第1章 新天地へ
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ロンドンの短い夏が、その輝きを惜しむかのように街を照らしていた。
聖マンゴ魔法疾患傷害病院の中庭は、魔法によって季節外れの花々が咲き乱れ、薬効を持つハーブの独特な香りが風に乗って漂う、一種の聖域のような場所だった。
高い石壁に囲まれ、外界の喧騒から切り離されたそこは、エレナ・スズキにとって、厳しい実習や孤独な勉強の合間に、束の間、心を休めることができる貴重な隠れ家となっていた。
彼女は昼休憩のわずかな時間、陽光を浴びて温まった古い石のベンチに腰掛け、先日資料室で見つけた治癒呪文に関する文献を熱心に読み耽っていた。
複雑な英字の連なりが、まるで難解な詩のように彼女の思考を誘う。
ふと、人の気配を感じて顔を上げると、少し離れた場所にクィリナス・クィレルが立っているのが見えた。
彼は中庭の隅に植えられた、月光の下でしか咲かないという珍しい銀色の花を、興味深そうに観察していた。
資料室での出会い以来、彼とは会っていなかった。
エレナは、彼に気づかれないように、再び本に視線を落とした。しかし、心臓が少し速く打つのを感じていた。
「…やあ、エレナ」
近くから声がかかり、エレナは驚いたふりをしながら、できるだけ優雅に顔を上げた。
いつの間にか、クィレルが彼女のベンチのすぐそばまで来ていた。彼の青白い顔には、少しはにかんだような、しかし以前よりも親しみのこもった微笑みが浮かんでいる。
「研究に行き詰まってね。少し気分転換に外の空気を吸いに来たら、君がまた興味深い本を読んでいるのが見えたもので」
彼はエレナが手にしている本を覗き込みながら言った。
「『生命力の循環』…ドルイドたちの叡智か。それはまた、深遠なテーマを選んだものだ」
「背伸びしてみました。」
エレナは少しドキマギしながら、彼が隣に腰を下ろすのを促した。
「この部分の、生命力を植物に移し替える呪文の解釈が難しくて…なにかご存知ですか」
「ああ、この呪文ですか。確かに、非常に古い魔法の一つですね。僕も文献で目にした程度で、実際に使われたという記録はほとんど残っていません。」
それがきっかけとなり、二人の会話は自然に始まった。
彼の声はいつも通り柔らかく、思慮深い響きを帯びていた。
「力を移し替えるという魔法は初めて目にしました。術者の魔力そのものを、ということなのでしょうか」
彼の指が、古びた羊皮紙の文字をそっとなぞる。
「おそらくは。あるいは、もっと根源的な、生命の力とでも言うべきものかもしれません。この本には、その力を受けた植物は、異常な速さで成長したり、本来なら持ち得ない特性を発揮したりすると書かれています」
エレナの言葉に、クィレルは静かに頷いた。
「もしそれが可能だとしたら、興味深いですね。例えば、衰弱した魔法生物の生命力を一時的に強靭な植物に移し、その間に治療を施す。あるいは、枯渇しかけた魔法薬の材料となる植物を、この呪文で活性化させることもできるかもしれない」
彼の推論は、エレナの考えていたことと重なった。
「はい。私も、魔法医療の分野で応用できるのではないかと考えていました。ただ、この本には、その代償についてはっきりと書かれていないのです。力を吸い上げられた術者、あるいは力を与えられた植物が、その後どうなるのか」
中庭の空気が、ふと密度を増したように感じられた。
風が止み、木々の葉ずれの音も途絶える。
「どんな魔法にも、代償はつきものですからね」
クィレルは独り言のように言った。
「特に、生命に関わるような大掛かりな魔法となれば、その反動も計り知れないでしょう。植物に過剰な生命力を注ぎ込めば、それはもはや自然の摂理から外れた存在となる。あるいは、力を失った術者は、抜け殻のようになってしまうのかもしれません。私には、そう思えてなりません」
彼の声に、いつもの気弱さとは違う、どこか突き放すような響きが混じった気がして、エレナは彼を見上げた。
その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
「しかし、エレナ」
クィレルはゆっくりとエレナに向き直った。その瞳には、先程までの翳りはなく、教師としての理知的な光が宿っている。
「もしその呪文が、失われゆく生命力を単に消滅させるのではなく、別の形でこの世界に留めようとする試みだとしたらどうでしょう。たとえそれが歪んだ形であったとしても、そこに何らかの意味を見出そうとした術者の意志があったとしたら」
エレナは息を飲んだ。
クィレルの言葉は、呪文の技術的な側面だけでなく、それを行使しようとした人間の心の深淵にまで触れようとしているように感じられた。希望と絶望。それは、この呪文そのものが内包する二面性なのかもしれない。
「生命は巡る、と。そういうことでしょうか」
「そうかもしれませんね。あるいは、力への渇望が、そういった形而上の理屈を必要としただけなのかもしれませんが」
クィレルは自嘲するように少しだけ口元を歪め、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「いずれにせよ、このような高度で危険な魔法は、現代では禁忌とされていてもおかしくありません。知識として知っておくのは良いですが、決して興味本位で深入りすべきではないでしょう」
それは、教師としての忠告であり、同時に、エレナにはそれ以上の何かを含んでいるように聞こえた。まるで、彼自身がその深淵を覗き込んだことがあるかのような、かすかな痛みと諦念のようなものが。
「はい、クィリナス。心に留めておきます」
エレナは静かに頷いた。
陽が少し傾き、ニレの木の影が濃さを増していた。噴水の水音だけが、変わらずに中庭に響いている。
夏の柔らかな日差しと、薬草の香りが二人を包み、時間はあっという間に過ぎていく。
エレナは、この知的な刺激と、彼と共有する穏やかな時間に、満たされた気持ちになっていた。
会話が終わってしまったことに気付いた瞬間、強い衝動がエレナの背中を押した。
今しかない、と思った。
ここで躊躇してしまえば、また以前のような距離に戻ってしまうかもしれない。彼ともっと話したい。
「あの、クィリナス」
エレナは、少し上擦りそうになる声を抑え、意を決して口を開いた。
「もし、今日この後、お時間とかってありますか。18時に研修が終わるんです。その…」
顔が火照るのを感じた。
自分から男性を誘うなど、生まれて初めてのことだった。断られたらどうしよう、という不安が胸をよぎる。
クィレルは一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐにその表情が柔らかく崩れた。隠しきれない喜びと、少しばかりの照れが、彼の青白い頬を微かに染めているように見えた。
「…実は、今日は、しょ、食事に誘うつもりでこちらに寄ったのです」
彼は嬉しそうに、しかし少しだけどもるように答えた。
「良ければもう少しお話できればと、思っていたところなのですから」
その日の業務が終わると、二人は連れ立って聖マンゴを後にした。
ダイアゴン横丁の喧騒を抜け、少し脇道に入ったところにある、古い煉瓦造りの、隠れ家のような雰囲気のパブを選んだ。
店内は薄暗く、暖炉の火がぱちぱちと音を立て、木のテーブルには年季の入った傷が刻まれている。魔法使いや、あるいはゴブリンらしき客たちが、思い思いに飲み物を楽しんでいた。
二人は隅のテーブルに向かい合い、バタービールと、素朴だが温かい料理を注文した。
最初は少しぎこちなかった空気も、美味しい食事と飲み物、そして何より共通の話題によって、すぐに和らいでいった。日本の独特な魔法体系、そして互いが今取り組んでいる研究について。時間を忘れ、夢中で語り合った。エレナはクィレルの知識の海に引き込まれ、クィレルはエレナの持つ新鮮な視点と、異文化からもたらされる発想に目を見張った。
互いにとって、これほどまでに知的な興味を共有でき、心から話せる相手は初めてだったのかもしれない。
会話が弾むにつれて、話題は自然と互いの私生活へと移っていった。エレナは、留学生活の苦労——言葉の壁、厳しい課題、そして異国での孤独——について、ぽつりぽつりと打ち明けた。
故郷の家族との間に、少し溝があることも、彼女は正直に話した。クィレルは黙って、しかし深く共感するような眼差しで、彼女の話を聞いていた。
そして、彼は自身のことも、普段は決して人には語らないようなことを、少しずつ話し始めた。恵まれない家庭環境で育ったこと。幼い頃から魔法の力に憧れ、独学で知識を追い求めてきたこと。そして、マグルへの複雑な感情——彼らを理解したいという知的な欲求と、魔法を持たないことへのある種の侮蔑がないまぜになった感情。
「…だから、というわけではないのですが」彼は少し躊躇いがちに続けた。
「ホグワーツ魔法魔術学校でマグル学を教えているのです」
「素敵な職業ですね」
エレナは心の底から賞賛した。あの伝統的な魔法学校で教員として働いていること自体、一握りの者にしか許されない狭き門だ。
彼が資料室で身分を明かしてから、ホグワーツについて少し調べたのだ。エレナは既に魔法学校を卒業しているので、英国の魔法学校に通うことはないが、それでも気になる男性について少しでも知りたいと思うのは必然だろう。
「ありがとう。君にそう言われるとくすぐったいです。」
クィレルは笑みを浮かべた。
「マグル学は魔法使いの世界では、少々、地味で人気のない分野でしょう? ですが、私は彼らを知ることが、我々魔法使い自身を知ることにも繋がると信じているのです。」
彼はそう言って、エレナの反応を窺うように、じっと彼女の目を見た。
エレナは、彼の言葉に深く心を動かされた。彼の劣等感や、それでも研究に情熱を傾ける真摯な姿に、強い共感を覚えた。
「地味だなんて、とんでもないです!」
彼女はきっぱりと言った。
「マグル学は、私たち魔法使いがこれからもっと知るべき、とても大切で、意義深い分野だと思います。クィリナスのような方がホグワーツで教えていらっしゃるなんて、素晴らしいことじゃありませんか」
エレナの曇りのない、心からの称賛の言葉は、クィレルの心の壁を静かに溶かしたようだった。
彼は驚いたように瞬きし、それから、これまでエレナが見た中で最も穏やかで、心からの笑顔を見せた。
「…ありがとう、エレナ。そう言ってもらえると、とても嬉しい」
夏の終わりの空気が、パブの扉を開けた途端、火照った頬をそっと撫でていった。バタービールの甘い香りをまだ鼻腔の奥に残したまま、エレナとクィリナス・クィレルは、ホグズミードのざわめきから夜の静けさへと足を踏み出す。昼間の熱気を吸い込んだ石畳が、ひんやりとした湿気を放っていた。
「ごちそうさまでした、クィリナス。賑やかで、とても楽しい夕食でした」
エレナが言うと、クィレルは頼りなげに微笑んだ。魔法の街灯が落とすまだらな光の下で、彼の影が長く伸びて揺れている。
「いえ、君が楽しんでくれたなら、僕も嬉しいです」
緩やかな坂道を、二人は並んで歩き始めた。どちらからともなく、歩調はゆっくりになる。コオロギに似た何かの虫の声が、闇のあちこちから聞こえてきては消えていく。季節がその居場所を変えようとしている気配が満ちていた。彼の隣を歩くこの時間が、ただ終わってほしくないと、エレナは願った。
不意に、クィレルが立ち止まった。つられてエレナも足を止める。彼のいる場所はちょうど光の届かない影の中だった。
「エレナ」
呼ばれた声は、いつもより少し低く、真剣な響きを帯びていた。
「あなたに伝えておきたいことがあるんだ。いや、伝えなければならない、と言うべきか」
エレナは黙って彼の方に向き直った。彼の表情は影になっていて、よくは見えない。
「僕は、ホグワーツには戻らないんだ。」
彼の言葉は、夜の静寂に吸い込まれていくようだった。
「一年ほど、旅に出ようと決めたのです」
エレナの心臓が、とくん、と一つだけ大きく鳴った。そうか気軽に会えないのかと落胆し気持ちがあったのは確かだけれど、不思議なほど動揺はなかった。彼の声が、それが逃避ではなく、前へ進むための決意であることを告げていたからだ。
「マグル学の研究のため、ということになっています。ですが本当は、このままではいけないと思ったのです。私には、あの城の壁の中だけでは見えないものが多すぎる。もっと強い力と多くの経験がなければ、誰かに何かを教える資格など、私にはない。」
彼の声には、いつもの気弱な響きは消え、鋼のような硬質な意志が通っていた。
「素晴らしい決意だと思います」
エレナの口から滑り出たのは、自分でも驚くほど穏やかで、迷いのない言葉だった。影の中にいる彼の気配が、わずかに揺れる。
「あなたがその目で見る世界の話を、私は聞いてみたい。だから、心から応援しています」
沈黙が落ちた。
それは気まずいものではなく、言葉にならない感情が満ちていくための時間だった。やがて、彼は影の中から一歩踏み出し、月明かりの下にその顔を現した。その瞳は潤んでいるように見えたが、すぐに強い光を宿した。
「ありがとう、エレナ。あなたにそう言ってもらえると嬉しいです」
彼の声は少しだけ震えていた。それは弱さからくる震えではなかった。
「そうだ。クリスマスには、一度こちらへ戻るつもりです。その時には、必ず」
それは問いかけではなく、約束だった。未来へとかけられた、細く、けれど確かな糸。
「はい」とエレナは答えた。
「待っています」
言葉は少なかったが、互いの存在をすぐそばに感じ、温かい沈黙が二人を包んでいた。
別れ際、どちらかともなくそっと顔を近づけた。
淡い香水の匂いと唇に柔らかい感触を残し、男は去っていった。
下宿への帰り道、エレナの足取りは軽かった。異国の地での孤独な日々の中に、確かな光が差し込んだような気がした。
彼の知性、優しさ、そして時折見せる影。
その全てが、エレナの心を強く捉えて離さなかった。
夏の夜空には、星々が白く輝いていた。彼女の心にもまた、新しい星が、静かに輝き始めた夜だった。
聖マンゴ魔法疾患傷害病院の中庭は、魔法によって季節外れの花々が咲き乱れ、薬効を持つハーブの独特な香りが風に乗って漂う、一種の聖域のような場所だった。
高い石壁に囲まれ、外界の喧騒から切り離されたそこは、エレナ・スズキにとって、厳しい実習や孤独な勉強の合間に、束の間、心を休めることができる貴重な隠れ家となっていた。
彼女は昼休憩のわずかな時間、陽光を浴びて温まった古い石のベンチに腰掛け、先日資料室で見つけた治癒呪文に関する文献を熱心に読み耽っていた。
複雑な英字の連なりが、まるで難解な詩のように彼女の思考を誘う。
ふと、人の気配を感じて顔を上げると、少し離れた場所にクィリナス・クィレルが立っているのが見えた。
彼は中庭の隅に植えられた、月光の下でしか咲かないという珍しい銀色の花を、興味深そうに観察していた。
資料室での出会い以来、彼とは会っていなかった。
エレナは、彼に気づかれないように、再び本に視線を落とした。しかし、心臓が少し速く打つのを感じていた。
「…やあ、エレナ」
近くから声がかかり、エレナは驚いたふりをしながら、できるだけ優雅に顔を上げた。
いつの間にか、クィレルが彼女のベンチのすぐそばまで来ていた。彼の青白い顔には、少しはにかんだような、しかし以前よりも親しみのこもった微笑みが浮かんでいる。
「研究に行き詰まってね。少し気分転換に外の空気を吸いに来たら、君がまた興味深い本を読んでいるのが見えたもので」
彼はエレナが手にしている本を覗き込みながら言った。
「『生命力の循環』…ドルイドたちの叡智か。それはまた、深遠なテーマを選んだものだ」
「背伸びしてみました。」
エレナは少しドキマギしながら、彼が隣に腰を下ろすのを促した。
「この部分の、生命力を植物に移し替える呪文の解釈が難しくて…なにかご存知ですか」
「ああ、この呪文ですか。確かに、非常に古い魔法の一つですね。僕も文献で目にした程度で、実際に使われたという記録はほとんど残っていません。」
それがきっかけとなり、二人の会話は自然に始まった。
彼の声はいつも通り柔らかく、思慮深い響きを帯びていた。
「力を移し替えるという魔法は初めて目にしました。術者の魔力そのものを、ということなのでしょうか」
彼の指が、古びた羊皮紙の文字をそっとなぞる。
「おそらくは。あるいは、もっと根源的な、生命の力とでも言うべきものかもしれません。この本には、その力を受けた植物は、異常な速さで成長したり、本来なら持ち得ない特性を発揮したりすると書かれています」
エレナの言葉に、クィレルは静かに頷いた。
「もしそれが可能だとしたら、興味深いですね。例えば、衰弱した魔法生物の生命力を一時的に強靭な植物に移し、その間に治療を施す。あるいは、枯渇しかけた魔法薬の材料となる植物を、この呪文で活性化させることもできるかもしれない」
彼の推論は、エレナの考えていたことと重なった。
「はい。私も、魔法医療の分野で応用できるのではないかと考えていました。ただ、この本には、その代償についてはっきりと書かれていないのです。力を吸い上げられた術者、あるいは力を与えられた植物が、その後どうなるのか」
中庭の空気が、ふと密度を増したように感じられた。
風が止み、木々の葉ずれの音も途絶える。
「どんな魔法にも、代償はつきものですからね」
クィレルは独り言のように言った。
「特に、生命に関わるような大掛かりな魔法となれば、その反動も計り知れないでしょう。植物に過剰な生命力を注ぎ込めば、それはもはや自然の摂理から外れた存在となる。あるいは、力を失った術者は、抜け殻のようになってしまうのかもしれません。私には、そう思えてなりません」
彼の声に、いつもの気弱さとは違う、どこか突き放すような響きが混じった気がして、エレナは彼を見上げた。
その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
「しかし、エレナ」
クィレルはゆっくりとエレナに向き直った。その瞳には、先程までの翳りはなく、教師としての理知的な光が宿っている。
「もしその呪文が、失われゆく生命力を単に消滅させるのではなく、別の形でこの世界に留めようとする試みだとしたらどうでしょう。たとえそれが歪んだ形であったとしても、そこに何らかの意味を見出そうとした術者の意志があったとしたら」
エレナは息を飲んだ。
クィレルの言葉は、呪文の技術的な側面だけでなく、それを行使しようとした人間の心の深淵にまで触れようとしているように感じられた。希望と絶望。それは、この呪文そのものが内包する二面性なのかもしれない。
「生命は巡る、と。そういうことでしょうか」
「そうかもしれませんね。あるいは、力への渇望が、そういった形而上の理屈を必要としただけなのかもしれませんが」
クィレルは自嘲するように少しだけ口元を歪め、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「いずれにせよ、このような高度で危険な魔法は、現代では禁忌とされていてもおかしくありません。知識として知っておくのは良いですが、決して興味本位で深入りすべきではないでしょう」
それは、教師としての忠告であり、同時に、エレナにはそれ以上の何かを含んでいるように聞こえた。まるで、彼自身がその深淵を覗き込んだことがあるかのような、かすかな痛みと諦念のようなものが。
「はい、クィリナス。心に留めておきます」
エレナは静かに頷いた。
陽が少し傾き、ニレの木の影が濃さを増していた。噴水の水音だけが、変わらずに中庭に響いている。
夏の柔らかな日差しと、薬草の香りが二人を包み、時間はあっという間に過ぎていく。
エレナは、この知的な刺激と、彼と共有する穏やかな時間に、満たされた気持ちになっていた。
会話が終わってしまったことに気付いた瞬間、強い衝動がエレナの背中を押した。
今しかない、と思った。
ここで躊躇してしまえば、また以前のような距離に戻ってしまうかもしれない。彼ともっと話したい。
「あの、クィリナス」
エレナは、少し上擦りそうになる声を抑え、意を決して口を開いた。
「もし、今日この後、お時間とかってありますか。18時に研修が終わるんです。その…」
顔が火照るのを感じた。
自分から男性を誘うなど、生まれて初めてのことだった。断られたらどうしよう、という不安が胸をよぎる。
クィレルは一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐにその表情が柔らかく崩れた。隠しきれない喜びと、少しばかりの照れが、彼の青白い頬を微かに染めているように見えた。
「…実は、今日は、しょ、食事に誘うつもりでこちらに寄ったのです」
彼は嬉しそうに、しかし少しだけどもるように答えた。
「良ければもう少しお話できればと、思っていたところなのですから」
その日の業務が終わると、二人は連れ立って聖マンゴを後にした。
ダイアゴン横丁の喧騒を抜け、少し脇道に入ったところにある、古い煉瓦造りの、隠れ家のような雰囲気のパブを選んだ。
店内は薄暗く、暖炉の火がぱちぱちと音を立て、木のテーブルには年季の入った傷が刻まれている。魔法使いや、あるいはゴブリンらしき客たちが、思い思いに飲み物を楽しんでいた。
二人は隅のテーブルに向かい合い、バタービールと、素朴だが温かい料理を注文した。
最初は少しぎこちなかった空気も、美味しい食事と飲み物、そして何より共通の話題によって、すぐに和らいでいった。日本の独特な魔法体系、そして互いが今取り組んでいる研究について。時間を忘れ、夢中で語り合った。エレナはクィレルの知識の海に引き込まれ、クィレルはエレナの持つ新鮮な視点と、異文化からもたらされる発想に目を見張った。
互いにとって、これほどまでに知的な興味を共有でき、心から話せる相手は初めてだったのかもしれない。
会話が弾むにつれて、話題は自然と互いの私生活へと移っていった。エレナは、留学生活の苦労——言葉の壁、厳しい課題、そして異国での孤独——について、ぽつりぽつりと打ち明けた。
故郷の家族との間に、少し溝があることも、彼女は正直に話した。クィレルは黙って、しかし深く共感するような眼差しで、彼女の話を聞いていた。
そして、彼は自身のことも、普段は決して人には語らないようなことを、少しずつ話し始めた。恵まれない家庭環境で育ったこと。幼い頃から魔法の力に憧れ、独学で知識を追い求めてきたこと。そして、マグルへの複雑な感情——彼らを理解したいという知的な欲求と、魔法を持たないことへのある種の侮蔑がないまぜになった感情。
「…だから、というわけではないのですが」彼は少し躊躇いがちに続けた。
「ホグワーツ魔法魔術学校でマグル学を教えているのです」
「素敵な職業ですね」
エレナは心の底から賞賛した。あの伝統的な魔法学校で教員として働いていること自体、一握りの者にしか許されない狭き門だ。
彼が資料室で身分を明かしてから、ホグワーツについて少し調べたのだ。エレナは既に魔法学校を卒業しているので、英国の魔法学校に通うことはないが、それでも気になる男性について少しでも知りたいと思うのは必然だろう。
「ありがとう。君にそう言われるとくすぐったいです。」
クィレルは笑みを浮かべた。
「マグル学は魔法使いの世界では、少々、地味で人気のない分野でしょう? ですが、私は彼らを知ることが、我々魔法使い自身を知ることにも繋がると信じているのです。」
彼はそう言って、エレナの反応を窺うように、じっと彼女の目を見た。
エレナは、彼の言葉に深く心を動かされた。彼の劣等感や、それでも研究に情熱を傾ける真摯な姿に、強い共感を覚えた。
「地味だなんて、とんでもないです!」
彼女はきっぱりと言った。
「マグル学は、私たち魔法使いがこれからもっと知るべき、とても大切で、意義深い分野だと思います。クィリナスのような方がホグワーツで教えていらっしゃるなんて、素晴らしいことじゃありませんか」
エレナの曇りのない、心からの称賛の言葉は、クィレルの心の壁を静かに溶かしたようだった。
彼は驚いたように瞬きし、それから、これまでエレナが見た中で最も穏やかで、心からの笑顔を見せた。
「…ありがとう、エレナ。そう言ってもらえると、とても嬉しい」
夏の終わりの空気が、パブの扉を開けた途端、火照った頬をそっと撫でていった。バタービールの甘い香りをまだ鼻腔の奥に残したまま、エレナとクィリナス・クィレルは、ホグズミードのざわめきから夜の静けさへと足を踏み出す。昼間の熱気を吸い込んだ石畳が、ひんやりとした湿気を放っていた。
「ごちそうさまでした、クィリナス。賑やかで、とても楽しい夕食でした」
エレナが言うと、クィレルは頼りなげに微笑んだ。魔法の街灯が落とすまだらな光の下で、彼の影が長く伸びて揺れている。
「いえ、君が楽しんでくれたなら、僕も嬉しいです」
緩やかな坂道を、二人は並んで歩き始めた。どちらからともなく、歩調はゆっくりになる。コオロギに似た何かの虫の声が、闇のあちこちから聞こえてきては消えていく。季節がその居場所を変えようとしている気配が満ちていた。彼の隣を歩くこの時間が、ただ終わってほしくないと、エレナは願った。
不意に、クィレルが立ち止まった。つられてエレナも足を止める。彼のいる場所はちょうど光の届かない影の中だった。
「エレナ」
呼ばれた声は、いつもより少し低く、真剣な響きを帯びていた。
「あなたに伝えておきたいことがあるんだ。いや、伝えなければならない、と言うべきか」
エレナは黙って彼の方に向き直った。彼の表情は影になっていて、よくは見えない。
「僕は、ホグワーツには戻らないんだ。」
彼の言葉は、夜の静寂に吸い込まれていくようだった。
「一年ほど、旅に出ようと決めたのです」
エレナの心臓が、とくん、と一つだけ大きく鳴った。そうか気軽に会えないのかと落胆し気持ちがあったのは確かだけれど、不思議なほど動揺はなかった。彼の声が、それが逃避ではなく、前へ進むための決意であることを告げていたからだ。
「マグル学の研究のため、ということになっています。ですが本当は、このままではいけないと思ったのです。私には、あの城の壁の中だけでは見えないものが多すぎる。もっと強い力と多くの経験がなければ、誰かに何かを教える資格など、私にはない。」
彼の声には、いつもの気弱な響きは消え、鋼のような硬質な意志が通っていた。
「素晴らしい決意だと思います」
エレナの口から滑り出たのは、自分でも驚くほど穏やかで、迷いのない言葉だった。影の中にいる彼の気配が、わずかに揺れる。
「あなたがその目で見る世界の話を、私は聞いてみたい。だから、心から応援しています」
沈黙が落ちた。
それは気まずいものではなく、言葉にならない感情が満ちていくための時間だった。やがて、彼は影の中から一歩踏み出し、月明かりの下にその顔を現した。その瞳は潤んでいるように見えたが、すぐに強い光を宿した。
「ありがとう、エレナ。あなたにそう言ってもらえると嬉しいです」
彼の声は少しだけ震えていた。それは弱さからくる震えではなかった。
「そうだ。クリスマスには、一度こちらへ戻るつもりです。その時には、必ず」
それは問いかけではなく、約束だった。未来へとかけられた、細く、けれど確かな糸。
「はい」とエレナは答えた。
「待っています」
言葉は少なかったが、互いの存在をすぐそばに感じ、温かい沈黙が二人を包んでいた。
別れ際、どちらかともなくそっと顔を近づけた。
淡い香水の匂いと唇に柔らかい感触を残し、男は去っていった。
下宿への帰り道、エレナの足取りは軽かった。異国の地での孤独な日々の中に、確かな光が差し込んだような気がした。
彼の知性、優しさ、そして時折見せる影。
その全てが、エレナの心を強く捉えて離さなかった。
夏の夜空には、星々が白く輝いていた。彼女の心にもまた、新しい星が、静かに輝き始めた夜だった。
