第1章 新天地へ
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あの夢のようなクリスマスの夜が過ぎ、新しい年が明けると、ロンドンの空は鉛色の雲に覆われ、凍てつくような風が吹きすさぶ日が多くなった。聖マンゴ魔法疾患傷害病院の白い壁も、冬の厳しい光の中ではどこか冷たく、訪れる者の心を重くさせるかのようだった。
エレナ・スズキは、クリスマスの温かい記憶を胸の奥に大切にしまい込み、日々の厳しい実習と研究に没頭することで、クィリナス・クィレルとの逢瀬が減っていく寂しさを紛らわせようとしていた。
彼の言った通り、「研究が新たな局面を迎えた」らしく、年明けからのクィレルは以前にも増して多忙を極めているようだった。フクロウ便の返信はさらに稀になり、その文面も、以前のような親密な温かみは薄れ、どこか事務的で、エレナの知らない世界からの報告のようになっていた。エレナが心配して彼の体調を気遣う言葉を書き送っても、「問題ない。研究は順調だ」という短い返事が返ってくるだけだった。
二人の間を繋ぐ唯一の手段であるフクロウ便の返信は、以前は三日に一度は届いていたものが、一週間に一度になり、やがて二週間に一度と、その間隔は徐々に開いていった。
エレナが、彼の体調を気遣い、食事はきちんととれているのか、眠る時間は確保できているのかと、心配の言葉を書き連ねて送っても、返ってくるのはいつも「問題ない」という、まるで固く閉ざされた扉のような、素っ気ない一言だけ。
寂しさは、やがて不安へと姿を変えるの必然であろう。
クィリナスの研究が、どれほど重要で、どれほど情熱を掻き立てるものであるかは理解しているつもりだったが、知らない世界へと完全に向かってしまっているのではないかという恐れが、夜ごとエレナの胸を締め付けた。
ヒーラーを目指す者として、人の心の機微には敏感な方だと自負していた。そして、彼の返信のインクの掠れ具合や、羊皮紙の選び方、フクロウの僅かな疲れ具合からさえも、彼の焦燥や、何か得体の知れない重圧に苛まれている気配を感じ取ってしまっていたのだ。それは、単なる研究の忙しさだけでは説明がつかない、もっと根源的で、不吉な何かのように思えたのだ。
二月に入り、ロンドンに珍しく湿った雪が降りしきった日の夕方、エレナはもう我慢ができなくなっていた。
その日届いた彼からのフクロウ便は、これまでで最も短く、「しばらく連絡できない。探さないでくれ」とだけ、乱れた筆跡で書かれていたのだ。もう待っているだけではいけない。
いてもたってもいられず、セント・マンゴでの実習を終えると、マフラーに深く顔をうずめ、彼の住むアパートメントへと向かった。
雪は、街灯の頼りない光の中で、灰色の羽のように静かに舞い落ち、石畳の道に薄い化粧を施していた。吐く息は白く、エレナの足音だけが、雪に吸い込まれて奇妙なほど静かに響く。
クィリナスのアパートの前に立ち、三階にある彼の部屋の窓を見上げる。
カーテンは固く閉ざされ、灯りは漏れていない。
やはり留守なのだろうか。諦めきれずに、重いオーク材の玄関扉を開け、軋む階段を三階まで上る。
クィリナスの部屋の扉の前で、エレナは一度深呼吸をした。扉に耳を寄せる。シン、と静まり返っている。しかし、気のせいだろうか。いや、確かに、中から何か、微かな物音が聞こえる。衣擦れの音のようでもあり、誰かが息を殺している気配のようでもあった。そして、何よりも、部屋の中から、言いようのない圧迫感と、ひどく冷たく、そして邪悪な気配が、扉の隙間から滲み出てくるのを感じたのだ。ヒーラーとして、人の生命力や魂の輝きに触れてきた私にとって、それは明らかに「正常」なものではなかった。それは、病や呪いとも違う、もっと根源的で、冒涜的な、魂そのものが腐敗していくような、おぞましい気配だった。
誰か、いる。
クィリナスではない、別の誰かが。
背筋が凍りつくような恐怖を感じながらも、エレナは震える手で扉を三度、ノックした。
コン、コン、コン。
その音は、静まり返った廊下に不気味に響き渡った。中の物音は、ぴたりと止んだ。
しかし、気配は消えない。むしろ、息を殺し、こちらを窺っているような、悪意に満ちた緊張感が、扉の向こう側からひしひしと伝わってくる。
「クィリナス?私、エレナです。いますか?」
エレナは、できるだけ平静を装って呼びかけたが、声は自分でも分かるほど上ずっていた。
返事は、ない。
ただ、静寂が、まるで重い鉛のように廊下に満ちているだけだった。
「クィリナス、お願い。心配しているの。」
エレナは懇願するように、もう一度呼びかけた。
それでも、扉は開かれない。
中の気配は、まるでこちらの出方を窺うかのように、じっと動かないままだった。
やがて、エレナは悟った。
今、この扉を開けさせてはいけない。
ただの直感であったが、言いようのない恐怖にその日は諦めて、重い足取りでアパートを後にした。降りしきる雪の中を、エレナはどこへ向かうでもなく、ただひたすら歩き続けた。
疑心暗鬼が、黒い霧のように私の心を覆い尽くしていく。あの部屋にいたのは、クィリナスだったのだろうか。
そんな中でも、セント・マンゴでのエレナの評価は、着実に上がっていた。ホプカークは、彼女の勤勉さと、特に異文化の魔法医療に関する知識を高く評価し、より専門的な治療の補助や、稀少な魔法薬の調合といった重要な仕事も任せるようになっていた。エレナは、その期待に応えようと必死に努力し、ヒーラーとしての技術と自信を少しずつ身につけていった。
治療した患者から感謝の言葉をかけられる喜びも知った。しかし、その充実感の片隅には、常にクィレルへの心配と、彼との間に広がりつつある距離への寂しさが、消えない染みのように存在していた。
ある雪のちらつく夜、エレナはホプカークに珍しく個人的な悩みを打ち明けそうになった。
「先生…もし、大切な人が、何か危険なことに足を踏み入れようとしていると気づいたら…」
と言いかけたが、いざとなると言葉に詰まり、結局「いえ、何でもありません。少し疲れているだけです」と誤魔化してしまった。
ホプカークは何も聞かず、ただ「無理は禁物よ、スズキ。自分自身の心の傷も、きちんと手当てしなければ、他人を癒すことなどできないのだから」とだけ言い、温かいハーブティーを淹れてくれた。
エレナは、クィレルから贈られた紫水晶のペンダントを握りしめた。彼が「君を守ってくれる」と言ってくれたこの石は、しかし今の彼女の不安を取り払ってはくれない。むしろ、その冷たい輝きが、彼との間に横たわる深い溝を象徴しているかのようにも思えた。それでも、彼女は彼を信じたかった。
それから数日、エレナはクィレルからのフクロウ便を待ったが、何も届かなかった。エレナは今日が最後と言い聞かせながら、聖マンゴでの実習が終わるとまっすぐ家には戻らず、毎日彼のアパートの前まで通い、彼の部屋の窓を遠くから見つめ続けた。
そして、ある風の強い夜、ついに彼の部屋の窓に、一瞬だけ、灯りがともるのを見たのだ。
すぐに消えたが、確かにランプの温かい光だった。
彼は、戻っている。
逸る心を抑え、アパートの階段を駆け上がった。今度こそクィレルに会って、全てを話してもらわなければならない。エレナの頭の中にはそれだけでいっぱいだった。
彼女が扉の前で大きく深呼吸をし、恐怖を振り払うように、強く、少しだけ間隔を置いて扉をノックした。
中で微かに、誰かが驚いたような気配がした。
「誰だね」
ドア越しに聞こえてきたクィレルの声は、ひどく掠れ、そして疲れきっていた。
「私です、クィリナス。エレナです」
扉の向こうで、彼が息を飲む音が聞こえた。長い、長い沈黙が続く。
「…帰ってくれ、エレナ。今は、誰にも会いたくないんだ」
「いいえ、帰りません」
エレナは、強い口調で言った。
「あなたがこの扉を開けて、私に全てを話してくれるまで、ここを動きません」
「頼むから、帰ってくれ…君のためなんだ」
クィレルの声には、懇願と、そして隠しきれない焦りの色が滲んでいた。
「私のために、ですって?どういう意味ですか。」
その時だった。
エレナの頭の中に、最悪の疑念が、まるで毒蛇のように鎌首をもたげた。あの日感じた気配。そして、クィレルが頑なにエレナを部屋に入れようとしない理由はもう一つしかなかった。
「…他に、誰かいるのでしょう」
エレナは、自分でも信じられないほど冷たい声が出たことに驚きながら、言った。
「女の人でしょう?だから、私を中に入れられないのでしょう」
扉の向き側で、クィレルの呼吸が止まったのが分かった。
「何を…馬鹿なことを言っているんだ、エレナ」彼の声は、先ほどまでの弱々しさが嘘のように、低く、そして怒りに震えていた。
「では、なぜ、私を中に入れてくれないのですか。なぜ、、、クィリナス、あなたが隠しているのは、研究ではないのでしょう!?」
感情が、堰を切ったように溢れ出した。涙が、後から後から込み上げてくる。
「違う、違うんだエレナ。そうじゃない。」
扉の向こう側から、彼の苦しげな叫び声が聞こえた。
「君は、何も分かっていない!この僕が、どれほどの思いで…いや、どれほどの覚悟でこの道を進んでいるのか、君には到底理解できないだろう!」
クィレルの焦りと苛立ちが、一瞬まるで別人格が顔を覗かせたかのように鋭く飛び出した。そのことに、エレナは一瞬、言葉を失った。
「なぜなら、君は光の中にいる人間だからだ!清く、正しく、そして才能にも恵まれている!僕のような、影の中でしか生きられない、どれだけ足掻いても一番にはなれない人間の苦しみなど、分かりはしない!」
彼の言葉は、まるで鋭いガラスの破片のように、エレナの心を切り刻んだ。劣等感、嫉妬、そして自己嫌悪。彼の魂の叫びが、扉越しに、痛いほど伝わってくる。
「そんなこと…そんなことない。私は、あなたの才能を、あなたの努力を、誰よりも信じています。尊敬しています。だから、お願い、クィリナス。私を信じて。扉を開けてください」私は、必死に訴えかけた。
しかし、彼の返事は、これまでで最も冷たく、そして絶望的なものだった。
「…もう、やめにしてくれ。私たちは、住む世界が違うんだ。もう、君とは会えない。いや、会うべきではないんだ。頼むから、僕のことは忘れて、君の人生を生きてくれ。もう、ここへは来ないでほしい」
アパート前の廊下には、重苦しい沈黙が満ちていた。窓の外では、春の嵐がますます勢いを増し、雨が激しく窓ガラスを叩いている。エレナは、首にかけていた紫水晶のペンダントを、無意識のうちに強く握りしめていた。彼からもらった、唯一の形ある想い。それは今、彼女の胸に重く、そして冷たく食い込んでいた。
「…本当に?」
エレナは、絞り出すような声で言った。
「これで終わりなの?」
顔一つ見せずに終わらせるつもりなのか。
しばしの沈黙のあと、「エレナ…君のその純粋さが、時には私を苛立たせるのだということに、なぜ気づかない。」といった。
エレナはこれが彼の本音だと直感的に分かった。
一体何を間違えたのだろう。
「あなたの邪魔はしたくない。…ただ、一つだけ教えて。あなたの旅はもう終わったの?」
クィレルは何を考えているのかさえ、エレナには何もわからない。
「さあ…私には、それすら分からないよ、エレナ」
エレナは、それ以上何も聞かなかった。聞けなかった。彼女は静かにクィレルに背を向け、一度も振り返らずに部屋を出た。
嵐の中を、エレナは宛てもなく歩き続けた。冷たい雨が彼女の全身を濡らし、心の傷口に染み込んでいくようだった。
なぜ。どうして。
しかし、その問いはもはや彼に届くことはないのだ。
彼女の心の中に残ったのは、深い喪失感と、裏切られたという痛み、そして彼への消せない想い。
白いハンカチで濡れた顔を拭うと、エレナは空を見上げた。嵐はまだ止みそうにない。だが、雲の切れ間から、ほんの一瞬だけ、弱々しい春の陽光が差し込んだような気がした。それは、彼女の心の奥底に灯った、新たな、そして困難な道への、小さな希望の光なのかもしれない。
エレナ・スズキは、クリスマスの温かい記憶を胸の奥に大切にしまい込み、日々の厳しい実習と研究に没頭することで、クィリナス・クィレルとの逢瀬が減っていく寂しさを紛らわせようとしていた。
彼の言った通り、「研究が新たな局面を迎えた」らしく、年明けからのクィレルは以前にも増して多忙を極めているようだった。フクロウ便の返信はさらに稀になり、その文面も、以前のような親密な温かみは薄れ、どこか事務的で、エレナの知らない世界からの報告のようになっていた。エレナが心配して彼の体調を気遣う言葉を書き送っても、「問題ない。研究は順調だ」という短い返事が返ってくるだけだった。
二人の間を繋ぐ唯一の手段であるフクロウ便の返信は、以前は三日に一度は届いていたものが、一週間に一度になり、やがて二週間に一度と、その間隔は徐々に開いていった。
エレナが、彼の体調を気遣い、食事はきちんととれているのか、眠る時間は確保できているのかと、心配の言葉を書き連ねて送っても、返ってくるのはいつも「問題ない」という、まるで固く閉ざされた扉のような、素っ気ない一言だけ。
寂しさは、やがて不安へと姿を変えるの必然であろう。
クィリナスの研究が、どれほど重要で、どれほど情熱を掻き立てるものであるかは理解しているつもりだったが、知らない世界へと完全に向かってしまっているのではないかという恐れが、夜ごとエレナの胸を締め付けた。
ヒーラーを目指す者として、人の心の機微には敏感な方だと自負していた。そして、彼の返信のインクの掠れ具合や、羊皮紙の選び方、フクロウの僅かな疲れ具合からさえも、彼の焦燥や、何か得体の知れない重圧に苛まれている気配を感じ取ってしまっていたのだ。それは、単なる研究の忙しさだけでは説明がつかない、もっと根源的で、不吉な何かのように思えたのだ。
二月に入り、ロンドンに珍しく湿った雪が降りしきった日の夕方、エレナはもう我慢ができなくなっていた。
その日届いた彼からのフクロウ便は、これまでで最も短く、「しばらく連絡できない。探さないでくれ」とだけ、乱れた筆跡で書かれていたのだ。もう待っているだけではいけない。
いてもたってもいられず、セント・マンゴでの実習を終えると、マフラーに深く顔をうずめ、彼の住むアパートメントへと向かった。
雪は、街灯の頼りない光の中で、灰色の羽のように静かに舞い落ち、石畳の道に薄い化粧を施していた。吐く息は白く、エレナの足音だけが、雪に吸い込まれて奇妙なほど静かに響く。
クィリナスのアパートの前に立ち、三階にある彼の部屋の窓を見上げる。
カーテンは固く閉ざされ、灯りは漏れていない。
やはり留守なのだろうか。諦めきれずに、重いオーク材の玄関扉を開け、軋む階段を三階まで上る。
クィリナスの部屋の扉の前で、エレナは一度深呼吸をした。扉に耳を寄せる。シン、と静まり返っている。しかし、気のせいだろうか。いや、確かに、中から何か、微かな物音が聞こえる。衣擦れの音のようでもあり、誰かが息を殺している気配のようでもあった。そして、何よりも、部屋の中から、言いようのない圧迫感と、ひどく冷たく、そして邪悪な気配が、扉の隙間から滲み出てくるのを感じたのだ。ヒーラーとして、人の生命力や魂の輝きに触れてきた私にとって、それは明らかに「正常」なものではなかった。それは、病や呪いとも違う、もっと根源的で、冒涜的な、魂そのものが腐敗していくような、おぞましい気配だった。
誰か、いる。
クィリナスではない、別の誰かが。
背筋が凍りつくような恐怖を感じながらも、エレナは震える手で扉を三度、ノックした。
コン、コン、コン。
その音は、静まり返った廊下に不気味に響き渡った。中の物音は、ぴたりと止んだ。
しかし、気配は消えない。むしろ、息を殺し、こちらを窺っているような、悪意に満ちた緊張感が、扉の向こう側からひしひしと伝わってくる。
「クィリナス?私、エレナです。いますか?」
エレナは、できるだけ平静を装って呼びかけたが、声は自分でも分かるほど上ずっていた。
返事は、ない。
ただ、静寂が、まるで重い鉛のように廊下に満ちているだけだった。
「クィリナス、お願い。心配しているの。」
エレナは懇願するように、もう一度呼びかけた。
それでも、扉は開かれない。
中の気配は、まるでこちらの出方を窺うかのように、じっと動かないままだった。
やがて、エレナは悟った。
今、この扉を開けさせてはいけない。
ただの直感であったが、言いようのない恐怖にその日は諦めて、重い足取りでアパートを後にした。降りしきる雪の中を、エレナはどこへ向かうでもなく、ただひたすら歩き続けた。
疑心暗鬼が、黒い霧のように私の心を覆い尽くしていく。あの部屋にいたのは、クィリナスだったのだろうか。
そんな中でも、セント・マンゴでのエレナの評価は、着実に上がっていた。ホプカークは、彼女の勤勉さと、特に異文化の魔法医療に関する知識を高く評価し、より専門的な治療の補助や、稀少な魔法薬の調合といった重要な仕事も任せるようになっていた。エレナは、その期待に応えようと必死に努力し、ヒーラーとしての技術と自信を少しずつ身につけていった。
治療した患者から感謝の言葉をかけられる喜びも知った。しかし、その充実感の片隅には、常にクィレルへの心配と、彼との間に広がりつつある距離への寂しさが、消えない染みのように存在していた。
ある雪のちらつく夜、エレナはホプカークに珍しく個人的な悩みを打ち明けそうになった。
「先生…もし、大切な人が、何か危険なことに足を踏み入れようとしていると気づいたら…」
と言いかけたが、いざとなると言葉に詰まり、結局「いえ、何でもありません。少し疲れているだけです」と誤魔化してしまった。
ホプカークは何も聞かず、ただ「無理は禁物よ、スズキ。自分自身の心の傷も、きちんと手当てしなければ、他人を癒すことなどできないのだから」とだけ言い、温かいハーブティーを淹れてくれた。
エレナは、クィレルから贈られた紫水晶のペンダントを握りしめた。彼が「君を守ってくれる」と言ってくれたこの石は、しかし今の彼女の不安を取り払ってはくれない。むしろ、その冷たい輝きが、彼との間に横たわる深い溝を象徴しているかのようにも思えた。それでも、彼女は彼を信じたかった。
それから数日、エレナはクィレルからのフクロウ便を待ったが、何も届かなかった。エレナは今日が最後と言い聞かせながら、聖マンゴでの実習が終わるとまっすぐ家には戻らず、毎日彼のアパートの前まで通い、彼の部屋の窓を遠くから見つめ続けた。
そして、ある風の強い夜、ついに彼の部屋の窓に、一瞬だけ、灯りがともるのを見たのだ。
すぐに消えたが、確かにランプの温かい光だった。
彼は、戻っている。
逸る心を抑え、アパートの階段を駆け上がった。今度こそクィレルに会って、全てを話してもらわなければならない。エレナの頭の中にはそれだけでいっぱいだった。
彼女が扉の前で大きく深呼吸をし、恐怖を振り払うように、強く、少しだけ間隔を置いて扉をノックした。
中で微かに、誰かが驚いたような気配がした。
「誰だね」
ドア越しに聞こえてきたクィレルの声は、ひどく掠れ、そして疲れきっていた。
「私です、クィリナス。エレナです」
扉の向こうで、彼が息を飲む音が聞こえた。長い、長い沈黙が続く。
「…帰ってくれ、エレナ。今は、誰にも会いたくないんだ」
「いいえ、帰りません」
エレナは、強い口調で言った。
「あなたがこの扉を開けて、私に全てを話してくれるまで、ここを動きません」
「頼むから、帰ってくれ…君のためなんだ」
クィレルの声には、懇願と、そして隠しきれない焦りの色が滲んでいた。
「私のために、ですって?どういう意味ですか。」
その時だった。
エレナの頭の中に、最悪の疑念が、まるで毒蛇のように鎌首をもたげた。あの日感じた気配。そして、クィレルが頑なにエレナを部屋に入れようとしない理由はもう一つしかなかった。
「…他に、誰かいるのでしょう」
エレナは、自分でも信じられないほど冷たい声が出たことに驚きながら、言った。
「女の人でしょう?だから、私を中に入れられないのでしょう」
扉の向き側で、クィレルの呼吸が止まったのが分かった。
「何を…馬鹿なことを言っているんだ、エレナ」彼の声は、先ほどまでの弱々しさが嘘のように、低く、そして怒りに震えていた。
「では、なぜ、私を中に入れてくれないのですか。なぜ、、、クィリナス、あなたが隠しているのは、研究ではないのでしょう!?」
感情が、堰を切ったように溢れ出した。涙が、後から後から込み上げてくる。
「違う、違うんだエレナ。そうじゃない。」
扉の向こう側から、彼の苦しげな叫び声が聞こえた。
「君は、何も分かっていない!この僕が、どれほどの思いで…いや、どれほどの覚悟でこの道を進んでいるのか、君には到底理解できないだろう!」
クィレルの焦りと苛立ちが、一瞬まるで別人格が顔を覗かせたかのように鋭く飛び出した。そのことに、エレナは一瞬、言葉を失った。
「なぜなら、君は光の中にいる人間だからだ!清く、正しく、そして才能にも恵まれている!僕のような、影の中でしか生きられない、どれだけ足掻いても一番にはなれない人間の苦しみなど、分かりはしない!」
彼の言葉は、まるで鋭いガラスの破片のように、エレナの心を切り刻んだ。劣等感、嫉妬、そして自己嫌悪。彼の魂の叫びが、扉越しに、痛いほど伝わってくる。
「そんなこと…そんなことない。私は、あなたの才能を、あなたの努力を、誰よりも信じています。尊敬しています。だから、お願い、クィリナス。私を信じて。扉を開けてください」私は、必死に訴えかけた。
しかし、彼の返事は、これまでで最も冷たく、そして絶望的なものだった。
「…もう、やめにしてくれ。私たちは、住む世界が違うんだ。もう、君とは会えない。いや、会うべきではないんだ。頼むから、僕のことは忘れて、君の人生を生きてくれ。もう、ここへは来ないでほしい」
アパート前の廊下には、重苦しい沈黙が満ちていた。窓の外では、春の嵐がますます勢いを増し、雨が激しく窓ガラスを叩いている。エレナは、首にかけていた紫水晶のペンダントを、無意識のうちに強く握りしめていた。彼からもらった、唯一の形ある想い。それは今、彼女の胸に重く、そして冷たく食い込んでいた。
「…本当に?」
エレナは、絞り出すような声で言った。
「これで終わりなの?」
顔一つ見せずに終わらせるつもりなのか。
しばしの沈黙のあと、「エレナ…君のその純粋さが、時には私を苛立たせるのだということに、なぜ気づかない。」といった。
エレナはこれが彼の本音だと直感的に分かった。
一体何を間違えたのだろう。
「あなたの邪魔はしたくない。…ただ、一つだけ教えて。あなたの旅はもう終わったの?」
クィレルは何を考えているのかさえ、エレナには何もわからない。
「さあ…私には、それすら分からないよ、エレナ」
エレナは、それ以上何も聞かなかった。聞けなかった。彼女は静かにクィレルに背を向け、一度も振り返らずに部屋を出た。
嵐の中を、エレナは宛てもなく歩き続けた。冷たい雨が彼女の全身を濡らし、心の傷口に染み込んでいくようだった。
なぜ。どうして。
しかし、その問いはもはや彼に届くことはないのだ。
彼女の心の中に残ったのは、深い喪失感と、裏切られたという痛み、そして彼への消せない想い。
白いハンカチで濡れた顔を拭うと、エレナは空を見上げた。嵐はまだ止みそうにない。だが、雲の切れ間から、ほんの一瞬だけ、弱々しい春の陽光が差し込んだような気がした。それは、彼女の心の奥底に灯った、新たな、そして困難な道への、小さな希望の光なのかもしれない。
