第2章 賢者の石
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始業式の宴で受けた拒絶の夜が明けた。エレナの世界は、昨夜を境に色褪せ、音を失ったかのようだった。それでも、ホグワーツの日常は、彼女の心の傷を待ってはくれない。
何とか朝目覚めたエレナは、シャワーを浴び髪をひとまとめにくくった。聖マンゴは激務であったため化粧をする暇などなく、化粧する習慣が消え失せてしまった。初日であるため軽く紅でも差すつもりでここに持ってきていたが、すっかりその気も失せてしまった。
自国では白いローブは落ちこぼれの印であるが、白いメディカル服は憧れの制服である。病院でテキパキと働き人を救う仕事に、幼きエレナも憧れてここまでやってきたのだ。
糊のきいた白のスラックス、メディカルウェアを身にまとった。
朝食をどこで食べるのか聞いていなかったが、まっすぐ保健室にドアの前にやってきた。鍵がかかっており開かず、そのまま職員塔に移動することにした。かなり早い時間だというのに、職員用の食堂では軽食が用意されている。おいしそうなコーンスープの香りが鼻孔をかすめ、お腹がぎゅるりとなった。
日本にいたころなら食べていいのか迷い、ルールなどを確認していたが今の彼女にはそんな繊細な心を持ち合わせていなかった。食べられるうちに食べておく、がモットーとなり、遠慮なくクロワッサンに手を伸ばした。
皿の上にジャムとクロワッサン、コーヒーを片手に一人で朝食を食べ始めた。食べ終わったころには、続々と先生方が食堂にやってきた。
「おはよう、スズキさん。初日から張り切ってますね。」
数占い学のセプティマ・ベクター先生に声をかけられ、笑顔で頷いているとマダム・ポンフリーも現れた。
「まあスズキさん。早いのね、もう朝食は食べたの?」
「ええ、目が覚めてしまって一番乗りでした。」
エレナの言葉にマダムは「次はもっと遅くても大丈夫ですよ。先に保健室で待っていてちょうだい。」と言って鍵を渡した。
「待っている間は暇でしょうから、迷子にならない程度にホグワーツを散歩でもしていてちょうだい。」
「ええ、そうします。昨晩はすぐに寝てしまいましたので。」
エレナは朗らかにうなずいて、食堂を出た。クィレルと顔を合わせるのが気まずかったので彼が来る前に、職員塔から離れることができ、一呼吸ついた。
ちらほら小さな足音が大広間に向かっているのがわかる。生徒たちは大広間で食事をとっているようだ。近くまで寄るか迷ったが、昨晩の言い争いも大広間の前での出来事だったため、足が遠のいた。
その代わり玄関ホールの大きな噴水がある空間を訪れた。ホグワーツは何もかも広く、新鮮である。朝日が大理石を照らして反射し、石像を輝かす。ホールを横切る靴音が心地よくて、わざとカツカツッと足音を鳴らして歩かせる魔法がかかっているようだ。
迷子にならない程度に散策し、朝の涼しい風を体に浴びる。こんなにすがすがしい空気にじめじめした心持ちは似合わない。
リフレッシュできたエレナが保健室に戻ると、まだマダム・ポンフリーは戻ってきていなかった。手持無沙汰であったエレナは、昨日マダムが案内した古びた戸棚を眺めて時間を潰していた。
ようやくマダムが保健室に現れた。
「スズキさん、ホグワーツでの業務内容からお伝えしなくてはね。」
マダムはそういうと、昨日は見せなかった保健室の奥の部屋を開けた。
「ここは私たちの仮眠室よ。生徒が泊まるときや、夜間時に空けておく必要があるときにここで休憩しております。」
「お一人で夜間対応もされていたのですか?」
エレナの驚い声にプロとしての自負がくすぐられたのか、マダムはふふっと笑った。
「保険医は私一人でしたからね。今回ダンブルドア経由でインターンの申し込みがあったとお話を聞いて、飛び上がるほどうれしかったのです。生意気な…おっと口が滑りました。日中生徒たちの相手をしてから夜も対応すると寝不足になりがちで」
「これからは私もおります。」
「ええ、とても期待しています。といっても泊まり込みになる生徒は年に数回程度。緊急診療が必要な生徒がごくまれに訪れる程度です。」
仮眠室はパイプベットではなく、木製のしっかりしたベットであった。側には最低限の椅子と机しか置いておらず、窓もついていない薄暗い部屋だった。
その部屋のドアを閉め、反対側にある扉のない小部屋にエレナを案内した。そこには大釜にまな板、包丁、フラスコ、薬草などの裁量が入っているであろう棚が置いてあった。
「保健室で提供する魔法薬はほとんどがスプラウト先生や外部に発注した材料を用いて、魔法薬学のスネイプ先生に作成頂くことが多いです。ですが、ここ保健室でも調合し生徒に使用します。スズキさんもマンゴで実践済みでしょう。」
「はい、簡単なものであれば。」
エレナの言葉に満足げにうなずくと、マダムはベットが並ぶメインホールに戻った。
「壁際の棚にはすべて魔法薬が入っています。生徒が開けられないよう鍵をかけておりますが、スズキさんはまずどこにどの薬品が入っているか頭に叩き込んでください。それから在庫整理の基本業務から任せいていきましょう。」
マダムのまずは城のやり方に慣れさせる方針に納得したエレナは、了承の言葉を述べようとしたその時。
バァン!
とエレナを遮るかのように保健室の扉が、わざとらしいほど大きな音を立てて開かれた。スリザリンのローブを身に纏った女子生徒が、つんと顎を突き出して立っている。彼女は、レースのハンカチでそっと押さえた腕を、これ見よがしにマダムとエレナの前に突き出した。
「見てちょうだい、この火傷!今朝の朝食の時よ、バカなクラップが無神経にぶつかってきて、熱い紅茶がかかったの!最悪だわ。マダム・ポンフリーに診てもらいたいの!」
その声は甲高く、被害を訴えるというよりは、自分の不運を周囲に知らしめるための芝居がかった響きを持っていた。エレナがちらりとマダムに視線をやると、彼女はそれくらいあなたに任せるわとでも言いたげに顎で指示した。
「私が見ますので、こちらへどうぞ」
エレナは初めての生徒に少し緊張しながらも、努めて感情を排した声で応じ、診察用の椅子を指した。
パンジーは、値踏みするようにエレナをじろじろと見ながら、しぶしぶ椅子に腰掛けた。
「保険医の名前はポンフリーだって聞いたけど…あなたがそうなの?」
エレナがアジア人で若いため心配になったのだろう。エレナはこの少女が新一年生でホグワーツ初日であるのだと察した。
「いいえ、私はエレナ・スズキです。今回は私に診させてもらいます。」
紅茶がかかったくらいのやけどであれば、呪文ですぐに治るだろう。
「あなたで本当に大丈夫なの?スズキ…って、あまり聞かない名前ね。どこのご出身なのかしら」
その問いは、純粋な好奇心からではない、相手の出自を探り格付けしようとする意図を含んでいた。こんな小さな女の子からそんな言葉が出てくることに驚きを感じながらも、表情を動かさずに穏やかに答えた。
「東の国からです。さあ、腕を見せてください」
エレナは彼女の腕を取った。見ると、皮膚がわずかに赤くなっているだけのごく軽い火傷だった。簡単な治療呪文で治るだろうが、跡が残ると彼女は一生気にするだろう。エレナはマダムに「アロエとディジーリーフが練りこまれた軽いやけど用の軟膏はありますでしょうか」と尋ねた。
自分で調合した軟膏はあるが、生徒に使用する許可を得ていない。マダムは「ありますよ。」と答えて、棚から丸い缶を取り出した。
エレナはそれを受け取り、白く小さな腕に塗り込んでいった。
「へえ、東の国。ずいぶん遠いのね」
少女は治療される間も、探るような視線をやめなかった。
「では、あなたのご両親は?もちろん、魔法使いなんでしょうね?それとも…まさか」
言葉の最後に含まれた侮蔑の響きに、エレナは治療する手をぴたりと止めた。そして、穏やかに、しかし決して視線を逸らさずに生意気な生徒の目を見つめ返した。
「ここは保健室です。あなたの治療に関係のない質問は、少しだけ控えてくださるかしら」
エレナの声は静かだったが、その奥には揺るぎない芯があった。
「人の出自を尋ねるのは、あまり礼儀正しいことではないのよ。」
一瞬、女子生徒の意地悪な顔が、不意を突かれたような表情を浮かべだ。彼女はこの新任のヒーラーが、もっとうろたえたり、へりくだったりするとでも思っていたのだろう。すぐに彼女はふんと鼻を鳴らした。
「別に、ただ聞いただけでしょ。もういいわ、こんなもの!」
治療が完全に終わるのも待たずに椅子から立ち上がると、取り巻きたちに目配せをし、わざと大きな足音を立てて保健室から出て行った。
後に残されたのは、気まずい静寂とアロエの匂いだけだった。エレナは、少女が残していった棘のある言葉が自分の心に深く突き刺さっているのを感じた。どこへ行っても、同じなのだ。彼女は、マダムには聞こえないように、諦めの混じった深いため息を呼吸するついでに吐き出した。聖マンゴでも見えない壁のように存在した、アジア人であることへの差別的な視線。それは、慣れることのない鈍い痛みとして、常に彼女の心の中にあった。
「スズキ、今のは気にすることは無いわ。それと、魔法薬の選び方は問題なかったわ。貴方には手取り足取り教えるより、実践で教えていく方が良いかもしれなわね。」
マダムからの優しい言葉にエレナは微笑んだ。こんなことで傷ついていては心が持たない。どうにか気持ちを切り替え、ヒーラーとしての仮面を再び被った。
「先ほどの子はおそらく、パンジー・パーキンソンね。スリザリンの一年生で差別的な思想を持っている少女なら、神聖二十八家の子の一人でしょうし。」
マダムは今年の入学者リストを眺めながら言った。
「神聖二十八家とはなんですか?」
「ああ、英国魔法界の中でも特に純血性を守っているとされた家系のことよ。古い価値観を持った人々ですから、貴方は気にしなくていいのよ」
マダムはそう言ってくれたが、エレナはあいまいにほほ笑むしかなかった。
故郷では本家か分家かの違いで軋轢があったが、ここでは血がより重要視されるらしい。
エレナはめげずに残りの業務を淡々とこなしていった。ここには新米ヒーラーは一人しかいないため、マダムの監視の下、シーツの取り換えに洗濯、掃除、杖を一振りして問題なく作業が完了する様子を確認しながら、パンジー・パーキンソンのカルテを作成する。彼女に出した治療薬と対処を事実だけ記すようにしてマダムに確認してもらう。
待っている間、机の上にある小さな鏡に映る自分の顔が見えた。ひどく疲れて見えていた。「しっかりしなさい、エレナ」彼女は自分に言い聞かせた。「あなたはヒーラーでしょう。感傷に浸っている暇はないのよ」と。
カルテを読み終えたマダムは満足そうに「問題ないわ」とうなずていてくれた。聖マンゴの時と違うのは、上司が優しくて業務内容に対して認める言葉をかけてくれる点だろう。
それから、最初にマダムが言っていたように、戸棚にある薬品の名前と場所を一覧化できるように羊皮紙に書き写しながら、静かな保健室で生徒が来るのをひたすら待った。
「意外と生徒さんは保健室に来ないのですね。」
聖マンゴではひっきりなしに患者がやってきた。
「今日は初日だからよ。みんな気を引き締めて授業に臨んでいるけれど、明日からすぐに生徒がやってくるわ。」
誰も来ない保健室でマダムが食堂から持ってきたサンドイッチを食べ、モップと脱水機に掃除をするよう魔法かける。
「マダム、いつも保健室は何時から何時まで開けていらっしゃるんですか?」
ポンフリーが作成する新入生のカルテ作成をダブルチェックしながら問いかけた。振り分けられた寮の一覧と持病があるかどうか保護者からの手紙内容を見比べながら、ポンフリーの記入箇所を確認していた。
「朝は8時半、夜は生徒の就寝時刻までです。」
「かなり拘束時間が長いんですね。」
一人で保険室を運営していく割にはかなり長時間である。
「ええ、ですが私も夜ご飯やお風呂のために戻ったりするので、一日中保健室いるわけではないのですよ。」
「では、マダムが離席されるときは私が保健室にいる様にすればよろしいですね。」
エレナは聖マンゴの業務内容のように、シフト制になるのかと提案したがマダムは少し驚いたようにかぶりを振った。
「いいえ、必ず保健室に誰かがいなければならないということではないのです。そうであるならば、保健医が私一人なはずがありませんよ。」
その言葉に少しにやっと笑ったエレナは、納得して頷いた。
「ええですが、せっかくインターンとして私がいるのですから、遠慮なく使ってください。」
「あら、そう言ってくれるならそうしましょうか。」
それからマダムと一日おきに夕方17時から就寝時刻までは保健室の締め作業をおこなうことで合意した。
カルテの作成が終わったころに、左腕から顔を半分まで大きなおできで膨れ上がった生徒がやってきた。
「すみません、ぼく、魔法薬学の授業で失敗しちゃって」
マダムは彼の姿を見たとたん、何の魔法薬を被ったのかすぐに分かったらしい。彼を椅子に座らせるようエレナへ指示を出すと治療薬を取りに棚まで取りに行った。
「そこに座って、痛むかしら?どんな薬を作成していたかわかる?」
赤いネクタイを結んだ少年を落ち着かせるように、彼のシャツを脱がせる。シャツが魔法薬から皮膚にかかるのを守ってくれたおかげで、左手と顔半分に左耳だけにしか症状が出ていない。
「おでき治療薬を作ってて、ぼく、大鍋を火から下ろすのを忘れてて、ヤマアラシの針を入れちゃって、すごくひりひりするんです。」
「だと思いました。数年に一回失敗する生徒がいるので、エレナもこの症状を見ておくといいでしょう。」
手に治療薬を持ったマダムが現れ、筆で液体を湿らせると彼のおできたちの上にするすると滑らせていく。
おできがぷくっーという音とともに空気が抜け、徐々に小さくなっていった。おできのせいで視界が遮られていたが、徐々に明瞭になっていったため、少年の顔は安心したかのように半べそから笑顔に変わっていった。
少年は目の前にいるエレナを見ると、目をぱちくりとさせた。アジア系はここでは珍しいのだろう。
「グリフィンドールの生徒ね。名前は?」
「あ、ネビル・ロングボトムです。」
彼の名前を羊皮紙に書き写す。
「さあ、もう大丈夫でしょう。」
ガーゼでおできがあった場所を拭ったマダムは、完璧に元に戻った肌をみて満足そうにつぶやいた。
「授業に戻って大丈夫よ。さあ、いきなさい。」
まだ医務室に居座りたそうにしていたネビルだったが、マダムに急かされて保健室から出ていった。
マダムが完璧なおでき治療薬の場所をエレナに教え、ネビルのカルテを作成し始めた。
マダムが使用した治療薬をもとの場所に戻しながら、そういえばトムと同じくらいの年齢であったのに、ヴィジョンが見えなかった。ビジョンが見えた理由は年齢と性別が原因ではないらしい。
それから長い一日がようやく終わり、最後の薬瓶を棚に戻したエレナは、保健室の扉に鍵をかけた。
マダムはマクゴナガル先生とスネイプ先生に、今日対応した生徒たちの症状を連携するため職員室に寄るというので、先に夕食のために大広間へ向かうことにした。
長い廊下を、一人とぼとぼと歩く。窓の外はすでに深い藍色に染まり、遠くで談笑しながら歩く他の生徒たちの楽しげな声が聞こえた。
大広間での夕食は賑やかで穏やかなものだった。エレナはテーブルの隅の席で、他の教師陣ともほとんど言葉を交わすことなく、黙々と食事を口に運んだ。
始業式では多くの教師がいたが、自室で夕飯を取る先生もいるのだろう教師陣の姿はちらほらとしかいなかった。無意識に視線が向かう先には、クィレルの空席と、テーブルの反対の端で、相変わらず不機嫌そうな顔で一人食事をとるスネイプの姿があった。
夕食後、多くの教師たちは、暖炉に火が入れられた教職員用の談話室か自室と流れていく。そこは仕事の緊張から解放された彼らの、唯一の憩いの場だった。
聖マンゴでは英語が話せなくて輪に入れず、それからも人付き合いというのを諦めてしまっていたが、ホグワーツでは少しの期間であったとしても努力してみたかった。
そっと意を決して談話室の部屋の重い扉をそっと開けた。
中は温かい光と、くつろいだ話し声に満ちていた。大きな暖炉ではパチパチと火が爆ぜ、使い込まれた革の肘掛け椅子では、フリットウィック先生とスプラウト先生が、シェリー酒のグラスを片手に新しい品種の薬草について熱心に語り合っている。その和やかな輪に、どう入ろうかと思案しているとスプラウト先生がエレナの姿に気づき、優しく手招きをした。
「エレナさん、いらっしゃい。ちょうど良かったわ。こちらへ来て一杯どうかしら。今年の新作のシェリー酒よ」
「ありがとうございます。喜んで頂戴いたします」
エレナは昼間の疲れを微塵も感じさせない、完璧な微笑みを浮かべて応じた。スプラウト先生が注いでくれた琥珀色の液体が入ったグラスを受け取り、彼女が促すままに暖炉のそばの空いていた肘掛け椅子に腰を下ろす。
「スズキさん」
フリットウィック先生が、興味深そうな目で尋ねた。
「聖マンゴでご活躍だった方が、なぜまたホグワーツのインターンシップに?インターン生は初めてのことですからどんな人が来るのか、私とても楽しみにしておりました!」
キーキー声ではあったが、その優しげないい方に、エレナは事実と嘘を織り交ぜながら言った。
「最先端の医療だけでなく、魔法教育の現場での臨床経験も積みたかったのです。若い魔法使いたちが、どのように魔法と向き合い、成長していくのかを間近で見ることは、ヒーラーとして大きな学びになると考えました。」
推薦書を読み上げたような回答であったが、フリットウィック先生は怪訝な顔をしたりしなかった。「なるほど、素晴らしい探究心ですな!」と感心したように声すら上げた。
「ご出身は日本のマホウトコロという学校でしたね!成績によってローブの色が変わると聞きますが、ホグワーツとはずいぶん違いますか?」
「ええ、文化や教育方針には違いがありますわ。ホグワーツのように全寮制ではなかったので、こんなに広い学校は初めてです。」
エレナはにこやかに答えた。
「そういえばエレナさん、今日のパーキンソンさんの件、ポンフリーから少し聞きましたわ。大変だったでしょう」
スプラウト先生が会話に割って入った。
エレナは大したことはな無いフリをして首を横に振った。
「いえ、たいしたことでは。少し、驚いただけで…」
「いいえ」スプラウト先生はきっぱりと言った。「あなたの対応はとても良かった。冷静でそれでいて生徒の尊厳を傷つけない。なかなかできることではありませんよ。スリザリンの純血主義の家の子は、時としてああいう試すような態度を取りますから」
その言葉に、エレナは少し救われたような気持ちになった。スプラウト先生シェリー酒を一口飲むと、静かに続けた。
「純血の家柄を誇る生徒もいれば、一方で、彼らとは全く違う宿命を背負ってこの城に来た生徒もいる…例えば、ポッターのようにね」
ハリー・ポッターの名前が出ると、談話室の空気が変わった。教師たちの間に同情と、好奇と、そして一抹の不安が入り混じったような複雑な沈黙が流れる。
「ええ、ポッター君。実に素晴らしい才能の塊ですな!」
フリットウィック先生が、沈黙を破るように言った。
「しかし、あの年であまりに多くのものを背負いすぎている」
スプラウト先生が心配そうに呟いた。
「彼が教科書を読んでいる姿を見ているだけで、心が痛みますわ」
その会話を聞きながら、エレナは始業式の黒髪の少年の額に刻まれた稲妻形の傷を思い出した。
「スズキさんもハリーのことは知っているでしょう!」
「ええ、故郷でもニュースになっていましたから」
不憫で哀れな生き残った男の子。
彼はこの狭い魔法界で一番有名だと言っても過言ではない。フリットウィック先生はハリーの授業を担当したのか彼の様子をスプラウト先生に話して聞かせた。
「そう、普通の生徒と同じようで安心しました。」
スプラウト先生はそういうと、談話室をきょろきょろと見渡してから、息を吐くようにもう一つの懸念点を吐き出した。
「それより、クィレル先生はどうしたのかしら。どうも様子がおかしいけれど…」
スプラウト先生がぽつりと漏らした言葉に、暖炉の火がパチンと音を立てた。
エレナは、思わず手にしたグラスの縁を指でなぞった。沈黙が落ちたのは一瞬だったが、その隙間に何か鋭いものが入り込んできたような気がした。
「確かに、少し落ち着きがないように見受けられますな」
フリットウィック先生が、眉間に皺を寄せて言った。
「話しかけても上の空というか…おびえているというか、以前よりもずっと神経質に見えます」
エレナは視線を落とし、炎の揺らぎにグラスの影が揺れるのを見つめた。
「クィレル先生は、今学期から闇の魔術に対する防衛術をご担当なのですよね?」
エレナは慎重に口を開いた。
「聖マンゴの同僚が、かつて彼と一緒に話を、していたことがあると聞いておりまして…とても繊細ですが、優しい方だったと…」
「まあ、優しすぎるくらいの印象ね。生徒たちにも、あまり強く出られないようで」
スプラウト先生がそう言って眉をひそめた。
「もしかすると、何か心労を抱えておられるのかもしれませんね。」
フリットウィック先生がエレナが穏やかに言った。
「いずれにせよ、我々で少し気にかけてあげる必要がありそうですな」
フリットウィック先生の言葉に、誰も異論は挟まなかった。
談話室の空気が再び和らぎ、火の粉が柔らかな弧を描いて舞った。やがて、頃合いを見計らって、エレナは静かに立ち上がった。
「私はそろそろ、これで失礼いたします」
「ええ、明日も頑張りましょう。」
温かい言葉に見送られ、エレナは談話室を後にした。重い扉が閉まり、背後の喧騒が完全に遮断された瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
どっと、鉛のような疲労が全身にのしかかる。
部屋に戻り、鍵をかけると、ようやく一日の終わりが訪れた。
何とか朝目覚めたエレナは、シャワーを浴び髪をひとまとめにくくった。聖マンゴは激務であったため化粧をする暇などなく、化粧する習慣が消え失せてしまった。初日であるため軽く紅でも差すつもりでここに持ってきていたが、すっかりその気も失せてしまった。
自国では白いローブは落ちこぼれの印であるが、白いメディカル服は憧れの制服である。病院でテキパキと働き人を救う仕事に、幼きエレナも憧れてここまでやってきたのだ。
糊のきいた白のスラックス、メディカルウェアを身にまとった。
朝食をどこで食べるのか聞いていなかったが、まっすぐ保健室にドアの前にやってきた。鍵がかかっており開かず、そのまま職員塔に移動することにした。かなり早い時間だというのに、職員用の食堂では軽食が用意されている。おいしそうなコーンスープの香りが鼻孔をかすめ、お腹がぎゅるりとなった。
日本にいたころなら食べていいのか迷い、ルールなどを確認していたが今の彼女にはそんな繊細な心を持ち合わせていなかった。食べられるうちに食べておく、がモットーとなり、遠慮なくクロワッサンに手を伸ばした。
皿の上にジャムとクロワッサン、コーヒーを片手に一人で朝食を食べ始めた。食べ終わったころには、続々と先生方が食堂にやってきた。
「おはよう、スズキさん。初日から張り切ってますね。」
数占い学のセプティマ・ベクター先生に声をかけられ、笑顔で頷いているとマダム・ポンフリーも現れた。
「まあスズキさん。早いのね、もう朝食は食べたの?」
「ええ、目が覚めてしまって一番乗りでした。」
エレナの言葉にマダムは「次はもっと遅くても大丈夫ですよ。先に保健室で待っていてちょうだい。」と言って鍵を渡した。
「待っている間は暇でしょうから、迷子にならない程度にホグワーツを散歩でもしていてちょうだい。」
「ええ、そうします。昨晩はすぐに寝てしまいましたので。」
エレナは朗らかにうなずいて、食堂を出た。クィレルと顔を合わせるのが気まずかったので彼が来る前に、職員塔から離れることができ、一呼吸ついた。
ちらほら小さな足音が大広間に向かっているのがわかる。生徒たちは大広間で食事をとっているようだ。近くまで寄るか迷ったが、昨晩の言い争いも大広間の前での出来事だったため、足が遠のいた。
その代わり玄関ホールの大きな噴水がある空間を訪れた。ホグワーツは何もかも広く、新鮮である。朝日が大理石を照らして反射し、石像を輝かす。ホールを横切る靴音が心地よくて、わざとカツカツッと足音を鳴らして歩かせる魔法がかかっているようだ。
迷子にならない程度に散策し、朝の涼しい風を体に浴びる。こんなにすがすがしい空気にじめじめした心持ちは似合わない。
リフレッシュできたエレナが保健室に戻ると、まだマダム・ポンフリーは戻ってきていなかった。手持無沙汰であったエレナは、昨日マダムが案内した古びた戸棚を眺めて時間を潰していた。
ようやくマダムが保健室に現れた。
「スズキさん、ホグワーツでの業務内容からお伝えしなくてはね。」
マダムはそういうと、昨日は見せなかった保健室の奥の部屋を開けた。
「ここは私たちの仮眠室よ。生徒が泊まるときや、夜間時に空けておく必要があるときにここで休憩しております。」
「お一人で夜間対応もされていたのですか?」
エレナの驚い声にプロとしての自負がくすぐられたのか、マダムはふふっと笑った。
「保険医は私一人でしたからね。今回ダンブルドア経由でインターンの申し込みがあったとお話を聞いて、飛び上がるほどうれしかったのです。生意気な…おっと口が滑りました。日中生徒たちの相手をしてから夜も対応すると寝不足になりがちで」
「これからは私もおります。」
「ええ、とても期待しています。といっても泊まり込みになる生徒は年に数回程度。緊急診療が必要な生徒がごくまれに訪れる程度です。」
仮眠室はパイプベットではなく、木製のしっかりしたベットであった。側には最低限の椅子と机しか置いておらず、窓もついていない薄暗い部屋だった。
その部屋のドアを閉め、反対側にある扉のない小部屋にエレナを案内した。そこには大釜にまな板、包丁、フラスコ、薬草などの裁量が入っているであろう棚が置いてあった。
「保健室で提供する魔法薬はほとんどがスプラウト先生や外部に発注した材料を用いて、魔法薬学のスネイプ先生に作成頂くことが多いです。ですが、ここ保健室でも調合し生徒に使用します。スズキさんもマンゴで実践済みでしょう。」
「はい、簡単なものであれば。」
エレナの言葉に満足げにうなずくと、マダムはベットが並ぶメインホールに戻った。
「壁際の棚にはすべて魔法薬が入っています。生徒が開けられないよう鍵をかけておりますが、スズキさんはまずどこにどの薬品が入っているか頭に叩き込んでください。それから在庫整理の基本業務から任せいていきましょう。」
マダムのまずは城のやり方に慣れさせる方針に納得したエレナは、了承の言葉を述べようとしたその時。
バァン!
とエレナを遮るかのように保健室の扉が、わざとらしいほど大きな音を立てて開かれた。スリザリンのローブを身に纏った女子生徒が、つんと顎を突き出して立っている。彼女は、レースのハンカチでそっと押さえた腕を、これ見よがしにマダムとエレナの前に突き出した。
「見てちょうだい、この火傷!今朝の朝食の時よ、バカなクラップが無神経にぶつかってきて、熱い紅茶がかかったの!最悪だわ。マダム・ポンフリーに診てもらいたいの!」
その声は甲高く、被害を訴えるというよりは、自分の不運を周囲に知らしめるための芝居がかった響きを持っていた。エレナがちらりとマダムに視線をやると、彼女はそれくらいあなたに任せるわとでも言いたげに顎で指示した。
「私が見ますので、こちらへどうぞ」
エレナは初めての生徒に少し緊張しながらも、努めて感情を排した声で応じ、診察用の椅子を指した。
パンジーは、値踏みするようにエレナをじろじろと見ながら、しぶしぶ椅子に腰掛けた。
「保険医の名前はポンフリーだって聞いたけど…あなたがそうなの?」
エレナがアジア人で若いため心配になったのだろう。エレナはこの少女が新一年生でホグワーツ初日であるのだと察した。
「いいえ、私はエレナ・スズキです。今回は私に診させてもらいます。」
紅茶がかかったくらいのやけどであれば、呪文ですぐに治るだろう。
「あなたで本当に大丈夫なの?スズキ…って、あまり聞かない名前ね。どこのご出身なのかしら」
その問いは、純粋な好奇心からではない、相手の出自を探り格付けしようとする意図を含んでいた。こんな小さな女の子からそんな言葉が出てくることに驚きを感じながらも、表情を動かさずに穏やかに答えた。
「東の国からです。さあ、腕を見せてください」
エレナは彼女の腕を取った。見ると、皮膚がわずかに赤くなっているだけのごく軽い火傷だった。簡単な治療呪文で治るだろうが、跡が残ると彼女は一生気にするだろう。エレナはマダムに「アロエとディジーリーフが練りこまれた軽いやけど用の軟膏はありますでしょうか」と尋ねた。
自分で調合した軟膏はあるが、生徒に使用する許可を得ていない。マダムは「ありますよ。」と答えて、棚から丸い缶を取り出した。
エレナはそれを受け取り、白く小さな腕に塗り込んでいった。
「へえ、東の国。ずいぶん遠いのね」
少女は治療される間も、探るような視線をやめなかった。
「では、あなたのご両親は?もちろん、魔法使いなんでしょうね?それとも…まさか」
言葉の最後に含まれた侮蔑の響きに、エレナは治療する手をぴたりと止めた。そして、穏やかに、しかし決して視線を逸らさずに生意気な生徒の目を見つめ返した。
「ここは保健室です。あなたの治療に関係のない質問は、少しだけ控えてくださるかしら」
エレナの声は静かだったが、その奥には揺るぎない芯があった。
「人の出自を尋ねるのは、あまり礼儀正しいことではないのよ。」
一瞬、女子生徒の意地悪な顔が、不意を突かれたような表情を浮かべだ。彼女はこの新任のヒーラーが、もっとうろたえたり、へりくだったりするとでも思っていたのだろう。すぐに彼女はふんと鼻を鳴らした。
「別に、ただ聞いただけでしょ。もういいわ、こんなもの!」
治療が完全に終わるのも待たずに椅子から立ち上がると、取り巻きたちに目配せをし、わざと大きな足音を立てて保健室から出て行った。
後に残されたのは、気まずい静寂とアロエの匂いだけだった。エレナは、少女が残していった棘のある言葉が自分の心に深く突き刺さっているのを感じた。どこへ行っても、同じなのだ。彼女は、マダムには聞こえないように、諦めの混じった深いため息を呼吸するついでに吐き出した。聖マンゴでも見えない壁のように存在した、アジア人であることへの差別的な視線。それは、慣れることのない鈍い痛みとして、常に彼女の心の中にあった。
「スズキ、今のは気にすることは無いわ。それと、魔法薬の選び方は問題なかったわ。貴方には手取り足取り教えるより、実践で教えていく方が良いかもしれなわね。」
マダムからの優しい言葉にエレナは微笑んだ。こんなことで傷ついていては心が持たない。どうにか気持ちを切り替え、ヒーラーとしての仮面を再び被った。
「先ほどの子はおそらく、パンジー・パーキンソンね。スリザリンの一年生で差別的な思想を持っている少女なら、神聖二十八家の子の一人でしょうし。」
マダムは今年の入学者リストを眺めながら言った。
「神聖二十八家とはなんですか?」
「ああ、英国魔法界の中でも特に純血性を守っているとされた家系のことよ。古い価値観を持った人々ですから、貴方は気にしなくていいのよ」
マダムはそう言ってくれたが、エレナはあいまいにほほ笑むしかなかった。
故郷では本家か分家かの違いで軋轢があったが、ここでは血がより重要視されるらしい。
エレナはめげずに残りの業務を淡々とこなしていった。ここには新米ヒーラーは一人しかいないため、マダムの監視の下、シーツの取り換えに洗濯、掃除、杖を一振りして問題なく作業が完了する様子を確認しながら、パンジー・パーキンソンのカルテを作成する。彼女に出した治療薬と対処を事実だけ記すようにしてマダムに確認してもらう。
待っている間、机の上にある小さな鏡に映る自分の顔が見えた。ひどく疲れて見えていた。「しっかりしなさい、エレナ」彼女は自分に言い聞かせた。「あなたはヒーラーでしょう。感傷に浸っている暇はないのよ」と。
カルテを読み終えたマダムは満足そうに「問題ないわ」とうなずていてくれた。聖マンゴの時と違うのは、上司が優しくて業務内容に対して認める言葉をかけてくれる点だろう。
それから、最初にマダムが言っていたように、戸棚にある薬品の名前と場所を一覧化できるように羊皮紙に書き写しながら、静かな保健室で生徒が来るのをひたすら待った。
「意外と生徒さんは保健室に来ないのですね。」
聖マンゴではひっきりなしに患者がやってきた。
「今日は初日だからよ。みんな気を引き締めて授業に臨んでいるけれど、明日からすぐに生徒がやってくるわ。」
誰も来ない保健室でマダムが食堂から持ってきたサンドイッチを食べ、モップと脱水機に掃除をするよう魔法かける。
「マダム、いつも保健室は何時から何時まで開けていらっしゃるんですか?」
ポンフリーが作成する新入生のカルテ作成をダブルチェックしながら問いかけた。振り分けられた寮の一覧と持病があるかどうか保護者からの手紙内容を見比べながら、ポンフリーの記入箇所を確認していた。
「朝は8時半、夜は生徒の就寝時刻までです。」
「かなり拘束時間が長いんですね。」
一人で保険室を運営していく割にはかなり長時間である。
「ええ、ですが私も夜ご飯やお風呂のために戻ったりするので、一日中保健室いるわけではないのですよ。」
「では、マダムが離席されるときは私が保健室にいる様にすればよろしいですね。」
エレナは聖マンゴの業務内容のように、シフト制になるのかと提案したがマダムは少し驚いたようにかぶりを振った。
「いいえ、必ず保健室に誰かがいなければならないということではないのです。そうであるならば、保健医が私一人なはずがありませんよ。」
その言葉に少しにやっと笑ったエレナは、納得して頷いた。
「ええですが、せっかくインターンとして私がいるのですから、遠慮なく使ってください。」
「あら、そう言ってくれるならそうしましょうか。」
それからマダムと一日おきに夕方17時から就寝時刻までは保健室の締め作業をおこなうことで合意した。
カルテの作成が終わったころに、左腕から顔を半分まで大きなおできで膨れ上がった生徒がやってきた。
「すみません、ぼく、魔法薬学の授業で失敗しちゃって」
マダムは彼の姿を見たとたん、何の魔法薬を被ったのかすぐに分かったらしい。彼を椅子に座らせるようエレナへ指示を出すと治療薬を取りに棚まで取りに行った。
「そこに座って、痛むかしら?どんな薬を作成していたかわかる?」
赤いネクタイを結んだ少年を落ち着かせるように、彼のシャツを脱がせる。シャツが魔法薬から皮膚にかかるのを守ってくれたおかげで、左手と顔半分に左耳だけにしか症状が出ていない。
「おでき治療薬を作ってて、ぼく、大鍋を火から下ろすのを忘れてて、ヤマアラシの針を入れちゃって、すごくひりひりするんです。」
「だと思いました。数年に一回失敗する生徒がいるので、エレナもこの症状を見ておくといいでしょう。」
手に治療薬を持ったマダムが現れ、筆で液体を湿らせると彼のおできたちの上にするすると滑らせていく。
おできがぷくっーという音とともに空気が抜け、徐々に小さくなっていった。おできのせいで視界が遮られていたが、徐々に明瞭になっていったため、少年の顔は安心したかのように半べそから笑顔に変わっていった。
少年は目の前にいるエレナを見ると、目をぱちくりとさせた。アジア系はここでは珍しいのだろう。
「グリフィンドールの生徒ね。名前は?」
「あ、ネビル・ロングボトムです。」
彼の名前を羊皮紙に書き写す。
「さあ、もう大丈夫でしょう。」
ガーゼでおできがあった場所を拭ったマダムは、完璧に元に戻った肌をみて満足そうにつぶやいた。
「授業に戻って大丈夫よ。さあ、いきなさい。」
まだ医務室に居座りたそうにしていたネビルだったが、マダムに急かされて保健室から出ていった。
マダムが完璧なおでき治療薬の場所をエレナに教え、ネビルのカルテを作成し始めた。
マダムが使用した治療薬をもとの場所に戻しながら、そういえばトムと同じくらいの年齢であったのに、ヴィジョンが見えなかった。ビジョンが見えた理由は年齢と性別が原因ではないらしい。
それから長い一日がようやく終わり、最後の薬瓶を棚に戻したエレナは、保健室の扉に鍵をかけた。
マダムはマクゴナガル先生とスネイプ先生に、今日対応した生徒たちの症状を連携するため職員室に寄るというので、先に夕食のために大広間へ向かうことにした。
長い廊下を、一人とぼとぼと歩く。窓の外はすでに深い藍色に染まり、遠くで談笑しながら歩く他の生徒たちの楽しげな声が聞こえた。
大広間での夕食は賑やかで穏やかなものだった。エレナはテーブルの隅の席で、他の教師陣ともほとんど言葉を交わすことなく、黙々と食事を口に運んだ。
始業式では多くの教師がいたが、自室で夕飯を取る先生もいるのだろう教師陣の姿はちらほらとしかいなかった。無意識に視線が向かう先には、クィレルの空席と、テーブルの反対の端で、相変わらず不機嫌そうな顔で一人食事をとるスネイプの姿があった。
夕食後、多くの教師たちは、暖炉に火が入れられた教職員用の談話室か自室と流れていく。そこは仕事の緊張から解放された彼らの、唯一の憩いの場だった。
聖マンゴでは英語が話せなくて輪に入れず、それからも人付き合いというのを諦めてしまっていたが、ホグワーツでは少しの期間であったとしても努力してみたかった。
そっと意を決して談話室の部屋の重い扉をそっと開けた。
中は温かい光と、くつろいだ話し声に満ちていた。大きな暖炉ではパチパチと火が爆ぜ、使い込まれた革の肘掛け椅子では、フリットウィック先生とスプラウト先生が、シェリー酒のグラスを片手に新しい品種の薬草について熱心に語り合っている。その和やかな輪に、どう入ろうかと思案しているとスプラウト先生がエレナの姿に気づき、優しく手招きをした。
「エレナさん、いらっしゃい。ちょうど良かったわ。こちらへ来て一杯どうかしら。今年の新作のシェリー酒よ」
「ありがとうございます。喜んで頂戴いたします」
エレナは昼間の疲れを微塵も感じさせない、完璧な微笑みを浮かべて応じた。スプラウト先生が注いでくれた琥珀色の液体が入ったグラスを受け取り、彼女が促すままに暖炉のそばの空いていた肘掛け椅子に腰を下ろす。
「スズキさん」
フリットウィック先生が、興味深そうな目で尋ねた。
「聖マンゴでご活躍だった方が、なぜまたホグワーツのインターンシップに?インターン生は初めてのことですからどんな人が来るのか、私とても楽しみにしておりました!」
キーキー声ではあったが、その優しげないい方に、エレナは事実と嘘を織り交ぜながら言った。
「最先端の医療だけでなく、魔法教育の現場での臨床経験も積みたかったのです。若い魔法使いたちが、どのように魔法と向き合い、成長していくのかを間近で見ることは、ヒーラーとして大きな学びになると考えました。」
推薦書を読み上げたような回答であったが、フリットウィック先生は怪訝な顔をしたりしなかった。「なるほど、素晴らしい探究心ですな!」と感心したように声すら上げた。
「ご出身は日本のマホウトコロという学校でしたね!成績によってローブの色が変わると聞きますが、ホグワーツとはずいぶん違いますか?」
「ええ、文化や教育方針には違いがありますわ。ホグワーツのように全寮制ではなかったので、こんなに広い学校は初めてです。」
エレナはにこやかに答えた。
「そういえばエレナさん、今日のパーキンソンさんの件、ポンフリーから少し聞きましたわ。大変だったでしょう」
スプラウト先生が会話に割って入った。
エレナは大したことはな無いフリをして首を横に振った。
「いえ、たいしたことでは。少し、驚いただけで…」
「いいえ」スプラウト先生はきっぱりと言った。「あなたの対応はとても良かった。冷静でそれでいて生徒の尊厳を傷つけない。なかなかできることではありませんよ。スリザリンの純血主義の家の子は、時としてああいう試すような態度を取りますから」
その言葉に、エレナは少し救われたような気持ちになった。スプラウト先生シェリー酒を一口飲むと、静かに続けた。
「純血の家柄を誇る生徒もいれば、一方で、彼らとは全く違う宿命を背負ってこの城に来た生徒もいる…例えば、ポッターのようにね」
ハリー・ポッターの名前が出ると、談話室の空気が変わった。教師たちの間に同情と、好奇と、そして一抹の不安が入り混じったような複雑な沈黙が流れる。
「ええ、ポッター君。実に素晴らしい才能の塊ですな!」
フリットウィック先生が、沈黙を破るように言った。
「しかし、あの年であまりに多くのものを背負いすぎている」
スプラウト先生が心配そうに呟いた。
「彼が教科書を読んでいる姿を見ているだけで、心が痛みますわ」
その会話を聞きながら、エレナは始業式の黒髪の少年の額に刻まれた稲妻形の傷を思い出した。
「スズキさんもハリーのことは知っているでしょう!」
「ええ、故郷でもニュースになっていましたから」
不憫で哀れな生き残った男の子。
彼はこの狭い魔法界で一番有名だと言っても過言ではない。フリットウィック先生はハリーの授業を担当したのか彼の様子をスプラウト先生に話して聞かせた。
「そう、普通の生徒と同じようで安心しました。」
スプラウト先生はそういうと、談話室をきょろきょろと見渡してから、息を吐くようにもう一つの懸念点を吐き出した。
「それより、クィレル先生はどうしたのかしら。どうも様子がおかしいけれど…」
スプラウト先生がぽつりと漏らした言葉に、暖炉の火がパチンと音を立てた。
エレナは、思わず手にしたグラスの縁を指でなぞった。沈黙が落ちたのは一瞬だったが、その隙間に何か鋭いものが入り込んできたような気がした。
「確かに、少し落ち着きがないように見受けられますな」
フリットウィック先生が、眉間に皺を寄せて言った。
「話しかけても上の空というか…おびえているというか、以前よりもずっと神経質に見えます」
エレナは視線を落とし、炎の揺らぎにグラスの影が揺れるのを見つめた。
「クィレル先生は、今学期から闇の魔術に対する防衛術をご担当なのですよね?」
エレナは慎重に口を開いた。
「聖マンゴの同僚が、かつて彼と一緒に話を、していたことがあると聞いておりまして…とても繊細ですが、優しい方だったと…」
「まあ、優しすぎるくらいの印象ね。生徒たちにも、あまり強く出られないようで」
スプラウト先生がそう言って眉をひそめた。
「もしかすると、何か心労を抱えておられるのかもしれませんね。」
フリットウィック先生がエレナが穏やかに言った。
「いずれにせよ、我々で少し気にかけてあげる必要がありそうですな」
フリットウィック先生の言葉に、誰も異論は挟まなかった。
談話室の空気が再び和らぎ、火の粉が柔らかな弧を描いて舞った。やがて、頃合いを見計らって、エレナは静かに立ち上がった。
「私はそろそろ、これで失礼いたします」
「ええ、明日も頑張りましょう。」
温かい言葉に見送られ、エレナは談話室を後にした。重い扉が閉まり、背後の喧騒が完全に遮断された瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
どっと、鉛のような疲労が全身にのしかかる。
部屋に戻り、鍵をかけると、ようやく一日の終わりが訪れた。
