スネイプの人形
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ハリー・ポッター 生き残った男の子。
かの有名な少年には2歳離れた姉がいたことをご存じだろうか。
ハリーの英雄譚には注釈のようにこう記載される。
「なお、ハリーの姉であるカレン・ポッターは当時現場におらず、難を逃れた。」
これは事実ではない。
あの日、あの晩。幼い少女もあのゴドリックの谷の子供部屋に居たのだ。
無残な姿となったポッター家の敷居を跨いだルビウス・ハグリットはオンオン泣きながら幼いハリーを懐に抱えた。だが、姉の姿が見えない。
ダンブルドアから姉は彼のもとに連れてくるように言明されていたにもかかわらず、少女の姿を見つけることができなかった。
ハグリットの頭には悪い予感しかなかった。
「もしや、カレンも例のあの人に…」
屍となったリリーとジェームズの姿を視界に映しながら最悪の事態を考えていた。だが、まずはハリーを安全なところに連れて帰るのが先だ。
「すまねえ、すまねえジェームズ、リリー、カレン…お前たちをここから出して、きれいしてやるからちょっくら待っててくれ。すぐ戻るからよ。」
ハグリットはポロポロとこぼれる涙をぬぐいながら、ハリーをがれきの中から救い出した。
その後、血相変えて飛んできたシリウス・ブラックからオートバイを譲り受け、大男はハリーを連れて闇夜に消えていった。
ハグリットは全く気付かなかったのだ。そこにはカレンも居た。生きていたのだ。
カレンが救出されたのはそれから6時間余り後のことである。
アルバス・ダンブルドア自ら壊れた家に赴き、まっすぐと子供部屋にあった人形を抱きかかえた。
「迎えが遅くなってすまなかったの。」
大賢者はそう優しく声をかけ、人形にかかっていたペトリフィカス・トタルスの呪いを解いた。
途端に人形に血の気が通り、ようやく小さな少女が息を吹きかえした。
彼女も生き残った女の子であるが、ハリーがそうであるように彼女も何もしていない。
だが彼女は有名になった弟は違い、静かに隠されることとなった。
深夜のホッグズ・ヘッドは、腐ったビールと絶望の匂いが沈殿していた。老け込んだ老店主は最後の客を追い出し、カウンターの汚れを雑巾で擦っていた。
世間では「例のあの人」が消えたとかで馬鹿騒ぎしており、今の客も同じような連中だ。決して闇の魔術の信奉者ではないが、喜ばしい出来事に歓喜を上げるタイプではない。
静かに平和を噛みしめるのが似合っているのだ。
だが、彼にその平和を堪能する時間は訪れなかった。
店の扉が開いた。
カウベルの音と共に、夜の冷気と男が世界で一番嫌いな「潔癖な魔法使い」の気配が入り込んでくる。
「……何の用だ、アルバス」
男は雑巾を投げ捨て、入り口に立つ兄を睨みつけた。アルバス・ダンブルドアは、ひどく疲れた顔をしていた。その腕には、柔らかい毛布にくるまれた小さな子供が抱えられている。
「アバフォース。……頼みがある」
「断る。騎士団の後始末なら他を当たれ」
「この子には、行き場がないのだ」
アルバスは強引にカウンターへ歩み寄り、その子供を置いた。
毛布の間から見えたのは、透けるように白い肌をした幼い少女だった。 目は開いている。だが瞬き一つしない。
呼吸も浅く、まるで精巧な蝋人形のようだった。
「……ポッターのガキか」
俺は眉をひそめた。
「生き残った男の子ってのは、赤ん坊じゃなかったのか?」
「それは弟のハリーだ。ハリーは、リリーの最期の魔法――『愛の護り』によって守られた。だから、血の繋がったペチュニアの家に預けてきた」
「なら、こいつも一緒に放り込んでくればいいだろう。姉弟なんだろうが」
アルバスは首を振った。その瞳には、冷徹な計算とわずかな苦渋が滲んでいた。
「リリーの護りは、ハリーにしか作用しなかった。……サトノには、何の加護もない」
母親が命を懸けた魔法は弟だけを守り、この姉をすり抜けたのだ。
「それに、見ての通りだ。この子はあの現場で強いショックを受け、心を閉ざしてしまった。『人形』のように動かない。マグルの家でこの状態の子供を育てるのは不可能だ。かつての……アリアナのように、暴走する危険もある」
「アリアナ」 その名前が出た瞬間、アバーフォースの中で何かが弾けた。店の切り盛りで鍛え上げられた腕がアルバスの胸ぐらを掴み上げた。
「……その名前をお前が口にするな!!」
「だが、事実だアバフォース。この子をペチュニアの家に置けば、ハリーを守るための『血の結界』に綻びが生じるかもしれん。かといって、孤児院にやれば、死喰い人の残党に『ポッターの血筋』として狙われる。守りなきこの子は格好の餌食だ」
アルバスは俺の手を振りほどかず、静かに続けた。
「隠すしかないのだ。光も、闇も届かない場所に。お前の店なら安心だ。」
俺は手を離し、カウンターの上の少女を見下ろした。大の大人が目の前で騒いでいるというのに、彼女はピクリとも動かない。ただ虚空を見つめている。
予言にも語られず、母の護りからも漏れ、弟を守るために引き剥がされた「余り物」。
その姿が、あの日の妹と重なった。魔法を制御できず、怯え、隠されるように生きたアリアナと。
「……クソが」男は吐き捨てた。「アルバス、お前は本当に最低な野郎だ。」
アルバスはそれが同意を得られたと判断し、安堵の息を漏らして少女を置いて去っていった。
店には男と、動かない人形のような少女だけが残された。
----------------------
子育てなんざ、ガラじゃない。だが、カレンは手のかからないガキだった。泣きもせず、笑いもしない。椅子に座らせれば一日中そこに座っている。
男は彼女を、世間の目から徹底的に隠した。カレンがポッターの姉だと知れれば、ハリーの居場所を探るための人質にされるか、あるいは詮索好きなマスコミの餌食になる。不器用な男は、カレンを「店主の拾った孤児」として扱い、カレンという名前すら公には呼ばなかった。
だが、幼い少女にも感情を押し殺し続けるのに無理があった。
ある冬の夜。
突然発作が起きた。雷の音と光に怯え、サトノが呼吸を止めて硬直し、白目を剥いて倒れたのだ。男は慌てて彼女を抱き起こし、背中をさすった。
「おい! 息をしろ! ……クソ!」
小さな体が、石のように冷たく固まっている。アバーフォースはどうすればいいか分からず、ただ暖炉の前で彼女を毛布にくるみ、一晩中抱えていた。男の粗野な手には、繊細な魔法など使えない。 ただ、体温を分けることしかできなかった。
ただそれだけであったが、彼女のけいれんはすぐに収まり、ゆっくりと寝息を立てていった。
翌朝、目を覚ましたカレンが男の顔を見て、彼女は初めて、微かに――本当に微かに、俺の服の裾を掴んだ。言葉はない。だがその仕草は「行かないで」と言っているようだった。
「……安心しろ。俺はアルバスみたいに、お前を見捨てたりしねえよ」
男は彼女の頭に、ゴツゴツした手を乗せた。ハリー・ポッターが光の英雄になるなら、なればいい。 だが、この何もない、空っぽの少女を守れるのは、この薄暗い酒場の偏屈親父だけだ。
アバーフォースはその日から、彼女に魔法を教えることにした。杖の振り方ではない。生き延びるための、もっと泥臭い知恵を。いつか彼女が外の世界に出た時、誰にも踏みつけられないように。
それが、アリアナを救えなかった彼なりの、唯一の贖罪だった。
------------------
時は巡り、カレンはゆっくりと育ていった。
彼女の住む家は、いつだって古びたヤギの毛皮と、発酵した蜂蜜酒の甘ったるい匂いがしており良い環境とは言えなかったが、周りの大人たちが彼女を見守り、そして育てていった。
決して開放的な性格とは口が裂けても言えないが、村には彼女以外にも子供たちが居たため、環境になじんでいけた。
ホグズミード村の片隅、看板の塗装が剥げかけた「ホッグズ・ヘッド」。 昼間でも薄暗い店内の奥、埃の舞う光が差し込む階段の踊り場で、カレンは膝を抱えて座っているのがお決まりだった。
まるで、誰かにそこに置かれたまま忘れ去られた、等身大の人形のように。
「……おい、飯だ」
重たい足音と共に、アバフォースおじさんが現れる。不機嫌そうに歪んだ灰色の髭。盆に載せられたスープと固いパン。男はカレンのことを、「おい」としか呼ばないが、邪険にすることもない。カレンは無言で盆を受け取り小さく会釈をする。おじさんは、カレンが言葉を発しないことを咎めたりしない。この店に来る客たちは皆、何かを隠し、何かから逃げている人たちばかりだからか、欠陥のあるの少女もまた、その一人に過ぎないのだ。
カレンは、自分が何者かを知らない。
ただ、鏡に映る自分の顔――透けるような白い肌と、少し釣り上がった緑色の瞳――を見るたびに、胸の奥がざわつく。そして、髪の色だけが、あの人を思い出させる琥珀色の光の中で、場違いなほど平凡な栗色をしていた。
アバーフォースに「私はお母さんに似てますか?それともお父さんですか?」と一度訪ねた。
その質問には、記憶の底にこびりついて離れない「夢」があるからだ。緑色の閃光。女性の悲鳴。そして、動けなくなったカレンと女性のそばで、黒い服を着た男の人が声を上げて泣いている光景。
その夢を見るたび、カレンは呼吸を忘れ、指先から石のように冷たく硬直してしまう。アバーフォースはそれを「発作」と呼んだが、カレンはあの時かけられた呪いが、まだ私の体の芯に残っているのだと感じていた。
実際にかけられたのはペトフィリカストタルスという呪文のみ。
少女がお人形遊びが好きで、人形のフリをするのがとても上手で、よく人形ごっこをままごととして取り入れていた。あの夜、母親は娘にこう言ったのだ。
『いまからあなたはお人形になるのよ。絶対に動いたらだめよ。お母さんがあなたに呪文をかけてあげるから。良いわね?』
たった2歳の幼女は人形に変身することができる天賦の才能を持ち合わせており、父であるジェームズは自分の才能を引き継いだと鼻が高々に自慢していた。よもや、まさかこんな使い方をするとは夢にも思わなかっただろう。そして残念ながらカレンが人形に変身したときには、父親はこと切れていた。
人形になったとしても目の前で母親が殺され、恐ろしい闇の帝王が現れれば幼女の変身術も解け、真っ先に殺されていただろう。
だが、母親のかけた呪文はなぜか効いたままだった。奇跡としか言いようがないが、カレンは目の前で母を殺され、赤ん坊の弟が殺されそうになるところをただ見ていた。
闇の帝王はおそらく彼女に存在に気づいていただろう。だが、泣きわめきもしないただの人形に興味を示さなかった。
まずはハリー・ポッター。
幼い男の子を殺すことを優先したにすぎない。
悲惨な経験を経て、カレンは極力心を波立たせないように、感情のスイッチを切る術を身につけていた。身につけさせられた…が正しい表現である。嬉しいとも、悲しいとも思わない。ただの「目」となって、この薄汚れた酒場を眺めるだけの存在。そうすれば、発作は起きない。
話は逸れたが、その感情のスイッチがオフのまま大きくなった少女が、酒屋の主人に問いかけるほど、己の容姿を気にしていた理由は彼女の心を乱す唯一の存在がいたからだ。
カラン、とドアベルが乾いた音を立てて鳴ると、決まって冷たい冬の夜のような空気が流れ込む。
黒いマントを翻し、肩まで伸びた漆黒の髪を揺らして入ってくるその人を、カレンは階段の踊り場からじっと見つめた。
セブルス・スネイプ。ホグワーツの魔法薬学教授であり、アバーフォースと何やら怪しい取引――貴重な薬草や、毒のある生物の素材の受け渡し――を行っている魔法使い。
男は、カレンのことを決して見ようとはしなかった。カレンがカウンターの隅で布巾を畳んでいても、まるでそこに椅子やテーブルがあるかのように、視線を素通りさせる。でも彼が店を出る間際、ほんの一瞬だけ、その黒曜石のような瞳がカレンの姿を――正確には、カレンの顔を――盗み見ていることに少女は気づいていた。その瞳を形容するにはまだカレンは幼すぎて説明も理解もできなかった。
ただ、あの悪夢の中で泣いていた男、に似ている。
確証はないが、彼の纏う薬草とインクの匂いが鼻をかすめるたび、カレンの体の中で凍りついていた何かが、微かに疼くのを感じていた。
---------------------------
カレンが10歳になった年の、ハロウィンの夜。
その日、村はお祭りの喧騒に包まれていた。アバーフォースは「今夜は外に出るな」とカレンに厳命し、店の戸締まりを厳重にしていた。10月31日。それは世間が浮かれる日であり、カレンにとっては両親の命日でもあるからだ。
しかし、好奇心というのは抑え難いものだ。カレンはアバーフォースが地下倉庫へ行った隙に、裏口の重い扉を少しだけ開け、路地裏へと滑り出した。
冷たい風が頬を刺し、遠くから聞こえる笑い声が彼女を通りへ誘う。ざわめきと音楽が情緒の安定した少女には良い刺激となり、好奇心を掻き立てられたのだ。あの不器用な男の元では得られない刺激である。
カレンは建物の陰に隠れて、その明るい世界を覗き見ていた。
その時、悪戯好きな村の子供たちが打ち上げた魔法花火が、ヒュルルル…という音と共に路地裏の空を切り裂いた。
バチッ、と弾けたのは、鮮烈な緑色の火花。
視界が、緑一色に染まる。瞬間、カレンの意識は現在から切り離され、あの夜へと吹き飛ばされました。
――リリー! 逃げろ!
――だめ、ハリーだけは、お願い!
耳元で母の絶叫が響く。緑の光が迫る。
怖い。逃げなきゃ。でも、体が動かない。
指一本、動かせない。
お母さん!
お父さん!
ハリー!!
カレンは路地裏の汚れた石畳の上に、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
肺が空気を拒絶する。喉がヒューヒューと鳴り、視界が急速に暗転していく。
(ああ、私はあのまま死ぬんだ)
薄れゆく意識の中で、死を覚悟した。
ザッ、ザッ、と荒々しい足音が近づいてきた。アバーフォースの引きずるような歩き方ではない。もっと鋭く、怒りに満ちた足音。
誰かが、カレンの肩を乱暴に掴み抱き起こした。
「……おい! 息をしろ!」
頭上から降ってきたのは、聞き覚えのある低く滑らかな声。
カレンは見開いたままで固まった目で、その人を見上げた。逆光で表情は見えないけれど、長い黒髪と、鼻筋の通った輪郭。そして何より、カレンの頬を挟み込んで無理やり上を向かせた手の、氷のような冷たさ。
「聞こえんのか! 吸え、吐け! ……戻ってこい!」
その声には、いつもの冷徹さは微塵もない。そこにあるのは、焦燥と、悲痛なほどの必死さ。その剣幕に押されるように、少女の肺が痙攣し、大きく息を吸い込んだ。
「かはっ……!」
冷たい空気が喉を焼き、カレンは激しく咳き込んだ。硬直が解け、ガタガタと震えが全身を襲う。目の前の黒い影が、ふう、と長い息を吐く気配がした。
視界がクリアになっていき、目の前に片膝をつき、眉間に深い皺を寄せて覗き込んでいるのは、あのスネイプ教授だと気づいた。彼はカレンが息を吹き返したのを確認すると、割れ物を触かのように立たせ、冷たい空気から守るようにマントで風よけを作った。
「……馬鹿者が。アバフォースは何をしている」
彼は憎々しげに吐き捨てた。けれど、その場を立ち去ろうとはしなかった。まだ震えが止まらないカレンを見下ろし、自分の身につけていた重たい黒のマントを外し、カレンの頭からバサリと被せた。
温かい。薬草と乾いた冬の匂い。マントの中で落ち着いたカレンは小さく丸まり、安堵感が胸を満たしている。
マントの隙間から顔を出し、彼を見上げた。スネイプは路地裏の出口に立ち、まるで私を世間の視線から隠す壁のように、背中を向けて立っていた。
その背中を、カレンは知っていた。
ずっと夢の中で見ていた、母の亡骸のそばで震えていた背中。
「……やっぱり」
カレンの唇から、掠れた声が漏れました。
「あの時、泣いていた人」
ピクリ、と彼の肩が強張った。
彼はゆっくりと振り返る。その顔には先ほどまでの焦りはなく、能面のような無表情が張り付いていたが、カレンを見るその瞳の奥が、激しく揺れているのを隠しきれていなかった。
彼は何も言いず、否定も、肯定もせず。
ただ、ハロウィンの冷たい風の中で、カレンという存在に耐えるように、じっと立ち尽くしていた。
その時、少女は理解した。
この世界での痛みを、あの緑色の光の恐怖を本当に理解できるのは、アバーフォースでも、まだ会ったことのない弟でもない。
目の前にいる、この不器用で孤独な男だけなのだと。
マントを握りしめるカレンの手に、力がこもり、恐怖はいつしか形を変えていた。
それは幼い恋心と呼ぶにはあまりに暗く、けれど信仰に近い、強烈な執着の始まりであった。
かの有名な少年には2歳離れた姉がいたことをご存じだろうか。
ハリーの英雄譚には注釈のようにこう記載される。
「なお、ハリーの姉であるカレン・ポッターは当時現場におらず、難を逃れた。」
これは事実ではない。
あの日、あの晩。幼い少女もあのゴドリックの谷の子供部屋に居たのだ。
無残な姿となったポッター家の敷居を跨いだルビウス・ハグリットはオンオン泣きながら幼いハリーを懐に抱えた。だが、姉の姿が見えない。
ダンブルドアから姉は彼のもとに連れてくるように言明されていたにもかかわらず、少女の姿を見つけることができなかった。
ハグリットの頭には悪い予感しかなかった。
「もしや、カレンも例のあの人に…」
屍となったリリーとジェームズの姿を視界に映しながら最悪の事態を考えていた。だが、まずはハリーを安全なところに連れて帰るのが先だ。
「すまねえ、すまねえジェームズ、リリー、カレン…お前たちをここから出して、きれいしてやるからちょっくら待っててくれ。すぐ戻るからよ。」
ハグリットはポロポロとこぼれる涙をぬぐいながら、ハリーをがれきの中から救い出した。
その後、血相変えて飛んできたシリウス・ブラックからオートバイを譲り受け、大男はハリーを連れて闇夜に消えていった。
ハグリットは全く気付かなかったのだ。そこにはカレンも居た。生きていたのだ。
カレンが救出されたのはそれから6時間余り後のことである。
アルバス・ダンブルドア自ら壊れた家に赴き、まっすぐと子供部屋にあった人形を抱きかかえた。
「迎えが遅くなってすまなかったの。」
大賢者はそう優しく声をかけ、人形にかかっていたペトリフィカス・トタルスの呪いを解いた。
途端に人形に血の気が通り、ようやく小さな少女が息を吹きかえした。
彼女も生き残った女の子であるが、ハリーがそうであるように彼女も何もしていない。
だが彼女は有名になった弟は違い、静かに隠されることとなった。
深夜のホッグズ・ヘッドは、腐ったビールと絶望の匂いが沈殿していた。老け込んだ老店主は最後の客を追い出し、カウンターの汚れを雑巾で擦っていた。
世間では「例のあの人」が消えたとかで馬鹿騒ぎしており、今の客も同じような連中だ。決して闇の魔術の信奉者ではないが、喜ばしい出来事に歓喜を上げるタイプではない。
静かに平和を噛みしめるのが似合っているのだ。
だが、彼にその平和を堪能する時間は訪れなかった。
店の扉が開いた。
カウベルの音と共に、夜の冷気と男が世界で一番嫌いな「潔癖な魔法使い」の気配が入り込んでくる。
「……何の用だ、アルバス」
男は雑巾を投げ捨て、入り口に立つ兄を睨みつけた。アルバス・ダンブルドアは、ひどく疲れた顔をしていた。その腕には、柔らかい毛布にくるまれた小さな子供が抱えられている。
「アバフォース。……頼みがある」
「断る。騎士団の後始末なら他を当たれ」
「この子には、行き場がないのだ」
アルバスは強引にカウンターへ歩み寄り、その子供を置いた。
毛布の間から見えたのは、透けるように白い肌をした幼い少女だった。 目は開いている。だが瞬き一つしない。
呼吸も浅く、まるで精巧な蝋人形のようだった。
「……ポッターのガキか」
俺は眉をひそめた。
「生き残った男の子ってのは、赤ん坊じゃなかったのか?」
「それは弟のハリーだ。ハリーは、リリーの最期の魔法――『愛の護り』によって守られた。だから、血の繋がったペチュニアの家に預けてきた」
「なら、こいつも一緒に放り込んでくればいいだろう。姉弟なんだろうが」
アルバスは首を振った。その瞳には、冷徹な計算とわずかな苦渋が滲んでいた。
「リリーの護りは、ハリーにしか作用しなかった。……サトノには、何の加護もない」
母親が命を懸けた魔法は弟だけを守り、この姉をすり抜けたのだ。
「それに、見ての通りだ。この子はあの現場で強いショックを受け、心を閉ざしてしまった。『人形』のように動かない。マグルの家でこの状態の子供を育てるのは不可能だ。かつての……アリアナのように、暴走する危険もある」
「アリアナ」 その名前が出た瞬間、アバーフォースの中で何かが弾けた。店の切り盛りで鍛え上げられた腕がアルバスの胸ぐらを掴み上げた。
「……その名前をお前が口にするな!!」
「だが、事実だアバフォース。この子をペチュニアの家に置けば、ハリーを守るための『血の結界』に綻びが生じるかもしれん。かといって、孤児院にやれば、死喰い人の残党に『ポッターの血筋』として狙われる。守りなきこの子は格好の餌食だ」
アルバスは俺の手を振りほどかず、静かに続けた。
「隠すしかないのだ。光も、闇も届かない場所に。お前の店なら安心だ。」
俺は手を離し、カウンターの上の少女を見下ろした。大の大人が目の前で騒いでいるというのに、彼女はピクリとも動かない。ただ虚空を見つめている。
予言にも語られず、母の護りからも漏れ、弟を守るために引き剥がされた「余り物」。
その姿が、あの日の妹と重なった。魔法を制御できず、怯え、隠されるように生きたアリアナと。
「……クソが」男は吐き捨てた。「アルバス、お前は本当に最低な野郎だ。」
アルバスはそれが同意を得られたと判断し、安堵の息を漏らして少女を置いて去っていった。
店には男と、動かない人形のような少女だけが残された。
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子育てなんざ、ガラじゃない。だが、カレンは手のかからないガキだった。泣きもせず、笑いもしない。椅子に座らせれば一日中そこに座っている。
男は彼女を、世間の目から徹底的に隠した。カレンがポッターの姉だと知れれば、ハリーの居場所を探るための人質にされるか、あるいは詮索好きなマスコミの餌食になる。不器用な男は、カレンを「店主の拾った孤児」として扱い、カレンという名前すら公には呼ばなかった。
だが、幼い少女にも感情を押し殺し続けるのに無理があった。
ある冬の夜。
突然発作が起きた。雷の音と光に怯え、サトノが呼吸を止めて硬直し、白目を剥いて倒れたのだ。男は慌てて彼女を抱き起こし、背中をさすった。
「おい! 息をしろ! ……クソ!」
小さな体が、石のように冷たく固まっている。アバーフォースはどうすればいいか分からず、ただ暖炉の前で彼女を毛布にくるみ、一晩中抱えていた。男の粗野な手には、繊細な魔法など使えない。 ただ、体温を分けることしかできなかった。
ただそれだけであったが、彼女のけいれんはすぐに収まり、ゆっくりと寝息を立てていった。
翌朝、目を覚ましたカレンが男の顔を見て、彼女は初めて、微かに――本当に微かに、俺の服の裾を掴んだ。言葉はない。だがその仕草は「行かないで」と言っているようだった。
「……安心しろ。俺はアルバスみたいに、お前を見捨てたりしねえよ」
男は彼女の頭に、ゴツゴツした手を乗せた。ハリー・ポッターが光の英雄になるなら、なればいい。 だが、この何もない、空っぽの少女を守れるのは、この薄暗い酒場の偏屈親父だけだ。
アバーフォースはその日から、彼女に魔法を教えることにした。杖の振り方ではない。生き延びるための、もっと泥臭い知恵を。いつか彼女が外の世界に出た時、誰にも踏みつけられないように。
それが、アリアナを救えなかった彼なりの、唯一の贖罪だった。
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時は巡り、カレンはゆっくりと育ていった。
彼女の住む家は、いつだって古びたヤギの毛皮と、発酵した蜂蜜酒の甘ったるい匂いがしており良い環境とは言えなかったが、周りの大人たちが彼女を見守り、そして育てていった。
決して開放的な性格とは口が裂けても言えないが、村には彼女以外にも子供たちが居たため、環境になじんでいけた。
ホグズミード村の片隅、看板の塗装が剥げかけた「ホッグズ・ヘッド」。 昼間でも薄暗い店内の奥、埃の舞う光が差し込む階段の踊り場で、カレンは膝を抱えて座っているのがお決まりだった。
まるで、誰かにそこに置かれたまま忘れ去られた、等身大の人形のように。
「……おい、飯だ」
重たい足音と共に、アバフォースおじさんが現れる。不機嫌そうに歪んだ灰色の髭。盆に載せられたスープと固いパン。男はカレンのことを、「おい」としか呼ばないが、邪険にすることもない。カレンは無言で盆を受け取り小さく会釈をする。おじさんは、カレンが言葉を発しないことを咎めたりしない。この店に来る客たちは皆、何かを隠し、何かから逃げている人たちばかりだからか、欠陥のあるの少女もまた、その一人に過ぎないのだ。
カレンは、自分が何者かを知らない。
ただ、鏡に映る自分の顔――透けるような白い肌と、少し釣り上がった緑色の瞳――を見るたびに、胸の奥がざわつく。そして、髪の色だけが、あの人を思い出させる琥珀色の光の中で、場違いなほど平凡な栗色をしていた。
アバーフォースに「私はお母さんに似てますか?それともお父さんですか?」と一度訪ねた。
その質問には、記憶の底にこびりついて離れない「夢」があるからだ。緑色の閃光。女性の悲鳴。そして、動けなくなったカレンと女性のそばで、黒い服を着た男の人が声を上げて泣いている光景。
その夢を見るたび、カレンは呼吸を忘れ、指先から石のように冷たく硬直してしまう。アバーフォースはそれを「発作」と呼んだが、カレンはあの時かけられた呪いが、まだ私の体の芯に残っているのだと感じていた。
実際にかけられたのはペトフィリカストタルスという呪文のみ。
少女がお人形遊びが好きで、人形のフリをするのがとても上手で、よく人形ごっこをままごととして取り入れていた。あの夜、母親は娘にこう言ったのだ。
『いまからあなたはお人形になるのよ。絶対に動いたらだめよ。お母さんがあなたに呪文をかけてあげるから。良いわね?』
たった2歳の幼女は人形に変身することができる天賦の才能を持ち合わせており、父であるジェームズは自分の才能を引き継いだと鼻が高々に自慢していた。よもや、まさかこんな使い方をするとは夢にも思わなかっただろう。そして残念ながらカレンが人形に変身したときには、父親はこと切れていた。
人形になったとしても目の前で母親が殺され、恐ろしい闇の帝王が現れれば幼女の変身術も解け、真っ先に殺されていただろう。
だが、母親のかけた呪文はなぜか効いたままだった。奇跡としか言いようがないが、カレンは目の前で母を殺され、赤ん坊の弟が殺されそうになるところをただ見ていた。
闇の帝王はおそらく彼女に存在に気づいていただろう。だが、泣きわめきもしないただの人形に興味を示さなかった。
まずはハリー・ポッター。
幼い男の子を殺すことを優先したにすぎない。
悲惨な経験を経て、カレンは極力心を波立たせないように、感情のスイッチを切る術を身につけていた。身につけさせられた…が正しい表現である。嬉しいとも、悲しいとも思わない。ただの「目」となって、この薄汚れた酒場を眺めるだけの存在。そうすれば、発作は起きない。
話は逸れたが、その感情のスイッチがオフのまま大きくなった少女が、酒屋の主人に問いかけるほど、己の容姿を気にしていた理由は彼女の心を乱す唯一の存在がいたからだ。
カラン、とドアベルが乾いた音を立てて鳴ると、決まって冷たい冬の夜のような空気が流れ込む。
黒いマントを翻し、肩まで伸びた漆黒の髪を揺らして入ってくるその人を、カレンは階段の踊り場からじっと見つめた。
セブルス・スネイプ。ホグワーツの魔法薬学教授であり、アバーフォースと何やら怪しい取引――貴重な薬草や、毒のある生物の素材の受け渡し――を行っている魔法使い。
男は、カレンのことを決して見ようとはしなかった。カレンがカウンターの隅で布巾を畳んでいても、まるでそこに椅子やテーブルがあるかのように、視線を素通りさせる。でも彼が店を出る間際、ほんの一瞬だけ、その黒曜石のような瞳がカレンの姿を――正確には、カレンの顔を――盗み見ていることに少女は気づいていた。その瞳を形容するにはまだカレンは幼すぎて説明も理解もできなかった。
ただ、あの悪夢の中で泣いていた男、に似ている。
確証はないが、彼の纏う薬草とインクの匂いが鼻をかすめるたび、カレンの体の中で凍りついていた何かが、微かに疼くのを感じていた。
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カレンが10歳になった年の、ハロウィンの夜。
その日、村はお祭りの喧騒に包まれていた。アバーフォースは「今夜は外に出るな」とカレンに厳命し、店の戸締まりを厳重にしていた。10月31日。それは世間が浮かれる日であり、カレンにとっては両親の命日でもあるからだ。
しかし、好奇心というのは抑え難いものだ。カレンはアバーフォースが地下倉庫へ行った隙に、裏口の重い扉を少しだけ開け、路地裏へと滑り出した。
冷たい風が頬を刺し、遠くから聞こえる笑い声が彼女を通りへ誘う。ざわめきと音楽が情緒の安定した少女には良い刺激となり、好奇心を掻き立てられたのだ。あの不器用な男の元では得られない刺激である。
カレンは建物の陰に隠れて、その明るい世界を覗き見ていた。
その時、悪戯好きな村の子供たちが打ち上げた魔法花火が、ヒュルルル…という音と共に路地裏の空を切り裂いた。
バチッ、と弾けたのは、鮮烈な緑色の火花。
視界が、緑一色に染まる。瞬間、カレンの意識は現在から切り離され、あの夜へと吹き飛ばされました。
――リリー! 逃げろ!
――だめ、ハリーだけは、お願い!
耳元で母の絶叫が響く。緑の光が迫る。
怖い。逃げなきゃ。でも、体が動かない。
指一本、動かせない。
お母さん!
お父さん!
ハリー!!
カレンは路地裏の汚れた石畳の上に、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
肺が空気を拒絶する。喉がヒューヒューと鳴り、視界が急速に暗転していく。
(ああ、私はあのまま死ぬんだ)
薄れゆく意識の中で、死を覚悟した。
ザッ、ザッ、と荒々しい足音が近づいてきた。アバーフォースの引きずるような歩き方ではない。もっと鋭く、怒りに満ちた足音。
誰かが、カレンの肩を乱暴に掴み抱き起こした。
「……おい! 息をしろ!」
頭上から降ってきたのは、聞き覚えのある低く滑らかな声。
カレンは見開いたままで固まった目で、その人を見上げた。逆光で表情は見えないけれど、長い黒髪と、鼻筋の通った輪郭。そして何より、カレンの頬を挟み込んで無理やり上を向かせた手の、氷のような冷たさ。
「聞こえんのか! 吸え、吐け! ……戻ってこい!」
その声には、いつもの冷徹さは微塵もない。そこにあるのは、焦燥と、悲痛なほどの必死さ。その剣幕に押されるように、少女の肺が痙攣し、大きく息を吸い込んだ。
「かはっ……!」
冷たい空気が喉を焼き、カレンは激しく咳き込んだ。硬直が解け、ガタガタと震えが全身を襲う。目の前の黒い影が、ふう、と長い息を吐く気配がした。
視界がクリアになっていき、目の前に片膝をつき、眉間に深い皺を寄せて覗き込んでいるのは、あのスネイプ教授だと気づいた。彼はカレンが息を吹き返したのを確認すると、割れ物を触かのように立たせ、冷たい空気から守るようにマントで風よけを作った。
「……馬鹿者が。アバフォースは何をしている」
彼は憎々しげに吐き捨てた。けれど、その場を立ち去ろうとはしなかった。まだ震えが止まらないカレンを見下ろし、自分の身につけていた重たい黒のマントを外し、カレンの頭からバサリと被せた。
温かい。薬草と乾いた冬の匂い。マントの中で落ち着いたカレンは小さく丸まり、安堵感が胸を満たしている。
マントの隙間から顔を出し、彼を見上げた。スネイプは路地裏の出口に立ち、まるで私を世間の視線から隠す壁のように、背中を向けて立っていた。
その背中を、カレンは知っていた。
ずっと夢の中で見ていた、母の亡骸のそばで震えていた背中。
「……やっぱり」
カレンの唇から、掠れた声が漏れました。
「あの時、泣いていた人」
ピクリ、と彼の肩が強張った。
彼はゆっくりと振り返る。その顔には先ほどまでの焦りはなく、能面のような無表情が張り付いていたが、カレンを見るその瞳の奥が、激しく揺れているのを隠しきれていなかった。
彼は何も言いず、否定も、肯定もせず。
ただ、ハロウィンの冷たい風の中で、カレンという存在に耐えるように、じっと立ち尽くしていた。
その時、少女は理解した。
この世界での痛みを、あの緑色の光の恐怖を本当に理解できるのは、アバーフォースでも、まだ会ったことのない弟でもない。
目の前にいる、この不器用で孤独な男だけなのだと。
マントを握りしめるカレンの手に、力がこもり、恐怖はいつしか形を変えていた。
それは幼い恋心と呼ぶにはあまりに暗く、けれど信仰に近い、強烈な執着の始まりであった。
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