スネイプの人形
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初夏。
ホグワーツの卒業式は、眩い陽光と生徒たちの安堵の溜息に満ちていた。
黒いローブの波が揺れ、帽子が宙を舞う。未来への希望を語り合う同級生たちの声は、今の彼女にとっては水槽の向こう側で弾ける泡のように、ひどく無機質な響きを持っていた。
カレンは、その熱狂の渦からわずかに離れ、冷めた瞳で景色を眺めている。彼女にとって、この輝かしい卒業式は自由への門出などではない。愛という名の監獄へ、自ら足を踏み入れるための儀式に過ぎなかった。
「……ポッター。本当によろしいのですね」
背後からかけられた声は、厳格でありながら、隠しきれない慈愛を含んでいた。ミネルバ・マクゴナガルである。その隣にはフリットウィックやスプラウトも並び、教え子の選択を惜しむような、それでいて安堵した視線を送っている。
彼女が魔法省への道を断ち、城に残ることを決めた理由は、表向きには「ハリー・ポッターの姉という危うい立場」を考慮しての安全策ということになっていた。教師たちは、彼女が愛する弟や平和のために、自らの輝かしいキャリアを犠牲にしたのだと信じ込んでいる。
その「誤解」という名の同情が、カレンの喉の奥を焼いた。
「あなたの才能が魔法省ではなく、この古びた城に残る道を選んだことは……。ええ、私たちが責任を持って、それが良い結果となるようにしましょう。あなたは、本当によくやってくれました」
マクゴナガルの手が、彼女の肩にそっと置かれる。その温もりは、正しい人間が持つ正しすぎる重みだった。
カレンは静かに微笑みを返す。その微笑の裏側で、自分が守ろうとしているのは平和などではなく、地下牢の闇に棲む一人の男への、救いようのない執着であること。それを知る者は、この広大な敷地のどこにもいなかった。
ホグズミードの「ホッグズ・ヘッド」は、相変わらず埃と山羊の匂いに満ちていた。
一時帰宅したカレンを迎えたのは、無骨な義父、アバーフォースの不機嫌な背中だった。彼はカウンターを拭く手を止めず、低く唸るような声を出した。
「……結局、あの髭野郎の言う通りにするのか。お前のような小娘が、あんな呪われた城に一生閉じ込められる必要なんてねえだろ」
アバーフォースは、娘の瞳の奥に「誰か」への熱が宿っていることに気づいていた。
それが誰であるかは知らない。ただ、その恋が彼女を滅ぼすほどに重いものであることだけを、野生の勘で察しているのだ。
彼は彼女の代わりに、彼女を振り回すこの歪な世界に対して、不器用に怒っていた。
「アバーフォース、怒らないで。私は大丈夫よ。魔法省よりも会いやすくなったじゃない。」
カレンは、使い古された木の椅子に腰を下ろし、育ての親の荒れた手に自分の手を重ねた。彼が向けてくれる「純粋な怒り」だけが、今の彼女にとって唯一の人間らしい救いだった。
「今まで育ててくれてありがとう。あなたのおかげで、私はここまでこれたの。」
その感謝は本物だったが、別れの言葉でもあった。
彼女は鞄から一通の羊皮紙を取り出した。魔法省からの正式な採用通知書である。そこには、彼女の将来を保証する輝かしい言葉が並んでいた。
カレンはそれを一瞥すると、迷いなく暖炉の炎の中へと放り込んだ。
ぱちり、とはぜる音。
炎に巻かれ、黒く焦げていく紙片を、彼女は見つめ続けた。
絶望しているはずなのに、視界が白く飛ぶほどの恍惚感が全身を駆け抜ける。自らの未来を焼き捨て、退路を断つ。その行為そのものが、あの男への、血を吐くような愛の証明に思えた。
炎が消える頃には、彼女はもう、アバーフォースの娘でも、リリーの忘れ形見でもなかった。
ただ、セブルス・スネイプという地獄に、自ら身を投じるためだけの「人形」がそこに完成していた。
ーーーーーーーーーーーーー
昼のカレンは教職員たちの雑用係で非常に忙しい日々を送っていた。教員たちの授業準備やお使い、修行で使用した道具や雑貨の経費精算までありとあらゆる対応を行った。
また、ウォルデモートの復活により不安から体調を崩しやすい生徒が続出し、保健室の対応も行うようになった。彼女が白い看護服をを着けたまま構内を走るため、保険医として働いていると勘違いする生徒が多くいた。
そんな彼女には「スリザリンの女王」から「鉄仮面の看護師」という二つ名がついた。クィディッチで怪我をした生徒や、悪ふざけの呪文で腫れ上がった顔の生徒たちを、淡々と治療した姿から取られたようだ。
スリザリン生らしくカレンは愛想笑いはせず、痛みに泣く新入生の手を、包帯を巻き終わるまでずっと握りしめているようなやり方はしない。マダム・ポンフリーより恐れられる反面、ポッターという名字のおかげで生徒から一目おかれる。
彼女の淡々と業務をこなしていく姿に、教職員からも信頼を勝ち得ていき、カレンはあっという間にホグワーツに居場所作っていた。
だが、カレンの本当の居場所は夜に現れる。
教職員塔の部屋に割り当てられた自室から静かに抜け出し、男の自室に滑り込む。
重厚な扉が閉まり、後ろ手で鍵を回す。その金属音は、外界との接続を断つ合図だ。
つい数分前まで、大広間で「鉄仮面の看護師」として背筋を伸ばし、一分の隙もなく振る舞っていたカレンの鎧が、音を立てて崩れ落ちる。カレンは白衣を脱ぎ、別の仮面を被るのだ。
今年から「闇の魔術に対する防衛術」の教授となった彼のために。
彼女は一歩、また一歩と、机に向かう黒い背中に歩み寄った。
その歩き方は、もはや高慢な卒業生のものではない。長い冬の後にようやく巣穴から顔を出した小動物のような、あるいは、かつてこの場所で笑っていたはずの「別の誰か」の面影をなぞるような、軽やかで無防備な足取りだった。
「ねえ、セブルス。まだお仕事?」
その声を聞いた瞬間、スネイプの肩が微かに跳ねる。
彼女の言葉遣いは、友達のように気安く、どこか甘やかだ。それはカレン自身の言葉ではなく、彼が一生をかけて失い続けた「リリー・ポッター」の断片を、記憶の底から丁寧に拾い集め、繋ぎ合わせた継ぎ接ぎの偶像だった。
「……その呼び方はよせと言ったはずだ」
スネイプは振り向きもせず、吐き捨てるように言った。その声には、自分を偽物で騙そうとする教え子への嫌悪とそれを拒めない己の愚かさが滲んでいる。
カレンは躊躇いなく彼の背中に腕を回し、その痩せた肩に頬を寄せた。
インクと薬草、そして死期を悟った獣のような、乾いた匂い。
スネイプはひどく短い息を吐くと、呪われた腕を自ら差し出すようにして、彼女の体温を求めた。
彼は知っている。目の前にいるのはリリーではない。
彼女も知っている。彼が抱きしめているのは自分ではない。
嫌悪しながら、軽蔑しながら、それでもこの「夜の儀式」がなければ、二人は翌朝の光を浴びることすらできないほどに、魂が摩耗していた。
救いようのない共依存が、完成した瞬間だった。
二人はお互い報われない愛を求めることを止めなかった。
深夜、スリザリンの談話室へ続く暗い回廊で、その影は待ち伏せていた。
ドラコ・マルフォイである。かつての傲慢な輝きは影を潜め、その顔は青白く、まるで死神に追い詰められた少年のようにやつれ果てていた。
「……あんたは、本当はどっち側なんだ」
ドラコの声は震えていた。
彼は孤独だった。父は投獄され、自分には暗殺という無理難題が課せられている。そんな中で、恩師であるスネイプの傍らに常に侍り、自分には決して見せない「何か」を共有しているカレンが、不気味でならなかった。
「スネイプ教授の操り人形か? それとも、あのハリー・ポッターのスパイか? ……答えろよ!」
詰め寄るドラコの視線を、カレンは真っ向から受け止めた。
その瞳には、光も、闇も、正義も、悪も存在しなかった。ただ、深い湖の底のような、凪いだ虚無があるだけだ。
「スネイプ教授の味方よ、ドラコ。だからあなたの味方でもある。」
彼女の声は、低く、透き通っていた。
カレンはゆっくりとドラコに歩み寄り、その震える肩を憐れむように見つめた。
「私は騎士団が勝とうが、闇の帝王が支配しようが、そんなことはどうだっていいの。」
その言葉に含まれた純粋な狂気に、ドラコは思わず息を呑み、一歩後ずさった。
彼女が選んだのは「正解」ではなく、たった一人の男という名の「地獄」だった。
「あんた……正気じゃない」
「ええ。正気で彼を愛せるほど、私は強くないもの」
ドラコは少し安堵したようだった。気が狂いそうなほど苦しんでいるというのに、すでに狂った人間が目の前に居たのだ。
この戦争の真っただ中、日和見主義者ではなく、本心からどちらがどうなっても良いと言い切れるのは狂ってとしか言いようがない。
カレンはドラコに対し、次の試験対策のノートが良いかそれともココアのどちらかと尋ねる。
ドラコは2歳しか離れていない女に子ども扱いされたことに不服だったのか、「いらない」とだけ言い残すと、幽霊のような足取りで暗闇へと消えていった。
残されたカレンは、自分よりも深く、取り返しのつかない場所へ堕ちていこうとする後輩の背中を、ただ見送るしかなかった。
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そして、運命の夜が訪れた。
一九九七年、六月。ホグワーツの夜は、不吉なほどに凪いでいた。
城内を騒がせている不穏な噂など届かないかのように、医務室の中だけは、清潔なリネンの匂いと薬草の淡い香りに満たされていた。
カレンは、保健室に一晩過ごすことになっていた生徒の夜の見張りを行っていた。
隣には、ネビル・ロングボトムがいる。彼は予期せぬ怪我を負った友人を見舞いに来て、そのままカレンの手伝いを申し出たのだ。
普段であれば、就寝時刻間際の生徒を保健室に居させることは無いが、怪我人の気持ちが落ち着くのであればとマダム・ポンフリーに特別に許可された。
彼女は厳格な規律を有しているが、患者の心身の健康を第一に考える優秀なヒーラーである。
「……カレンさんがいてくれて良かったです。僕一人じゃ、何をすればいいか分からなくて」
ネビルは、眠るグリフィンドール生の額に濡れタオルを置くカレンの手つきを、崇めるような目で見つめていた。
最近ネビルはずいぶんと頼もしくなったが、時折年齢にあった表情を見せる。その横顔には、争いや憎しみといった泥臭い感情は微塵も存在しないかのような、透明な静寂が宿っていた。
「いいのよ、ネビル。誰かを看病している時間は、私にとっても心が穏やかになれる大切な時間だから」
その直後、遠くの塔のほうから、空を裂くような衝撃波と、誰かの絶叫が微かに届いた。
ネビルがびくりと肩を揺らし、暗い窓の外を見つめる。
「……今の音、何でしょうか。何かが起きたんじゃ……」
その日、天文台の塔に「闇の印」が打ち上げられた夜。
セブルス・スネイプはダンブルドアを殺した。
それからホグワーツは悲しみと希望が消えてしまった喪失感に包まれた。
耳をふさがなくてもすぐに情報は入ってくる。
カレンはひどく動揺していた。
周囲の悲しみによる叫び声も、負傷者の呻き声も、全てが遠のいていた。
殺した。
彼が。
あの、誰よりもダンブルドアを信頼していた彼が?
信じられないと思いだったのだが、ゆっくりと「そうだったか」と納得してしいた。
「だから、いつも苦しそうだったんですね」
そして自分はやはり仲間外れなのだと再認識させられた。いくら頑張っても彼の隣には立てず、何も教えてはくれない。
カレンはへなへなと石畳に崩れ落ちた。
彼は行ってしまった。この世で最も偉大な校長を殺し、世界で一番憎まれる裏切り者となった。
これから、どこへ向かって歩けばいいのか。カレンは、自分の足元の地面がすべて消えてしまったような、終わりのない浮遊感の中にいた。
ーーーーーーーーーーーー
1997年9月1日。
新学期のホグワーツは、学び舎ではなく、巨大な監獄へと変貌していた。 大広間の教職員席、かつてダンブルドアが座っていた黄金の椅子には、今、セブルス・スネイプが座っている。黒いローブを纏い、死人のように青白い顔で生徒たちを見下ろす彼に、向けられる視線は一つしかない。
――憎悪。
生徒たちからも、かつての同僚だった者たちからも、彼は「ダンブルドア殺しの裏切り者」として、呪い殺されんばかりの視線を浴びていた。
そして、その傍らに控えるカレンはもまた、同じ視線を受けていた。
突如進むべき道がわからなくなったカレンは、食事ものどを通らず睡眠もとれず、このイギリスから離れるべきか悩んでいた。
アバーフォースという帰るべき場所が無ければ、カレンはとっくに他国で野垂れ死んでいただろう。
そんな中、日刊預言者新聞に、スネイプが校長に就任するというニュースが踊った。
彼に会いたいと思いながらも、捨てられたという気持ちの方が強く、彼に会う前にここを去るべきだ。
と決意し、辞表を提出しようとした矢先のこと。
カレンの元に確定事項として、残酷な人事発表がなされた。
スネイプ校長補佐。
それが、彼女に与えられた新しい「檻」の名前だった。
カレンの日常は、色を失った細密画のように単調で、静謐なものへと変貌していた。
スネイプ校長補佐という仰々しい肩書きは、実のところ、彼女をこの巨大な監獄の最も深い場所に幽閉するための、美しくも無慈悲な鎖に過ぎない。
彼女の執務室は、人通りの絶えた校長室の近く、塔の突き当たりに用意されていた。
一日の大半を、彼女はそこで過ごした。主な仕事は、各寮から提出される膨大な事務書類の整理や、備品の管理といった、顔の見えない業務に固定化されていた。
スネイプからの指示は、すべて事務的な短いメモ、あるいは使い魔のフクロウによって届けられる。校長室に直接呼ばれることは、一週間に一度、必要最低限の報告を行うときだけに限られていた。
そして、彼が気まぐれにカレンの元に訪れる。
彼女はもうすっかり人形 になるのが上手になった。
廊下でかつての恩師であるマクゴナガルとすれ違っても、彼女は幽霊のように視線を逸らす。
生徒たちが向けてくる「裏切り者の身内」という汚物を見るような視線は自分をこの世界から切り離す、冷たい防壁のように感じられた。
「スネイプのお気に入り」
「死喰い人の愛人」
そんな囁きが聞こえるが、カレンは表情を崩さなかった。もう壊れかけていたのかもしれないが、心を無にさせることは得意だった。
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十月の凍てつくような雨が降る深夜。
急ぎの確認事項が生じ、カレンは数週間ぶりに、石造りのガーゴイルが守る校長室へと足を踏み入れた。
扉の向こう側は、かつてのダンブルドア時代とは別世界だった。
温かな紅茶の香りは消え失せ、代わりに漂うのは、古びた紙の匂いと、彼が好む苦い薬草の残り香。
カレンは、書類を抱えたまま立ち尽くした。
部屋の奥、巨大な机の前に立つスネイプは、彼女の入室にすら気づいていないようだった。
彼の杖が、祈るような、あるいは呪うような、切実な弧を空中に描く。
「エクスペクトパトローナム」
溢れ出したのは、息を呑むほどに純白で、銀色に輝く光だった。それはしなやかな肢体を持った、一頭の雌鹿の姿をしていた。
雌鹿は音もなく床を蹴り、校長室の静寂の中を軽やかに、それでいて悲しげに駆けていく。
その光に照らされたスネイプの横顔は、彼女に向けられたことのない、剥き出しの哀切だった。
二十年という歳月をかけてもなお、一滴も薄まることのない。
(ああ、きれいだな)
場違いなほどの美しさに、カレンの心は粉々に砕け散った。
その光が何であるか、理論としては知らない。けれど、本能が叫んでいた。その銀色の輝きの中に、自分の居場所は一ミリも存在しないのだと。
「……誰だ」
スネイプが鋭く振り返る。その瞳に宿ったのは、秘密を暴かれた者の動揺と、それを瞬時に覆い隠すための、氷のような怒りだった。
「……報告書を、お持ちしました。校長」
カレンは、感情の死んだ声で応えた。
彼と二人きりになるとき、いつも纏っていた「リリー」の断片。
甘やかな言葉遣いや、縋るような眼差し。そのすべてが、本物の光を前にして、ひどく卑しい偽物に思えてならなかった。
「……置いていけ。二度と、許可なく入るな」
突き放すような、低く、冷徹な声。
スネイプは、彼女を直視しようとはしなかった。
彼が彼女をこの城に、この「補佐」という不自由な檻に閉じ込めているのは、娘としての義務なのか、あるいはリリーの面影を守るためなのか。
カレンは深く頭を下げ、逃げるように部屋を後にした。
廊下の冷たい空気に触れた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなる。
あの銀色の雌鹿。あの光の正体が、自分が一生かかっても勝てない、死んだ母への純潔な思慕であることを悟ってしまった絶望。
それでも、カレンの足は、地下にあるスネイプの私室へと向いていた。
どんなに拒絶されても、今夜は彼が現れたときにそばに居なければならない。
それがカレンがここに居る理由なのだ。
この地獄を、彼と共に生きること。それだけが、今の彼女に残された唯一の「生」の証明だった。
ただこの地獄が長いようであっという間に終わる。
破滅の足音は、すぐそこまで迫っていた。
ーーーーーーーーーーーー
突如ホグワーツに警報が鳴り響いた。カレンは何事かと寝ていた身体を起こし、慌ててローブに着替えた。
乱暴なノックの音が扉を震わせ、そこに立っていたのは死喰い人のカローだった。
「スネイプがお呼びだ。校長室に来いだとよ」
彼はなぜこんなフクロウの真似事をしなくてはならないのか口汚く悪態をつきながら、階段を降りていく。その背中を見送りながら、カレンは異様な静寂と喧騒が混じり合う校内を抜けた。
身支度を素早く済ませ、すぐそこにあるガーゴイルに入る。自動で上がっていく石階段が最上階で止まり、ノックをして入室許可を得る。
「お呼びでしょうか」
できるだけ無機質に、何も考えていないように平静さを装う。
スネイプは校長室でリリーの影を求めない。
「そこに座れ」
小さな来客用の椅子に座り、カレンは次の指示を待つ。
スネイプの様子がいつもと違うことは明らかだった。黒いローブ上に外出用のローブを羽織り、すぐに取り出せる位置に杖がしまわれている。
「ここで待て。一歩も外に出るな」
低く、地を這うような声。
「それは、先ほどの警報音と関係が?」
スネイプは少女の瞳を見つめた。
「何があっても、ここを出るな。……わかったか」
男はそれだけを言うと、振り返らず部屋を出た。
校長室の扉が背後で施錠され、閉じ込められたのだと理解するのに、五分の時間が必要だった。
カレンは、施錠された扉に駆け寄り、狂ったようにノブを回した。だが、最強の守護術を施された扉は、彼女の爪が剥がれるほどの力でも、微動だにしない。
何度か破壊の呪文を叫んでみたが、火花が散るだけで、部屋の静寂を乱すことすらできない。
「止めるのじゃ、カレン」
焦るカレンのを呼び止めたのは絵画の中でこちらの様子を伺う前校長ーアルバス・ダンブルドアだった。
ようやく、壁に並ぶ歴代の校長たちの肖像画が、憐れむように見下ろしていることに気づいた。
「あの男は、君を守るつもりなのじゃよ」
掠れた声の主は、額縁の中で眠りから覚めたばかりのアルバス・ダンブルドアだった。
彼女は、死人のような無機質な瞳で、ダンブルドアの肖像を見据えた。
「出して……今すぐに」
カレンは、沈黙が支配する円形の部屋で立ち尽くした。壁に並ぶ歴代の校長たちの肖像画が、ひそひそと騒ぎ立てる。
「待つのだ。まずは外の状況を把握すべきではないかね。むやみに飛び出すのは自死に等しい」
「そうだとも。むやみやたらに部屋から出るのは危険すぎる。」
肖像画たちのひそひそ声が、情報の断片を部屋に撒き散らす。大広間にハリーが現れたこと、教師たちが反旗を翻したこと、そして
――セブルス・スネイプが、窓から黒い煙となって敗走したこと。
鼓動が、狂ったように早鐘を打つ。
「……出しなさい。私を、あの人の元へ」
その瞳に宿った凄絶な気迫に、死してなお全てを操ろうとする老賢者が、ついに折れた。
「君をここから出すわけにはいかぬ。彼の努力を無駄にする気かの。」
「そんなこと、知らない。お願いしてない。」
カレンは守ってもらっていることは自覚していた。守られることでスネイプのそばに居られるのなら、喜んで籠の鳥になったのだ。
だが、男は鍵をかけたまま出ていってしまった。
そんなこと許さない。
カレンは歴代校長たち制止も聞かず、この部屋で一番高そうな椅子を浮遊させ、窓ガラスを物理で叩き破った。
月の光を浴びて、ガラスの破片がダイヤモンドの雨のように降り注ぐ中、カレンは迷わずバルコニーに放置されていた箒に跨った。
死してなお全てを操る老賢者は、悲しげに目を細めたが、そんな些細なことは誰も気にしていない。
彼女は夜の闇へと浮いた。
救われたいわけじゃない。ただ、彼が最期に吐き出す息を、誰にも、一秒たりとも渡したくない。その執着だけが、彼女を突き動かす唯一の燃料だった。
瓦礫の山と化した中庭に降り立つと、そこには山羊の匂いを纏った巨大な影があった。
アバーフォース、養父であった。彼は愛する義娘の姿を見つけるなり、その細い腕を掴んで怒鳴りつけた。
「戻れ、カレン! どこへ行くつもりだ!」
義父の無骨な手が、彼女の肩を強く揺さぶる。その瞳には、かつて「ホッグズ・ヘッド」で共に過ごした、バタービールと煤けた暖炉の匂いがする穏やかな日々への、絶望的なまでの未練が滲んでいた。
「私行かなくちゃいけないの!離して、私行かなきゃ!」
カレンの声は、もはや理性のそれではなく、命の根源が叫んでいるような響きを持っていた。振り払おうとする力は驚くほどに強く、アバーフォースの顔に困惑と恐怖が走る。
「どこに行くってんだ!お前、本当はあちら側に……あのデスイーターどもの元へ行こうっていうのか!」
「違う、私はただ、あの人の——セブルスのところへ!」
その名が彼女の唇から零れた瞬間、アバーフォースの動きが止まった。
アバーフォースは、信じられないものを見るように義娘を見つめた。これまで彼女の瞳の中に宿っていた正体不明の熱が、自分の兄を殺し、世界中から呪われているあの男に向けられていたのだと、この惨劇の中でようやく突きつけられたのである。
「……スネイプだと? 正気か。あいつは……あいつは裏切り者だ。お前の両親を死に追いやった元凶の一人なんだぞ!」
アバーフォースの怒声は、彼女の心には一滴も染み込まない。
カレンは、自らの唇を噛み切り、滲んだ血の味を噛み締めながら彼を見つめ返した。
養父の実の兄を殺した男 を愛してしまったから、この一年養父に手紙すら送れなかった。
娘の沈黙がアバーフォースをより苛立たせた。
「あの男はもう終わりだ! 全てを敵に回し、死喰い人の群れに消えた! お前まで地獄に付き合う必要はねえんだ!」
「地獄なら、もうずっと前からそこにいるわ。お父さん」
アバーフォースの怒声は、彼女の心には一滴も染み込まない。
「まさか、今、俺を、父と…」
二重パンチをくらい、動揺していた。
「お願い。あの人の元に行きたいの。」
カレンは、義父の腕を振り払わなかった。ただ、その瞳に「死」を一切恐れない、底知れない虚無を湛えて彼を見つめ返した。
スネイプのためなら、ここで肉体が灰になっても構わない。
もう狂っていたのだ。その気迫に、歴戦の魔法使いであるアバーフォースが気圧される。彼は苦々しく吐き捨て、彼女を先導するように杖を構えた。
「……死ぬなよ。俺のそばを離れるな」
ーーーーーーーーー
アバーフォースのおかげで何とか生き延びていたが、戦闘が激化しはぐれてしまった。
城の外へ逃げることもできなくなったカレンは、生き延びるためになんとか闘いながら移動した。
叫びの屋敷へと続く秘密の通路の入り口前で、彼女は、最悪のタイミングで「それ」を探しているハリーとハーマイオニーに出くわした。
ハリーは肩で息をしながら、現れた姉を、信じられないものを見るような目で見つめた。
「カレン……なんでこんなところに。」
ハリーの声は、焦燥でひび割れていた。
彼はカレンを、戦火から最も遠い場所にいるはずと思い込んでいたのだ。姉が校長補佐の立場になったことは知っていたが、彼女は大広間に現れなかったし、逃げ切れたのだろうと考えていた。
「ハリー。……セブルスは、どこ?」
その問いに、ハリーの表情が凍りついた。
彼にとって「スネイプを探す」という行為は、復讐以外の何物でもない。だが、目の前の姉の瞳に宿っているのは、憎しみという鋭利な刃ではなく、底なし沼のような、静かな狂気だった。
「……あいつなら、叫びの屋敷に向かった。ヴォルデモートに呼ばれて。……でも、行っちゃダメだ。姉さんは逃げてくれ。あいつは……あいつは僕が、僕がこの手で始末しなきゃいけないんだ!」
ハリーは必死だった。
姉に「殺人」をさせてはならない。あんな裏切り者の血で、姉の綺麗な手を汚させてはならない。それは、彼が守ろうとしている最後の「家族」であった。
「いいえ。……セブルス・スネイプの首は、私がもらうわ」
カレンの声は、あまりに凪いでいた。
ハリーは、その言葉を自分の都合のいいように解釈した。
「姉さんも、あいつを憎んでいるんだ。復讐を遂げたいんだ」と。
自分と同じ地獄に、姉もまた立っているのだと誤認した。
「……分かった。一緒に行こう。でも、僕の側を離れないで」
ハリーは、震える手で透明マントを広げた。
2人で入るのが限界の布の下に、三人が身を寄せ合う。
カレンがハリーの肩に触れた瞬間、ハリーは自分の肌が氷に触れたかのような錯覚に陥った。
(姉さんの体温が、ない……?)
密着したマントの下で、カレンは「人形化」を開始していた。
感情を殺し、呼吸を止め、物言わぬ陶器へと化していく。
ハリーは、隣にいるはずの姉の気配が、霧が晴れるように消えていくのを感じて戦慄した。
彼女はそこにいるのに、いない。
それは、彼女がこれまでどんな地獄を、どんな孤独を、自分(ハリー)に隠して生きてきたのかを物語る、無言の告白でもあった。
ハリーは、その「人形」のように硬く冷たい姉の手を握りしめた。
「大丈夫だよ、姉さん。……全部終わったら、一緒に帰ろう」
その「正しい」約束が、今のカレンにとっては、何よりも無意味で、残酷な言葉であることを、ハリーは知る由もなかった。
彼らは一歩一歩、血の匂いが漂う叫びの屋敷へと、透明な死装束を纏って進んでいった。
ホグワーツの夜空が、死喰い人たちの放つ呪文と防衛陣の衝突で、不気味な極彩色に染まっていた。
ハリーとハーマイオニー、そしてカレンは、カビと埃、そして濃厚な死の匂いが充満する叫びの屋敷へ到着した。
透明マントの下で、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は、息を殺して立ち尽くしていた。その傍ら、カレンは完全に「人形」と化していた。
感情を遮断し、肺の動きを極限まで潜め、物言わぬ陶器へと化した肉体。
彼女の瞳には、光も、闇も、憎しみも、悲しみも存在しない。ただ、網膜に映る景色を無機質な情報として処理する、空白の器がそこにあった。
偉大なる魔法使いがこの人形を数センチの距離で見たとしても、ただの人形としか思えないだろう。
カレンは自分も知らぬうちに無機物への変身術を極めていたのだ。これであれば、ウォルデモートに存在すら気づかれないであろう。
事情を知らぬハリーとハーマイオニーは、カレンの肌が急速に体温を失い、死者のように硬直していく様に息を呑んだが、それを問い詰める時間は、もう残されていなかった。
部屋の中央。
ヴォルデモートの傍らに、セブルス・スネイプが跪いていた。
黒いローブを纏い、死人のように青白い顔をした彼は、自分の死期を悟った獣のような、乾いた、しかし一点の曇りもない瞳で、闇の帝王を見上げている。
「ニワトコの杖は、真の所有者であるお前を殺さねば、私のものにはならん。……残念だ、セブルス」
ヴォルデモートの冷酷な宣告と共に、杖が虚空をなぞった。
次の瞬間、大蛇ナギニが、獲物を狙う矢のようにスネイプへと襲いかかった。
屋敷の軋む床板を踏みしめ、薄暗い部屋に入ると、そこには彼がいました。 ヴォルデモート卿。 彼は窓際でニワトコの杖を弄びながら、まるで旧友を迎えるようにセブルスを見ました。足元には、巨大な大蛇ナギニが、魔法の檻の中でとぐろを巻いています。
カレンの瞳の中で、スネイプの喉元から、鮮紅色の血が噴水のように溢れ出した。
血は、彼の黒いローブを瞬時に緋色に染め上げ、床の上に、底なしの沼のような血溜まりを作り出していく。
ナギニが牙を引き抜くと、そこには、無惨に抉り取られた、深紅の穴が空いていた。
ヴォルデモートが去り、屋敷に静寂が戻った瞬間。
カレンは必死で抑えていた自我を脱ぎ捨て、崩れ落ちるスネイプへと駆け寄った。
「……セブルス! セブルス、嫌、死なないで…!」
彼女の知るありとあらゆる癒術をかけ、出血を抑える。
スネイプは言葉にならないまま、視線だけをカレンへ向ける。安全のために校長室に閉じ込めたはずの女がそばで必死に生き長らえさせようとしているのを、止める体力は残っていなかった。
彼は己の命よりもやるべきことが残っていたからだ。
スネイプは最後の力を振り絞り、ハリーに話しかける。
「……取れ……これを……」
セブルスの目や耳から、銀色の記憶が漏れ出していた。
ハリーがそれをフラスコに集める。
「僕を……見てくれ……」
セブルスが掠れた声でハリーに囁いた。
緑の瞳。
リリーの瞳。
男は最期まで母を愛した。
ふっ、と力が抜け瞳の光が消る。
愛した男の姿にカレンの手が止まったが、それは一瞬のことだった。
すぐに彼の脈を確認し、心臓マッサージを施す。
すぐ耳元で甲高い声が聞こえた。
「お前たちは戦った」
まるですぐ隣にいるかのような近さで、人生をめちゃくちゃにした男の声が聞こえた。
ハリーは額を抑え、ハーマイオニーはその声に恐怖でおびえているが、カレンはもうウォルデモートの声が聞こえていなかった。
身体の一部を人形化し、ただ目の前で死にかけている…すでに心臓が止まっている男の手当てを最優先させたのだ。
蛇に抉られた傷をふさぎ、近くにあったシーツの切れ端で止血するよう魔法をかける。蛇の毒が回ってしまうが、それでも心臓が動かないことにはどうにもならない。
両手は彼の胸部をリズムよく圧迫し、彼が息を吹き返すのを待った。
ウォルデモートの演説が終わったころ、スネイプの口から血がゴボリと吐き出し、虫の息であるがヒューヒューと息をするのが聞こえた。
ハーマイオニーが、震える手でカレンの肩を掴んだ。
「……もうやめて、カレンさん。」
カレンは、肩に乗ったハーマイオニーの手を、無機質な動作ではね除けた。その瞳には、かつて「スリザリンの女王」と呼ばれた気高さも、ハリーの姉としての慈愛も残っていない。ただ、獲物を逃さない獣のような、昏い光が宿っている。
「終わってなんていないわ」
カレンの声は、ひび割れた硝子のように冷たかった。
指先はすでにスネイプの血で赤黒く染まり、ぬらぬらと光っている。彼女の脳内では、魔法薬学の膨大な知識が高速で火花を散らしていた。
彼女の頭の中では次何をするべきかわかっていた。
「ねえ、ベゾアール石かなにか持ってない?」
「姉さん、どうして……こいつは裏切り者なんだよ。ダンブルドアを殺して、僕たちを……」
ハリーの頭の中は混乱していた。
「ハリー」
カレンは、なだめるように、あるいは思考を遮断するように弟を呼んだ。その声のあまりの平坦さに、ハリーは反射的に口を噤む。
「城に戻って。スネイプ先生が最後にあなたに渡したのには何か意味があるはず。あと1時間しかないのよ、聞いたでしょ?」
ヴォルデモートが告げた、猶予時間は1時間だ。
ハーマイオニーが鞄からベゾアール石を取り出し、カレンに渡した。石の感触を確かめると、カレンの顔に初めて、安堵に似た歪な笑みが浮かんだ。
彼女はスネイプの血塗れの口を無理やりこじ開けると、その石を奥へと押し込んだ。飲み込ませるために、自らの指を彼の喉の奥まで突き立てる。死にゆく男の喉が、異物を拒んで僅かに痙攣した。
「お願いハリー、行って。……この男の命は、私がもらったのよ」
[カレンは、ハリーを一度も振り返ることなくそう告げた。
彼女は、血の海に沈むスネイプの身体を魔法で浮かせると、その細い首に自らの腕を回し、折れんばかりの力で抱きしめた。
ベゾアール石が彼の喉を通り、胃へと落ちる振動を肌で感じる。
ハリーとハーマイオニーの瞳に、絶望と困惑が混ざり合う。
その視線を、カレンは背中で撥ねつけた。
次の瞬間、屋敷の澱んだ空気が爆ぜるような音を立て、二人の姿は掻き消えた。
付き添い姿現しは初めてであったが、男がバラけていないことだけはお伝えしておく。
ホグワーツの卒業式は、眩い陽光と生徒たちの安堵の溜息に満ちていた。
黒いローブの波が揺れ、帽子が宙を舞う。未来への希望を語り合う同級生たちの声は、今の彼女にとっては水槽の向こう側で弾ける泡のように、ひどく無機質な響きを持っていた。
カレンは、その熱狂の渦からわずかに離れ、冷めた瞳で景色を眺めている。彼女にとって、この輝かしい卒業式は自由への門出などではない。愛という名の監獄へ、自ら足を踏み入れるための儀式に過ぎなかった。
「……ポッター。本当によろしいのですね」
背後からかけられた声は、厳格でありながら、隠しきれない慈愛を含んでいた。ミネルバ・マクゴナガルである。その隣にはフリットウィックやスプラウトも並び、教え子の選択を惜しむような、それでいて安堵した視線を送っている。
彼女が魔法省への道を断ち、城に残ることを決めた理由は、表向きには「ハリー・ポッターの姉という危うい立場」を考慮しての安全策ということになっていた。教師たちは、彼女が愛する弟や平和のために、自らの輝かしいキャリアを犠牲にしたのだと信じ込んでいる。
その「誤解」という名の同情が、カレンの喉の奥を焼いた。
「あなたの才能が魔法省ではなく、この古びた城に残る道を選んだことは……。ええ、私たちが責任を持って、それが良い結果となるようにしましょう。あなたは、本当によくやってくれました」
マクゴナガルの手が、彼女の肩にそっと置かれる。その温もりは、正しい人間が持つ正しすぎる重みだった。
カレンは静かに微笑みを返す。その微笑の裏側で、自分が守ろうとしているのは平和などではなく、地下牢の闇に棲む一人の男への、救いようのない執着であること。それを知る者は、この広大な敷地のどこにもいなかった。
ホグズミードの「ホッグズ・ヘッド」は、相変わらず埃と山羊の匂いに満ちていた。
一時帰宅したカレンを迎えたのは、無骨な義父、アバーフォースの不機嫌な背中だった。彼はカウンターを拭く手を止めず、低く唸るような声を出した。
「……結局、あの髭野郎の言う通りにするのか。お前のような小娘が、あんな呪われた城に一生閉じ込められる必要なんてねえだろ」
アバーフォースは、娘の瞳の奥に「誰か」への熱が宿っていることに気づいていた。
それが誰であるかは知らない。ただ、その恋が彼女を滅ぼすほどに重いものであることだけを、野生の勘で察しているのだ。
彼は彼女の代わりに、彼女を振り回すこの歪な世界に対して、不器用に怒っていた。
「アバーフォース、怒らないで。私は大丈夫よ。魔法省よりも会いやすくなったじゃない。」
カレンは、使い古された木の椅子に腰を下ろし、育ての親の荒れた手に自分の手を重ねた。彼が向けてくれる「純粋な怒り」だけが、今の彼女にとって唯一の人間らしい救いだった。
「今まで育ててくれてありがとう。あなたのおかげで、私はここまでこれたの。」
その感謝は本物だったが、別れの言葉でもあった。
彼女は鞄から一通の羊皮紙を取り出した。魔法省からの正式な採用通知書である。そこには、彼女の将来を保証する輝かしい言葉が並んでいた。
カレンはそれを一瞥すると、迷いなく暖炉の炎の中へと放り込んだ。
ぱちり、とはぜる音。
炎に巻かれ、黒く焦げていく紙片を、彼女は見つめ続けた。
絶望しているはずなのに、視界が白く飛ぶほどの恍惚感が全身を駆け抜ける。自らの未来を焼き捨て、退路を断つ。その行為そのものが、あの男への、血を吐くような愛の証明に思えた。
炎が消える頃には、彼女はもう、アバーフォースの娘でも、リリーの忘れ形見でもなかった。
ただ、セブルス・スネイプという地獄に、自ら身を投じるためだけの「人形」がそこに完成していた。
ーーーーーーーーーーーーー
昼のカレンは教職員たちの雑用係で非常に忙しい日々を送っていた。教員たちの授業準備やお使い、修行で使用した道具や雑貨の経費精算までありとあらゆる対応を行った。
また、ウォルデモートの復活により不安から体調を崩しやすい生徒が続出し、保健室の対応も行うようになった。彼女が白い看護服をを着けたまま構内を走るため、保険医として働いていると勘違いする生徒が多くいた。
そんな彼女には「スリザリンの女王」から「鉄仮面の看護師」という二つ名がついた。クィディッチで怪我をした生徒や、悪ふざけの呪文で腫れ上がった顔の生徒たちを、淡々と治療した姿から取られたようだ。
スリザリン生らしくカレンは愛想笑いはせず、痛みに泣く新入生の手を、包帯を巻き終わるまでずっと握りしめているようなやり方はしない。マダム・ポンフリーより恐れられる反面、ポッターという名字のおかげで生徒から一目おかれる。
彼女の淡々と業務をこなしていく姿に、教職員からも信頼を勝ち得ていき、カレンはあっという間にホグワーツに居場所作っていた。
だが、カレンの本当の居場所は夜に現れる。
教職員塔の部屋に割り当てられた自室から静かに抜け出し、男の自室に滑り込む。
重厚な扉が閉まり、後ろ手で鍵を回す。その金属音は、外界との接続を断つ合図だ。
つい数分前まで、大広間で「鉄仮面の看護師」として背筋を伸ばし、一分の隙もなく振る舞っていたカレンの鎧が、音を立てて崩れ落ちる。カレンは白衣を脱ぎ、別の仮面を被るのだ。
今年から「闇の魔術に対する防衛術」の教授となった彼のために。
彼女は一歩、また一歩と、机に向かう黒い背中に歩み寄った。
その歩き方は、もはや高慢な卒業生のものではない。長い冬の後にようやく巣穴から顔を出した小動物のような、あるいは、かつてこの場所で笑っていたはずの「別の誰か」の面影をなぞるような、軽やかで無防備な足取りだった。
「ねえ、セブルス。まだお仕事?」
その声を聞いた瞬間、スネイプの肩が微かに跳ねる。
彼女の言葉遣いは、友達のように気安く、どこか甘やかだ。それはカレン自身の言葉ではなく、彼が一生をかけて失い続けた「リリー・ポッター」の断片を、記憶の底から丁寧に拾い集め、繋ぎ合わせた継ぎ接ぎの偶像だった。
「……その呼び方はよせと言ったはずだ」
スネイプは振り向きもせず、吐き捨てるように言った。その声には、自分を偽物で騙そうとする教え子への嫌悪とそれを拒めない己の愚かさが滲んでいる。
カレンは躊躇いなく彼の背中に腕を回し、その痩せた肩に頬を寄せた。
インクと薬草、そして死期を悟った獣のような、乾いた匂い。
スネイプはひどく短い息を吐くと、呪われた腕を自ら差し出すようにして、彼女の体温を求めた。
彼は知っている。目の前にいるのはリリーではない。
彼女も知っている。彼が抱きしめているのは自分ではない。
嫌悪しながら、軽蔑しながら、それでもこの「夜の儀式」がなければ、二人は翌朝の光を浴びることすらできないほどに、魂が摩耗していた。
救いようのない共依存が、完成した瞬間だった。
二人はお互い報われない愛を求めることを止めなかった。
深夜、スリザリンの談話室へ続く暗い回廊で、その影は待ち伏せていた。
ドラコ・マルフォイである。かつての傲慢な輝きは影を潜め、その顔は青白く、まるで死神に追い詰められた少年のようにやつれ果てていた。
「……あんたは、本当はどっち側なんだ」
ドラコの声は震えていた。
彼は孤独だった。父は投獄され、自分には暗殺という無理難題が課せられている。そんな中で、恩師であるスネイプの傍らに常に侍り、自分には決して見せない「何か」を共有しているカレンが、不気味でならなかった。
「スネイプ教授の操り人形か? それとも、あのハリー・ポッターのスパイか? ……答えろよ!」
詰め寄るドラコの視線を、カレンは真っ向から受け止めた。
その瞳には、光も、闇も、正義も、悪も存在しなかった。ただ、深い湖の底のような、凪いだ虚無があるだけだ。
「スネイプ教授の味方よ、ドラコ。だからあなたの味方でもある。」
彼女の声は、低く、透き通っていた。
カレンはゆっくりとドラコに歩み寄り、その震える肩を憐れむように見つめた。
「私は騎士団が勝とうが、闇の帝王が支配しようが、そんなことはどうだっていいの。」
その言葉に含まれた純粋な狂気に、ドラコは思わず息を呑み、一歩後ずさった。
彼女が選んだのは「正解」ではなく、たった一人の男という名の「地獄」だった。
「あんた……正気じゃない」
「ええ。正気で彼を愛せるほど、私は強くないもの」
ドラコは少し安堵したようだった。気が狂いそうなほど苦しんでいるというのに、すでに狂った人間が目の前に居たのだ。
この戦争の真っただ中、日和見主義者ではなく、本心からどちらがどうなっても良いと言い切れるのは狂ってとしか言いようがない。
カレンはドラコに対し、次の試験対策のノートが良いかそれともココアのどちらかと尋ねる。
ドラコは2歳しか離れていない女に子ども扱いされたことに不服だったのか、「いらない」とだけ言い残すと、幽霊のような足取りで暗闇へと消えていった。
残されたカレンは、自分よりも深く、取り返しのつかない場所へ堕ちていこうとする後輩の背中を、ただ見送るしかなかった。
ーーーーーーーーーーーー
そして、運命の夜が訪れた。
一九九七年、六月。ホグワーツの夜は、不吉なほどに凪いでいた。
城内を騒がせている不穏な噂など届かないかのように、医務室の中だけは、清潔なリネンの匂いと薬草の淡い香りに満たされていた。
カレンは、保健室に一晩過ごすことになっていた生徒の夜の見張りを行っていた。
隣には、ネビル・ロングボトムがいる。彼は予期せぬ怪我を負った友人を見舞いに来て、そのままカレンの手伝いを申し出たのだ。
普段であれば、就寝時刻間際の生徒を保健室に居させることは無いが、怪我人の気持ちが落ち着くのであればとマダム・ポンフリーに特別に許可された。
彼女は厳格な規律を有しているが、患者の心身の健康を第一に考える優秀なヒーラーである。
「……カレンさんがいてくれて良かったです。僕一人じゃ、何をすればいいか分からなくて」
ネビルは、眠るグリフィンドール生の額に濡れタオルを置くカレンの手つきを、崇めるような目で見つめていた。
最近ネビルはずいぶんと頼もしくなったが、時折年齢にあった表情を見せる。その横顔には、争いや憎しみといった泥臭い感情は微塵も存在しないかのような、透明な静寂が宿っていた。
「いいのよ、ネビル。誰かを看病している時間は、私にとっても心が穏やかになれる大切な時間だから」
その直後、遠くの塔のほうから、空を裂くような衝撃波と、誰かの絶叫が微かに届いた。
ネビルがびくりと肩を揺らし、暗い窓の外を見つめる。
「……今の音、何でしょうか。何かが起きたんじゃ……」
その日、天文台の塔に「闇の印」が打ち上げられた夜。
セブルス・スネイプはダンブルドアを殺した。
それからホグワーツは悲しみと希望が消えてしまった喪失感に包まれた。
耳をふさがなくてもすぐに情報は入ってくる。
カレンはひどく動揺していた。
周囲の悲しみによる叫び声も、負傷者の呻き声も、全てが遠のいていた。
殺した。
彼が。
あの、誰よりもダンブルドアを信頼していた彼が?
信じられないと思いだったのだが、ゆっくりと「そうだったか」と納得してしいた。
「だから、いつも苦しそうだったんですね」
そして自分はやはり仲間外れなのだと再認識させられた。いくら頑張っても彼の隣には立てず、何も教えてはくれない。
カレンはへなへなと石畳に崩れ落ちた。
彼は行ってしまった。この世で最も偉大な校長を殺し、世界で一番憎まれる裏切り者となった。
これから、どこへ向かって歩けばいいのか。カレンは、自分の足元の地面がすべて消えてしまったような、終わりのない浮遊感の中にいた。
ーーーーーーーーーーーー
1997年9月1日。
新学期のホグワーツは、学び舎ではなく、巨大な監獄へと変貌していた。 大広間の教職員席、かつてダンブルドアが座っていた黄金の椅子には、今、セブルス・スネイプが座っている。黒いローブを纏い、死人のように青白い顔で生徒たちを見下ろす彼に、向けられる視線は一つしかない。
――憎悪。
生徒たちからも、かつての同僚だった者たちからも、彼は「ダンブルドア殺しの裏切り者」として、呪い殺されんばかりの視線を浴びていた。
そして、その傍らに控えるカレンはもまた、同じ視線を受けていた。
突如進むべき道がわからなくなったカレンは、食事ものどを通らず睡眠もとれず、このイギリスから離れるべきか悩んでいた。
アバーフォースという帰るべき場所が無ければ、カレンはとっくに他国で野垂れ死んでいただろう。
そんな中、日刊預言者新聞に、スネイプが校長に就任するというニュースが踊った。
彼に会いたいと思いながらも、捨てられたという気持ちの方が強く、彼に会う前にここを去るべきだ。
と決意し、辞表を提出しようとした矢先のこと。
カレンの元に確定事項として、残酷な人事発表がなされた。
スネイプ校長補佐。
それが、彼女に与えられた新しい「檻」の名前だった。
カレンの日常は、色を失った細密画のように単調で、静謐なものへと変貌していた。
スネイプ校長補佐という仰々しい肩書きは、実のところ、彼女をこの巨大な監獄の最も深い場所に幽閉するための、美しくも無慈悲な鎖に過ぎない。
彼女の執務室は、人通りの絶えた校長室の近く、塔の突き当たりに用意されていた。
一日の大半を、彼女はそこで過ごした。主な仕事は、各寮から提出される膨大な事務書類の整理や、備品の管理といった、顔の見えない業務に固定化されていた。
スネイプからの指示は、すべて事務的な短いメモ、あるいは使い魔のフクロウによって届けられる。校長室に直接呼ばれることは、一週間に一度、必要最低限の報告を行うときだけに限られていた。
そして、彼が気まぐれにカレンの元に訪れる。
彼女はもうすっかり
廊下でかつての恩師であるマクゴナガルとすれ違っても、彼女は幽霊のように視線を逸らす。
生徒たちが向けてくる「裏切り者の身内」という汚物を見るような視線は自分をこの世界から切り離す、冷たい防壁のように感じられた。
「スネイプのお気に入り」
「死喰い人の愛人」
そんな囁きが聞こえるが、カレンは表情を崩さなかった。もう壊れかけていたのかもしれないが、心を無にさせることは得意だった。
ーーーーーーーーーーーーー
十月の凍てつくような雨が降る深夜。
急ぎの確認事項が生じ、カレンは数週間ぶりに、石造りのガーゴイルが守る校長室へと足を踏み入れた。
扉の向こう側は、かつてのダンブルドア時代とは別世界だった。
温かな紅茶の香りは消え失せ、代わりに漂うのは、古びた紙の匂いと、彼が好む苦い薬草の残り香。
カレンは、書類を抱えたまま立ち尽くした。
部屋の奥、巨大な机の前に立つスネイプは、彼女の入室にすら気づいていないようだった。
彼の杖が、祈るような、あるいは呪うような、切実な弧を空中に描く。
「エクスペクトパトローナム」
溢れ出したのは、息を呑むほどに純白で、銀色に輝く光だった。それはしなやかな肢体を持った、一頭の雌鹿の姿をしていた。
雌鹿は音もなく床を蹴り、校長室の静寂の中を軽やかに、それでいて悲しげに駆けていく。
その光に照らされたスネイプの横顔は、彼女に向けられたことのない、剥き出しの哀切だった。
二十年という歳月をかけてもなお、一滴も薄まることのない。
(ああ、きれいだな)
場違いなほどの美しさに、カレンの心は粉々に砕け散った。
その光が何であるか、理論としては知らない。けれど、本能が叫んでいた。その銀色の輝きの中に、自分の居場所は一ミリも存在しないのだと。
「……誰だ」
スネイプが鋭く振り返る。その瞳に宿ったのは、秘密を暴かれた者の動揺と、それを瞬時に覆い隠すための、氷のような怒りだった。
「……報告書を、お持ちしました。校長」
カレンは、感情の死んだ声で応えた。
彼と二人きりになるとき、いつも纏っていた「リリー」の断片。
甘やかな言葉遣いや、縋るような眼差し。そのすべてが、本物の光を前にして、ひどく卑しい偽物に思えてならなかった。
「……置いていけ。二度と、許可なく入るな」
突き放すような、低く、冷徹な声。
スネイプは、彼女を直視しようとはしなかった。
彼が彼女をこの城に、この「補佐」という不自由な檻に閉じ込めているのは、娘としての義務なのか、あるいはリリーの面影を守るためなのか。
カレンは深く頭を下げ、逃げるように部屋を後にした。
廊下の冷たい空気に触れた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなる。
あの銀色の雌鹿。あの光の正体が、自分が一生かかっても勝てない、死んだ母への純潔な思慕であることを悟ってしまった絶望。
それでも、カレンの足は、地下にあるスネイプの私室へと向いていた。
どんなに拒絶されても、今夜は彼が現れたときにそばに居なければならない。
それがカレンがここに居る理由なのだ。
この地獄を、彼と共に生きること。それだけが、今の彼女に残された唯一の「生」の証明だった。
ただこの地獄が長いようであっという間に終わる。
破滅の足音は、すぐそこまで迫っていた。
ーーーーーーーーーーーー
突如ホグワーツに警報が鳴り響いた。カレンは何事かと寝ていた身体を起こし、慌ててローブに着替えた。
乱暴なノックの音が扉を震わせ、そこに立っていたのは死喰い人のカローだった。
「スネイプがお呼びだ。校長室に来いだとよ」
彼はなぜこんなフクロウの真似事をしなくてはならないのか口汚く悪態をつきながら、階段を降りていく。その背中を見送りながら、カレンは異様な静寂と喧騒が混じり合う校内を抜けた。
身支度を素早く済ませ、すぐそこにあるガーゴイルに入る。自動で上がっていく石階段が最上階で止まり、ノックをして入室許可を得る。
「お呼びでしょうか」
できるだけ無機質に、何も考えていないように平静さを装う。
スネイプは校長室でリリーの影を求めない。
「そこに座れ」
小さな来客用の椅子に座り、カレンは次の指示を待つ。
スネイプの様子がいつもと違うことは明らかだった。黒いローブ上に外出用のローブを羽織り、すぐに取り出せる位置に杖がしまわれている。
「ここで待て。一歩も外に出るな」
低く、地を這うような声。
「それは、先ほどの警報音と関係が?」
スネイプは少女の瞳を見つめた。
「何があっても、ここを出るな。……わかったか」
男はそれだけを言うと、振り返らず部屋を出た。
校長室の扉が背後で施錠され、閉じ込められたのだと理解するのに、五分の時間が必要だった。
カレンは、施錠された扉に駆け寄り、狂ったようにノブを回した。だが、最強の守護術を施された扉は、彼女の爪が剥がれるほどの力でも、微動だにしない。
何度か破壊の呪文を叫んでみたが、火花が散るだけで、部屋の静寂を乱すことすらできない。
「止めるのじゃ、カレン」
焦るカレンのを呼び止めたのは絵画の中でこちらの様子を伺う前校長ーアルバス・ダンブルドアだった。
ようやく、壁に並ぶ歴代の校長たちの肖像画が、憐れむように見下ろしていることに気づいた。
「あの男は、君を守るつもりなのじゃよ」
掠れた声の主は、額縁の中で眠りから覚めたばかりのアルバス・ダンブルドアだった。
彼女は、死人のような無機質な瞳で、ダンブルドアの肖像を見据えた。
「出して……今すぐに」
カレンは、沈黙が支配する円形の部屋で立ち尽くした。壁に並ぶ歴代の校長たちの肖像画が、ひそひそと騒ぎ立てる。
「待つのだ。まずは外の状況を把握すべきではないかね。むやみに飛び出すのは自死に等しい」
「そうだとも。むやみやたらに部屋から出るのは危険すぎる。」
肖像画たちのひそひそ声が、情報の断片を部屋に撒き散らす。大広間にハリーが現れたこと、教師たちが反旗を翻したこと、そして
――セブルス・スネイプが、窓から黒い煙となって敗走したこと。
鼓動が、狂ったように早鐘を打つ。
「……出しなさい。私を、あの人の元へ」
その瞳に宿った凄絶な気迫に、死してなお全てを操ろうとする老賢者が、ついに折れた。
「君をここから出すわけにはいかぬ。彼の努力を無駄にする気かの。」
「そんなこと、知らない。お願いしてない。」
カレンは守ってもらっていることは自覚していた。守られることでスネイプのそばに居られるのなら、喜んで籠の鳥になったのだ。
だが、男は鍵をかけたまま出ていってしまった。
そんなこと許さない。
カレンは歴代校長たち制止も聞かず、この部屋で一番高そうな椅子を浮遊させ、窓ガラスを物理で叩き破った。
月の光を浴びて、ガラスの破片がダイヤモンドの雨のように降り注ぐ中、カレンは迷わずバルコニーに放置されていた箒に跨った。
死してなお全てを操る老賢者は、悲しげに目を細めたが、そんな些細なことは誰も気にしていない。
彼女は夜の闇へと浮いた。
救われたいわけじゃない。ただ、彼が最期に吐き出す息を、誰にも、一秒たりとも渡したくない。その執着だけが、彼女を突き動かす唯一の燃料だった。
瓦礫の山と化した中庭に降り立つと、そこには山羊の匂いを纏った巨大な影があった。
アバーフォース、養父であった。彼は愛する義娘の姿を見つけるなり、その細い腕を掴んで怒鳴りつけた。
「戻れ、カレン! どこへ行くつもりだ!」
義父の無骨な手が、彼女の肩を強く揺さぶる。その瞳には、かつて「ホッグズ・ヘッド」で共に過ごした、バタービールと煤けた暖炉の匂いがする穏やかな日々への、絶望的なまでの未練が滲んでいた。
「私行かなくちゃいけないの!離して、私行かなきゃ!」
カレンの声は、もはや理性のそれではなく、命の根源が叫んでいるような響きを持っていた。振り払おうとする力は驚くほどに強く、アバーフォースの顔に困惑と恐怖が走る。
「どこに行くってんだ!お前、本当はあちら側に……あのデスイーターどもの元へ行こうっていうのか!」
「違う、私はただ、あの人の——セブルスのところへ!」
その名が彼女の唇から零れた瞬間、アバーフォースの動きが止まった。
アバーフォースは、信じられないものを見るように義娘を見つめた。これまで彼女の瞳の中に宿っていた正体不明の熱が、自分の兄を殺し、世界中から呪われているあの男に向けられていたのだと、この惨劇の中でようやく突きつけられたのである。
「……スネイプだと? 正気か。あいつは……あいつは裏切り者だ。お前の両親を死に追いやった元凶の一人なんだぞ!」
アバーフォースの怒声は、彼女の心には一滴も染み込まない。
カレンは、自らの唇を噛み切り、滲んだ血の味を噛み締めながら彼を見つめ返した。
養父の実の兄を殺した
娘の沈黙がアバーフォースをより苛立たせた。
「あの男はもう終わりだ! 全てを敵に回し、死喰い人の群れに消えた! お前まで地獄に付き合う必要はねえんだ!」
「地獄なら、もうずっと前からそこにいるわ。お父さん」
アバーフォースの怒声は、彼女の心には一滴も染み込まない。
「まさか、今、俺を、父と…」
二重パンチをくらい、動揺していた。
「お願い。あの人の元に行きたいの。」
カレンは、義父の腕を振り払わなかった。ただ、その瞳に「死」を一切恐れない、底知れない虚無を湛えて彼を見つめ返した。
スネイプのためなら、ここで肉体が灰になっても構わない。
もう狂っていたのだ。その気迫に、歴戦の魔法使いであるアバーフォースが気圧される。彼は苦々しく吐き捨て、彼女を先導するように杖を構えた。
「……死ぬなよ。俺のそばを離れるな」
ーーーーーーーーー
アバーフォースのおかげで何とか生き延びていたが、戦闘が激化しはぐれてしまった。
城の外へ逃げることもできなくなったカレンは、生き延びるためになんとか闘いながら移動した。
叫びの屋敷へと続く秘密の通路の入り口前で、彼女は、最悪のタイミングで「それ」を探しているハリーとハーマイオニーに出くわした。
ハリーは肩で息をしながら、現れた姉を、信じられないものを見るような目で見つめた。
「カレン……なんでこんなところに。」
ハリーの声は、焦燥でひび割れていた。
彼はカレンを、戦火から最も遠い場所にいるはずと思い込んでいたのだ。姉が校長補佐の立場になったことは知っていたが、彼女は大広間に現れなかったし、逃げ切れたのだろうと考えていた。
「ハリー。……セブルスは、どこ?」
その問いに、ハリーの表情が凍りついた。
彼にとって「スネイプを探す」という行為は、復讐以外の何物でもない。だが、目の前の姉の瞳に宿っているのは、憎しみという鋭利な刃ではなく、底なし沼のような、静かな狂気だった。
「……あいつなら、叫びの屋敷に向かった。ヴォルデモートに呼ばれて。……でも、行っちゃダメだ。姉さんは逃げてくれ。あいつは……あいつは僕が、僕がこの手で始末しなきゃいけないんだ!」
ハリーは必死だった。
姉に「殺人」をさせてはならない。あんな裏切り者の血で、姉の綺麗な手を汚させてはならない。それは、彼が守ろうとしている最後の「家族」であった。
「いいえ。……セブルス・スネイプの首は、私がもらうわ」
カレンの声は、あまりに凪いでいた。
ハリーは、その言葉を自分の都合のいいように解釈した。
「姉さんも、あいつを憎んでいるんだ。復讐を遂げたいんだ」と。
自分と同じ地獄に、姉もまた立っているのだと誤認した。
「……分かった。一緒に行こう。でも、僕の側を離れないで」
ハリーは、震える手で透明マントを広げた。
2人で入るのが限界の布の下に、三人が身を寄せ合う。
カレンがハリーの肩に触れた瞬間、ハリーは自分の肌が氷に触れたかのような錯覚に陥った。
(姉さんの体温が、ない……?)
密着したマントの下で、カレンは「人形化」を開始していた。
感情を殺し、呼吸を止め、物言わぬ陶器へと化していく。
ハリーは、隣にいるはずの姉の気配が、霧が晴れるように消えていくのを感じて戦慄した。
彼女はそこにいるのに、いない。
それは、彼女がこれまでどんな地獄を、どんな孤独を、自分(ハリー)に隠して生きてきたのかを物語る、無言の告白でもあった。
ハリーは、その「人形」のように硬く冷たい姉の手を握りしめた。
「大丈夫だよ、姉さん。……全部終わったら、一緒に帰ろう」
その「正しい」約束が、今のカレンにとっては、何よりも無意味で、残酷な言葉であることを、ハリーは知る由もなかった。
彼らは一歩一歩、血の匂いが漂う叫びの屋敷へと、透明な死装束を纏って進んでいった。
ホグワーツの夜空が、死喰い人たちの放つ呪文と防衛陣の衝突で、不気味な極彩色に染まっていた。
ハリーとハーマイオニー、そしてカレンは、カビと埃、そして濃厚な死の匂いが充満する叫びの屋敷へ到着した。
透明マントの下で、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は、息を殺して立ち尽くしていた。その傍ら、カレンは完全に「人形」と化していた。
感情を遮断し、肺の動きを極限まで潜め、物言わぬ陶器へと化した肉体。
彼女の瞳には、光も、闇も、憎しみも、悲しみも存在しない。ただ、網膜に映る景色を無機質な情報として処理する、空白の器がそこにあった。
偉大なる魔法使いがこの人形を数センチの距離で見たとしても、ただの人形としか思えないだろう。
カレンは自分も知らぬうちに無機物への変身術を極めていたのだ。これであれば、ウォルデモートに存在すら気づかれないであろう。
事情を知らぬハリーとハーマイオニーは、カレンの肌が急速に体温を失い、死者のように硬直していく様に息を呑んだが、それを問い詰める時間は、もう残されていなかった。
部屋の中央。
ヴォルデモートの傍らに、セブルス・スネイプが跪いていた。
黒いローブを纏い、死人のように青白い顔をした彼は、自分の死期を悟った獣のような、乾いた、しかし一点の曇りもない瞳で、闇の帝王を見上げている。
「ニワトコの杖は、真の所有者であるお前を殺さねば、私のものにはならん。……残念だ、セブルス」
ヴォルデモートの冷酷な宣告と共に、杖が虚空をなぞった。
次の瞬間、大蛇ナギニが、獲物を狙う矢のようにスネイプへと襲いかかった。
屋敷の軋む床板を踏みしめ、薄暗い部屋に入ると、そこには彼がいました。 ヴォルデモート卿。 彼は窓際でニワトコの杖を弄びながら、まるで旧友を迎えるようにセブルスを見ました。足元には、巨大な大蛇ナギニが、魔法の檻の中でとぐろを巻いています。
カレンの瞳の中で、スネイプの喉元から、鮮紅色の血が噴水のように溢れ出した。
血は、彼の黒いローブを瞬時に緋色に染め上げ、床の上に、底なしの沼のような血溜まりを作り出していく。
ナギニが牙を引き抜くと、そこには、無惨に抉り取られた、深紅の穴が空いていた。
ヴォルデモートが去り、屋敷に静寂が戻った瞬間。
カレンは必死で抑えていた自我を脱ぎ捨て、崩れ落ちるスネイプへと駆け寄った。
「……セブルス! セブルス、嫌、死なないで…!」
彼女の知るありとあらゆる癒術をかけ、出血を抑える。
スネイプは言葉にならないまま、視線だけをカレンへ向ける。安全のために校長室に閉じ込めたはずの女がそばで必死に生き長らえさせようとしているのを、止める体力は残っていなかった。
彼は己の命よりもやるべきことが残っていたからだ。
スネイプは最後の力を振り絞り、ハリーに話しかける。
「……取れ……これを……」
セブルスの目や耳から、銀色の記憶が漏れ出していた。
ハリーがそれをフラスコに集める。
「僕を……見てくれ……」
セブルスが掠れた声でハリーに囁いた。
緑の瞳。
リリーの瞳。
男は最期まで母を愛した。
ふっ、と力が抜け瞳の光が消る。
愛した男の姿にカレンの手が止まったが、それは一瞬のことだった。
すぐに彼の脈を確認し、心臓マッサージを施す。
すぐ耳元で甲高い声が聞こえた。
「お前たちは戦った」
まるですぐ隣にいるかのような近さで、人生をめちゃくちゃにした男の声が聞こえた。
ハリーは額を抑え、ハーマイオニーはその声に恐怖でおびえているが、カレンはもうウォルデモートの声が聞こえていなかった。
身体の一部を人形化し、ただ目の前で死にかけている…すでに心臓が止まっている男の手当てを最優先させたのだ。
蛇に抉られた傷をふさぎ、近くにあったシーツの切れ端で止血するよう魔法をかける。蛇の毒が回ってしまうが、それでも心臓が動かないことにはどうにもならない。
両手は彼の胸部をリズムよく圧迫し、彼が息を吹き返すのを待った。
ウォルデモートの演説が終わったころ、スネイプの口から血がゴボリと吐き出し、虫の息であるがヒューヒューと息をするのが聞こえた。
ハーマイオニーが、震える手でカレンの肩を掴んだ。
「……もうやめて、カレンさん。」
カレンは、肩に乗ったハーマイオニーの手を、無機質な動作ではね除けた。その瞳には、かつて「スリザリンの女王」と呼ばれた気高さも、ハリーの姉としての慈愛も残っていない。ただ、獲物を逃さない獣のような、昏い光が宿っている。
「終わってなんていないわ」
カレンの声は、ひび割れた硝子のように冷たかった。
指先はすでにスネイプの血で赤黒く染まり、ぬらぬらと光っている。彼女の脳内では、魔法薬学の膨大な知識が高速で火花を散らしていた。
彼女の頭の中では次何をするべきかわかっていた。
「ねえ、ベゾアール石かなにか持ってない?」
「姉さん、どうして……こいつは裏切り者なんだよ。ダンブルドアを殺して、僕たちを……」
ハリーの頭の中は混乱していた。
「ハリー」
カレンは、なだめるように、あるいは思考を遮断するように弟を呼んだ。その声のあまりの平坦さに、ハリーは反射的に口を噤む。
「城に戻って。スネイプ先生が最後にあなたに渡したのには何か意味があるはず。あと1時間しかないのよ、聞いたでしょ?」
ヴォルデモートが告げた、猶予時間は1時間だ。
ハーマイオニーが鞄からベゾアール石を取り出し、カレンに渡した。石の感触を確かめると、カレンの顔に初めて、安堵に似た歪な笑みが浮かんだ。
彼女はスネイプの血塗れの口を無理やりこじ開けると、その石を奥へと押し込んだ。飲み込ませるために、自らの指を彼の喉の奥まで突き立てる。死にゆく男の喉が、異物を拒んで僅かに痙攣した。
「お願いハリー、行って。……この男の命は、私がもらったのよ」
[カレンは、ハリーを一度も振り返ることなくそう告げた。
彼女は、血の海に沈むスネイプの身体を魔法で浮かせると、その細い首に自らの腕を回し、折れんばかりの力で抱きしめた。
ベゾアール石が彼の喉を通り、胃へと落ちる振動を肌で感じる。
ハリーとハーマイオニーの瞳に、絶望と困惑が混ざり合う。
その視線を、カレンは背中で撥ねつけた。
次の瞬間、屋敷の澱んだ空気が爆ぜるような音を立て、二人の姿は掻き消えた。
付き添い姿現しは初めてであったが、男がバラけていないことだけはお伝えしておく。
