けれど明瞭な声が室内に響く。
「始まりはそうだろうと、お前とリリーは違う。」
やがて、椅子に座ったままのスネイプが、手をカレンの方へと伸ばした。
「……足が動かない。来てくれ」
その掠れた、しかし拒絶を許さない響きに、カレンは抗えずに彼の手の届く距離まで歩み寄った。スネイプは逃がさないと言わんばかりに、カレンの手を驚くほどの力で握りしめた。
「すまない。」
スネイプの言葉にカレンはぎゅっと顔をゆがませた。
欲しかったのは謝罪ではない。
「我々はお互いを必要としていた。だから相互利用できていると思っていた。」
彼の言う通り、二人は共依存していた。
ゆえに謝罪の必要はないのだ。
「だが、死ねなかったのはお前のせいだ。……ならば、責任を取って最後まで私の面倒を見ろ」
有無を言わさぬ傲慢な物言い。けれど、その漆黒の瞳は、リリーではなく、目の前で泣きじゃくるカレンだけを、真っ直ぐに見つめていた。
「それから……お前の気持ちは、もうとっくに貰っている。だから、今さら返してやることはできん」
彼は指の背でカレンの頬を優しく撫でた。その指の感触が、あのダンスパーティーの夜を呼び起こした。音楽、高鳴る鼓動、そして彼と踊った、夢のような、けれどどこか寂しげなひととき。
「卑怯です。」
スネイプは嬉しそうに口元を緩ませた。
「お互いひねくれているからな。」
カレンはこの八年ずっと不安だった。
いや、八年どころではない彼と初めて会ったときから、不安で仕方がなかった。
「今の私には、お前を抱く力さえない。……だから、暫く待て」
男の言葉にうなずいたカレンは堪えきれず、ほろりと涙をこぼしながら、ようやく素直な気持ちを打ち明けた。
「…先生、好きです。」
スネイプは満足げに目を細めると、握っていた手を引き寄せ、慈しむようにその甲へ深く、静かな口づけを落とした。
「今後はお前しか見ない、だから、私が立てるようになるまで、そこにいろ」
スネイプの言葉にカレンはようやく柔らかな笑みをみせた。
窓の外では、鉛色の空から冷たい雨が降り始めていた。
ようやく突き刺すような寒さが終わり、草花を愛でる季節となったのに、やせこけたコウモリの瞳には映らない。
鏡の中に映る自分を眺め、カレンは静かに息を吐いた。
そこにはもう、十九歳の頃の、まぶしい若さを持った少女はいない。八年という歳月は、彼女の目元に消えない疲労の影を落とし、献身という名の毒でその輪郭を削り取っていた。
最後の決戦のあの日から、カレンの時計は止まったままである。
現在、カレンは聖マンゴで一般ヒーラーとして忙しく働いてた。普段は中級ヒーラーのサポートや患者対応から雑務まで長時間拘束されながれ昼夜問わず働いていた。
休憩時間や業務が終わると、難治性の呪いを受けた患者をケアする病棟の、そのまた奥にある特別隔離室にいるたった一人の患者の様子を見に訪れる。
患者は八年間眠り続けたままだ。
最終決戦のあの日、叫びの屋敷から強行した「姿現し」の先は、慣れ親しんだホグズミードの、カレンのベッドの上だった。
男を自分のベットに寝かせ、傷口を塞ぎ、ありとあらゆる守護呪文を編み込んで、逃げようとする彼の魂を肉体へと縫い付けたのである。
アバーフォースが戻ってくるまでの2日間、スネイプに己の血を分け与え、彼を死から隠し続けたのだ。
娘のベットの上に横たわる男の姿に「アズカバンに引き渡す」と憤る養父であったが、刺し違えるほどの気迫で脅し、隠し通しすことができたのは半月が限界だった。
しかし、ハリーのおかげでセブルス・スネイプは公式記録上「戦死」と処理された。
死者を裁く法律はない。特別隔離室という名の「檻」は、ハリーと魔法省長官キングズリーによる、法を逸脱した慈悲だった。
ハリーからスネイプの記憶を渡され、カレンも彼の幼少期から現在を覗きみた。
それは猛毒だった。
カレンは何度かスネイプの記憶を覗き、知らない素顔を知れる喜びと、心臓は抉り取られるような喪失感を味わった。
セブルス・スネイプが一生をかけて追い求めたのは、リリーという名の、決して手の届かない光。
自分がいかに彼を世間から隠し、献身を捧げても、彼の魂の最深部に居座っているのは自分ではない。その残酷な事実を、記憶の中の彼は無言で突きつけてくる。
けれど、カレンは絶望の淵で、ゆがんだ幸せを感じていた。
彼がこれほどまでにリリーに対する愛を抱えていたからこそ、カレンはその「模倣体」としてでも、彼の傍らにいることができたのだ。
彼の中に住まうリリーの幻影をなぞることでしか、彼と繋がれなかったあの日々。それは偽物などではなく、二人を繋ぐ唯一の接点だったのだと確信していた。
その後、周りのサポートのおかげで戦争裁判にかけられることなく、カレンはホグワーツを退職した。そして、滑り込みで聖マンゴに就職し、眠り続けるスネイプのそばに居続けたのだ。
彼をベットに縛り付ける原因はナギニの毒である。毒が神経を引き裂き、生きて呼吸していること自体が、魔法医学の奇跡であった。カレンは仕事の合間や業後に、必ず四肢をマッサージし、彼がいつ目覚めてもいいように風呂に浸からせ、髭をそり、音楽をかけたり、新聞を朗読し続けた。
だが八年間、一度も開くことのない彼の瞼。
カレンにとって、彼がこうして「物言わぬ人形」として自分の腕の中に留まっていることこそが、唯一無二の充足だった。
記憶の中の彼がリリーを愛すれば愛するほど、現実に彼の肉体を独占しているカレンの優越感は深まっていく。
彼女は、彼が目覚めることを、一分一秒、骨が軋むほどに望んでいた。
と同時に、ずっとこのままでいてほしいとも願っていた。
目覚めてしまえば、この美しい密室は壊れる。
彼が目を開け、その黒い瞳に自分を映したとき、そこに「リリーではない他人」への失望が宿ることを、彼女は何よりも恐れていた。
「……セブルス。まだ、起きなくていいのよ」
カレンは、彼に聞こえるはずのない囁きを落とす。
献身的な世話とカレンの軟化した態度に、周囲の人間も寛恕と打ち解けるようになった。
病室の扉が控えめにノックされ、入ってきたのは、彼女の弟であるハリー・ポッターだ。
彼はもう立派な闇祓い局長となり、その腕には、生まれたばかりの赤ん坊が抱かれていた。
「姉さん、調子は? 相変わらず、ここは少し冷えるね」
「変わりないわ。……温度調整はしてるけど。」
杖を一振りしストーブに薪をくべる。雨のせいで気温が下がっているのだ。
「その子は?」
弟の腕の中に抱かれる柔らかく小さな生命体に視線をやった。
「次男だよ。今日、ジニーが退院したから、その足で挨拶にと思って。ジェームズは、今朝からロンの家で大はしゃぎさ。あいつ、自分の弟が生まれたのがよっぽど嬉しいらしい」
ハリーは椅子に腰を下ろし、慣れた手つきで赤ん坊をあやした。かつて宿敵だった男が眠るベッドの傍らで、彼はごく普通の父親として、家族の些細な近況を語る。
「ロンとハーマイオニーは? 相変わらず喧嘩してるの?」
「ああ、先週も『家のカーテンの色』で一晩中やり合ってたよ。最終的にはハーマイオニーが論理でねじ伏せて、ロンが僕のところに泣きついてきた。三十手前の男がすることじゃないよね」
ふふ、とカレンは短く笑った。かつての、叫びの屋敷での激しい口論も、互いへの憎悪も、流れた時間がゆっくりと砂に埋めていった。
姉弟の間にあった厚い氷壁は、いつの間にか形を失い溶け去っていた。ハリーは今や、カレンにとって秘密を共有できる関係になっていた。
「名前は……決まったの?」
「……アルバス・セブルスにしたんだ」
「……嫌がらせ?」
「尊敬だよ。……僕を導いてくれた人と、僕を守ってくれた人。二人の勇敢な校長の名前だ」
ハリーは笑った。姉弟のわだかまりは、長い年月と共に氷解していた。
ハリーは穏やかに笑い、眠り続けるセブルスの枕元へ赤ん坊を近づけた。
「いつか彼が起きたら、真っ先にこの子を見せたかったんだ。姉さんが八年もかけて、繋ぎ止めてくれたこの命をね」
その時だった。
静寂が支配していた部屋に、布が擦れる微かな音が響いた。
その時、ベッドのシーツが、微かに擦れる音がした。
「……ん……」
空耳ではない。
ハリーが息を呑み、弾かれたようにベッドへ駆け寄る。
八年間、一度も動くことのなかったスネイプの睫毛が、蝶の羽のように微かに震えた。そして、重い幕を上げるように、漆黒の瞳がゆっくりと開かれた。
ハリーが息を呑み、弾かれたようにベッドへ駆け寄った。 セブルスの睫毛が震えている。八年間、閉ざされていた黒い瞳が、ゆっくりと、本当にゆっくりと開かれた。
焦点の定まらない瞳が、天井を彷徨い、そして枕元に立つ人物を捉えた。
黒髪。
眼鏡。
そして、緑の目。
「……ポッター……?」
掠れた、枯れ木のような吐息。
彼が目覚めて最初に見て、そして名を呼んだのは、愛するリリーの目を持つ息子、ハリーだった。
「先生……! 分かりますか、僕です!」
ハリーが身を乗り出した。
カレンは、ベッドから数歩離れた場所で、石像のように立ち尽くしていた。
ハリーと笑い合っていた穏やかな「日常」が、一瞬にして剥がれ落ちた。
彼が戻ってきた場所は、自分が用意した温かな檻ではない。
感動的な再会。
英雄と、その恩師。そして新しい命。
あまりにも完璧な「物語」だった。
ハリーが感激に震える声で何かを語りかけている。赤ん坊が小さく泣き声を上げる。
カレンの居場所はどこにもなかった。
目が覚めて。
本当に良かった。
自身の立場を受け入れて、ようやくスネイプの目覚めを喜ぶことができたカレンは、「婦長を呼んでくる」とハリーの背に声をかけて部屋を出た。
病室の扉を閉めた瞬間、防波堤が崩れるように涙が溢れ出した。
よかった。本当によかった。
心からそう思うのに、喉の奥を熱い塊が塞いで、まともに呼吸もできない。廊下を走る自分の足音が、他人事のように遠く響く。
逃げるように病室から出たカレンは、事情を知る上級ヒーラーに事情を説明した。
彼女たちが慌ただしく病室へ向かう背中を見送りながら、事務机に向かう。キングスリーへの緊急報告、魔法省への公式記録の書き換え申請、アバーフォースへの伝言。
彼が第2の人生をどうやって生きるかわからないが、彼が困らないようにしかるべきところには連絡をしておかなくてはならない。
それは、彼を世界へ返す儀式だった。
カレンという存在が彼の人生を勝手に独り占めしていた時間を、きれいさっぱり消し去るための清掃でもあった。
それからカレンは病室には戻らなかった。
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意識が浮上した瞬間、視界を焼いたのは不快なほどに白い光だった。
肺が引き攣るように空気を吸い込み、喉の奥で乾いた音が鳴る。最初に網膜に映ったのは、ぼやけた黒髪の輪郭だった。
(……ジェームズ・ポッターか。地獄も案外、騒がしい場所らしい)
不倶戴天の敵に迎えられる最期なら、それはそれで相応しい。そう自嘲しようとした瞬間、焦点が合い、眼鏡の奥の「緑の瞳」が露わになった。
「先生……! 分かりますか、僕です!…ハリー・ポッターです。」
生き残った男の子。
現実という名の劇薬が、一気に脳内を駆け巡る。死に損なったのだと、その時ようやく理解した。
それからの日々は、屈辱と倦怠の連続だった。
指一本動かすのにも、他人の介助を必要とする。かつて繊細な魔法薬を調合していた指先は、今や自分の腕を持ち上げることすら拒絶するほどに痩せ細っていた。
検査、投薬、そして呪わしいほどに地道なリハビリ。
自分に課せられた「英雄」という名のレッテルに苛立ちを覚えながらも、無駄のないスケジュールを淡々とこなした。生きるためではない。ただ、自分の身体が自分のものでないという、この耐え難い無力感から脱したかった。
八年。
ハリー・ポッターが持ってきた情報の断片は、あまりに膨大で、あまりに滑稽だった。
ヴォルデモートは滅び、魔法界は平穏を取り戻したという。そして何より、私が一生をかけて隠し通してきた「秘密」が、今や日刊預言者新聞のアーカイブにまで収められ、教科書に載るほどの「美談」に成り下がっている。
(吐き気がする)
寝るか、リハビリか、検査か。そんな灰色のルーチンが一週間過ぎた頃、ついに面会謝絶を言い渡した。英雄の再来を拝もうとする野次馬たちの視線など、不快なノイズでしかなかった。
静寂が戻った病室で、傍らに立つ上級ヒーラーに胸の奥で澱のように溜まっていた問いを投げかけた。
目覚めてから一度も姿を見せない、あの女の名を。
「……カレン・ポッターは、生きているか?」
ヒーラーは一瞬、戸惑ったように瞳を揺らした。
「……ええ。存じております。彼女が、八年間あなたを支えていましたから。」
でっぷりと太ったヒーラーは、カレンの献身を思い出したのか、今にも涙が溢れ出しそうな様子で言葉を継いだ。
「あなたが当院に入院されてから、カレンさんがずっとあなたのお世話をしておりました。……私からお伝えするべきではないと分かっておりますが、彼女はここで働きながら、給料のすべてをあなたの治療費に充てていたのです。」
私はその言葉を、ただの「事実」として淡々と処理しようと試みた。
その言葉を、ただの「事実」として淡々と処理しようと試みた。
「それで、今はどこに」
女は言いにくそうに言葉を切った。
女は言いにくそうに、視線を泳がせた。
「あなたが目覚めてから一週間ほどは勤務していたのですが……昨晩、辞めました」
その瞬間、頭がぐらりと揺れた。
一体、何を考えている。
怒りに任せて立ち上がろうとしたが、意思に反して四肢に力が入らず、私は無様にベッドのシーツへと埋もれた。
(逃げたのか。……私から、死を奪っておきながら、自分だけ消えようというのか)
彼女がなぜ去ったのか、その理由は測りかねた。
向こう見ずなほどに分かりやすい愛を、ただ当然の権利として享受してきたのだ。友でもなく、家族でもない。ただ魂の欠落を埋め合うように惹かれ合った、孤独な共同体。
彼女の献身を、支え続けているという事実を、学生時代から無意識のうちに優越を覚えていたのは確かだ。だが彼女は、スネイプの影として永遠にそこに留まるはずだった。
男はまだ震える手で杖を握り、銀色の守護霊を放った。
呼び出したのは、ハリー・ポッターではない。
小一時間後、病室の重い扉が開いた。
そこに立っていたのは、かつての教え子でありスネイプと同じく「死喰い人」の刻印を背負わされた男、ドラコ・マルフォイだった。
彼はどのような顔で私に会えばいいのか分からぬ様子で、戸口で所在なげにまごついている。
かつての傲慢でそしてひどくおびえていた青年はどこにもいない。そこにいるのは、歳月に削られ、静かな疲れを纏った一人の男だった。
「……老けたな、ドラコ」
容姿に対する端的な感想に、ドラコは毒気を抜かれたように、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……あなたにだけは言われたくありませんよ、先生。八年も眠っていたじゃありませんか」
ドラコは大きな紙袋をテーブルの上に置いた。
「先生が面会謝絶とは知らずに来たものですから、受付で叱られましたよ。特別隔離室に入院している患者はいないと無下に断られました。」
「ではどうやって入ってきたのだね?」
「姿をくらますキャビネットですよ。」
まさかドラコが冗談をいうとは思わず、スネイプは目を丸くした。
「冗談ですよ先生。箒で隣の窓から入ってきました。こんな朝早くに病院に忍び込もうとする魔法使いはいないでしょう。」
時の流れに驚きながら、スネイプは事前に指示し、持ってくるように頼んでいた洋服と魔法薬を紙袋から取り出した。
「先生、もし僕がカレンさんの住まいを知らなかったらどうするおつもりだったんですか。」
スネイプは魔法薬を口に含みすべて飲み干した。
「ひどい出来だな。」
かなり高級な元気爆発薬を購入したのだが、魔法薬学の天才からしたら大したことないらしい。
「……マルフォイ家の人脈を使うだけだ」
「眠っていたから知らないのでしょうが、もうマルフォイ家の名声は地に落ちているんです。」
ドラコはまるで何ともないとつぶやくと、着替えに苦戦している恩師のボタンを留めていく。
「先生、彼女は……カレンさんはその古いアパートにいます。妻の件で会ったときに家まで送ったんです。」
スネイプはちらりと左薬指に鈍く光る輪を見た。八年という歳月は思っていた以上に長い。
「では、ドラコ。箒は二人乗りできるか?」
プラチナブロンドの男は「シーカーだったとはいえ、二人乗りなんて初めてですよ。」と小言を言いながら、背中に病み上がりの男を乗せて聖マンゴからロンドンの市街地に降り立った。
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教え子が見送る中、春の温かい日差しと冷たい小風が通りを抜けていく。
ブラックスーツにトレンチコート、杖を出しながら歩く姿はマグルと溶け込んでいるようで、有名になった男は誰にも指摘されることなく古いアパートの前までたどり着いた。
慣れないアパートの階段を一段ずつ、確かめるように上る。
八年の空白は、彼の足取りをかつての流麗なものから、僅かに重いものへと変えていました。しかし、胸に灯る焦燥だけは、どの魔法薬よりも強く彼を突き動かしていた。
カレンの部屋の前で、彼は一度だけ深く息を吐き、指先で呼び鈴を押す。
「……はい、どなたですか?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、夢にまで見た、しかし記憶よりもどこか落ち着いた声。
恐らくのぞき穴から様子を伺ったのだろう、慌てて鍵が外れる音が響き、ゆっくりとドアが開く。
「先生……」
言葉が途切れた。
光の中に佇むカレンの瞳が、驚愕に見開かれる。
そこに立っていたのは、二度と合わないと決めたはずのかつての師であり、死ぬほど愛した男だった。
「……カレン」
スネイプの声は、魔法薬で無理やり繋ぎ止めた体力ゆえか、酷く掠れていた。
カレンは、杖で体重を支えるスネイプを部屋の中に入れた。彼は息も絶え絶えに壁にもたれかかり、無理してここまで来た事は明白だった。
男を支えながら一脚しかない椅子に座らせる。
「……先生? どうして……なんでここにいるんですか?」
カレンの声は震え、喜びよりも先に、心臓を鷲掴みにされたような恐怖がこみ上げる。落ち着かないのか狭い部屋を何度も往復し、頭を抱えていた。
「今すぐ病院に戻らないと…ここには何もないから、連絡しないと」
うろたえる姿に、スネイプはすっと目を細めた。
髪の毛は慌ててひとまとめしたせいでぐしゃぐしゃで、これから眠るところだったのかシャツにハーフパンツ姿は初めて見る格好だった。
それに金茶髪に染めていた髪は元のこげ茶色に戻り、暗く感情を表に出さない姿しか見てこなかったがゆえに、己の登場だけでこんなにも慌てている姿に愉快な気分を隠しきれなかった。
「何笑ってるんですか。婦長から外出許可は貰ったんですよね?いえ、絶対貰ってませんね?出すわけないですもんあの人!」
こんなにもコロコロ表情を変える女性ではなかったが、眠っている間にずいぶん成長したようだった。
「……カレン」
スネイプの声は大きくないが、それでもうろたえるカレンの動きを止めるには十分だった。
「私は死ぬ運命にあった。」
突然そう告げた瞬間、二人は八年前に戻っていた。
カレンはスネイプから顔を背け、ぎゅっと握りこぶしを作る。
「……ゆえに、今ここに私がいること自体、予定外だ。」
その言葉の棘は、自分自身の存在そのものを呪うかのように、鋭く、そして空虚に響いた。その棘が自分自身に向けられたものだと、カレンには痛いほど分かった。
「すみません、私……それでも、生きていてほしかったんです。予定外なんて言わないでください。先生が息をしているだけで、良かったの。」
カレンの震える声に、スネイプは自嘲的な笑みを深めた。
「いや死ぬべきだった。あの夜、すべてを終わらせるはずだった。……だというのに、なぜお前は逃げた? なぜ私の側から離れた。」
「逃げてないです。先生を助けるために、私っ…」
スネイプとようやく目が合ったカレンは、この1週間の出来事のことを指しているのだと気づいた。
「いいじゃないですか。疲れたんです。ただそれだけです。」
スネイプから目をそらし、カレンは必死で言い訳を考えていた。
「疲れた……? たかが八年、私の寝顔を眺めていただけでか。」
追及するような彼の言葉に、これまで張り詰めていたカレンの心の糸が、音を立てて切れた。
「そうです!眺めているのが辛かったんです!…最初から言ってくれればよかったじゃない! 『お前のことなんて愛していない、母親のことが好きで、お前はただ好きな人の娘だから義務で守ってきただけだ、勘違いするな』って……そう言って突き放してくれればよかった!」
溢れ出した言葉は止まらない。夜勤明けで頭も疲れ切っており、八年分、いや、それ以前から積み重なっていた想いが、叫びとなって彼にぶつかるのをもう止められなった。
「すっと寝たままだったから、現実から目を背けてこれたんです。だけど、私はもう…無理なの! もう先生の前で、
視界が涙で歪み、カレンは顔を覆った。
沈黙が部屋を支配した。
荒い呼吸を繰り返すカレンの前で、スネイプは椅子に深く背を預けた。
「……勘違いするな」
低く、けれど明瞭な声が室内に響く。
「始まりはそうだろうと、お前とリリーは違う。」
やがて、椅子に座ったままのスネイプが、手をカレンの方へと伸ばした。
「……足が動かない。来てくれ」
その掠れた、しかし拒絶を許さない響きに、カレンは抗えずに彼の手の届く距離まで歩み寄った。スネイプは逃がさないと言わんばかりに、カレンの手を驚くほどの力で握りしめた。
「すまない。」
スネイプの言葉にカレンはぎゅっと顔をゆがませた。
欲しかったのは謝罪ではない。
「我々はお互いを必要としていた。だから相互利用できていると思っていた。」
彼の言う通り、二人は共依存していた。
ゆえに謝罪の必要はないのだ。
「だが、死ねなかったのはお前のせいだ。……ならば、責任を取って最後まで私の面倒を見ろ」
有無を言わさぬ傲慢な物言い。けれど、その漆黒の瞳は、リリーではなく、目の前で泣きじゃくるカレンだけを、真っ直ぐに見つめていた。
「それから……お前の気持ちは、もうとっくに貰っている。だから、今さら返してやることはできん」
彼は指の背でカレンの頬を優しく撫でた。その指の感触が、あのダンスパーティーの夜を呼び起こした。音楽、高鳴る鼓動、そして彼と踊った、夢のような、けれどどこか寂しげなひととき。
「卑怯です。」
スネイプは嬉しそうに口元を緩ませた。
「お互いひねくれているからな。」
カレンはこの八年ずっと不安だった。
いや、八年どころではない彼と初めて会ったときから、不安で仕方がなかった。
「今の私には、お前を抱く力さえない。……だから、暫く待て」
男の言葉にうなずいたカレンは堪えきれず、ほろりと涙をこぼしながら、ようやく素直な気持ちを打ち明けた。
「…先生、好きです。」
スネイプは満足げに目を細めると、握っていた手を引き寄せ、慈しむようにその甲へ深く、静かな口づけを落とした。
「今後はお前しか見ない、だから、私が立てるようになるまで、そこにいろ」
スネイプの言葉にカレンはようやく柔らかな笑みをみせた。
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