第1章 新天地へ
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ある日の午後、エレナがホプカークの執務室に報告書を届けに行くと、彼女はちょうど、若い魔法使いの採用面接を終えたところらしかった。
ドアの隙間から、落胆したような表情で退出していく候補者の姿が見えた。ホプカークは大きなため息をつき、エレナが入ってきても気づかない様子で、山積みの書類に目を落とした。
「まったく…最近の若い者は、見かけばかりで中身が伴わないのが多すぎる」
ホプカークは独り言のように呟いた。
「基本的な呪文防御すらおぼつかないようでは、この病院では一日も持たないというのに。」
エレナは白衣の上司が振り返る前に慌ててドアをノックした。
「失礼します。報告書を持ってきました。」
上司は黒い回転椅子に座ったまま、アジアから来た短期留学生の少女に体を向けた。
「そこに置いといて。」
どこに?という質問は禁じられてはいない。
だがそんな質問をする学生はいないであろうことはエレナ自身がわかっていた。
報告書を置く場所はたくさんあるが、来客があった際のローテーブルの上ではなく、彼女のデスクの上だと気づくのに数秒かかった。
整理整頓され、机の上に無駄のものなど何もないところへ、誤った文法で書かれた報告書を置くのは気が引けた。
彼女は音を立てずにそっと置いた。
「では…」と部屋から出て行こうとすると「ちょっとそこで待ってなさい」と、エレナを引き留めた。
ホプカークはぎゅっと眉間をつまみ、疲れに耐えているポーズをとったまま報告書を手元に引き寄せた。
どうやらすぐに報告書に目を通してくれるようだ。
待っている間に、居心地悪そうに壁に並ぶ鍵付きキャビネットに目をやる。このキャビネットだけホプカークの趣味でないことは明らかだった。病院の備品なのだろう。
高さがそろっておらず、私はここだと自己主張しているようにも見える。
ホプカークは羽ペンで時折りシャッとチェックを入れたり、×印を書き込みながら大きなため息をついた。
「私たちが求めている人材は、多少変わり種でも構わないっていうのに。例えば貴女のように特定の…異文化の魔法に深い知識があって、何より口が堅く、そしてどんな困難な状況でも投げ出さない粘り強い人材がね…」
エレナは、自分が評価されているのか、それとも単なる愚痴の聞き役にされているのか判断しかねて、黙って立っていた。ホプカークはさらに続けた。
「まあ、この魔法界というところは、結局のところ、その者が振るう杖と、魔法省が発行する資格証明書さえあれば、ある程度の身分は証明されればそれでいい。常に人材不足なんだし…」
エレナはその言葉を聞いて思わず口をはさんだ。
「私もそのおかげでここに滑り込めました。」
「あら、自覚してるのね。良いことじゃない。」
ホプカークの歯に衣着せぬ言い方にボディブローをくらったが、めげるのすら疲れてきっており、エレナの表情が崩れることは無かった。
「そうして人を入れれば入れるほど、時に実力のない者や、素性の怪しい者まで紛れ込ませる隙を作ってしまうのが厄介なのだけどね…」
彼女は別の書類に目を通しながら、さらに眉間の皺を深くした。
「…まったく驚くことには、給与を手渡しで希望する者までいる。古い慣習もなかなか無くならないものよ」
まるで一昔前のマグルのやり方である。銀行振込の方が安全で確実であるが、よほど口座を持てない事情でもあるのかもしれない。
不便そうだとエレナが内心で考えた瞬間、ホプカークが鋭い視線を上げた。
「何か言いたそうな顔ね、スズキ。貴女の故郷ではもう廃れた慣習かしら?」
彼女はエレナの表情から思考を読み取ったようだった。
「え、いや…その」
適切な言葉が出てこずまごつく留学生を尻目に看護婦長は話をつづけた。
「まあ、色々あるのよ。マグルの技術を信用しない古い家系の者もいれば、ゴブリン銀行との間に問題を抱えている者、あるいは…単純に足跡を残したくない者もね。魔法界にはマグルの世界とは違う理屈と、良くも悪くも古くからの慣習というものが、粘り強く残っているものなのよ。覚えておくといいわね。」
その言葉は、エレナに魔法界の持つ複雑な側面——伝統と革新、合理性と非合理性が混在する社会——を改めて認識させた。自分が飛び込んだ英国も、日本と同じように想像以上に奥深く、そして不可解な場所なのかもしれない。
エレナは、なぜ自分が日本の、安定はしていたが閉塞感の漂う魔法使いの家系を飛び出し、この混沌とした異国の病院で厳しい現実に打ちのめされながらも必死に学んでいるのか、時折わからなくなることがあった。
厳格な父は、彼女が「家名を汚す」ような形で外国へ行くことを最後まで許さなかった。
母もエレナの行動に心配し、理解できなかったようだ。
ヒーラーになるという夢は、幼い頃に救えなかった命への罪悪感、そして未知の世界への漠然とした憧れが昇華された形であることは確かだ。子供の夢というのはそういうものである。些細なきっかけが将来へ、未来への選択となる。
ただ、それが故郷をでるのではなく国を飛び出すと思わなかったらしい。
分家ではあるが、正当な魔族の一員として生まれたエレナが聖マンゴの留学プログラムに参画できたのは、そんな彼女にとって、唯一手を伸ばせる蜘蛛の糸だったのだ。
このプログラムが、国際交流という美しい名目の裏で、深刻な人手不足を補うためのシステムの一部であることにもエレナは薄々気づき始めていた。
他の留学生たちの間には、成績や実習での評価を巡る熾烈な競争意識が渦巻いていた。
流暢な英語とヨーロッパの魔法学校で培われた自信に満ちた彼らの中で、エレナは常に疎外感を感じていた。
時折、プレッシャーに耐えきれず、あるいは才能の限界を感じて、プログラムを去っていく者もいた。自分もいつかそうなるのではないか、という不安が夜毎エレナの心をよぎる。
それでも、彼女は辞めるわけにはいかなかった。
戻る場所は、もうないのだから。
ホプカークの厳しい指導、同僚となるかもしれないライバルたち、そして自身の未熟さ。全てが重くのしかかる。
「再度確認して修正しなさい。期限は今週中よ。」
今日は木曜日だと伝えるのをグッとこらえ「わかりました」と紺のインクで書き込まれた報告書を受け取る。
執務室を出ようとするエレナの背中に、ホプカークの声がかけた。
「スズキ」エレナが振り返ると、上司は珍しくほんの少しだけ口角を上げていた。「…期待しているわ。貴女の『粘り強さ』にはね」
その一言が、エレナの心に小さな灯をともした。
未来はまだ、何も書かれていない白紙だ。
けれど、その白紙に、自分の手で何かを書き記すことはできるはずだ。
エレナは深く一礼し、再び白い壁の続く廊下へと歩き出した。
厳しい現実は変わらない。
だが、彼女の中の何かが、ほんの少しだけ、前へと動き出したような気がした。
ドアの隙間から、落胆したような表情で退出していく候補者の姿が見えた。ホプカークは大きなため息をつき、エレナが入ってきても気づかない様子で、山積みの書類に目を落とした。
「まったく…最近の若い者は、見かけばかりで中身が伴わないのが多すぎる」
ホプカークは独り言のように呟いた。
「基本的な呪文防御すらおぼつかないようでは、この病院では一日も持たないというのに。」
エレナは白衣の上司が振り返る前に慌ててドアをノックした。
「失礼します。報告書を持ってきました。」
上司は黒い回転椅子に座ったまま、アジアから来た短期留学生の少女に体を向けた。
「そこに置いといて。」
どこに?という質問は禁じられてはいない。
だがそんな質問をする学生はいないであろうことはエレナ自身がわかっていた。
報告書を置く場所はたくさんあるが、来客があった際のローテーブルの上ではなく、彼女のデスクの上だと気づくのに数秒かかった。
整理整頓され、机の上に無駄のものなど何もないところへ、誤った文法で書かれた報告書を置くのは気が引けた。
彼女は音を立てずにそっと置いた。
「では…」と部屋から出て行こうとすると「ちょっとそこで待ってなさい」と、エレナを引き留めた。
ホプカークはぎゅっと眉間をつまみ、疲れに耐えているポーズをとったまま報告書を手元に引き寄せた。
どうやらすぐに報告書に目を通してくれるようだ。
待っている間に、居心地悪そうに壁に並ぶ鍵付きキャビネットに目をやる。このキャビネットだけホプカークの趣味でないことは明らかだった。病院の備品なのだろう。
高さがそろっておらず、私はここだと自己主張しているようにも見える。
ホプカークは羽ペンで時折りシャッとチェックを入れたり、×印を書き込みながら大きなため息をついた。
「私たちが求めている人材は、多少変わり種でも構わないっていうのに。例えば貴女のように特定の…異文化の魔法に深い知識があって、何より口が堅く、そしてどんな困難な状況でも投げ出さない粘り強い人材がね…」
エレナは、自分が評価されているのか、それとも単なる愚痴の聞き役にされているのか判断しかねて、黙って立っていた。ホプカークはさらに続けた。
「まあ、この魔法界というところは、結局のところ、その者が振るう杖と、魔法省が発行する資格証明書さえあれば、ある程度の身分は証明されればそれでいい。常に人材不足なんだし…」
エレナはその言葉を聞いて思わず口をはさんだ。
「私もそのおかげでここに滑り込めました。」
「あら、自覚してるのね。良いことじゃない。」
ホプカークの歯に衣着せぬ言い方にボディブローをくらったが、めげるのすら疲れてきっており、エレナの表情が崩れることは無かった。
「そうして人を入れれば入れるほど、時に実力のない者や、素性の怪しい者まで紛れ込ませる隙を作ってしまうのが厄介なのだけどね…」
彼女は別の書類に目を通しながら、さらに眉間の皺を深くした。
「…まったく驚くことには、給与を手渡しで希望する者までいる。古い慣習もなかなか無くならないものよ」
まるで一昔前のマグルのやり方である。銀行振込の方が安全で確実であるが、よほど口座を持てない事情でもあるのかもしれない。
不便そうだとエレナが内心で考えた瞬間、ホプカークが鋭い視線を上げた。
「何か言いたそうな顔ね、スズキ。貴女の故郷ではもう廃れた慣習かしら?」
彼女はエレナの表情から思考を読み取ったようだった。
「え、いや…その」
適切な言葉が出てこずまごつく留学生を尻目に看護婦長は話をつづけた。
「まあ、色々あるのよ。マグルの技術を信用しない古い家系の者もいれば、ゴブリン銀行との間に問題を抱えている者、あるいは…単純に足跡を残したくない者もね。魔法界にはマグルの世界とは違う理屈と、良くも悪くも古くからの慣習というものが、粘り強く残っているものなのよ。覚えておくといいわね。」
その言葉は、エレナに魔法界の持つ複雑な側面——伝統と革新、合理性と非合理性が混在する社会——を改めて認識させた。自分が飛び込んだ英国も、日本と同じように想像以上に奥深く、そして不可解な場所なのかもしれない。
エレナは、なぜ自分が日本の、安定はしていたが閉塞感の漂う魔法使いの家系を飛び出し、この混沌とした異国の病院で厳しい現実に打ちのめされながらも必死に学んでいるのか、時折わからなくなることがあった。
厳格な父は、彼女が「家名を汚す」ような形で外国へ行くことを最後まで許さなかった。
母もエレナの行動に心配し、理解できなかったようだ。
ヒーラーになるという夢は、幼い頃に救えなかった命への罪悪感、そして未知の世界への漠然とした憧れが昇華された形であることは確かだ。子供の夢というのはそういうものである。些細なきっかけが将来へ、未来への選択となる。
ただ、それが故郷をでるのではなく国を飛び出すと思わなかったらしい。
分家ではあるが、正当な魔族の一員として生まれたエレナが聖マンゴの留学プログラムに参画できたのは、そんな彼女にとって、唯一手を伸ばせる蜘蛛の糸だったのだ。
このプログラムが、国際交流という美しい名目の裏で、深刻な人手不足を補うためのシステムの一部であることにもエレナは薄々気づき始めていた。
他の留学生たちの間には、成績や実習での評価を巡る熾烈な競争意識が渦巻いていた。
流暢な英語とヨーロッパの魔法学校で培われた自信に満ちた彼らの中で、エレナは常に疎外感を感じていた。
時折、プレッシャーに耐えきれず、あるいは才能の限界を感じて、プログラムを去っていく者もいた。自分もいつかそうなるのではないか、という不安が夜毎エレナの心をよぎる。
それでも、彼女は辞めるわけにはいかなかった。
戻る場所は、もうないのだから。
ホプカークの厳しい指導、同僚となるかもしれないライバルたち、そして自身の未熟さ。全てが重くのしかかる。
「再度確認して修正しなさい。期限は今週中よ。」
今日は木曜日だと伝えるのをグッとこらえ「わかりました」と紺のインクで書き込まれた報告書を受け取る。
執務室を出ようとするエレナの背中に、ホプカークの声がかけた。
「スズキ」エレナが振り返ると、上司は珍しくほんの少しだけ口角を上げていた。「…期待しているわ。貴女の『粘り強さ』にはね」
その一言が、エレナの心に小さな灯をともした。
未来はまだ、何も書かれていない白紙だ。
けれど、その白紙に、自分の手で何かを書き記すことはできるはずだ。
エレナは深く一礼し、再び白い壁の続く廊下へと歩き出した。
厳しい現実は変わらない。
だが、彼女の中の何かが、ほんの少しだけ、前へと動き出したような気がした。
