第1章 新天地へ
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彼と別れて数か月。
ロンドンの空は、まるでエレナ・スズキの心を映し出すかのように、重く低い雲に覆われ、時折冷たい雨を降らせていた。数週間前、クィリナス・クィレル——彼女が心から愛し、信頼していたはずの男——は、理由も告げずに一方的に彼女との関係を断ち切り、その短い言葉は鋭利な刃物のようにエレナの胸を深く切り裂いた。あのクリスマスの夜に灯った温かい光は、今や彼自身の不可解な変貌と共に、冷たい灰となって彼女の心に降り積もっている。
エレナは、納得できない怒り、裏切られたという激しい思い、そして彼への捨てきれない執着と、彼を失ったことへの嫉妬にも似た苦しい感情の渦の中で、溺れかけていた。まるで薄氷の上を、どこが割れるかも分からずに歩き続けているかのように、危うい日々が続いていた。
聖マンゴ魔法疾患傷害病院での実習にも、その影響は隠しようもなく現れていた。
かつて、彼女の最大の武器であったはずの鋭敏な感受性は、今や彼女自身を苛む諸刃の剣と化していた。患者の微細な苦痛の呻き、リネンに染み付いた血の鉄錆びた匂い、消毒薬の鼻をつく冷たい香り、廊下を慌ただしく行き交うヒーラーたちの足音――その全てが、ささくれ立った彼女の神経を過剰に刺激し、思考を鈍らせ、判断力を奪った。
あれほど情熱を傾けていた治癒魔法に関する研究書も、今は下宿の部屋の机の隅で、静かに埃を被り、開かれることはない。
その白いヒーラー服は、毎朝、彼女の几帳面さによってシミ一つなく清潔に保たれてはいたが、その下の彼女自身の魂は、癒えることのない傷から流れ出る黒い血で、見る影もなく汚れているかのようだった。
ある日の午後、その危うさは、ついに現実の形となって現れた。エレナは、「龍の鱗病」の初期症状を訴える患者のための、特殊な軟膏を調合していた。この病は、皮膚が乾燥し、硬い鱗状に変化していく難病で、その進行を抑える軟膏の調合には、薬草の選別から配合のバランス、そして何よりも術者の精神的な安定が求められる。本来ならば、東洋の薬草学にも通じる彼女の得意とする分野の一つであり、誰よりも細心の注意を払うべき作業だった。
しかし、その日の彼女の心は、静まり返った調合室の中にあっても、クィレルの最後の言葉が、まるで悪意に満ちた亡霊のように響き渡り、集中力を著しく欠いていた。「君のその純粋さが、時には私を苛立たせるのだということに、なぜ気づかない」――あの言葉は、エレナの存在そのものを否定する響きを持っていた。
薬草を計る彼女の手が、微かに震える。天秤に乗せた乾燥ディタニーの葉が、数ミリグラムだけ多い。普段の彼女なら、その僅かな誤差も見逃しはしない。だが、今の彼女には、その天秤の針の揺れさえも、自分の心の揺らぎと重なって、正しく認識することができなかった。そして、最も致命的な過ちを犯した。月長石の粉末と、サラマンダーの血を混ぜ合わせる順番を、一つ間違えてしまったのだ。
その瞬間、乳鉢の中で混ぜ合わされていた軟膏が、ぷすぷすと嫌な音を立て、僅かにアンモニアに似た異臭を放ち始めた。本来ならば、森の土のような穏やかな香りがするはずだった。
「スズキ! 何をしているの!」
マージョリー・ホプカークの、雷が落ちたかのような厳しい声が、静かな調合室に響き渡った。彼女はいつの間にかエレナの背後に立っており、その鋭い灰色の目が、乳鉢の中の、僅かに変色し始めた軟膏を、まるで罪人の証拠品でも見るかのように捉えている。
「その配合では、患者の皮膚をさらに悪化させるだけよ! まさか、基本中の基本である薬草の拮抗作用を忘れたとでも言うつもり?」
ホプカークの声には、失望と、そして信じられないという響きがあった。
「月長石の前にサラマンダーの血を入れるなど、見習いヒーラーでも犯さないわ。あなた、どうかしているんじゃないの」
「も、申し訳ありません…すぐに、やり直します」
エレナの声はか細く、顔からは血の気が引いていた。ホプカークに言われるまで、自分の過ちに気づいていなかったのだ。
幸い、この失敗作が患者に使用される前に彼女が気づいたため、最悪の事態は免れた。しかし、その失敗は、エレナのヒーラーとしての自信を、回復不可能なまでに打ち砕いた。以前の彼女なら、決して、絶対に犯すはずのない初歩的なミスだった。
その日のエレナの仕事ぶりは、坂道を転がり落ちる石のように、目に見えて精彩を欠いていった。患者のカルテの記入漏れ、似たような名前の魔法薬を取り違えそうになる、複雑な治療法について患者への説明が不足し、不安にさせてしまう。彼女の仕事に対する情熱や意欲は、まるで砂漠に吸い込まれていく水のように、急速に失われていく。
ホプカークの叱責は更に厳しくなり、その言葉はもはや指導ではなく、非難に近くなっていた。他のヒーラーたちも、最初は心配そうに声をかけてくれていたが、何度も失敗を繰り返すエレナの様子に、困惑と哀れみの色さえ浮かんだ視線を向けるようになった。かつて、彼女の瞳に宿っていたはずの、知的な探求心と、人々を癒したいという強い意志の光はかろうじて揺らめいているだけだった。
その日の業務が終わり、ホプカークの雷のような叱責の言葉がまだ耳の奥で反響する中、エレナはまるで夢遊病者のように、聖マンゴ魔法疾患傷害病院の白い廊下を歩いていた。
春の終わりを告げる夕暮れの光が、大きな窓から斜めに差し込み、床の上の塵をきらきらと照らし出している。その光景は、非現実的なほど美しく、エレナの荒廃した心とはあまりにも対照的だった。 自動で開閉するガラスの扉を抜け、ロンドンの喧騒の中に足を踏み出す。
街は、一日の仕事を終えた人々や、夏の訪れを前に浮き立つ恋人たちで賑わっていたが、その活気は分厚いガラスの壁に隔てられているかのようにエレナの心には届かない。
彼女は、周囲の誰とも視線を合わせることなく、ただ俯いて、下宿までの道を重い足取りで歩いた。
アパートの古びた扉の前にたどり着き、ポケットから鍵を取り出す。その手は、軟膏の調合を誤った時のように、微かに震えていた。鍵穴に鍵を差し込むという、日常の単純な動作さえも、今の彼女にはひどく億劫で、困難なものに感じられる。ようやく扉を開けて部屋に入ると、ひやりとした、誰もいない部屋の空気が彼女を迎えた。
エレナは、履いていた靴を脱ぐのももどかしく、そのまま床にへたり込みそうになるのを必死でこらえた。壁に手をつき、バッグを力なく床に落とす。ガタン、と乾いた音が、静かな部屋に虚しく響いた。 ヒーラーとしての白いローブは、もはや誇りの象徴ではなく、今日の失敗と屈辱を刻み込んだ、重く汚れた布切れのように感じられた。エレナは、それを乱暴に脱ぎ捨てると、床の上に投げやった。
彼女は、ふらふらとした足取りでシャワー室へと向かった。服を脱ぎ捨て、鏡に映った自分の姿から目をそらすようにして、熱い湯を出す。轟という音と共に、白い湯気が狭い空間に立ち込めた。 熱いシャワーが、冷え切った体に叩きつけるように降り注ぐ。その熱さが、まるで罰であるかのように感じられた。エレナは、肌が赤くなるのも構わずに、ただその場に立ち尽くした。今日の失敗を、ホプカークの視線を、そして何より、クィリナスの冷たい拒絶の言葉を、この熱い湯で洗い流してしまえたらいいのに。
しかし、お湯が体の表面を温めれば温めるほど、心の芯が凍てついているのが、より一層はっきりと感じられた。 石鹸を手に取り、自分の体を機械的に洗い始める。その手つきには、かつて患者の体に触れる時にあったような、慈しむような優しさは微塵もなかった。
まるで、自分のものではない、汚れた何かを洗い清めるかのように、ゴシゴシと、痛みを感じるほど強く肌をこする。それでも、心の奥底にこびりついた自己嫌悪の染みは、少しも薄くはならなかった。 シャワーの音に混じって、様々な声が頭の中で響き渡る。
「あなた、どうかしているんじゃないの」――ホプカークの失望に満ちた声。
「君のその純粋さが、時には私を苛立たせるのだ」――クィリナスの苦しげな声。
シャワーヘッドを壁に叩きつけたいような、叫び出したいような衝動に駆られたが、エレナにはもう、そんな感情を爆発させるエネルギーさえ残っていなかった。彼女は、ただ静かに、流れ落ちる湯と共に、自分の涙も流していた。
シャワーを終え、古いバスローブを無造作に羽織ると、エレナは寝室へと向かい、ベッドの上に倒れ込むように体を投げ出した。まだ濡れたままの黒髪が、冷たい枕カバーにじっとりと張り付く。その湿った不快な感触が、今の自分の惨めさを象徴しているかのようだった。
「なぜなの、クィリナス…どうして…」 声にはならなかった。
ただ、唇が、彼の名前をか細く形作る。その呟きは、誰に届くでもなく、冷たいシーツの中に吸い込まれて消えていった。
目を閉じると、幸せだった頃の記憶が、残酷なほど鮮やかに蘇る。彼の優しかった笑顔、知的な会話と熱く語り合う夜、そして、あのクリスマスの夜の、肌を焦がすような温もり。
それらが全て、手の届かない場所へ去ってしまったという事実が、鋭い痛みとなって胸を貫く。あれは全て、嘘だったとは思いたくない。
だが今日の失敗も、全て紛れもない現実だった。
それから数週間が過ぎても、彼女の心に刻まれた傷は癒えるどころか、日ごとに深く、そして熱を帯びていくようだった。聖マンゴ魔法疾患傷害病院での彼女の仕事ぶりは、もはや以前の面影もないほどに精彩を欠いていた。
かつてはホプカークをも唸らせたほどの集中力は霧散し、代わりに危険なほどの注意力散漫さが彼女を覆っていた。魔法薬の調合では些細なミスを繰り返し、患者のカルテには判読不能な文字が並び、実習中の補助ヒーラーたちへの指示も曖昧で、時には治療手順を飛ばしてしまうことさえあった。
「スズキ、少し話がある。私の執務室に来なさい」
その日の業務が終わると、マージョリー・ホプカークが、いつになく厳しい、しかしどこか疲れたような声でエレナを呼び止めた。エレナは、鉛のように重い足取りで彼女の後に続いた。執務室の扉が閉められると、ホプカークは机の向こう側で腕を組み、真っ直ぐにエレナを見据えた。その鋭い灰色の瞳は、エレナの心の奥底まで見透かそうとしているかのようだ。
「単刀直入に聞くわ、スズキ。貴女に何があったの? ここ数週間の貴女は、まるで別人よ。以前の貴女の知性と勤勉さはどこへ消えたの? このままでは、貴女自身だけでなく、患者たちをも危険に晒すことになるわ」
エレナは俯いたまま、何も答えられなかった。クィレルのこと、彼の豹変、そして自分の心の混乱。それをどう説明すればいいのか、言葉が見つからなかった。ただ、唇を噛み締め、溢れそうになる涙を必死でこらえているだけだった。
ホプカークは深いため息をついた。
「…個人的な問題に深入りするつもりはないわ。けれど、今の貴女がマンゴの最前線でヒーラーとしての任務を全うできる状態にないことは、明らかよ」
彼女の言葉は冷たく響いたが、その奥には、エレナの才能を惜しむような、微かな苦渋の色も感じられた。
「このままでは、貴女のキャリアにも響く。そして何より、貴女自身が壊れてしまうかもしれない」
沈黙が部屋を支配した。エレナは、ホプカークの言葉が的を射ていることを認めざるを得なかった。今の自分は、抜け殻のようだ。クィレルへの想いと、彼への怒り、彼女はこの新天地で友人がいなかった。彼と出会う前からボロボロだったのだ。
疲れ切ったエレナに夢と希望を与えた男の存在が、彼女の生きる力にすらなっていたのだ。そのクィレルがいなくなったことで、彼女の思考を麻痺させていた。
「…そこで、一つ提案があるの」
ホプカークは、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出しながら言った。
「ホグワーツ魔法魔術学校から、保健室の助手、インターンとしてのポストを用意すると魔法省経由で私に打診があったの。マダム・ポンフリーは優秀な人材を求めている。貴女のこれまでの実績と、特に異文化の魔法医療に関する知識は、あちらでなら活かせるかもしれない。」
ホグワーツ——その名を聞いた瞬間、エレナの心臓が激しく高鳴った。クィリナスが教鞭をとっている場所。
ホプカークは続けた。
「マンゴほど症例は複雑ではないかもしれないけれど、生徒たちのケアというのは独特の難しさがあるわ。環境を変えることが、今の貴女にとって良い刺激になるかもしれない。…悪い話ではないはずよ」
まるで運命が彼女を導いているかのように、道が示された。
「…その話、お受けしたいです。」
エレナは、自分でも驚くほど速く、そしてはっきりとした声で答えていた。顔には、先程までの絶望の色はなく、どこか熱に浮かされたような、危うい決意の光が宿っている。
ホプカークは、エレナのその即答と、急に変わった雰囲気に少し驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの厳格な顔に戻った。
「そう。…よく考えなさい、スズキ。ホグワーツもまた、甘い場所ではないわ。マダム・ポンフリーは私以上に厳しいかもしれないし、何より、あの学校には…独自の、そして時には不可解な『力』が働いている。貴女がそれに飲み込まれないことを願うわ」
彼女の言葉には、警告とも、あるいは老婆心とも取れる響きがあった。
エレナは、ホプカークの言葉の本当の意味を理解していなかったかもしれない。
彼女の頭の中は、既にホグワーツへ行くことでいっぱいだった。クィリナスに会えるかもしれない。その一点だけが、彼女の心を占めていた。表向きは、聖マンゴでの不調からの再起、新たなキャリアへの挑戦。しかし、彼女自身の心の奥底にある真の動機——クィレルへの執着と、彼を追いかけ、別れの理由を問い質し、可能ならば関係を修復したい。
いや、彼を徹底的に問い詰め、この苦しみから解放されたいという強い、ほとんど衝動的な欲求——は、誰にも明かすつもりはなかった。
エレナは、ホプカークにお礼を伝え、「まず、今の状況を改善できる姿をお見せしてから判断いただきたいです。」と伝えた。
ホプカークはようやく慎重で礼儀正しい留学生が現れたと安堵したのか、深くは追及せずに彼女を解放した。
こうして、エレナはホグワーツに赴くこととなる。
ロンドンの空は、まるでエレナ・スズキの心を映し出すかのように、重く低い雲に覆われ、時折冷たい雨を降らせていた。数週間前、クィリナス・クィレル——彼女が心から愛し、信頼していたはずの男——は、理由も告げずに一方的に彼女との関係を断ち切り、その短い言葉は鋭利な刃物のようにエレナの胸を深く切り裂いた。あのクリスマスの夜に灯った温かい光は、今や彼自身の不可解な変貌と共に、冷たい灰となって彼女の心に降り積もっている。
エレナは、納得できない怒り、裏切られたという激しい思い、そして彼への捨てきれない執着と、彼を失ったことへの嫉妬にも似た苦しい感情の渦の中で、溺れかけていた。まるで薄氷の上を、どこが割れるかも分からずに歩き続けているかのように、危うい日々が続いていた。
聖マンゴ魔法疾患傷害病院での実習にも、その影響は隠しようもなく現れていた。
かつて、彼女の最大の武器であったはずの鋭敏な感受性は、今や彼女自身を苛む諸刃の剣と化していた。患者の微細な苦痛の呻き、リネンに染み付いた血の鉄錆びた匂い、消毒薬の鼻をつく冷たい香り、廊下を慌ただしく行き交うヒーラーたちの足音――その全てが、ささくれ立った彼女の神経を過剰に刺激し、思考を鈍らせ、判断力を奪った。
あれほど情熱を傾けていた治癒魔法に関する研究書も、今は下宿の部屋の机の隅で、静かに埃を被り、開かれることはない。
その白いヒーラー服は、毎朝、彼女の几帳面さによってシミ一つなく清潔に保たれてはいたが、その下の彼女自身の魂は、癒えることのない傷から流れ出る黒い血で、見る影もなく汚れているかのようだった。
ある日の午後、その危うさは、ついに現実の形となって現れた。エレナは、「龍の鱗病」の初期症状を訴える患者のための、特殊な軟膏を調合していた。この病は、皮膚が乾燥し、硬い鱗状に変化していく難病で、その進行を抑える軟膏の調合には、薬草の選別から配合のバランス、そして何よりも術者の精神的な安定が求められる。本来ならば、東洋の薬草学にも通じる彼女の得意とする分野の一つであり、誰よりも細心の注意を払うべき作業だった。
しかし、その日の彼女の心は、静まり返った調合室の中にあっても、クィレルの最後の言葉が、まるで悪意に満ちた亡霊のように響き渡り、集中力を著しく欠いていた。「君のその純粋さが、時には私を苛立たせるのだということに、なぜ気づかない」――あの言葉は、エレナの存在そのものを否定する響きを持っていた。
薬草を計る彼女の手が、微かに震える。天秤に乗せた乾燥ディタニーの葉が、数ミリグラムだけ多い。普段の彼女なら、その僅かな誤差も見逃しはしない。だが、今の彼女には、その天秤の針の揺れさえも、自分の心の揺らぎと重なって、正しく認識することができなかった。そして、最も致命的な過ちを犯した。月長石の粉末と、サラマンダーの血を混ぜ合わせる順番を、一つ間違えてしまったのだ。
その瞬間、乳鉢の中で混ぜ合わされていた軟膏が、ぷすぷすと嫌な音を立て、僅かにアンモニアに似た異臭を放ち始めた。本来ならば、森の土のような穏やかな香りがするはずだった。
「スズキ! 何をしているの!」
マージョリー・ホプカークの、雷が落ちたかのような厳しい声が、静かな調合室に響き渡った。彼女はいつの間にかエレナの背後に立っており、その鋭い灰色の目が、乳鉢の中の、僅かに変色し始めた軟膏を、まるで罪人の証拠品でも見るかのように捉えている。
「その配合では、患者の皮膚をさらに悪化させるだけよ! まさか、基本中の基本である薬草の拮抗作用を忘れたとでも言うつもり?」
ホプカークの声には、失望と、そして信じられないという響きがあった。
「月長石の前にサラマンダーの血を入れるなど、見習いヒーラーでも犯さないわ。あなた、どうかしているんじゃないの」
「も、申し訳ありません…すぐに、やり直します」
エレナの声はか細く、顔からは血の気が引いていた。ホプカークに言われるまで、自分の過ちに気づいていなかったのだ。
幸い、この失敗作が患者に使用される前に彼女が気づいたため、最悪の事態は免れた。しかし、その失敗は、エレナのヒーラーとしての自信を、回復不可能なまでに打ち砕いた。以前の彼女なら、決して、絶対に犯すはずのない初歩的なミスだった。
その日のエレナの仕事ぶりは、坂道を転がり落ちる石のように、目に見えて精彩を欠いていった。患者のカルテの記入漏れ、似たような名前の魔法薬を取り違えそうになる、複雑な治療法について患者への説明が不足し、不安にさせてしまう。彼女の仕事に対する情熱や意欲は、まるで砂漠に吸い込まれていく水のように、急速に失われていく。
ホプカークの叱責は更に厳しくなり、その言葉はもはや指導ではなく、非難に近くなっていた。他のヒーラーたちも、最初は心配そうに声をかけてくれていたが、何度も失敗を繰り返すエレナの様子に、困惑と哀れみの色さえ浮かんだ視線を向けるようになった。かつて、彼女の瞳に宿っていたはずの、知的な探求心と、人々を癒したいという強い意志の光はかろうじて揺らめいているだけだった。
その日の業務が終わり、ホプカークの雷のような叱責の言葉がまだ耳の奥で反響する中、エレナはまるで夢遊病者のように、聖マンゴ魔法疾患傷害病院の白い廊下を歩いていた。
春の終わりを告げる夕暮れの光が、大きな窓から斜めに差し込み、床の上の塵をきらきらと照らし出している。その光景は、非現実的なほど美しく、エレナの荒廃した心とはあまりにも対照的だった。 自動で開閉するガラスの扉を抜け、ロンドンの喧騒の中に足を踏み出す。
街は、一日の仕事を終えた人々や、夏の訪れを前に浮き立つ恋人たちで賑わっていたが、その活気は分厚いガラスの壁に隔てられているかのようにエレナの心には届かない。
彼女は、周囲の誰とも視線を合わせることなく、ただ俯いて、下宿までの道を重い足取りで歩いた。
アパートの古びた扉の前にたどり着き、ポケットから鍵を取り出す。その手は、軟膏の調合を誤った時のように、微かに震えていた。鍵穴に鍵を差し込むという、日常の単純な動作さえも、今の彼女にはひどく億劫で、困難なものに感じられる。ようやく扉を開けて部屋に入ると、ひやりとした、誰もいない部屋の空気が彼女を迎えた。
エレナは、履いていた靴を脱ぐのももどかしく、そのまま床にへたり込みそうになるのを必死でこらえた。壁に手をつき、バッグを力なく床に落とす。ガタン、と乾いた音が、静かな部屋に虚しく響いた。 ヒーラーとしての白いローブは、もはや誇りの象徴ではなく、今日の失敗と屈辱を刻み込んだ、重く汚れた布切れのように感じられた。エレナは、それを乱暴に脱ぎ捨てると、床の上に投げやった。
彼女は、ふらふらとした足取りでシャワー室へと向かった。服を脱ぎ捨て、鏡に映った自分の姿から目をそらすようにして、熱い湯を出す。轟という音と共に、白い湯気が狭い空間に立ち込めた。 熱いシャワーが、冷え切った体に叩きつけるように降り注ぐ。その熱さが、まるで罰であるかのように感じられた。エレナは、肌が赤くなるのも構わずに、ただその場に立ち尽くした。今日の失敗を、ホプカークの視線を、そして何より、クィリナスの冷たい拒絶の言葉を、この熱い湯で洗い流してしまえたらいいのに。
しかし、お湯が体の表面を温めれば温めるほど、心の芯が凍てついているのが、より一層はっきりと感じられた。 石鹸を手に取り、自分の体を機械的に洗い始める。その手つきには、かつて患者の体に触れる時にあったような、慈しむような優しさは微塵もなかった。
まるで、自分のものではない、汚れた何かを洗い清めるかのように、ゴシゴシと、痛みを感じるほど強く肌をこする。それでも、心の奥底にこびりついた自己嫌悪の染みは、少しも薄くはならなかった。 シャワーの音に混じって、様々な声が頭の中で響き渡る。
「あなた、どうかしているんじゃないの」――ホプカークの失望に満ちた声。
「君のその純粋さが、時には私を苛立たせるのだ」――クィリナスの苦しげな声。
シャワーヘッドを壁に叩きつけたいような、叫び出したいような衝動に駆られたが、エレナにはもう、そんな感情を爆発させるエネルギーさえ残っていなかった。彼女は、ただ静かに、流れ落ちる湯と共に、自分の涙も流していた。
シャワーを終え、古いバスローブを無造作に羽織ると、エレナは寝室へと向かい、ベッドの上に倒れ込むように体を投げ出した。まだ濡れたままの黒髪が、冷たい枕カバーにじっとりと張り付く。その湿った不快な感触が、今の自分の惨めさを象徴しているかのようだった。
「なぜなの、クィリナス…どうして…」 声にはならなかった。
ただ、唇が、彼の名前をか細く形作る。その呟きは、誰に届くでもなく、冷たいシーツの中に吸い込まれて消えていった。
目を閉じると、幸せだった頃の記憶が、残酷なほど鮮やかに蘇る。彼の優しかった笑顔、知的な会話と熱く語り合う夜、そして、あのクリスマスの夜の、肌を焦がすような温もり。
それらが全て、手の届かない場所へ去ってしまったという事実が、鋭い痛みとなって胸を貫く。あれは全て、嘘だったとは思いたくない。
だが今日の失敗も、全て紛れもない現実だった。
それから数週間が過ぎても、彼女の心に刻まれた傷は癒えるどころか、日ごとに深く、そして熱を帯びていくようだった。聖マンゴ魔法疾患傷害病院での彼女の仕事ぶりは、もはや以前の面影もないほどに精彩を欠いていた。
かつてはホプカークをも唸らせたほどの集中力は霧散し、代わりに危険なほどの注意力散漫さが彼女を覆っていた。魔法薬の調合では些細なミスを繰り返し、患者のカルテには判読不能な文字が並び、実習中の補助ヒーラーたちへの指示も曖昧で、時には治療手順を飛ばしてしまうことさえあった。
「スズキ、少し話がある。私の執務室に来なさい」
その日の業務が終わると、マージョリー・ホプカークが、いつになく厳しい、しかしどこか疲れたような声でエレナを呼び止めた。エレナは、鉛のように重い足取りで彼女の後に続いた。執務室の扉が閉められると、ホプカークは机の向こう側で腕を組み、真っ直ぐにエレナを見据えた。その鋭い灰色の瞳は、エレナの心の奥底まで見透かそうとしているかのようだ。
「単刀直入に聞くわ、スズキ。貴女に何があったの? ここ数週間の貴女は、まるで別人よ。以前の貴女の知性と勤勉さはどこへ消えたの? このままでは、貴女自身だけでなく、患者たちをも危険に晒すことになるわ」
エレナは俯いたまま、何も答えられなかった。クィレルのこと、彼の豹変、そして自分の心の混乱。それをどう説明すればいいのか、言葉が見つからなかった。ただ、唇を噛み締め、溢れそうになる涙を必死でこらえているだけだった。
ホプカークは深いため息をついた。
「…個人的な問題に深入りするつもりはないわ。けれど、今の貴女がマンゴの最前線でヒーラーとしての任務を全うできる状態にないことは、明らかよ」
彼女の言葉は冷たく響いたが、その奥には、エレナの才能を惜しむような、微かな苦渋の色も感じられた。
「このままでは、貴女のキャリアにも響く。そして何より、貴女自身が壊れてしまうかもしれない」
沈黙が部屋を支配した。エレナは、ホプカークの言葉が的を射ていることを認めざるを得なかった。今の自分は、抜け殻のようだ。クィレルへの想いと、彼への怒り、彼女はこの新天地で友人がいなかった。彼と出会う前からボロボロだったのだ。
疲れ切ったエレナに夢と希望を与えた男の存在が、彼女の生きる力にすらなっていたのだ。そのクィレルがいなくなったことで、彼女の思考を麻痺させていた。
「…そこで、一つ提案があるの」
ホプカークは、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出しながら言った。
「ホグワーツ魔法魔術学校から、保健室の助手、インターンとしてのポストを用意すると魔法省経由で私に打診があったの。マダム・ポンフリーは優秀な人材を求めている。貴女のこれまでの実績と、特に異文化の魔法医療に関する知識は、あちらでなら活かせるかもしれない。」
ホグワーツ——その名を聞いた瞬間、エレナの心臓が激しく高鳴った。クィリナスが教鞭をとっている場所。
ホプカークは続けた。
「マンゴほど症例は複雑ではないかもしれないけれど、生徒たちのケアというのは独特の難しさがあるわ。環境を変えることが、今の貴女にとって良い刺激になるかもしれない。…悪い話ではないはずよ」
まるで運命が彼女を導いているかのように、道が示された。
「…その話、お受けしたいです。」
エレナは、自分でも驚くほど速く、そしてはっきりとした声で答えていた。顔には、先程までの絶望の色はなく、どこか熱に浮かされたような、危うい決意の光が宿っている。
ホプカークは、エレナのその即答と、急に変わった雰囲気に少し驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの厳格な顔に戻った。
「そう。…よく考えなさい、スズキ。ホグワーツもまた、甘い場所ではないわ。マダム・ポンフリーは私以上に厳しいかもしれないし、何より、あの学校には…独自の、そして時には不可解な『力』が働いている。貴女がそれに飲み込まれないことを願うわ」
彼女の言葉には、警告とも、あるいは老婆心とも取れる響きがあった。
エレナは、ホプカークの言葉の本当の意味を理解していなかったかもしれない。
彼女の頭の中は、既にホグワーツへ行くことでいっぱいだった。クィリナスに会えるかもしれない。その一点だけが、彼女の心を占めていた。表向きは、聖マンゴでの不調からの再起、新たなキャリアへの挑戦。しかし、彼女自身の心の奥底にある真の動機——クィレルへの執着と、彼を追いかけ、別れの理由を問い質し、可能ならば関係を修復したい。
いや、彼を徹底的に問い詰め、この苦しみから解放されたいという強い、ほとんど衝動的な欲求——は、誰にも明かすつもりはなかった。
エレナは、ホプカークにお礼を伝え、「まず、今の状況を改善できる姿をお見せしてから判断いただきたいです。」と伝えた。
ホプカークはようやく慎重で礼儀正しい留学生が現れたと安堵したのか、深くは追及せずに彼女を解放した。
こうして、エレナはホグワーツに赴くこととなる。
