第2章 賢者の石
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ホグワーツの大広間は、想像よりもずっと広くてとても好きなホールだった。高い天井には、魔法によって再現された夜空が広がり、数えきれないほどの星々が、まるで手の届きそうなほど近くで瞬いている。時折、銀色の尾を引いて流れ星が横切り、そのたびにエレナは感嘆のため息が漏れた。壁際には、城の紋章が刺繍された巨大なタペストリーが何枚も掲げられ、その下では巨大な松明がこうこうと燃え盛り、ホール全体を黄金色の温かい光で満たしていた。長く磨き上げられた教職員テーブルの上には、金色の食器やクリスタルのゴブレットが整然と並べられ、それらが松明の光を反射して、きらきらと宝石のように輝いている。もう間もなく、ホグワーツ魔法魔術学校の新学期の始まりを告げる、盛大な始業式の宴が幕を開けようとしていた。
エレナはマダム・ポンフリーに促され、教職員テーブルの端へと案内された。そこは、大広間全体を見渡せる良い席だった。
「さあ、スズキさん、ここがお席ですわ。隣はシニストラ先生ね」
マダム・ポンフリーはそう言うと、エレナの隣に腰かけた。シニストラ先生はホグワーツの中でもまだ若い女性(周りが年齢不詳の魔法使いのため30台後半ぐらいの先生が自分と同い年のように錯覚させる)が席に着いた。
斜め前に座っていた小柄なフィリウス・フリットウィック先生が、満面の笑みで振り返った。彼は、職員室では見かけなかったが、呪文学の教師であるとマダムがそっと耳打ちしてくれた。
彼の背丈はエレナの半分ほどであったが、声は驚くほど高く、そしてエネルギッシュだった。
「おお、噂のインターン生であるスズキさん!お会いできて光栄ですぞ!もう校長先生とのお話はされましたかな?されたのですな!あの方は時折、我々凡人には想像もつかないような、深遠な知恵を授けてくださいますからな。わたくしなども、若い頃はよく教えを乞うたものです。それに髭に豆がついていたの気付きましたか?」
フリットウィック先生は、高い声で早口でまくしたてたため、「ま、豆ですか?」と他の教師人のような丁寧なあいさつもできず、頭の中は銀色の髭についた黄色い豆を想像していた。
ついていなかったような気がするが、残念ながら緊張してすぐに思い出せそうにない。
「まあ先生。貴方がからかうだなんて珍しいことでもあるものですね。」
マダム・ポンフリーが驚いた声を上げながら正解を答えた。
「あはは、見るからに緊張しているご様子でだったので、らしくもないことをしてみました!」
小さな教授は朗らかに答えて、愛居のあるウインクを投げかけた。
話しかけてきた。彼は、普通の椅子ではテーブルに届かないためか、何冊もの分厚い本を積み重ねたものの上にちょこんと座っている。
「でも、ダンブルドア校長先生のお言葉は、とても…示唆に富むものでした。まだ、その全てを理解できたわけではありませんが」
エレナは、フリットウィック先生の気さくさに少し緊張を解きほぐされながら、微笑んで答えた。
「ふむ、それがダンブルドア校長の言葉は、時間をかけてゆっくりと味わうものなのですよ。ところで、ホグワーツの雰囲気はいかがかな?聖マンゴとは、また随分と違うでしょう」
「はい、何もかもが新鮮で、ようやく英国魔法界に足踏み入れた実感がわきました。このような素晴らしい場所で学べる生徒さんたちが、少し羨ましいくらいです」
「はっはっは、それは嬉しいことをおっしゃる!スズキさんのような若いヒーラーが我々の仲間に加わってくださったこと、生徒たちにとっても心強い限りでしょうな!」
すると、テーブルの向こうから、野太く、しかし温かみのある声がした。
「おお、あんたが新しいヒーラー先生か!いやあ、ずいぶん若いなぁ」
2メートルはあるだろうか、身体の大きな男がずんと見下ろしながら声をかけてきた。
「おれはルビウス・ハグリッド。ホグワーツの森番だ!」
声の主は、その体に見合った大きな声で、もじゃもじゃの黒髪と髭に覆われた顔は熊のように優しげだ。彼が身に着けているモグラの皮のコートは、あちこちが擦り切れ、様々な動物の毛が付着しているように見える。
職員室では見かけなかったのは、森の手入れか何かで忙しかったのだろう。
「初めまして、ハグリッドさん。エレナ・スズキです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
エレナは、その巨体に少し驚きながらもぺこりと頭を下げた。
「いやあ、“さん”なんてがらじゃねえよ。ハグリッドでいい。マダム・ポンフリーから、あんたのことは聞いとる。聖マンゴで、そりゃあすご腕のヒーラーだったってな。わしんとこの魔法生物たちも、時々怪我したり病気になったりするから、その時は頼むかもしんねえな。ファングなんかも、最近ちょっと食欲がなくてよ…」
ハグリッドは、大きな手で頭を掻きながら、少し心配そうに言った。ファングとは彼が飼っているイノシシか鹿の名前だろうか。彼の巨体から猫だとは思えなかった。
「私はまだ見習いなのでお力添えできるか怪しいですが、私にできることがあれば、いつでもお声がけください」
エレナはにこやかに答えた。動物の治療もヒーラーの心得の一つであるが、まだ経験が少ない。
きらびやかな宴の雰囲気に、エレナは少しずつ慣れてきたものの、心のどこかではまだ緊張が解けていなかった。これから始まるホグワーツでの仕事や生活、そして何よりもクィリナス・クィレルのこと。
彼はいるのだろうか。職員室にも、先ほど大広間を見渡した時にも彼の姿は見当たらなかった。もしかしたら、ホグワーツに到着していないのかもしれない。できるだけ期待はしないように心づもりはしていたが、どうしても気になってしまう。
エレナは、周囲の教師たちとの会話に相槌を打ちながらも、無意識のうちに大広間の入り口の方へと視線を送っていた。
その時だった。ふと、教職員テーブルのかなり端の方、フリットウィック先生よりもさらに数人先に、特徴的な後ろ姿が視界に入った。紫のターバンを巻いており、少し猫背気味のシルエットにどこか神経質そうな肩のライン。いや、違う?でも間違いない。彼だ。クィリナス・クィレルである。彼も再び同僚として、このホグワーツの教職員テーブルに着席していたのだ。
エレナの心臓が喜びと安堵、そしてほんの少しの戸惑いで、早鐘のように高鳴り始めた。彼もこちらに気づいてくれるだろうか。どんな顔をして、どんな言葉をかけてくれるだろうか。最後に会った時から数週間しか経っていないはずなのに、彼の後ろ姿は、以前よりも少し痩せて、頼りなげに見える。
そして頭には、以前は決して見ることのなかった、紫色の大きなターバンが巻かれていた。そのターバンは、大広間の華やかな雰囲気の中にあっても、どこか場違いで不自然な印象を与えている。彼の青白い顔色と相まって、奇妙な違和感を醸し出していた。
クィレルもまた、ほぼ同時にエレナの存在に気づいたようだった。彼が何気なくこちらに視線を向け、その目がエレナの姿を捉えた瞬間、彼の顔には驚愕の色が浮かんだ。そして、その驚愕はみるみるうちにまるで何か恐ろしいもの、信じられないものを見たかのような、明らかな動揺へと変わっていった。
エレナは、クィレルの反応に戸惑いながらも、抑えきれない喜びと驚きで、彼に小さく手を振ろうとしていた。片手がスッと肩あたりまで上がりきろうとする前に、彼女の伸びた指が丸まり握り拳になって膝まで落ちていった。
何故ならクィレルの青白い顔が一層青ざめ、大きな目が恐怖に染まったかのように見開き、そして次の瞬間には、まるで逃げるように慌てて視線を逸らしてしまったからだ。クィレルは、エレナの存在そのものが耐えられないとでもいうように、二度とこちらに視線を合わせようとはせず、まるで石像のように硬直してしまった。
ちょうどその時、大広間の重厚な扉が再び大きく開かれ、魔女らしい魔女であるマクゴナガル先生(マダム・ポンフリーが耳打ちして教えてくれた)に引率された新入生の一団が、緊張した面持ちでホールへと入ってきた。生徒たちの到着と共に、組分けの儀式が始まろうとしていた。エレナの心は、クィレルの態度への困惑と、手紙を受け取っておらず、押しかけてきた元パートナーの存在にうんざりだと感じているのかもしれない恐れで、楽しみにしていた式があっという間に霞んでしまった。
すぐ目の前で繰り広げられようとしている厳粛な儀式への視線を向けつつも、胸中は複雑に揺れ動いていた。
マクゴナガル先生が、四本脚の背の高い木製スツールと、古びて汚れた組分け帽子を教職員テーブルの前に運んだ。準備を整えると、ホールは水を打ったように静まり返った。全ての視線がその古びた帽子へと注がれる。やがて、帽子のつばの裂け目が口のように開き、しわがれた、しかし力強い歌声がホールに響き渡った。
突然のことに驚いたエレナは、ただ眺めていた式典が、ぱっと鮮やかに視界に入り込み、先ほどの出来事を忘れることができた。
帽子が歌いだすなんて、やはり英国文化は違うのだと感心している間に歌が終わってしまい、ホールは盛大な拍手に包まれた。そして、マクゴナガル先生が羊皮紙の巻物を広げ、新入生の名前を一人ずつ呼び上げ始めた。
「アボット、ハナ!」 「ハッフルパフ!」
「ブート、テリー!」 「レイブンクロー!」
エレナは、目の前で繰り広げられる組分けの儀式に意識的にを集中させた。先ほど起きたことは考えないように必死であった。どうやらホグワーツでは一年次から4つの寮に組み分けされるらしい。各寮のモチーフとなると動物と4色に色分けされているのは日本の魔法学校ーマホウトコローと違いとても新鮮だった。
「グレンジャー、ハーマイオニー!」 「グリフィンドール!」
利発そうな少女がグリフィンドールに決まり、歓声が上がる。エレナも思わず拍手を送った。
「マルフォイ、ドラコ!」 「スリザリン!」
傲慢そうな少年がスリザリンに決まり、緑ネクタイをした少年少女が歓声を上げる。そして、ついにその名前が呼ばれた。
「ポッター、ハリー!」
その瞬間、大広間は再び静まり返り、やがてあちこちから「あのハリー・ポッターか?」という囁き声が起こった。エレナも、その名前に、そして額の稲妻形の傷を持つその少年に、強い興味を惹かれた。
この少年が、あのヴォルデモート卿を退けたというのか。ヒーラーとして、その傷跡が持つ意味や彼の健康状態にも関心があった。彼を眺める視界の端にまたクィレルの姿をとらえた。
彼は、ハリー・ポッターの名前が呼ばれた際、特に何の反応も示していないような素振りだったが、彼の視線はハリーを捉えていた。
ハリー・ポッターが、長い葛藤の末にグリフィンドールに組分けされると、ホールは割れんばかりの歓声に包まれた。エレナも、その歴史的な瞬間に立ち会えたことに力強く拍手を送った。だが、その興奮の最中でも、エレナの心の片隅では、クィレルへの不安が暗い影のように染みついたままだ。
組分けの儀式が終わり、ダンブルドア校長の短い挨拶の後、テーブルの上には魔法のように豪華な食事が現れた。生徒たちの歓声がホールに響き渡り賑やかな宴が始まった。 エレナも、目の前に並べられた美味しそうなローストチキンやポテトに手を伸ばしたが、どうしても食事が喉を通らなかった。クィレルのことが気になって、味がほとんどしないのだ。
彼は、先ほどから一度もこちらを見ようとせず、うつむいたまま、時折神経質そうに紫色のターバンに手をやっている。その姿は、エレナの知っている快活で優しいクィレルとは似ても似つかない、まるで何かに怯える小動物のようだった。
彼は、宴の間中、ほとんど食事に手を付けず、時折カボチャジュースを一口飲むだけで、ひたすら周囲の喧騒から身を隠すように縮こまっていた。そして、頑なにエレナと目を合わせようとはしなかった。
エレナは、何度か彼に視線を送ったが、彼はそれに気づかないふりをするか、あるいは気づいていても意図的に無視しているかのようだった。 エレナの胸は、裏切られたような、いや彼への深い心配が勝った。仕事と私生活の態度が変わる魔法使いはたくさんいるが、 エレナに対しては個人的な事情に違いない。ホグワーツに来たことが彼にとって負担だったのかもしれないと、 エレナは己を責めるしかなかった。
「お口にはあいませんでしたか?」
食事が終わり、デザートもほとんど食べ終わった頃、シニストラ先生がそっと声をかけた。
「いえ、そんな、すごく美味しかったです。ただ緊張して...」
エレナが日本人だという理由で堅物で真面目な印象が先行していたのだろう。それ以上深く追及はせずにただロゼワインを注いだゴブレットを差し出した。
ダンブルドアが号令をかけると、生徒たちがそれぞれの寮監に引率されて大広間を後にしていく。教師たちも、それぞれに談笑しながら席を立ち始めた。エレナは、彼に話しかけるチャンスだと思った。このままでは、気になって眠れそうにない。 クィレルが、他の教師たちよりも一足早く、しかしどこか落ち着かない様子で席を立ち、そそくさと大広間から出て行こうとするのが見えた。
「スズキさん、他の先生方と一緒に職員室に戻りましょう。」
「え、あ、はい!行きます!」
心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、ポンフリーの言葉にうなずいた。
多くの教師陣が戻った職員室で始業式後の簡易的なミーティングが始まった。
「さて、本年度よりクィレル先生が闇の魔術に対する防衛術を教えられる。」
ダンブルドアより紹介されたクィレルはおどおどと頭を下げた。ターバンを巻いた男にささやかな拍手が送られる。教師陣は顔には出さなかったが、彼のあまりの変わりように驚きを飛び越えて、煙たがられているようだった。
「また、インターンとしてエレナ・スズキさんがヒーラー業務に携わる。」
「よろしくお願いいたします。」
エレナに対しても拍手が送られた。
ダンブルドアより教師陣に一言告げられてからすぐにミーティングはお開きとなり、 エレナほとんどの教師陣には挨拶し終わっているため自室に戻って良いと許可が出た。
「部屋まで戻れますか?」
マダムが新任ヒーラーに声をかける。彼女は不安は残るものの急いで捕まえたい男がいたため、問題ないと頷いた。
多くの教師陣が職員棟にある自室に戻っていく中、クィレルの後を追いかけた。幸いなことに、彼は保健室に戻る道のりで後ろ姿を見かけることができた。
「クィリナス!」
大広間の出口近く、巨大な砂時計が並ぶ廊下の手前でようやく彼に追いつき、声を震わせながら呼び止めた。
クィレルは、まるで背後から悪霊にでも呼び止められたかのように、びくりと肩を大きく震わせ、狼狽した様子でゆっくりと振り返った。その顔は蒼白で大きな瞳は左右に揺れ視線が交わらない。紫色のターバンの下からは冷や汗が滲んでいるように見えた。
「あ、う、エレナ…き、君、な、な、何の用だね…わ、わ、わたくしは、こ、これから、い、急ぎの、よ、用事があってだね…」
彼の声はほとんど囁きに近く、言葉の節々がひどくどもり震えていた。
「…あなたに会いに来たの。手紙は受け取った?クィリナス。ホグワーツで働くことになるって連絡したつもりだったんだけど、もし受け取ってなかったら、その、驚いたかなって…」
エレナは、できるだけ言葉を選びながら話を切り出した。彼のあまりの変貌ぶりにショックを受けていても、彼は彼だ。
「れ、連絡をくれていたのは気づかず、そ、その、な、何も…た、ただ、わ、わたくしは、き、君とは、も、もう、か、関わりを、も、持ちたくない、そ、それだけだ…」
彼は気づいてなかったと言いかけたにもかかわらず、あえてエレナを傷つける発言をした。エレナはそれまで耐えていた悲しみが怒りに変わるのを感じていた。
「関わりを持ちたくないですって?どういうことなの、クィリナス?ちゃんと言って、他に好きな人ができたとでも言えばいいじゃない。」
エレナの声は震えていた。
「あ、あれは、す、すまない。いいから、全て、ま、間違いだったのだ…わ、忘れてくれ…」
クィレルは、エレナの真っ直ぐな視線から逃れるように目を伏せ、苦しげに顔を歪めた。まるで汚物でも振り払うかのように、エレナを避け、踵を返すとほとんど駆け出すような勢いで薄暗い廊下の闇の中へと姿を消してしまった。その逃げ去る後ろ姿は、あまりにも哀れで、そしてエレナにとっては絶望的だった。
「クィリナス…」
一人取り残されたエレナは、彼の最後の言葉と、その拒絶の態度に心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような、鈍い痛みを感じ、大広間の出口近くで呆然と立ち尽くした。
喜びの再会…とまではいかないものの、きちんと大人同士話が合いで友人関係に戻れることを想像していたのに。待っていたのは、かつての恋人からの冷酷な拒絶と、得体の知れない恐怖に怯える変わり果てた姿だった。
涙が、知らず知らずのうちに頬を伝い、足元にぽたぽたと染みを作っていく。周囲は静かで、泣いていてもバレないだろう。ずずっと鼻をすすりながら、ポケットから鼻かみ用の硬いティッシュを取り出した。
その時だった。
すぐ近くでわざとらしくもない、しかしはっきりとした咳払いが聞こえた。 エレナが、涙でぼやけた視線を後ろに向けると、そこには、いつの間にか一人の男が立っていた。
黒一色の体にぴったりと沿うような仕立ての良いローブを身に纏い、脂ぎった黒髪を肩まで伸ばした、鷲鼻が特徴的な長身の男。始業式の宴の間、教職員テーブルの端の方で、クィレルの隣にいた気がする。誰ともほとんど言葉を交わさず、冷徹な観察者のように周囲を見渡していた男だった。
彼の顔には何の表情も浮かんでいなかった。ただ、その薄い唇の端が、ほんのわずかに皮肉な形に歪んでいるように見えなくもない。そして、その黒曜石のように冷たく光る瞳が、エレナの顔を値踏みするように、しかしあからさまな敵意は見せずに、静かに見比べていた。
「新任の、スズキ、だったかな」
名乗らずともまだ挨拶をしていない魔法薬学の教授、セブルス・スネイプであることははっきりわかった。彼の声は低く、抑揚がなく、まるで古井戸の底から響いてくるかのようだった。その声には、フリットウィック先生のような陽気さも、ハグリッドのような温かさも、そしてダンブルドア校長のような包容力も全く感じられない。ただ、どこまでも冷たく、乾いた響きがあった。
「ホグワーツの夜は、いささか…刺激が強すぎたようだね。いささか取り乱されているご様子と見受けるが」
その言葉は、直接的な非難ではなかったが、エレナの今の状態を的確に、そしてどこか見下すように指摘しており、エレナは不意を突かれた思いと、自分の弱さを見透かされたような羞恥心で、顔がカッと熱くなるのを感じた。
「スネイプ先生…でいらっしゃいますか」
エレナは、何とか平静を装おうと、震える声を押さえつけながら問いかけた。
「申し訳ありません、少し…気分が優れなくて」
「ほう。気分が優れん、か」
スネイプは、エレナの言葉をゆっくりと反芻するように繰り返し、その黒い瞳をほんの少しだけ細めた。その視線は、エレナの心の奥底までを探ろうとしているかのようで、エレナは居心地の悪さを感じた。
「クィレル先生とは、旧知の仲であったと見える。彼は少々…人見知りをするというか、神経質な質でね。特に、新しい環境では、些細なことで動揺しやすいのかもしれん」
その言葉には、クィレルを擁護するような響きは全くなく、むしろ、彼の性格的欠陥を冷静に分析しているかのような、奇妙な客観性が含まれていた。そして、エレナとクィレルの関係を「旧知の仲」と断定したことに、エレナは微かな驚きを覚えた。
この男は、短時間のうちに、一体どこまで見ていたのだろうか。
「クィレル先生は…少し、お疲れのようでしたから」
エレナは、何とか言葉を絞り出した。
「お疲れ、か」
スネイプは再びエレナの言葉を繰り返し、その視線が、クィレルが去っていった方向と、エレナの顔の間をゆっくりと往復した。
「ヒーラーである君ならば、人の顔色や様子の変化には敏感なのだろう。彼が本当に『お疲れ』なのか、あるいは別の何かなのか。その判断は、専門家である君に任せるとしよう」
その言葉の端々に微かな皮肉と、何かを探るような響きが感じられた。スネイプは、クィレルのあの異様なターバンや、極度の怯えぶりに何かを感づいているのだろうか。しかし、その表情から、彼の真意を読み取ることは不可能だった。ただその黒い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何か鋭い光が宿ったようにエレナには見えた。
それは、ほんの少しの疑念、あるいは興味の光だったのかもしれない。
「まあ、いずれにせよ」
スネイプは、エレナの返事を特に待つでもなく、話を続けた。
「ホグワーツでは、あまり感情をあからさまにしない方が、賢明な場合もある。特に…特定の同僚の前では、な。ここは、聖マンゴの病棟とは少々勝手が違うのでね」
その言葉は、忠告のようでもあり、脅しのようでもあり、あるいは単なる事実の指摘のようでもあった。エレナは、その言葉の裏に隠された意味を測りかね、ただ黙ってスネイプを見つめ返した。
「マダム・ポンフリーは、君のことを高く評価しておられるようだが」
スネイプは、エレナの顔から視線を外し、まるで独り言のように呟いた。
「彼女の期待を裏切ることのないよう、まずは自身の健康管理から留意することだ。ヒーラーが倒れてしまっては、元も子もないからな」
その言葉は、一見すると気遣いのようにも聞こえるが、その声のトーンはあくまでも冷たく、どこか突き放すような響きを伴っていた。それは、親切心からくる助言というよりは、むしろ「余計な手数をかけさせるな」という無言の警告のようにも感じられた。 そして、それだけを言うと、スネイプはエレナに背を向け、まるで最初からそこにいなかったかのように、音もなく、黒いローブの裾を床に引きずることもなく、大広間の出口へと続く薄暗い廊下の中へと、滑るように消えていった。その立ち去る姿は、まるで夜の闇に溶け込む影法師のようだった。
一人残されたエレナは、スネイプの不可解な言葉と、その掴みどころのない態度に、新たな困惑を覚えていた。クィレルの拒絶による深い悲しみと絶望感は依然として胸に重くのしかかっていたが、スネイプとの遭遇は、それに加えて、何か別の種類の、じわりとした不安感をエレナの心に植え付けた。
あの男は、一体何者なのだろう。彼の言葉は、単なる皮肉や嫌味なのだろうか。それとも、何かを警告しているのだろうか。クィレルのことを、彼は何か知っているのだろうか。
きらびやかだった始業式の宴の華やかさは、もうエレナの心には届かなかった。愛する人からの予期せぬ拒絶と、初対面の同僚からの不可解な言葉。首元の紫水晶のペンダントが、まるで今の彼女の混乱した心を映すかのように、ひどく冷たく、そして重く感じられる。
ホグワーツでの生活は、甘く美しい夢物語などでは決してなく、むしろ、複雑に絡み合った人間関係に悩まされるのかもしれない…そんな予感が、じわじわとエレナの心の中に広がっていくのを感じていた。
ダンブルドア校長の温かい言葉も、フリットウィック先生やハグリッドの屈託のない親切も、今のエレナにとっては、遠い世界の出来事のように、現実感を失っていた。
マダムに鉢合わせる前に何とか保健室の隣、エレナの自室までたどり着いたが、身体は疲れ切っていた。
今夜は寝付けそうにない。
エレナはマダム・ポンフリーに促され、教職員テーブルの端へと案内された。そこは、大広間全体を見渡せる良い席だった。
「さあ、スズキさん、ここがお席ですわ。隣はシニストラ先生ね」
マダム・ポンフリーはそう言うと、エレナの隣に腰かけた。シニストラ先生はホグワーツの中でもまだ若い女性(周りが年齢不詳の魔法使いのため30台後半ぐらいの先生が自分と同い年のように錯覚させる)が席に着いた。
斜め前に座っていた小柄なフィリウス・フリットウィック先生が、満面の笑みで振り返った。彼は、職員室では見かけなかったが、呪文学の教師であるとマダムがそっと耳打ちしてくれた。
彼の背丈はエレナの半分ほどであったが、声は驚くほど高く、そしてエネルギッシュだった。
「おお、噂のインターン生であるスズキさん!お会いできて光栄ですぞ!もう校長先生とのお話はされましたかな?されたのですな!あの方は時折、我々凡人には想像もつかないような、深遠な知恵を授けてくださいますからな。わたくしなども、若い頃はよく教えを乞うたものです。それに髭に豆がついていたの気付きましたか?」
フリットウィック先生は、高い声で早口でまくしたてたため、「ま、豆ですか?」と他の教師人のような丁寧なあいさつもできず、頭の中は銀色の髭についた黄色い豆を想像していた。
ついていなかったような気がするが、残念ながら緊張してすぐに思い出せそうにない。
「まあ先生。貴方がからかうだなんて珍しいことでもあるものですね。」
マダム・ポンフリーが驚いた声を上げながら正解を答えた。
「あはは、見るからに緊張しているご様子でだったので、らしくもないことをしてみました!」
小さな教授は朗らかに答えて、愛居のあるウインクを投げかけた。
話しかけてきた。彼は、普通の椅子ではテーブルに届かないためか、何冊もの分厚い本を積み重ねたものの上にちょこんと座っている。
「でも、ダンブルドア校長先生のお言葉は、とても…示唆に富むものでした。まだ、その全てを理解できたわけではありませんが」
エレナは、フリットウィック先生の気さくさに少し緊張を解きほぐされながら、微笑んで答えた。
「ふむ、それがダンブルドア校長の言葉は、時間をかけてゆっくりと味わうものなのですよ。ところで、ホグワーツの雰囲気はいかがかな?聖マンゴとは、また随分と違うでしょう」
「はい、何もかもが新鮮で、ようやく英国魔法界に足踏み入れた実感がわきました。このような素晴らしい場所で学べる生徒さんたちが、少し羨ましいくらいです」
「はっはっは、それは嬉しいことをおっしゃる!スズキさんのような若いヒーラーが我々の仲間に加わってくださったこと、生徒たちにとっても心強い限りでしょうな!」
すると、テーブルの向こうから、野太く、しかし温かみのある声がした。
「おお、あんたが新しいヒーラー先生か!いやあ、ずいぶん若いなぁ」
2メートルはあるだろうか、身体の大きな男がずんと見下ろしながら声をかけてきた。
「おれはルビウス・ハグリッド。ホグワーツの森番だ!」
声の主は、その体に見合った大きな声で、もじゃもじゃの黒髪と髭に覆われた顔は熊のように優しげだ。彼が身に着けているモグラの皮のコートは、あちこちが擦り切れ、様々な動物の毛が付着しているように見える。
職員室では見かけなかったのは、森の手入れか何かで忙しかったのだろう。
「初めまして、ハグリッドさん。エレナ・スズキです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
エレナは、その巨体に少し驚きながらもぺこりと頭を下げた。
「いやあ、“さん”なんてがらじゃねえよ。ハグリッドでいい。マダム・ポンフリーから、あんたのことは聞いとる。聖マンゴで、そりゃあすご腕のヒーラーだったってな。わしんとこの魔法生物たちも、時々怪我したり病気になったりするから、その時は頼むかもしんねえな。ファングなんかも、最近ちょっと食欲がなくてよ…」
ハグリッドは、大きな手で頭を掻きながら、少し心配そうに言った。ファングとは彼が飼っているイノシシか鹿の名前だろうか。彼の巨体から猫だとは思えなかった。
「私はまだ見習いなのでお力添えできるか怪しいですが、私にできることがあれば、いつでもお声がけください」
エレナはにこやかに答えた。動物の治療もヒーラーの心得の一つであるが、まだ経験が少ない。
きらびやかな宴の雰囲気に、エレナは少しずつ慣れてきたものの、心のどこかではまだ緊張が解けていなかった。これから始まるホグワーツでの仕事や生活、そして何よりもクィリナス・クィレルのこと。
彼はいるのだろうか。職員室にも、先ほど大広間を見渡した時にも彼の姿は見当たらなかった。もしかしたら、ホグワーツに到着していないのかもしれない。できるだけ期待はしないように心づもりはしていたが、どうしても気になってしまう。
エレナは、周囲の教師たちとの会話に相槌を打ちながらも、無意識のうちに大広間の入り口の方へと視線を送っていた。
その時だった。ふと、教職員テーブルのかなり端の方、フリットウィック先生よりもさらに数人先に、特徴的な後ろ姿が視界に入った。紫のターバンを巻いており、少し猫背気味のシルエットにどこか神経質そうな肩のライン。いや、違う?でも間違いない。彼だ。クィリナス・クィレルである。彼も再び同僚として、このホグワーツの教職員テーブルに着席していたのだ。
エレナの心臓が喜びと安堵、そしてほんの少しの戸惑いで、早鐘のように高鳴り始めた。彼もこちらに気づいてくれるだろうか。どんな顔をして、どんな言葉をかけてくれるだろうか。最後に会った時から数週間しか経っていないはずなのに、彼の後ろ姿は、以前よりも少し痩せて、頼りなげに見える。
そして頭には、以前は決して見ることのなかった、紫色の大きなターバンが巻かれていた。そのターバンは、大広間の華やかな雰囲気の中にあっても、どこか場違いで不自然な印象を与えている。彼の青白い顔色と相まって、奇妙な違和感を醸し出していた。
クィレルもまた、ほぼ同時にエレナの存在に気づいたようだった。彼が何気なくこちらに視線を向け、その目がエレナの姿を捉えた瞬間、彼の顔には驚愕の色が浮かんだ。そして、その驚愕はみるみるうちにまるで何か恐ろしいもの、信じられないものを見たかのような、明らかな動揺へと変わっていった。
エレナは、クィレルの反応に戸惑いながらも、抑えきれない喜びと驚きで、彼に小さく手を振ろうとしていた。片手がスッと肩あたりまで上がりきろうとする前に、彼女の伸びた指が丸まり握り拳になって膝まで落ちていった。
何故ならクィレルの青白い顔が一層青ざめ、大きな目が恐怖に染まったかのように見開き、そして次の瞬間には、まるで逃げるように慌てて視線を逸らしてしまったからだ。クィレルは、エレナの存在そのものが耐えられないとでもいうように、二度とこちらに視線を合わせようとはせず、まるで石像のように硬直してしまった。
ちょうどその時、大広間の重厚な扉が再び大きく開かれ、魔女らしい魔女であるマクゴナガル先生(マダム・ポンフリーが耳打ちして教えてくれた)に引率された新入生の一団が、緊張した面持ちでホールへと入ってきた。生徒たちの到着と共に、組分けの儀式が始まろうとしていた。エレナの心は、クィレルの態度への困惑と、手紙を受け取っておらず、押しかけてきた元パートナーの存在にうんざりだと感じているのかもしれない恐れで、楽しみにしていた式があっという間に霞んでしまった。
すぐ目の前で繰り広げられようとしている厳粛な儀式への視線を向けつつも、胸中は複雑に揺れ動いていた。
マクゴナガル先生が、四本脚の背の高い木製スツールと、古びて汚れた組分け帽子を教職員テーブルの前に運んだ。準備を整えると、ホールは水を打ったように静まり返った。全ての視線がその古びた帽子へと注がれる。やがて、帽子のつばの裂け目が口のように開き、しわがれた、しかし力強い歌声がホールに響き渡った。
突然のことに驚いたエレナは、ただ眺めていた式典が、ぱっと鮮やかに視界に入り込み、先ほどの出来事を忘れることができた。
帽子が歌いだすなんて、やはり英国文化は違うのだと感心している間に歌が終わってしまい、ホールは盛大な拍手に包まれた。そして、マクゴナガル先生が羊皮紙の巻物を広げ、新入生の名前を一人ずつ呼び上げ始めた。
「アボット、ハナ!」 「ハッフルパフ!」
「ブート、テリー!」 「レイブンクロー!」
エレナは、目の前で繰り広げられる組分けの儀式に意識的にを集中させた。先ほど起きたことは考えないように必死であった。どうやらホグワーツでは一年次から4つの寮に組み分けされるらしい。各寮のモチーフとなると動物と4色に色分けされているのは日本の魔法学校ーマホウトコローと違いとても新鮮だった。
「グレンジャー、ハーマイオニー!」 「グリフィンドール!」
利発そうな少女がグリフィンドールに決まり、歓声が上がる。エレナも思わず拍手を送った。
「マルフォイ、ドラコ!」 「スリザリン!」
傲慢そうな少年がスリザリンに決まり、緑ネクタイをした少年少女が歓声を上げる。そして、ついにその名前が呼ばれた。
「ポッター、ハリー!」
その瞬間、大広間は再び静まり返り、やがてあちこちから「あのハリー・ポッターか?」という囁き声が起こった。エレナも、その名前に、そして額の稲妻形の傷を持つその少年に、強い興味を惹かれた。
この少年が、あのヴォルデモート卿を退けたというのか。ヒーラーとして、その傷跡が持つ意味や彼の健康状態にも関心があった。彼を眺める視界の端にまたクィレルの姿をとらえた。
彼は、ハリー・ポッターの名前が呼ばれた際、特に何の反応も示していないような素振りだったが、彼の視線はハリーを捉えていた。
ハリー・ポッターが、長い葛藤の末にグリフィンドールに組分けされると、ホールは割れんばかりの歓声に包まれた。エレナも、その歴史的な瞬間に立ち会えたことに力強く拍手を送った。だが、その興奮の最中でも、エレナの心の片隅では、クィレルへの不安が暗い影のように染みついたままだ。
組分けの儀式が終わり、ダンブルドア校長の短い挨拶の後、テーブルの上には魔法のように豪華な食事が現れた。生徒たちの歓声がホールに響き渡り賑やかな宴が始まった。 エレナも、目の前に並べられた美味しそうなローストチキンやポテトに手を伸ばしたが、どうしても食事が喉を通らなかった。クィレルのことが気になって、味がほとんどしないのだ。
彼は、先ほどから一度もこちらを見ようとせず、うつむいたまま、時折神経質そうに紫色のターバンに手をやっている。その姿は、エレナの知っている快活で優しいクィレルとは似ても似つかない、まるで何かに怯える小動物のようだった。
彼は、宴の間中、ほとんど食事に手を付けず、時折カボチャジュースを一口飲むだけで、ひたすら周囲の喧騒から身を隠すように縮こまっていた。そして、頑なにエレナと目を合わせようとはしなかった。
エレナは、何度か彼に視線を送ったが、彼はそれに気づかないふりをするか、あるいは気づいていても意図的に無視しているかのようだった。 エレナの胸は、裏切られたような、いや彼への深い心配が勝った。仕事と私生活の態度が変わる魔法使いはたくさんいるが、 エレナに対しては個人的な事情に違いない。ホグワーツに来たことが彼にとって負担だったのかもしれないと、 エレナは己を責めるしかなかった。
「お口にはあいませんでしたか?」
食事が終わり、デザートもほとんど食べ終わった頃、シニストラ先生がそっと声をかけた。
「いえ、そんな、すごく美味しかったです。ただ緊張して...」
エレナが日本人だという理由で堅物で真面目な印象が先行していたのだろう。それ以上深く追及はせずにただロゼワインを注いだゴブレットを差し出した。
ダンブルドアが号令をかけると、生徒たちがそれぞれの寮監に引率されて大広間を後にしていく。教師たちも、それぞれに談笑しながら席を立ち始めた。エレナは、彼に話しかけるチャンスだと思った。このままでは、気になって眠れそうにない。 クィレルが、他の教師たちよりも一足早く、しかしどこか落ち着かない様子で席を立ち、そそくさと大広間から出て行こうとするのが見えた。
「スズキさん、他の先生方と一緒に職員室に戻りましょう。」
「え、あ、はい!行きます!」
心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、ポンフリーの言葉にうなずいた。
多くの教師陣が戻った職員室で始業式後の簡易的なミーティングが始まった。
「さて、本年度よりクィレル先生が闇の魔術に対する防衛術を教えられる。」
ダンブルドアより紹介されたクィレルはおどおどと頭を下げた。ターバンを巻いた男にささやかな拍手が送られる。教師陣は顔には出さなかったが、彼のあまりの変わりように驚きを飛び越えて、煙たがられているようだった。
「また、インターンとしてエレナ・スズキさんがヒーラー業務に携わる。」
「よろしくお願いいたします。」
エレナに対しても拍手が送られた。
ダンブルドアより教師陣に一言告げられてからすぐにミーティングはお開きとなり、 エレナほとんどの教師陣には挨拶し終わっているため自室に戻って良いと許可が出た。
「部屋まで戻れますか?」
マダムが新任ヒーラーに声をかける。彼女は不安は残るものの急いで捕まえたい男がいたため、問題ないと頷いた。
多くの教師陣が職員棟にある自室に戻っていく中、クィレルの後を追いかけた。幸いなことに、彼は保健室に戻る道のりで後ろ姿を見かけることができた。
「クィリナス!」
大広間の出口近く、巨大な砂時計が並ぶ廊下の手前でようやく彼に追いつき、声を震わせながら呼び止めた。
クィレルは、まるで背後から悪霊にでも呼び止められたかのように、びくりと肩を大きく震わせ、狼狽した様子でゆっくりと振り返った。その顔は蒼白で大きな瞳は左右に揺れ視線が交わらない。紫色のターバンの下からは冷や汗が滲んでいるように見えた。
「あ、う、エレナ…き、君、な、な、何の用だね…わ、わ、わたくしは、こ、これから、い、急ぎの、よ、用事があってだね…」
彼の声はほとんど囁きに近く、言葉の節々がひどくどもり震えていた。
「…あなたに会いに来たの。手紙は受け取った?クィリナス。ホグワーツで働くことになるって連絡したつもりだったんだけど、もし受け取ってなかったら、その、驚いたかなって…」
エレナは、できるだけ言葉を選びながら話を切り出した。彼のあまりの変貌ぶりにショックを受けていても、彼は彼だ。
「れ、連絡をくれていたのは気づかず、そ、その、な、何も…た、ただ、わ、わたくしは、き、君とは、も、もう、か、関わりを、も、持ちたくない、そ、それだけだ…」
彼は気づいてなかったと言いかけたにもかかわらず、あえてエレナを傷つける発言をした。エレナはそれまで耐えていた悲しみが怒りに変わるのを感じていた。
「関わりを持ちたくないですって?どういうことなの、クィリナス?ちゃんと言って、他に好きな人ができたとでも言えばいいじゃない。」
エレナの声は震えていた。
「あ、あれは、す、すまない。いいから、全て、ま、間違いだったのだ…わ、忘れてくれ…」
クィレルは、エレナの真っ直ぐな視線から逃れるように目を伏せ、苦しげに顔を歪めた。まるで汚物でも振り払うかのように、エレナを避け、踵を返すとほとんど駆け出すような勢いで薄暗い廊下の闇の中へと姿を消してしまった。その逃げ去る後ろ姿は、あまりにも哀れで、そしてエレナにとっては絶望的だった。
「クィリナス…」
一人取り残されたエレナは、彼の最後の言葉と、その拒絶の態度に心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような、鈍い痛みを感じ、大広間の出口近くで呆然と立ち尽くした。
喜びの再会…とまではいかないものの、きちんと大人同士話が合いで友人関係に戻れることを想像していたのに。待っていたのは、かつての恋人からの冷酷な拒絶と、得体の知れない恐怖に怯える変わり果てた姿だった。
涙が、知らず知らずのうちに頬を伝い、足元にぽたぽたと染みを作っていく。周囲は静かで、泣いていてもバレないだろう。ずずっと鼻をすすりながら、ポケットから鼻かみ用の硬いティッシュを取り出した。
その時だった。
すぐ近くでわざとらしくもない、しかしはっきりとした咳払いが聞こえた。 エレナが、涙でぼやけた視線を後ろに向けると、そこには、いつの間にか一人の男が立っていた。
黒一色の体にぴったりと沿うような仕立ての良いローブを身に纏い、脂ぎった黒髪を肩まで伸ばした、鷲鼻が特徴的な長身の男。始業式の宴の間、教職員テーブルの端の方で、クィレルの隣にいた気がする。誰ともほとんど言葉を交わさず、冷徹な観察者のように周囲を見渡していた男だった。
彼の顔には何の表情も浮かんでいなかった。ただ、その薄い唇の端が、ほんのわずかに皮肉な形に歪んでいるように見えなくもない。そして、その黒曜石のように冷たく光る瞳が、エレナの顔を値踏みするように、しかしあからさまな敵意は見せずに、静かに見比べていた。
「新任の、スズキ、だったかな」
名乗らずともまだ挨拶をしていない魔法薬学の教授、セブルス・スネイプであることははっきりわかった。彼の声は低く、抑揚がなく、まるで古井戸の底から響いてくるかのようだった。その声には、フリットウィック先生のような陽気さも、ハグリッドのような温かさも、そしてダンブルドア校長のような包容力も全く感じられない。ただ、どこまでも冷たく、乾いた響きがあった。
「ホグワーツの夜は、いささか…刺激が強すぎたようだね。いささか取り乱されているご様子と見受けるが」
その言葉は、直接的な非難ではなかったが、エレナの今の状態を的確に、そしてどこか見下すように指摘しており、エレナは不意を突かれた思いと、自分の弱さを見透かされたような羞恥心で、顔がカッと熱くなるのを感じた。
「スネイプ先生…でいらっしゃいますか」
エレナは、何とか平静を装おうと、震える声を押さえつけながら問いかけた。
「申し訳ありません、少し…気分が優れなくて」
「ほう。気分が優れん、か」
スネイプは、エレナの言葉をゆっくりと反芻するように繰り返し、その黒い瞳をほんの少しだけ細めた。その視線は、エレナの心の奥底までを探ろうとしているかのようで、エレナは居心地の悪さを感じた。
「クィレル先生とは、旧知の仲であったと見える。彼は少々…人見知りをするというか、神経質な質でね。特に、新しい環境では、些細なことで動揺しやすいのかもしれん」
その言葉には、クィレルを擁護するような響きは全くなく、むしろ、彼の性格的欠陥を冷静に分析しているかのような、奇妙な客観性が含まれていた。そして、エレナとクィレルの関係を「旧知の仲」と断定したことに、エレナは微かな驚きを覚えた。
この男は、短時間のうちに、一体どこまで見ていたのだろうか。
「クィレル先生は…少し、お疲れのようでしたから」
エレナは、何とか言葉を絞り出した。
「お疲れ、か」
スネイプは再びエレナの言葉を繰り返し、その視線が、クィレルが去っていった方向と、エレナの顔の間をゆっくりと往復した。
「ヒーラーである君ならば、人の顔色や様子の変化には敏感なのだろう。彼が本当に『お疲れ』なのか、あるいは別の何かなのか。その判断は、専門家である君に任せるとしよう」
その言葉の端々に微かな皮肉と、何かを探るような響きが感じられた。スネイプは、クィレルのあの異様なターバンや、極度の怯えぶりに何かを感づいているのだろうか。しかし、その表情から、彼の真意を読み取ることは不可能だった。ただその黒い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何か鋭い光が宿ったようにエレナには見えた。
それは、ほんの少しの疑念、あるいは興味の光だったのかもしれない。
「まあ、いずれにせよ」
スネイプは、エレナの返事を特に待つでもなく、話を続けた。
「ホグワーツでは、あまり感情をあからさまにしない方が、賢明な場合もある。特に…特定の同僚の前では、な。ここは、聖マンゴの病棟とは少々勝手が違うのでね」
その言葉は、忠告のようでもあり、脅しのようでもあり、あるいは単なる事実の指摘のようでもあった。エレナは、その言葉の裏に隠された意味を測りかね、ただ黙ってスネイプを見つめ返した。
「マダム・ポンフリーは、君のことを高く評価しておられるようだが」
スネイプは、エレナの顔から視線を外し、まるで独り言のように呟いた。
「彼女の期待を裏切ることのないよう、まずは自身の健康管理から留意することだ。ヒーラーが倒れてしまっては、元も子もないからな」
その言葉は、一見すると気遣いのようにも聞こえるが、その声のトーンはあくまでも冷たく、どこか突き放すような響きを伴っていた。それは、親切心からくる助言というよりは、むしろ「余計な手数をかけさせるな」という無言の警告のようにも感じられた。 そして、それだけを言うと、スネイプはエレナに背を向け、まるで最初からそこにいなかったかのように、音もなく、黒いローブの裾を床に引きずることもなく、大広間の出口へと続く薄暗い廊下の中へと、滑るように消えていった。その立ち去る姿は、まるで夜の闇に溶け込む影法師のようだった。
一人残されたエレナは、スネイプの不可解な言葉と、その掴みどころのない態度に、新たな困惑を覚えていた。クィレルの拒絶による深い悲しみと絶望感は依然として胸に重くのしかかっていたが、スネイプとの遭遇は、それに加えて、何か別の種類の、じわりとした不安感をエレナの心に植え付けた。
あの男は、一体何者なのだろう。彼の言葉は、単なる皮肉や嫌味なのだろうか。それとも、何かを警告しているのだろうか。クィレルのことを、彼は何か知っているのだろうか。
きらびやかだった始業式の宴の華やかさは、もうエレナの心には届かなかった。愛する人からの予期せぬ拒絶と、初対面の同僚からの不可解な言葉。首元の紫水晶のペンダントが、まるで今の彼女の混乱した心を映すかのように、ひどく冷たく、そして重く感じられる。
ホグワーツでの生活は、甘く美しい夢物語などでは決してなく、むしろ、複雑に絡み合った人間関係に悩まされるのかもしれない…そんな予感が、じわじわとエレナの心の中に広がっていくのを感じていた。
ダンブルドア校長の温かい言葉も、フリットウィック先生やハグリッドの屈託のない親切も、今のエレナにとっては、遠い世界の出来事のように、現実感を失っていた。
マダムに鉢合わせる前に何とか保健室の隣、エレナの自室までたどり着いたが、身体は疲れ切っていた。
今夜は寝付けそうにない。
