スネイプの人形
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カレンは無事5年生となり、OWL試験を受験する年となった。
去年、秘密の部屋は無事閉ざされ、ロックハートは病院へ。ハリーはまたもや英雄となった。
居心地の悪くなっていくホグワーツであったが、それでも夏休み明けが楽しみなのは、スネイプに会えることがうれしくて、それが希望であったからだ。
巷にはシリウス・ブラックが脱獄したニュースでもちきりで、アバーフォースはより一層過保護となっており、15歳のカレンには少し重く感じる年頃であった。
そんな育ての父親をなだめ、ホグワーツへ戻ったカレンは新しい闇の魔術に対する防衛術の先生に、初めて親しみを覚えた。
リーマス・ルーピン。
彼はとても優秀で、授業は面白かった。
そしてどこから聞いたのか知らないが、カレンが両親の顔すら知らないと知り、学生時代友人であったことを伝え、写真をプレゼントしてくれたのだ。
「リリー……君のお母さんも、君のように魔法の扱いが繊細だった。本当にお母さんによく似ているね。」
ルーピンが語る両親の思い出話は、今のカレンにとっては聞きたくないような、でもずっと渇望していた生きていた両親の話であり、その場をすぐには立ち去れなかった。
ルーピンが「リリー」を称賛するたび、カレンの胸には喜びと悔しさが募っていった。 スネイプも、ルーピンも、誰もが彼女の中に「死んだ母」の残影を追っている。
(私はここにいる。私は母の代わりではない……)
鏡に映る母譲りの緑の瞳や唇、鼻筋から耳の形まで母にそっくりであった。
「リリー」という言葉は、今や自分を縛り付ける呪いのように感じられた。彼女は、自分の中に巣食う「リリー・ポッター」という亡霊を、根こそぎ消し去りたいという衝動に駆られていった。
クリスマス休暇にホグズミード村へ戻ったカレンは、人生ではじめてアバーフォースにお願い事をした。
「ドレス・エンポリウムに行きたいの」
ホグズミードで唯一の美容院で、この村にすむ魔女は全員そこで身だしなみを整える。ホグワーツ生となってからどんどん豊かな表情を増やし、身につけ、人形の面影が無くなった少女であったが、もう身だしなみを気にするような年頃になったのかと、感慨深いものがあった。
偏屈な老人は洒落た店に行く勇気はなく、カレンにお金を渡してクリスマス休暇で店が閉まる前に行って来いと背中を押してくれた。
カレンは初めての美容院に驚きながらも、黒っぽいこげ茶色の髪は、陽光を孕んだ艶やかな金茶色へと染めなおし、ナチュラルな緩いパーマをかけた。
カレンが家に戻ると、突然のイメチェンに驚きを隠せないアバーフォースであったが、不思議と悪い気はしなかった。
彼女は美容院で借りてきた雑誌に目を通し、メイクの仕方を学びながらクリスマス休暇を過ごした。
休暇明けのカレンは周りの目線が気になり、うつむきがちに過ごした。明るくなった髪色は彼女の白い肌によく似合っており、ルームメイトに施してもらったメイクと相まって、大人の女性のような雰囲気だった。
突然の金髪にスネイプはもちろんルーピンも驚いたようで、授業で生徒の確認を行う際に、彼女を二度見した。
スネイプは何も触れなかったが、ルーピンは「君らしくてよく似合っているね」と声をかけた。
カレンが珍しく微笑みを浮かべたので、スリザリンの女王として慕っていた下級生たちを中心に、ルーピンに恋をしているのではないかと噂が経ってしまった。
ただ、「君らしい」と言われたことに、母と比べられなかった安堵感から来た笑みだったのだが、誤解が生じてスネイプの耳まで届いていた。
彼女が最もその反応を渇望した男、セブルス・スネイプは、一度たりともその変化を称賛することはなかった。それどころか、彼はカレンに対し、かつてないほど冷徹で、逃げ場のない「拘束」を課し始めたのである。
「ポッター、放課後は毎日、私の準備室へ来い。OWL試験を控えた身で、浮ついた噂に現を抜かす暇などないはずだ」
放課後の地下牢は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。 「……攪拌を止めるなと言ったはずだ。それとも、防衛術の『心優しい』教授との語らいで、脳までふやけたか」
大鍋から立ち上る紫色の蒸気の向こうで、スネイプの低い声が響く。
スネイプは、ルーピンのために「脱狼薬」を作っているとは決して明かさなかったが、カレンは何となく察していた。
「先生、私は……」
「口を動かすな、手を動かせ。……お前がその明るすぎる髪を誰に見せつけたいのかは知らんが、私の教室では無意味だ。そのような虚飾で魔法の深淵は覗けん」
口を閉じて手を動かし続けていたが、カレンは素直に落ち込んでいた。彼に母とは違うところを見せたかったのだが、スネイプには受け入れられなかったのだ、と。
ナイーブになっているカレンは視野が狭まっており、スネイプが彼女の髪色を否定していないことに気づくべきだった。
この男は極めて高度で緻密な作業をカレンに強いることで、彼女の放課後を、自由を、そして視線を、物理的に独占し続けていた。
スネイプは、嫉妬というにはあまりに鋭く、失望というにはあまりに執念深かった。彼は、カレンの中に宿るリリーの面影が「別の男」のために塗り替えられていくことに、耐え難い不快感を覚えていたのである。それを当のカレンは知る由もない。
---------------------------
シリウス・ブラックが闇の帝王の手先で、脱獄したのは知っているがカレンは自分とは関係ないと思っていた。
だから、今まで何も疑いもなくOWL試験の準備を進めていたのだが、偶々ハリー・ポッターとその友人たちが話しているのを耳にし、シリウス・ブラックがハリー・ポッターを殺そうと狙っているという話を初めて耳にしたのだ。
シリウス・ブラックはなぜ脱獄したのか。
なぜ、執拗にハリーを狙うのか。
いくら赤の他人のように接していたとしても、彼は弟である。
試験勉強の手が進まず、答えを求めて、カレンはホグズミード行が許可された日に、「ホッグズ・ヘッド」の店裏で仕込み作業をしていたアバーフォースに問い正した。
しかし、老いた養父は頑なに口を閉ざした。
「知らなくていいこともある。あいつは狂犬だ、関わるな」
「おじさん、教えて。私は……私は、本当のことが知りたいの。ハリーだけじゃない、私だってポッターなのよ」
「迎えをよこすようにフクロウは出してあるから家で待て」という養父の言葉に逆らうように、業を煮やしたカレンは、激しい口論の末に店を飛び出した。
アバーフォースは「待て!戻ってこい!!」と少女の背中を追いかける様に叫んだが、彼女は振り返ることなく走った。
「シリウス・ブラックが狙っているのは、英雄のハリーであって私じゃない。私は……ずっと隠されてきた、ただの余り物なんだから」
雪の降るホグズミードの路地。
城へと続く静かな一本道。
吐き出した自嘲の言葉が、冷たい夜気に白く溶ける。
その時だった。
茂みの奥から、巨大な黒い犬が姿を現した。
闇よりも深い漆黒の毛並み。
飢えた獣のような鋭い眼光。
「……っ!」
不意の遭遇に、カレンの心臓が跳ね上がる。
わからないが、逃げなければ。
だが、凍てついた地面に足を取られ、彼女は見苦しく転倒した。その拍子に杖を数メートル先へ飛ばしてしまう。
黒い犬が、唸り声を上げて近づいてくる。
恐怖――それは、かつてゴドリックの谷で味わった、あの絶対的な死の気配を呼び覚ます。 そして、その恐怖の香りに引き寄せられるように、空から「それ」が舞い降りた。
吸魂鬼。
視界が急速に灰色に染まり、骨の芯まで凍りつくような冷気が吹き抜ける。
幸福な記憶が強制的に剥ぎ取られ、脳裏にあの夜の緑色の閃光がフラッシュバックした。
「……ぁ……」
十五歳になった彼女の意識は、一瞬であの日の「動けない人形」へと退行した。
指先一つ動かせない。
叫ぶことさえ許されない。
死の冷気が魂を啜ろうとした、その時であった。
「エクスペクト・パトローナム!」
暗闇を切り裂き、眩い銀色の光が舞い降りる。 現れた巨大な牝鹿が吸魂鬼を追い払い、カレンの崩れゆく体は、力強い黒い腕に受け止められた。
「……カレン! 息をしろ、私を見ろ!」
鼓膜を震わせる、焦燥に満ちた低い声。 スネイプは憤怒を押し殺したような硬い表情で、凍りついたままの彼女を抱きかかえ、医務室ではなく、自らの私室――地下牢の寮監室へと連れ戻した。
意識が戻った時、カレンの視界に映ったのは、暖炉の赤黒い焔と、見慣れた寮監室の天井であった。
「……先生」
「……余計なことは喋るな。これを飲め」
差し出されたのは、気付け薬を混ぜた温かいホットココアだった。
指先がまだ石のように冷え切っている。
スネイプはそれを認めると、忌々しげに舌打ちをしながらも、彼女の手に自らの大きな掌を重ね、無理やり温めさせた。
「……一人で歩くなと言ったはずだ。お前は、自分の命をどれほど安いものだと思っている」
「……狙われているのは、私じゃないですから」
「黙れ!」
スネイプの怒鳴り声に、カレンは小さく肩を震わせた。
「お前が何者であろうと、ブラックが、あるいはディメンターが慈悲をかけるとでも思ったか? ……お前は、リリーの……」
彼は言葉を飲み込んだ。その瞳には、かつてないほどの激しい情動が渦巻いている。
「……お前を失うことは、私が許さない。二度と、勝手な真似はするな」
その言葉は、生徒に向ける説教としてはあまりに私的で、重かった。スネイプは、金茶色に乱れた彼女の髪を、まるで自分の所有物であることを確かめるように、強く、乱暴に撫でた。
カレンは、その手のひらの熱さに、説明のつかない幸福感と、同時に息の詰まるような閉塞感を覚えた。
彼は自分を助けてくれた。
けれど、それは「カレン」だからなのか、それとも、あの日守りきれなかった「女の遺物」だからなのか。
---------------------------
学年末試験が終わり、城が開放感に包まれていたある朝。
カレンは、スリザリン寮の談話室で、一夜にして世界が一変したことを知った。
「シリウス・ブラックが捕まったて?」
「いやもう、逃げたらしい!」
「ルーピン先生が辞めるらしいぞ」
飛び交う噂。
何が本当かカレンにはわからない。
事実を知りたくて、まずはスネイプのところにと押し掛けたが、中から聞こえてきたのは怒り狂う男の声だった。
「逃がした……! あいつを、私の手から……!」
カレンが目にしたスネイプは、もはや正常な判断力を失っていた。彼はシリウスを取り逃がした屈辱と、積年の復讐心に呑まれ、狂気に取り憑かれたように荒れ狂っていた。
カレンは、その背中に声をかけることさえできなかった。自分があれほど渇望した彼の情熱は、今、自分ではなく「シリウス・ブラック」という過去の亡霊へと向けられている。
後刻、カレンはダンブルドアの部屋に呼ばれ、シリウスが実は無実であったこと、そしてペティグリューこそが真犯人であったことを聞かされた。
「……スネイプ先生は、信じていないのですね。その真実を」
「セブルスにとっては、真実よりも深い傷があるのじゃよ、カレン」
校長の言葉は、何の救いにもならなかった。
男のことを知れば知るほど、スネイプとの溝は深まっていくように感じた。
来年は6年生、もうホグワーツに入れる時間は少ない。
あの黒い瞳に「リリー」ではなく「私」を映してほしい。
もうそれは恋と呼んでいいのか、呪いと呼ぶにはあまりに純粋な、十五歳の意地であった。
去年、秘密の部屋は無事閉ざされ、ロックハートは病院へ。ハリーはまたもや英雄となった。
居心地の悪くなっていくホグワーツであったが、それでも夏休み明けが楽しみなのは、スネイプに会えることがうれしくて、それが希望であったからだ。
巷にはシリウス・ブラックが脱獄したニュースでもちきりで、アバーフォースはより一層過保護となっており、15歳のカレンには少し重く感じる年頃であった。
そんな育ての父親をなだめ、ホグワーツへ戻ったカレンは新しい闇の魔術に対する防衛術の先生に、初めて親しみを覚えた。
リーマス・ルーピン。
彼はとても優秀で、授業は面白かった。
そしてどこから聞いたのか知らないが、カレンが両親の顔すら知らないと知り、学生時代友人であったことを伝え、写真をプレゼントしてくれたのだ。
「リリー……君のお母さんも、君のように魔法の扱いが繊細だった。本当にお母さんによく似ているね。」
ルーピンが語る両親の思い出話は、今のカレンにとっては聞きたくないような、でもずっと渇望していた生きていた両親の話であり、その場をすぐには立ち去れなかった。
ルーピンが「リリー」を称賛するたび、カレンの胸には喜びと悔しさが募っていった。 スネイプも、ルーピンも、誰もが彼女の中に「死んだ母」の残影を追っている。
(私はここにいる。私は母の代わりではない……)
鏡に映る母譲りの緑の瞳や唇、鼻筋から耳の形まで母にそっくりであった。
「リリー」という言葉は、今や自分を縛り付ける呪いのように感じられた。彼女は、自分の中に巣食う「リリー・ポッター」という亡霊を、根こそぎ消し去りたいという衝動に駆られていった。
クリスマス休暇にホグズミード村へ戻ったカレンは、人生ではじめてアバーフォースにお願い事をした。
「ドレス・エンポリウムに行きたいの」
ホグズミードで唯一の美容院で、この村にすむ魔女は全員そこで身だしなみを整える。ホグワーツ生となってからどんどん豊かな表情を増やし、身につけ、人形の面影が無くなった少女であったが、もう身だしなみを気にするような年頃になったのかと、感慨深いものがあった。
偏屈な老人は洒落た店に行く勇気はなく、カレンにお金を渡してクリスマス休暇で店が閉まる前に行って来いと背中を押してくれた。
カレンは初めての美容院に驚きながらも、黒っぽいこげ茶色の髪は、陽光を孕んだ艶やかな金茶色へと染めなおし、ナチュラルな緩いパーマをかけた。
カレンが家に戻ると、突然のイメチェンに驚きを隠せないアバーフォースであったが、不思議と悪い気はしなかった。
彼女は美容院で借りてきた雑誌に目を通し、メイクの仕方を学びながらクリスマス休暇を過ごした。
休暇明けのカレンは周りの目線が気になり、うつむきがちに過ごした。明るくなった髪色は彼女の白い肌によく似合っており、ルームメイトに施してもらったメイクと相まって、大人の女性のような雰囲気だった。
突然の金髪にスネイプはもちろんルーピンも驚いたようで、授業で生徒の確認を行う際に、彼女を二度見した。
スネイプは何も触れなかったが、ルーピンは「君らしくてよく似合っているね」と声をかけた。
カレンが珍しく微笑みを浮かべたので、スリザリンの女王として慕っていた下級生たちを中心に、ルーピンに恋をしているのではないかと噂が経ってしまった。
ただ、「君らしい」と言われたことに、母と比べられなかった安堵感から来た笑みだったのだが、誤解が生じてスネイプの耳まで届いていた。
彼女が最もその反応を渇望した男、セブルス・スネイプは、一度たりともその変化を称賛することはなかった。それどころか、彼はカレンに対し、かつてないほど冷徹で、逃げ場のない「拘束」を課し始めたのである。
「ポッター、放課後は毎日、私の準備室へ来い。OWL試験を控えた身で、浮ついた噂に現を抜かす暇などないはずだ」
放課後の地下牢は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。 「……攪拌を止めるなと言ったはずだ。それとも、防衛術の『心優しい』教授との語らいで、脳までふやけたか」
大鍋から立ち上る紫色の蒸気の向こうで、スネイプの低い声が響く。
スネイプは、ルーピンのために「脱狼薬」を作っているとは決して明かさなかったが、カレンは何となく察していた。
「先生、私は……」
「口を動かすな、手を動かせ。……お前がその明るすぎる髪を誰に見せつけたいのかは知らんが、私の教室では無意味だ。そのような虚飾で魔法の深淵は覗けん」
口を閉じて手を動かし続けていたが、カレンは素直に落ち込んでいた。彼に母とは違うところを見せたかったのだが、スネイプには受け入れられなかったのだ、と。
ナイーブになっているカレンは視野が狭まっており、スネイプが彼女の髪色を否定していないことに気づくべきだった。
この男は極めて高度で緻密な作業をカレンに強いることで、彼女の放課後を、自由を、そして視線を、物理的に独占し続けていた。
スネイプは、嫉妬というにはあまりに鋭く、失望というにはあまりに執念深かった。彼は、カレンの中に宿るリリーの面影が「別の男」のために塗り替えられていくことに、耐え難い不快感を覚えていたのである。それを当のカレンは知る由もない。
---------------------------
シリウス・ブラックが闇の帝王の手先で、脱獄したのは知っているがカレンは自分とは関係ないと思っていた。
だから、今まで何も疑いもなくOWL試験の準備を進めていたのだが、偶々ハリー・ポッターとその友人たちが話しているのを耳にし、シリウス・ブラックがハリー・ポッターを殺そうと狙っているという話を初めて耳にしたのだ。
シリウス・ブラックはなぜ脱獄したのか。
なぜ、執拗にハリーを狙うのか。
いくら赤の他人のように接していたとしても、彼は弟である。
試験勉強の手が進まず、答えを求めて、カレンはホグズミード行が許可された日に、「ホッグズ・ヘッド」の店裏で仕込み作業をしていたアバーフォースに問い正した。
しかし、老いた養父は頑なに口を閉ざした。
「知らなくていいこともある。あいつは狂犬だ、関わるな」
「おじさん、教えて。私は……私は、本当のことが知りたいの。ハリーだけじゃない、私だってポッターなのよ」
「迎えをよこすようにフクロウは出してあるから家で待て」という養父の言葉に逆らうように、業を煮やしたカレンは、激しい口論の末に店を飛び出した。
アバーフォースは「待て!戻ってこい!!」と少女の背中を追いかける様に叫んだが、彼女は振り返ることなく走った。
「シリウス・ブラックが狙っているのは、英雄のハリーであって私じゃない。私は……ずっと隠されてきた、ただの余り物なんだから」
雪の降るホグズミードの路地。
城へと続く静かな一本道。
吐き出した自嘲の言葉が、冷たい夜気に白く溶ける。
その時だった。
茂みの奥から、巨大な黒い犬が姿を現した。
闇よりも深い漆黒の毛並み。
飢えた獣のような鋭い眼光。
「……っ!」
不意の遭遇に、カレンの心臓が跳ね上がる。
わからないが、逃げなければ。
だが、凍てついた地面に足を取られ、彼女は見苦しく転倒した。その拍子に杖を数メートル先へ飛ばしてしまう。
黒い犬が、唸り声を上げて近づいてくる。
恐怖――それは、かつてゴドリックの谷で味わった、あの絶対的な死の気配を呼び覚ます。 そして、その恐怖の香りに引き寄せられるように、空から「それ」が舞い降りた。
吸魂鬼。
視界が急速に灰色に染まり、骨の芯まで凍りつくような冷気が吹き抜ける。
幸福な記憶が強制的に剥ぎ取られ、脳裏にあの夜の緑色の閃光がフラッシュバックした。
「……ぁ……」
十五歳になった彼女の意識は、一瞬であの日の「動けない人形」へと退行した。
指先一つ動かせない。
叫ぶことさえ許されない。
死の冷気が魂を啜ろうとした、その時であった。
「エクスペクト・パトローナム!」
暗闇を切り裂き、眩い銀色の光が舞い降りる。 現れた巨大な牝鹿が吸魂鬼を追い払い、カレンの崩れゆく体は、力強い黒い腕に受け止められた。
「……カレン! 息をしろ、私を見ろ!」
鼓膜を震わせる、焦燥に満ちた低い声。 スネイプは憤怒を押し殺したような硬い表情で、凍りついたままの彼女を抱きかかえ、医務室ではなく、自らの私室――地下牢の寮監室へと連れ戻した。
意識が戻った時、カレンの視界に映ったのは、暖炉の赤黒い焔と、見慣れた寮監室の天井であった。
「……先生」
「……余計なことは喋るな。これを飲め」
差し出されたのは、気付け薬を混ぜた温かいホットココアだった。
指先がまだ石のように冷え切っている。
スネイプはそれを認めると、忌々しげに舌打ちをしながらも、彼女の手に自らの大きな掌を重ね、無理やり温めさせた。
「……一人で歩くなと言ったはずだ。お前は、自分の命をどれほど安いものだと思っている」
「……狙われているのは、私じゃないですから」
「黙れ!」
スネイプの怒鳴り声に、カレンは小さく肩を震わせた。
「お前が何者であろうと、ブラックが、あるいはディメンターが慈悲をかけるとでも思ったか? ……お前は、リリーの……」
彼は言葉を飲み込んだ。その瞳には、かつてないほどの激しい情動が渦巻いている。
「……お前を失うことは、私が許さない。二度と、勝手な真似はするな」
その言葉は、生徒に向ける説教としてはあまりに私的で、重かった。スネイプは、金茶色に乱れた彼女の髪を、まるで自分の所有物であることを確かめるように、強く、乱暴に撫でた。
カレンは、その手のひらの熱さに、説明のつかない幸福感と、同時に息の詰まるような閉塞感を覚えた。
彼は自分を助けてくれた。
けれど、それは「カレン」だからなのか、それとも、あの日守りきれなかった「女の遺物」だからなのか。
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学年末試験が終わり、城が開放感に包まれていたある朝。
カレンは、スリザリン寮の談話室で、一夜にして世界が一変したことを知った。
「シリウス・ブラックが捕まったて?」
「いやもう、逃げたらしい!」
「ルーピン先生が辞めるらしいぞ」
飛び交う噂。
何が本当かカレンにはわからない。
事実を知りたくて、まずはスネイプのところにと押し掛けたが、中から聞こえてきたのは怒り狂う男の声だった。
「逃がした……! あいつを、私の手から……!」
カレンが目にしたスネイプは、もはや正常な判断力を失っていた。彼はシリウスを取り逃がした屈辱と、積年の復讐心に呑まれ、狂気に取り憑かれたように荒れ狂っていた。
カレンは、その背中に声をかけることさえできなかった。自分があれほど渇望した彼の情熱は、今、自分ではなく「シリウス・ブラック」という過去の亡霊へと向けられている。
後刻、カレンはダンブルドアの部屋に呼ばれ、シリウスが実は無実であったこと、そしてペティグリューこそが真犯人であったことを聞かされた。
「……スネイプ先生は、信じていないのですね。その真実を」
「セブルスにとっては、真実よりも深い傷があるのじゃよ、カレン」
校長の言葉は、何の救いにもならなかった。
男のことを知れば知るほど、スネイプとの溝は深まっていくように感じた。
来年は6年生、もうホグワーツに入れる時間は少ない。
あの黒い瞳に「リリー」ではなく「私」を映してほしい。
もうそれは恋と呼んでいいのか、呪いと呼ぶにはあまりに純粋な、十五歳の意地であった。
