第2章 賢者の石
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始業式の夜から数日が経ち、エレナは初めて業務として、魔法薬学教授の研究室の扉の前に立っていた。保健室の薬品在庫リストを手に、これから始まるであろう気まずい時間に備え、小さく深呼吸をする。これが、セブルス・スネイプという男との業務上の対面だった。
地下牢にある彼の研究室へ向かう石の階段を下りるたび、エレナの心は重く沈んだ。ひんやりとした湿った空気が、彼の放つ冷たいオーラと重なり、息が詰まるようだった。意を決して重い扉をノックしても返事はない。恐る恐る扉を開けると、独特の匂いがエレナを迎えた。それは薬草や鉱物が混じり合った複雑な匂いの中にも不快な気分にならない、石けんのような清らかな香りが漂う、不思議な空間だった。
これは生ける屍の水薬を調合したに違いない。六年生、いや七年生の授業後だろう。ホグワーツではこれほど難しい調合を授業でやらせるか。教育水準の高さに身震いしながら、姿を見せない部屋の主人に声をかける。
「…失礼します。インターンのエレナ・スズキです」
あまりの暗さにスネイプがどこにいるのかわからなかった。ようやく目が慣れてきたところで、研究室の奥、大きな鍋の中の液体をかき混ぜていた黒づくめのひょろっとした男のシルエットが見えた。彼は鍋から顔を上げず、エレナの言葉が届いているのかいないのか、微動だにしない。
「お忙しいところ申し訳ありません。薬品リストをお持ちしました」
エレナは会話の糸口を探ろうと、できるだけ明るい声を作った。スネイプは鍋から視線を外さないまま、無言で近くの机を指でトントンと叩いた。リストをそこへ置け、という合図らしかった。
エレナは言われた通りに羊皮紙を机に置くと、手持ち無沙汰に立ち尽くした。気まずい沈黙が流れる。彼の研究室は、薄暗く陰鬱な雰囲気とは裏腹に、壁一面の薬瓶や器具が完璧な秩序を保って並べられていた。
「地下は、少し冷えますね。薬の品質管理には良いのかもしれませんが」
エレナが何とか絞り出した言葉は、石壁に吸い込まれて消えた。スネイプは、彼女が存在しないかのように、完全に無視を決め込んでいる。彼はようやく鍋から離れると、エレナが置いたリストを無言で手に取り、羽根ペンで何かを乱暴に書き込み始めた。その間も、エレナの存在など意に介していない様子だった。
これ以上のコミュニケーションは不可能か、と諦めかけたエレナの目に、机の隅に無造作に置かれた、一つの石が留まった。黒く、艶のある、山羊の胃から取り出されるという、貴重な解毒石。授業で使った後なのだろう。
「ベゾアール石に、生ける屍の水薬ですか。とても高度な魔法薬を教えていらっしゃるのですね」
スネイプのあまりの態度に、少しだけ苛立ちを覚えていたエレナだったが、ヒーラーとしての純粋な知的好奇心が、彼女に再び口を開かせていた。
「聖マンゴでは、生ける屍の水薬は効果が強力すぎるため、原則として使用禁止になっていたんです。ベゾアール石も、非常に高価で希少ですから、合成された代替品を使うことが多かったので。やはり、本物の自然石は、色艶が全く違いますね」
その専門的な話題に、スネイプの羽根ペンが、ほんの一瞬だけ、ぴたりと止まった。彼は顔を上げないまま、まるで自分の喉の奥から吐き出すかのように、低く、しかしプロとしての揺るぎない矜持が滲む声で言った。
「…当然だ。まがい物では、効果が著しく薄まる。ここでは、妥協は許されん」
それが、この業務上の初対面で、彼がエレナに向けて発した、唯一の言葉だった。彼は、書き込みを終えたリストを、エレナの方へ、まるで投げつけるかのように無造作に突き出すと、再びエレナに背を向け、別の調合台へと向かってしまった。 エレナは、差し出されたリストを手に取ると、ただ「ありがとうございます。失礼いたします」とだけ言って、地下牢の冷気から逃れる様に後にするしかなかった。
スネイプの氷のような態度に気難しい人もいると自分を納得させ、リストを渡せたことをポンフリーに報告した。彼の第一印象をポンフリーに話したくなったが、聖マンゴではそんな気軽さはなく、ホグワーツ(マダム・ポンフリー)もそういった話は苦手かもしれない。そう考えると気安く話すことは憚られた。
少しもやもやした気分のまま昼食の時間になり、あまり食欲が湧かなかったが休憩もかねて職員用の食堂に顔を出した。テーブルの上には、温かいシェパーズパイと、新鮮なグリーンサラダ、そして焼きたてのパンが並んでいた。エレナは、熱々のシェパーズパイを一口食べると、その素朴で優しい味わいに、凍っていた心が少しずつ溶けていくのを感じた。そうだ、お腹が空いていただけで、決してちょっと苦手かもしれない人に当たって落ち込んでいるわけではない。
職場は人間関係が大事だが、苦手な人間がいるのは変えられようもないし、エレナの職務上は避けられない。
昼食を終え、午後の業務に戻ったエレナだったが、その平穏は長くは続かなかった。今度は、スネイプの方が保健室に姿を現したのだ。顔色の悪い、痩せたレイブンクローの一年生を、まるで荷物でも運ぶかのように、その腕を掴んで乱暴に突き飛ばしながら連れてきた。
「腹痛だ。さっさと診ろ」
その無愛想な声と、生徒に対するあまりにも酷い態度に、エレナは怒りを覚えた。午前中の研究室での態度もあまり好ましくなかったが、病に苦しむ生徒に対して、なぜこれほどまでに冷酷になれるのだろうか。 ちょうどマダム・ポンフリーは別の生徒の対応に追われており、エレナがそのレイブンクロー生を診ることになった。スネイプは、腕を組み、保健室の壁に寄りかかったまま、エレナの一挙手一投足を、鷹のような鋭い目で監視している。その無言の圧力が、エレナの背中に重くのしかかった。
生徒の症状は、単なる腹痛ではなかった。顔色は土気色で、冷や汗をかき、腹部が不自然に痙攣している。エレナが慎重に触診すると、胃の中で何かが絶えず蠢き、硬くなっているのが分かった。
「もしや授業中でしたか?」
「そうだ」
「それも、縮み薬を作成する授業でしたか?」
スネイプの首が縦に揺れた。おそらく不完全な「縮み薬」を作成できた喜びから、飲んでしまったのだろう。だが、一年生が一発で成功できるとは思えない。不完全な薬の影響で内臓に深刻なダメージを与えかねない。
「すぐに膨張薬とそれから、痛みを和らげるための鎮静剤も…」
エレナは、スネイプから見られていることの緊張で震えそうになる指を叱咤し、必要な薬瓶を棚から取り出そうとした。その時、焦りからか手が滑り、貴重な鎮静剤の入ったガラス瓶が、指先からこぼれ落ちた。
「あっ!」
エレナが息を飲む間もなく、黒い影が驚くほど素早い動きを見せた。スネイプの履いていた、よく磨かれた黒い革靴のつま先が、まるで猫のようにしなやかに、ガラス瓶が床に叩きつけられる寸前でその落下を受け止め、クッションの役割を果たしたのだ。そして、彼の節くれだった長い指が、跳ね返った瓶を空中で見事に掴み取った。
「あ…!ありがとうございます、スネイプ先生」
安堵と、その意外なほどの俊敏さへの驚きから、エレナは素直に感謝の言葉を口にした。しかし、スネイプは忌々しげに舌打ちをすると、薬瓶をエレナに突き返した。
「貴様のような者がヒーラー気取りでいると、貴重な薬品がいくつあっても足らんな。マダム・ポンフリーも、人選を誤ったようだ」
その凍るような嫌味に、エレナの胸に芽生えかけた僅かな感謝の気持ちは、音を立てて砕け散った。スネイプは、治療を終えるのを待つこともなく、忌々しげに苦しんでいる生徒を睨みつけると、「くだらんことで騒ぎを起こすな、愚か者が」と吐き捨て、音もなく保健室から立ち去っていった。
生徒が、エレナが調合した膨張薬を飲むと、苦しげな表情はすぐに和らぎ、驚いたように自分の腹部を見つめた。
「すごい…痛みが、消えていく…」
彼は、まだ少し青白い顔ながらも、ほっとしたように息をついた。彼が、新任のインターンであるエレナに、何度も礼を言ってから保健室を出て行った後、一連のやり取りを黙って見ていたマダム・ポンフリーが、後片付けをするエレナの元へやってきた。
「気にすることはありませんよ、スズキさん。あの人は、誰に対してもああなのですから。特に、スリザリン以外の生徒にはね」
その声は、労りに満ちていた。 エレナは、少し俯きながら答えた。
「はい…でも、驚きました。先ほど、薬瓶を受け取った時のスネイプ先生の手は…紛れもなく、毎日、魔法薬を扱う人の手でした」
節くれだった指には、様々な薬品の色素が染みつき、いくつかの小さな切り傷や、薬品によってできるシミ跡が見えた。それは、絶え間ない実践の証だった。 ポンフリーは、少し遠い目をした。
「ええ。彼は、この城で最も優れた魔法薬の作り手ですわ。その腕はダンブルドア校長も認めていることです。…もっとも、その比類なき才能と同じくらい、気難しく、そして意地の悪い方ですけれどね」
一人残されたエレナは、空になった薬瓶を握りしめた。彼の嫌味な態度には、腹が立って仕方がない。生徒への態度も、決して許されるものではない。しかし、彼の指に残された痕跡と、その卓越した技術の一端、そして午前中に見た、完璧に整頓された研究室。それらが、エレナの中で、「陰湿で不公平な教師」という単純なレッテルを貼ることを躊躇わせていた。セブルス・スネイプという男は、一筋縄ではいかない人物なのだということを、エレナは痛感していた。
スネイプが去っていった後、午後の保健室には、比較的穏やかな時間が流れた。エレナは、マダム・ポンフリーの指示のもと、地道な業務に黙々と取り組んだ。薬草の棚を整理し、種類ごとにラベルを貼り直し、乾燥剤を新しいものと交換する。洗い終えた大量のリネンを、魔法でふわりと乾燥させ、丁寧に畳んで棚にしまう。そして、治療に使った医療器具を一本一本、念入りに消毒し手入れをする。 そういった単調な作業に没頭していると、不思議と、スネイプとのやり取りでささくれ立った心が、少しずつ落ち着いていくのを感じた。エレナは、薬草の持つ独特の香りや、清潔なリネンの手触り、磨かれた金属の輝きに集中しているとあっという間に時間が過ぎていった。
その日の夕暮れ時、閉室の準備をしていたエレナの元に、一人の生徒が、遠慮がちに保健室の扉を叩いた。スネイプとの一件以来、午後は誰かが訪れるたびに、エレナの心は警戒心で硬くなる癖がついてしまっていた。しかし、そこに立っていたのはパンジー・パーキンソンのような尊大さとは無縁の、知的で少し内気そうなレイブンクローの女生徒—3年生のマリエッタ・エッジコムだった。
「あの、すみません、もうおしまいですよね」
彼女は少し恥ずかしそうに、自分の手を見せた。
「守護霊の呪文を練習していたら、杖が少し熱くなってしまって…ちょっと火傷をしてしまったみたいなんです。治癒呪文をかけたんですけど、跡が残っちゃって」
それは、パンジーの仮病や、スリザリン生の厄介な症例とは全く違う、「前向きな努力の結果」として負った健気で、そして輝かしい傷だった。
エレナの心の中で、一日中、硬くなっていた何かが、ふっと解けるのを感じた。
「大丈夫よ。心配いらないわ。こちらへ座って見せてください」
エレナは、自分でも驚くほど穏やかで、温かい声が出たことに気づきながら、マリエッタを診察用の椅子へと促した。
応急処置を行っているおかげで火傷はごく軽いもので、皮膚がボコボコと火傷痕で硬くなっているだけだ。
エレナは、火トカゲの血を数滴垂らし肌を再び軟化させてから、ひんやりとした冷却ジェルをその赤い部分に優しく塗りながら尋ねた。
「どんな呪文を練習していたの?」
「守護霊の呪文です。」
「守護霊の呪文ですって?素晴らしいね。私も、いつか自分だけの守護霊を呼び出してみたいと思っているの」
エレナもまだ守護霊の呪文を出したことは無い。しかし、こんな少女がすでに特訓している。
「はい。でも、全然うまくいかなくて…」
マリエッタは、俯いて小さな声で言った。
「教科書には、『とびきり幸せな思い出を思い浮かべて』って書いてあるんですけど、いざ杖を構えると、そういう思い出が、なんだかぼんやりしちゃって」
「私にも、その気持ちはよく分かるわ」
エレナは、彼女の目線に合わせて屈むと、優しく言った。
「幸せな思い出というのは、不思議なもので、いざ必要だ、と思えば思うほど、霞のように掴みどころがなくなってしまうものだから。無理に、人生で一番の、大きな幸せを思い浮かべる必要はないのよ」
「え…そうなんですか?」
「ええ。例えば、焼きたてのパンの香りとか、雨上がりの土の匂い、お気に入りの温かい紅茶を飲んだ時の、ほっとするような気持ち。そういう、ささやかで、でも確かな温かい記憶。そういう小さな光を、心の中でたくさん集めて、大きな灯火にしていくようなイメージで試してみてはどうかしら」
エレナの具体的なアドバイスに、マリエッタは、驚いたように顔を上げた。そして、その表情は、みるみるうちに明るくなっていく。
「小さな光を、集める…なんだか、私にもできそうな気がしてきました!」
「ええ、その真面目さがあれば、あなたならきっと、誰よりも素晴らしい守護霊を呼び出せるわ。焦ることはないのよ。といっても私はまだ出したことが無いから、防衛術の先生に聞くといいわ」
エレナは、治療を終えると彼女の肩をそっと叩いた。
マリエッタは、はにかみながらも真っ直ぐな、尊敬の念に満ちた瞳でエレナを見つめた。
「ありがとうございます、スズキ先生。先生は、他の先生と違って、なんだかとても話しやすいです。私の話、ちゃんと聞いてくれるから。それに、先生とお話ししていると心が温かくなります」
何のてらいもない、純粋な言葉。悪意ある言葉や皮肉とは全く違う心からの感謝の言葉。それは、まるで干上がった大地に染み込む一滴の清らかな水のように、エレナの心を深く、そして優しく潤した。
ヒーラーとして誰かの助けになれること。誰かの未来を、ささやかでも応援できることの確かな喜び。 マリエッタが、嬉しそうに何度も礼を言って保健室を後にしてから、エレナはしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。窓の外は暗く、空には一番星が瞬いている。
マリエッタのその純粋な感謝の言葉が、エレナに、このホグワーツで自分が果たすべき役割と、ヒーラーとしての原点を、改めて思い出させてくれた。どんなに気難しい同僚がいようとも、どんなに厄介な出来事が起ころうとも、自分のやるべきことは、ただ一つ。傷ついた生徒たちの心と体に、誠心誠意、寄り添うことだ。
エレナは、窓の外の星を見つめながら、静かに、しかし強く、そう心に誓った。
地下牢にある彼の研究室へ向かう石の階段を下りるたび、エレナの心は重く沈んだ。ひんやりとした湿った空気が、彼の放つ冷たいオーラと重なり、息が詰まるようだった。意を決して重い扉をノックしても返事はない。恐る恐る扉を開けると、独特の匂いがエレナを迎えた。それは薬草や鉱物が混じり合った複雑な匂いの中にも不快な気分にならない、石けんのような清らかな香りが漂う、不思議な空間だった。
これは生ける屍の水薬を調合したに違いない。六年生、いや七年生の授業後だろう。ホグワーツではこれほど難しい調合を授業でやらせるか。教育水準の高さに身震いしながら、姿を見せない部屋の主人に声をかける。
「…失礼します。インターンのエレナ・スズキです」
あまりの暗さにスネイプがどこにいるのかわからなかった。ようやく目が慣れてきたところで、研究室の奥、大きな鍋の中の液体をかき混ぜていた黒づくめのひょろっとした男のシルエットが見えた。彼は鍋から顔を上げず、エレナの言葉が届いているのかいないのか、微動だにしない。
「お忙しいところ申し訳ありません。薬品リストをお持ちしました」
エレナは会話の糸口を探ろうと、できるだけ明るい声を作った。スネイプは鍋から視線を外さないまま、無言で近くの机を指でトントンと叩いた。リストをそこへ置け、という合図らしかった。
エレナは言われた通りに羊皮紙を机に置くと、手持ち無沙汰に立ち尽くした。気まずい沈黙が流れる。彼の研究室は、薄暗く陰鬱な雰囲気とは裏腹に、壁一面の薬瓶や器具が完璧な秩序を保って並べられていた。
「地下は、少し冷えますね。薬の品質管理には良いのかもしれませんが」
エレナが何とか絞り出した言葉は、石壁に吸い込まれて消えた。スネイプは、彼女が存在しないかのように、完全に無視を決め込んでいる。彼はようやく鍋から離れると、エレナが置いたリストを無言で手に取り、羽根ペンで何かを乱暴に書き込み始めた。その間も、エレナの存在など意に介していない様子だった。
これ以上のコミュニケーションは不可能か、と諦めかけたエレナの目に、机の隅に無造作に置かれた、一つの石が留まった。黒く、艶のある、山羊の胃から取り出されるという、貴重な解毒石。授業で使った後なのだろう。
「ベゾアール石に、生ける屍の水薬ですか。とても高度な魔法薬を教えていらっしゃるのですね」
スネイプのあまりの態度に、少しだけ苛立ちを覚えていたエレナだったが、ヒーラーとしての純粋な知的好奇心が、彼女に再び口を開かせていた。
「聖マンゴでは、生ける屍の水薬は効果が強力すぎるため、原則として使用禁止になっていたんです。ベゾアール石も、非常に高価で希少ですから、合成された代替品を使うことが多かったので。やはり、本物の自然石は、色艶が全く違いますね」
その専門的な話題に、スネイプの羽根ペンが、ほんの一瞬だけ、ぴたりと止まった。彼は顔を上げないまま、まるで自分の喉の奥から吐き出すかのように、低く、しかしプロとしての揺るぎない矜持が滲む声で言った。
「…当然だ。まがい物では、効果が著しく薄まる。ここでは、妥協は許されん」
それが、この業務上の初対面で、彼がエレナに向けて発した、唯一の言葉だった。彼は、書き込みを終えたリストを、エレナの方へ、まるで投げつけるかのように無造作に突き出すと、再びエレナに背を向け、別の調合台へと向かってしまった。 エレナは、差し出されたリストを手に取ると、ただ「ありがとうございます。失礼いたします」とだけ言って、地下牢の冷気から逃れる様に後にするしかなかった。
スネイプの氷のような態度に気難しい人もいると自分を納得させ、リストを渡せたことをポンフリーに報告した。彼の第一印象をポンフリーに話したくなったが、聖マンゴではそんな気軽さはなく、ホグワーツ(マダム・ポンフリー)もそういった話は苦手かもしれない。そう考えると気安く話すことは憚られた。
少しもやもやした気分のまま昼食の時間になり、あまり食欲が湧かなかったが休憩もかねて職員用の食堂に顔を出した。テーブルの上には、温かいシェパーズパイと、新鮮なグリーンサラダ、そして焼きたてのパンが並んでいた。エレナは、熱々のシェパーズパイを一口食べると、その素朴で優しい味わいに、凍っていた心が少しずつ溶けていくのを感じた。そうだ、お腹が空いていただけで、決してちょっと苦手かもしれない人に当たって落ち込んでいるわけではない。
職場は人間関係が大事だが、苦手な人間がいるのは変えられようもないし、エレナの職務上は避けられない。
昼食を終え、午後の業務に戻ったエレナだったが、その平穏は長くは続かなかった。今度は、スネイプの方が保健室に姿を現したのだ。顔色の悪い、痩せたレイブンクローの一年生を、まるで荷物でも運ぶかのように、その腕を掴んで乱暴に突き飛ばしながら連れてきた。
「腹痛だ。さっさと診ろ」
その無愛想な声と、生徒に対するあまりにも酷い態度に、エレナは怒りを覚えた。午前中の研究室での態度もあまり好ましくなかったが、病に苦しむ生徒に対して、なぜこれほどまでに冷酷になれるのだろうか。 ちょうどマダム・ポンフリーは別の生徒の対応に追われており、エレナがそのレイブンクロー生を診ることになった。スネイプは、腕を組み、保健室の壁に寄りかかったまま、エレナの一挙手一投足を、鷹のような鋭い目で監視している。その無言の圧力が、エレナの背中に重くのしかかった。
生徒の症状は、単なる腹痛ではなかった。顔色は土気色で、冷や汗をかき、腹部が不自然に痙攣している。エレナが慎重に触診すると、胃の中で何かが絶えず蠢き、硬くなっているのが分かった。
「もしや授業中でしたか?」
「そうだ」
「それも、縮み薬を作成する授業でしたか?」
スネイプの首が縦に揺れた。おそらく不完全な「縮み薬」を作成できた喜びから、飲んでしまったのだろう。だが、一年生が一発で成功できるとは思えない。不完全な薬の影響で内臓に深刻なダメージを与えかねない。
「すぐに膨張薬とそれから、痛みを和らげるための鎮静剤も…」
エレナは、スネイプから見られていることの緊張で震えそうになる指を叱咤し、必要な薬瓶を棚から取り出そうとした。その時、焦りからか手が滑り、貴重な鎮静剤の入ったガラス瓶が、指先からこぼれ落ちた。
「あっ!」
エレナが息を飲む間もなく、黒い影が驚くほど素早い動きを見せた。スネイプの履いていた、よく磨かれた黒い革靴のつま先が、まるで猫のようにしなやかに、ガラス瓶が床に叩きつけられる寸前でその落下を受け止め、クッションの役割を果たしたのだ。そして、彼の節くれだった長い指が、跳ね返った瓶を空中で見事に掴み取った。
「あ…!ありがとうございます、スネイプ先生」
安堵と、その意外なほどの俊敏さへの驚きから、エレナは素直に感謝の言葉を口にした。しかし、スネイプは忌々しげに舌打ちをすると、薬瓶をエレナに突き返した。
「貴様のような者がヒーラー気取りでいると、貴重な薬品がいくつあっても足らんな。マダム・ポンフリーも、人選を誤ったようだ」
その凍るような嫌味に、エレナの胸に芽生えかけた僅かな感謝の気持ちは、音を立てて砕け散った。スネイプは、治療を終えるのを待つこともなく、忌々しげに苦しんでいる生徒を睨みつけると、「くだらんことで騒ぎを起こすな、愚か者が」と吐き捨て、音もなく保健室から立ち去っていった。
生徒が、エレナが調合した膨張薬を飲むと、苦しげな表情はすぐに和らぎ、驚いたように自分の腹部を見つめた。
「すごい…痛みが、消えていく…」
彼は、まだ少し青白い顔ながらも、ほっとしたように息をついた。彼が、新任のインターンであるエレナに、何度も礼を言ってから保健室を出て行った後、一連のやり取りを黙って見ていたマダム・ポンフリーが、後片付けをするエレナの元へやってきた。
「気にすることはありませんよ、スズキさん。あの人は、誰に対してもああなのですから。特に、スリザリン以外の生徒にはね」
その声は、労りに満ちていた。 エレナは、少し俯きながら答えた。
「はい…でも、驚きました。先ほど、薬瓶を受け取った時のスネイプ先生の手は…紛れもなく、毎日、魔法薬を扱う人の手でした」
節くれだった指には、様々な薬品の色素が染みつき、いくつかの小さな切り傷や、薬品によってできるシミ跡が見えた。それは、絶え間ない実践の証だった。 ポンフリーは、少し遠い目をした。
「ええ。彼は、この城で最も優れた魔法薬の作り手ですわ。その腕はダンブルドア校長も認めていることです。…もっとも、その比類なき才能と同じくらい、気難しく、そして意地の悪い方ですけれどね」
一人残されたエレナは、空になった薬瓶を握りしめた。彼の嫌味な態度には、腹が立って仕方がない。生徒への態度も、決して許されるものではない。しかし、彼の指に残された痕跡と、その卓越した技術の一端、そして午前中に見た、完璧に整頓された研究室。それらが、エレナの中で、「陰湿で不公平な教師」という単純なレッテルを貼ることを躊躇わせていた。セブルス・スネイプという男は、一筋縄ではいかない人物なのだということを、エレナは痛感していた。
スネイプが去っていった後、午後の保健室には、比較的穏やかな時間が流れた。エレナは、マダム・ポンフリーの指示のもと、地道な業務に黙々と取り組んだ。薬草の棚を整理し、種類ごとにラベルを貼り直し、乾燥剤を新しいものと交換する。洗い終えた大量のリネンを、魔法でふわりと乾燥させ、丁寧に畳んで棚にしまう。そして、治療に使った医療器具を一本一本、念入りに消毒し手入れをする。 そういった単調な作業に没頭していると、不思議と、スネイプとのやり取りでささくれ立った心が、少しずつ落ち着いていくのを感じた。エレナは、薬草の持つ独特の香りや、清潔なリネンの手触り、磨かれた金属の輝きに集中しているとあっという間に時間が過ぎていった。
その日の夕暮れ時、閉室の準備をしていたエレナの元に、一人の生徒が、遠慮がちに保健室の扉を叩いた。スネイプとの一件以来、午後は誰かが訪れるたびに、エレナの心は警戒心で硬くなる癖がついてしまっていた。しかし、そこに立っていたのはパンジー・パーキンソンのような尊大さとは無縁の、知的で少し内気そうなレイブンクローの女生徒—3年生のマリエッタ・エッジコムだった。
「あの、すみません、もうおしまいですよね」
彼女は少し恥ずかしそうに、自分の手を見せた。
「守護霊の呪文を練習していたら、杖が少し熱くなってしまって…ちょっと火傷をしてしまったみたいなんです。治癒呪文をかけたんですけど、跡が残っちゃって」
それは、パンジーの仮病や、スリザリン生の厄介な症例とは全く違う、「前向きな努力の結果」として負った健気で、そして輝かしい傷だった。
エレナの心の中で、一日中、硬くなっていた何かが、ふっと解けるのを感じた。
「大丈夫よ。心配いらないわ。こちらへ座って見せてください」
エレナは、自分でも驚くほど穏やかで、温かい声が出たことに気づきながら、マリエッタを診察用の椅子へと促した。
応急処置を行っているおかげで火傷はごく軽いもので、皮膚がボコボコと火傷痕で硬くなっているだけだ。
エレナは、火トカゲの血を数滴垂らし肌を再び軟化させてから、ひんやりとした冷却ジェルをその赤い部分に優しく塗りながら尋ねた。
「どんな呪文を練習していたの?」
「守護霊の呪文です。」
「守護霊の呪文ですって?素晴らしいね。私も、いつか自分だけの守護霊を呼び出してみたいと思っているの」
エレナもまだ守護霊の呪文を出したことは無い。しかし、こんな少女がすでに特訓している。
「はい。でも、全然うまくいかなくて…」
マリエッタは、俯いて小さな声で言った。
「教科書には、『とびきり幸せな思い出を思い浮かべて』って書いてあるんですけど、いざ杖を構えると、そういう思い出が、なんだかぼんやりしちゃって」
「私にも、その気持ちはよく分かるわ」
エレナは、彼女の目線に合わせて屈むと、優しく言った。
「幸せな思い出というのは、不思議なもので、いざ必要だ、と思えば思うほど、霞のように掴みどころがなくなってしまうものだから。無理に、人生で一番の、大きな幸せを思い浮かべる必要はないのよ」
「え…そうなんですか?」
「ええ。例えば、焼きたてのパンの香りとか、雨上がりの土の匂い、お気に入りの温かい紅茶を飲んだ時の、ほっとするような気持ち。そういう、ささやかで、でも確かな温かい記憶。そういう小さな光を、心の中でたくさん集めて、大きな灯火にしていくようなイメージで試してみてはどうかしら」
エレナの具体的なアドバイスに、マリエッタは、驚いたように顔を上げた。そして、その表情は、みるみるうちに明るくなっていく。
「小さな光を、集める…なんだか、私にもできそうな気がしてきました!」
「ええ、その真面目さがあれば、あなたならきっと、誰よりも素晴らしい守護霊を呼び出せるわ。焦ることはないのよ。といっても私はまだ出したことが無いから、防衛術の先生に聞くといいわ」
エレナは、治療を終えると彼女の肩をそっと叩いた。
マリエッタは、はにかみながらも真っ直ぐな、尊敬の念に満ちた瞳でエレナを見つめた。
「ありがとうございます、スズキ先生。先生は、他の先生と違って、なんだかとても話しやすいです。私の話、ちゃんと聞いてくれるから。それに、先生とお話ししていると心が温かくなります」
何のてらいもない、純粋な言葉。悪意ある言葉や皮肉とは全く違う心からの感謝の言葉。それは、まるで干上がった大地に染み込む一滴の清らかな水のように、エレナの心を深く、そして優しく潤した。
ヒーラーとして誰かの助けになれること。誰かの未来を、ささやかでも応援できることの確かな喜び。 マリエッタが、嬉しそうに何度も礼を言って保健室を後にしてから、エレナはしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。窓の外は暗く、空には一番星が瞬いている。
マリエッタのその純粋な感謝の言葉が、エレナに、このホグワーツで自分が果たすべき役割と、ヒーラーとしての原点を、改めて思い出させてくれた。どんなに気難しい同僚がいようとも、どんなに厄介な出来事が起ころうとも、自分のやるべきことは、ただ一つ。傷ついた生徒たちの心と体に、誠心誠意、寄り添うことだ。
エレナは、窓の外の星を見つめながら、静かに、しかし強く、そう心に誓った。
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