第2章 賢者の石
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九月が間近に迫った八月の終わりのある日。ロンドンの片隅にあるエレナ・スズキのアパートメントの窓からは、マグルが昼間から働いている様子がよく見える。
冷房が無い部屋の中には、エレナお手製の冷たい空気が部屋に循環する扇風機がカラカラと動いている。彼女の私物は部屋から消え失せ、この地に訪れた時に使用していた古びた旅行鞄の中に仕舞われていく。拡張魔法がかかっており、多くの物を中にしまうことができる。この高価な鞄は日本を出る際に伯父から選別としてくれたものだった。
あの地を離れて二年も経つが、今思い返してみると、彼女の旅たちを応援してくれる存在がいたのだ。あの時は己のことを考えるのに精いっぱいであり、周りが見えていなかった。
久しぶりに伯父の姿を脳裏に思い浮かべながらも旅立ちの準備は着実に進んでいた。床に広げられた大きな革の鞄には、丁寧に畳まれた糊の匂いが残る白衣や、使い慣れた魔法薬調合のためのお気に入りの乳鉢と乳棒、数冊の専門書が詰め込まれている。他にも、個人的な衣類や、数冊の詩集を詰め込んだ。イギリスで少しずつ集めた家具やキッチン用具などはすべて置いていくことにした。
エレナは、一つ一つを手に取り確認しながら鞄に収める。
「本当に、全部持っていくのね、エレナ」
背後から、穏やかで少し不思議な響きを持つ声がした。振り返ると、アカリが部屋の入り口に静かに立っていた。
彼女はエレナより幾分か年上に見えたが、その澄んだ瞳は少女のような純粋さを宿し、纏う空気は朝霧のように捉えどころがない。
アカリは、エレナがロンドンに来てから知り合った、数少ない親しい友人の一人だ。彼女の出自や過去については謎が多いが二人にはそんな些細なことでは躓きもしない信頼があった。
「ええ、何が必要になるかわからないもの。ホグワーツは初めての場所だし、マダム・ポンフリーがどんな方かもまだ詳しくは知らないから」
エレナは少し不安げに微笑んだ。
アカリは部屋の中へゆっくりと歩みを進め、トランクの隅に置かれた小さなビロードの袋に目を留めた。
「それも、もちろん持っていくでしょう?」
エレナはその袋を手に取り、中から紫水晶のペンダントを取り出した。磨かれていない、自然のままの形を残した水晶は、光を受けて内側から淡い光を放っているように見える。
クィリナス・クィレルから贈られた大切なお守りだった。
「ええ、もちろんよ。彼が、私を守ってくれると言ってくれたから」
エレナはペンダントをそっと胸元に当てた。ひんやりとした石の感触が肌に心地よい。
「大切なものなのね」
アカリは呟くように言い、その声には何とも言えない含みがあった。
「あなたと彼がホグワーツで会えるといいね。もう旅は終わったんでしょう?」
「だといいけど。手紙に返事はないし旅が終わったのかすらわからない。」
エレナはアカリの顔を見つめた。
「きっと、会えるよ。きっと。」
「きっとね。」
「うん、彼に会ったらどうするの。一発頬でもたたく?」
アカリは叩く素振りを見せながら、パシパシと殴る真似までした。
「さすがにそんなことしないよ。ただ、元気か確認して…そうね。話しがしたいかな。」
アカリはエレナの肩にそっと手を置いた。彼女の手は分厚そうなドラゴンの手袋を嵌めていた。潔癖症であるとは聞いていたが、これはど徹底していたとは、最後にハグはしない方が良いな…とエレナは確信した。
「話せるといいね…もし会えたら、私にも紹介して。代わりに殴ってあげるから。」
「もう!紹介できないじゃない!」
友人の冗談を笑いながら、荷造りは杖を一振りして完了した。
「朝食は用意してあるわ。温かい紅茶と、昨日焼いたスコーン。少しだけれど、お腹に入れていった方がいいでしょう?」
「ありがとう、アカリ。いつも助けてもらってばかりね」
「いいのよ。私たちは、そういう縁で繋がっているんだから」
アカリはそう言うと、ふわりと微笑んで部屋を出て行った。
「たまに随分達観した発言が聞こえるけど、いくつなの?」
エレナの言葉に片眉を吊り上げて「まだ27よ。」とアカリが言った。
たった7つしか違わないのに、彼女はこんなにも落ち着いているのか。エレナはちょっとだけ落ち込んだ。
ダイニングテーブルには、湯気の立つ紅茶と、ほんのり甘い香りのするスコーン、そして自家製のベリージャムが用意されていた。アカリの淹れる紅茶はいつも絶品で、一口飲むと心が安らぐ。素朴な味わいのスコーンを頬張りながら、エレナはこれからのホグワーツでの生活に思いを馳せた。
支度を終え、アカリとともにアパートメントを出ると、石畳の道には朝の光が優しく降り注いでいた。タクシーを呼び止め、キングス・クロス駅へと向かう。車の窓から見えるロンドンの街並みはいつもと変わらない日常であるが、エレナにとっては全く新鮮で、新しい世界の入り口のように感じられた。
キングス・クロス駅に到着した二人。
朝のラッシュアワーには遅い時間帯だったが、それでも多くの人々が行き交っていた。アカリは駅の入り口でエレナを見送った。
「気をつけて、エレナ。後悔のない一年にしてよ。」
アカリはそう言うと、人混みの中にすっと消えるようにしていなくなった。
そうだ、インターン期間は1年のみ。ここで実力を磨き、ホプカークに聖マンゴで非正規雇用でもいいから採用されないといけないのだ。
エレナは、彼女の言葉を胸に刻み、駅の構内へと足を踏み入れた。
目的地は九番線と十番線の間の、何の変哲もないレンガの壁。魔法省から事前に送られてきた指示書にはそう記されていた。
深呼吸を一つし、トランクを押しながら壁に向かってまっすぐ進む。
一瞬、壁に激突するのではないかという恐怖がよぎったが、次の瞬間には、レンガの壁がまるで煙のように揺らぎ、エレナは全く異なるプラットホームに立っていた。
「九と四分の三番線」と書かれた古い鉄製の看板の下には、深紅色の蒸気機関車が、白い蒸気をシュウシュウと音を立てて噴き上げながら停車していた。「ホグワーツ特急」と金文字で記されたその列車は、エレナが想像していたよりもずっと大きく、威厳に満ちていた。ホームには、すでに多くの生徒たちとその家族が集い、出発前の賑わいを見せている。
あちこちで梟の鳴き声や、ローブ姿の魔法使いたちの楽しげな会話が聞こえてくる。初めて見る英国魔法界の光景に、エレナは目を奪われた。大きなトランクを引きずりながら列車に乗り込もうとする小さな一年生らしき子供たち、友人との再会を喜ぶ上級生たち、そして我が子を見送る親たちの心配そうな、しかし誇らしげな表情。そのどれもが、エレナにとっては新鮮で、胸が高鳴るのを感じた。
しかし、エレナがこのホグワーツ特急に乗るわけではなかった。ホグワーツの新米ヒーラー、インターンとしての着任は、他の教職員と同様、生徒たちの到着よりも少し早い日程が組まれていたのだ。魔法省からの指示書には、キングス・クロス駅の駅員室を訪ね、そこからフルーパウダーを使ってホグズミード駅へ直接移動するようにと書かれていた。
少しだけ、あの賑やかな列車に乗れないことに寂しさを感じたが、これも任務のうちだと気持ちを切り替える。
駅の隅にある「駅員室」と書かれた小さな扉を見つけ、ノックをする。中から「どうぞ」という少し疲れたような声が聞こえ、エレナは扉を開けた。そこは書類や奇妙な道具が山積みになった雑然とした部屋で、片眼鏡をかけた小柄な魔法使いが、羽根ペンを片手に何かを書きつけていた。
「あの、ホグワーツへ向かうエレナ・スズキと申します。フルーパウダーでの移動の件で参りました」
駅員は顔を上げ、エレナを値踏みするように見た。
「ああ、スズキさんだな。お待ちしてましたよ。こちらへ」
彼は部屋の奥にある、大きな暖炉を指差した。暖炉には火は入っておらず、冷たい石の匂いがした。
「フルーパウダーを使うのは初めてかね?」
「はい、初めてです」
エレナは少し緊張しながら答えた。
「まあ、難しくはない。この粉をひとつまみ、暖炉に投げ入れて、緑色の炎が出たら中に足を踏み入れる。そして、はっきりと、滑舌良く『ホグズミード駅!』と目的地を告げること。途中で咳き込んだり、言い間違えたりすると、とんでもない暖炉に放り出されるから気をつけて。あとは、肘をしっかり閉じて、目も閉じていた方がいいだろう。景色はあまり楽しいものじゃないし、灰が目に入るからね」
駅員はそう早口で説明すると、マントルピースの上に置かれた古いブリキ缶から、キラキラと光る灰色の粉をひとつまみ取り、エレナに手渡した。
エレナは粉を受け取り、深呼吸をした。アカリの「自分の力を信じて」という言葉が脳裏をよぎる。
「準備はいいかね?」
駅員が尋ねた。
「はい」
エレナはフルーパウダーを暖炉の中に投げ入れた。途端に、轟という音と共に、暖炉の中に鮮やかなエメラルドグリーンの炎が燃え上がった。その炎は熱さを感じさせず、まるで絹のカーテンのように揺らめいている。
「さあ、どうぞ」
エレナは一瞬ためらったが、意を決して緑色の炎の中に足を踏み入れた。
「ホグズミード駅!」
はっきりと、そう告げた。
次の瞬間、エレナの体は猛烈な勢いで回転し始めた。まるで巨大な栓抜きで引っ張り上げられるような感覚。目を開けていることはできず、ただ固く目を閉じ、両腕を体に引き寄せた。周囲では無数の暖炉の格子が目まぐるしく過ぎ去っていくのが、瞼越しに感じられる。時折、誰かの家の居間らしき場所や、薄暗い店の奥、あるいは騒がしいパブのような場所が一瞬だけ垣間見えたが、すぐに次の景色へと変わってしまう。風の轟音と、灰の匂い、そして時折焦げたような匂いが鼻をついた。どれくらいの時間が経ったのか、見当もつかない。ただ、この奇妙な旅が永遠に続くのではないかという不安が頭をもたげ始めた頃、不意に回転が止まり、エレナは勢い余って数歩よろめきながら、固い石の床の上に降り立った。
咳き込みながら目を開けると、そこはキングス・クロス駅の駅員室とは似ても似つかない、もっと古びて薄暗い、しかしどこか懐かしい香りのする小部屋だった。
埃っぽい木の床、壁には使い古された箒が数本立てかけてあり、小さな窓からは、ぼんやりとした光が差し込んでいる。
目の前には、先ほどとは別の、しかし同じように少し疲れた顔つきの駅員が立っていた。
「ホグズミード駅へようこそ、スズキさん。無事にご到着のようですね」
「は、はい。ありがとうございます」
エレナはまだ少し息を切らしながら答えた。服についた灰を払い落とす。
「ホグワーツからお迎えが来ていますよ。外でお待ちです」
駅員に促されて小さな扉から外へ出ると、そこはホグワーツ特急が到着する賑やかなプラットホームとは違う、田舎町にある駅の裏手のような場所だった。
石畳の道が続き、その先には鬱蒼とした森が広がっている。そして、道の脇には一台の古風な馬車が停まっていた。しかし、その馬車を引いているのは馬ではなかった。黒く、骸骨のように痩せこけた、翼を持つ馬のような生き物。セストラルだった。その目は白く何も映しておらず、革のような翼は不気味に折りたたまれている。
エレナは、その姿をはっきりと見ることができた。聖マンゴで働いていた頃、多くの死に立ち会ってきた。セストラルは、死を目撃した者にしか見えないと言われている。その不気味な姿に一瞬息をのんだが、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、その静かで力強い存在感に、何か神聖なものすら覚えた。
馬車の御者台には誰も乗っていなかったが、エレナが近づくと、セストラルの一頭がゆっくりと首をこちらに向け、まるで挨拶でもするかのように小さく鼻を鳴らした。馬車の扉が、ひとりでに静かに開く。エレナは促されるように馬車に乗り込み、ビロード張りの座席に腰を下ろした。
馬車は音もなく動き出し、森の中へと続く道を進み始めた。木々の間を縫うように進む馬車は、時折セストラルの翼が枝葉をかすめる音と、車輪が立てる微かな音以外、ほとんど無音だった。
窓の外には、苔むした岩や名前も知らない奇妙な形の花々、そして薄暗い森の奥深くへと続く獣道が見え隠れする。空気はひんやりと澄み渡り、土と濡れた木の葉の匂いがした。それは、ロンドンの喧騒とは全く異なる、古の魔法が息づく世界の香りだった。
エレナは、首元の紫水晶のペンダントにそっと触れ、クィレルの顔が浮かぶ。彼へのあきらめきれない想いとこの静かで神秘的な森の雰囲気が重なり合い、エレナは感慨にふけった。
やがて、木々の切れ間から、遠くに巨大な城のシルエットが見え始めた。無数の尖塔が空を突き、威厳に満ちたその姿は、まるで古い絵物語から抜け出してきたかのようだ。
ホグワーツ魔法魔術学校。
生徒たちの喧騒が始まるよりも一足早く、エレナは、その静まり返った魔法の城へと、セストラルに導かれて到着しようとしていた。期待と緊張、そしてほんの少しの寂しさと、未知なるものへの微かな恐れが、エレナの心の中で静かに交錯していた。
冷房が無い部屋の中には、エレナお手製の冷たい空気が部屋に循環する扇風機がカラカラと動いている。彼女の私物は部屋から消え失せ、この地に訪れた時に使用していた古びた旅行鞄の中に仕舞われていく。拡張魔法がかかっており、多くの物を中にしまうことができる。この高価な鞄は日本を出る際に伯父から選別としてくれたものだった。
あの地を離れて二年も経つが、今思い返してみると、彼女の旅たちを応援してくれる存在がいたのだ。あの時は己のことを考えるのに精いっぱいであり、周りが見えていなかった。
久しぶりに伯父の姿を脳裏に思い浮かべながらも旅立ちの準備は着実に進んでいた。床に広げられた大きな革の鞄には、丁寧に畳まれた糊の匂いが残る白衣や、使い慣れた魔法薬調合のためのお気に入りの乳鉢と乳棒、数冊の専門書が詰め込まれている。他にも、個人的な衣類や、数冊の詩集を詰め込んだ。イギリスで少しずつ集めた家具やキッチン用具などはすべて置いていくことにした。
エレナは、一つ一つを手に取り確認しながら鞄に収める。
「本当に、全部持っていくのね、エレナ」
背後から、穏やかで少し不思議な響きを持つ声がした。振り返ると、アカリが部屋の入り口に静かに立っていた。
彼女はエレナより幾分か年上に見えたが、その澄んだ瞳は少女のような純粋さを宿し、纏う空気は朝霧のように捉えどころがない。
アカリは、エレナがロンドンに来てから知り合った、数少ない親しい友人の一人だ。彼女の出自や過去については謎が多いが二人にはそんな些細なことでは躓きもしない信頼があった。
「ええ、何が必要になるかわからないもの。ホグワーツは初めての場所だし、マダム・ポンフリーがどんな方かもまだ詳しくは知らないから」
エレナは少し不安げに微笑んだ。
アカリは部屋の中へゆっくりと歩みを進め、トランクの隅に置かれた小さなビロードの袋に目を留めた。
「それも、もちろん持っていくでしょう?」
エレナはその袋を手に取り、中から紫水晶のペンダントを取り出した。磨かれていない、自然のままの形を残した水晶は、光を受けて内側から淡い光を放っているように見える。
クィリナス・クィレルから贈られた大切なお守りだった。
「ええ、もちろんよ。彼が、私を守ってくれると言ってくれたから」
エレナはペンダントをそっと胸元に当てた。ひんやりとした石の感触が肌に心地よい。
「大切なものなのね」
アカリは呟くように言い、その声には何とも言えない含みがあった。
「あなたと彼がホグワーツで会えるといいね。もう旅は終わったんでしょう?」
「だといいけど。手紙に返事はないし旅が終わったのかすらわからない。」
エレナはアカリの顔を見つめた。
「きっと、会えるよ。きっと。」
「きっとね。」
「うん、彼に会ったらどうするの。一発頬でもたたく?」
アカリは叩く素振りを見せながら、パシパシと殴る真似までした。
「さすがにそんなことしないよ。ただ、元気か確認して…そうね。話しがしたいかな。」
アカリはエレナの肩にそっと手を置いた。彼女の手は分厚そうなドラゴンの手袋を嵌めていた。潔癖症であるとは聞いていたが、これはど徹底していたとは、最後にハグはしない方が良いな…とエレナは確信した。
「話せるといいね…もし会えたら、私にも紹介して。代わりに殴ってあげるから。」
「もう!紹介できないじゃない!」
友人の冗談を笑いながら、荷造りは杖を一振りして完了した。
「朝食は用意してあるわ。温かい紅茶と、昨日焼いたスコーン。少しだけれど、お腹に入れていった方がいいでしょう?」
「ありがとう、アカリ。いつも助けてもらってばかりね」
「いいのよ。私たちは、そういう縁で繋がっているんだから」
アカリはそう言うと、ふわりと微笑んで部屋を出て行った。
「たまに随分達観した発言が聞こえるけど、いくつなの?」
エレナの言葉に片眉を吊り上げて「まだ27よ。」とアカリが言った。
たった7つしか違わないのに、彼女はこんなにも落ち着いているのか。エレナはちょっとだけ落ち込んだ。
ダイニングテーブルには、湯気の立つ紅茶と、ほんのり甘い香りのするスコーン、そして自家製のベリージャムが用意されていた。アカリの淹れる紅茶はいつも絶品で、一口飲むと心が安らぐ。素朴な味わいのスコーンを頬張りながら、エレナはこれからのホグワーツでの生活に思いを馳せた。
支度を終え、アカリとともにアパートメントを出ると、石畳の道には朝の光が優しく降り注いでいた。タクシーを呼び止め、キングス・クロス駅へと向かう。車の窓から見えるロンドンの街並みはいつもと変わらない日常であるが、エレナにとっては全く新鮮で、新しい世界の入り口のように感じられた。
キングス・クロス駅に到着した二人。
朝のラッシュアワーには遅い時間帯だったが、それでも多くの人々が行き交っていた。アカリは駅の入り口でエレナを見送った。
「気をつけて、エレナ。後悔のない一年にしてよ。」
アカリはそう言うと、人混みの中にすっと消えるようにしていなくなった。
そうだ、インターン期間は1年のみ。ここで実力を磨き、ホプカークに聖マンゴで非正規雇用でもいいから採用されないといけないのだ。
エレナは、彼女の言葉を胸に刻み、駅の構内へと足を踏み入れた。
目的地は九番線と十番線の間の、何の変哲もないレンガの壁。魔法省から事前に送られてきた指示書にはそう記されていた。
深呼吸を一つし、トランクを押しながら壁に向かってまっすぐ進む。
一瞬、壁に激突するのではないかという恐怖がよぎったが、次の瞬間には、レンガの壁がまるで煙のように揺らぎ、エレナは全く異なるプラットホームに立っていた。
「九と四分の三番線」と書かれた古い鉄製の看板の下には、深紅色の蒸気機関車が、白い蒸気をシュウシュウと音を立てて噴き上げながら停車していた。「ホグワーツ特急」と金文字で記されたその列車は、エレナが想像していたよりもずっと大きく、威厳に満ちていた。ホームには、すでに多くの生徒たちとその家族が集い、出発前の賑わいを見せている。
あちこちで梟の鳴き声や、ローブ姿の魔法使いたちの楽しげな会話が聞こえてくる。初めて見る英国魔法界の光景に、エレナは目を奪われた。大きなトランクを引きずりながら列車に乗り込もうとする小さな一年生らしき子供たち、友人との再会を喜ぶ上級生たち、そして我が子を見送る親たちの心配そうな、しかし誇らしげな表情。そのどれもが、エレナにとっては新鮮で、胸が高鳴るのを感じた。
しかし、エレナがこのホグワーツ特急に乗るわけではなかった。ホグワーツの新米ヒーラー、インターンとしての着任は、他の教職員と同様、生徒たちの到着よりも少し早い日程が組まれていたのだ。魔法省からの指示書には、キングス・クロス駅の駅員室を訪ね、そこからフルーパウダーを使ってホグズミード駅へ直接移動するようにと書かれていた。
少しだけ、あの賑やかな列車に乗れないことに寂しさを感じたが、これも任務のうちだと気持ちを切り替える。
駅の隅にある「駅員室」と書かれた小さな扉を見つけ、ノックをする。中から「どうぞ」という少し疲れたような声が聞こえ、エレナは扉を開けた。そこは書類や奇妙な道具が山積みになった雑然とした部屋で、片眼鏡をかけた小柄な魔法使いが、羽根ペンを片手に何かを書きつけていた。
「あの、ホグワーツへ向かうエレナ・スズキと申します。フルーパウダーでの移動の件で参りました」
駅員は顔を上げ、エレナを値踏みするように見た。
「ああ、スズキさんだな。お待ちしてましたよ。こちらへ」
彼は部屋の奥にある、大きな暖炉を指差した。暖炉には火は入っておらず、冷たい石の匂いがした。
「フルーパウダーを使うのは初めてかね?」
「はい、初めてです」
エレナは少し緊張しながら答えた。
「まあ、難しくはない。この粉をひとつまみ、暖炉に投げ入れて、緑色の炎が出たら中に足を踏み入れる。そして、はっきりと、滑舌良く『ホグズミード駅!』と目的地を告げること。途中で咳き込んだり、言い間違えたりすると、とんでもない暖炉に放り出されるから気をつけて。あとは、肘をしっかり閉じて、目も閉じていた方がいいだろう。景色はあまり楽しいものじゃないし、灰が目に入るからね」
駅員はそう早口で説明すると、マントルピースの上に置かれた古いブリキ缶から、キラキラと光る灰色の粉をひとつまみ取り、エレナに手渡した。
エレナは粉を受け取り、深呼吸をした。アカリの「自分の力を信じて」という言葉が脳裏をよぎる。
「準備はいいかね?」
駅員が尋ねた。
「はい」
エレナはフルーパウダーを暖炉の中に投げ入れた。途端に、轟という音と共に、暖炉の中に鮮やかなエメラルドグリーンの炎が燃え上がった。その炎は熱さを感じさせず、まるで絹のカーテンのように揺らめいている。
「さあ、どうぞ」
エレナは一瞬ためらったが、意を決して緑色の炎の中に足を踏み入れた。
「ホグズミード駅!」
はっきりと、そう告げた。
次の瞬間、エレナの体は猛烈な勢いで回転し始めた。まるで巨大な栓抜きで引っ張り上げられるような感覚。目を開けていることはできず、ただ固く目を閉じ、両腕を体に引き寄せた。周囲では無数の暖炉の格子が目まぐるしく過ぎ去っていくのが、瞼越しに感じられる。時折、誰かの家の居間らしき場所や、薄暗い店の奥、あるいは騒がしいパブのような場所が一瞬だけ垣間見えたが、すぐに次の景色へと変わってしまう。風の轟音と、灰の匂い、そして時折焦げたような匂いが鼻をついた。どれくらいの時間が経ったのか、見当もつかない。ただ、この奇妙な旅が永遠に続くのではないかという不安が頭をもたげ始めた頃、不意に回転が止まり、エレナは勢い余って数歩よろめきながら、固い石の床の上に降り立った。
咳き込みながら目を開けると、そこはキングス・クロス駅の駅員室とは似ても似つかない、もっと古びて薄暗い、しかしどこか懐かしい香りのする小部屋だった。
埃っぽい木の床、壁には使い古された箒が数本立てかけてあり、小さな窓からは、ぼんやりとした光が差し込んでいる。
目の前には、先ほどとは別の、しかし同じように少し疲れた顔つきの駅員が立っていた。
「ホグズミード駅へようこそ、スズキさん。無事にご到着のようですね」
「は、はい。ありがとうございます」
エレナはまだ少し息を切らしながら答えた。服についた灰を払い落とす。
「ホグワーツからお迎えが来ていますよ。外でお待ちです」
駅員に促されて小さな扉から外へ出ると、そこはホグワーツ特急が到着する賑やかなプラットホームとは違う、田舎町にある駅の裏手のような場所だった。
石畳の道が続き、その先には鬱蒼とした森が広がっている。そして、道の脇には一台の古風な馬車が停まっていた。しかし、その馬車を引いているのは馬ではなかった。黒く、骸骨のように痩せこけた、翼を持つ馬のような生き物。セストラルだった。その目は白く何も映しておらず、革のような翼は不気味に折りたたまれている。
エレナは、その姿をはっきりと見ることができた。聖マンゴで働いていた頃、多くの死に立ち会ってきた。セストラルは、死を目撃した者にしか見えないと言われている。その不気味な姿に一瞬息をのんだが、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、その静かで力強い存在感に、何か神聖なものすら覚えた。
馬車の御者台には誰も乗っていなかったが、エレナが近づくと、セストラルの一頭がゆっくりと首をこちらに向け、まるで挨拶でもするかのように小さく鼻を鳴らした。馬車の扉が、ひとりでに静かに開く。エレナは促されるように馬車に乗り込み、ビロード張りの座席に腰を下ろした。
馬車は音もなく動き出し、森の中へと続く道を進み始めた。木々の間を縫うように進む馬車は、時折セストラルの翼が枝葉をかすめる音と、車輪が立てる微かな音以外、ほとんど無音だった。
窓の外には、苔むした岩や名前も知らない奇妙な形の花々、そして薄暗い森の奥深くへと続く獣道が見え隠れする。空気はひんやりと澄み渡り、土と濡れた木の葉の匂いがした。それは、ロンドンの喧騒とは全く異なる、古の魔法が息づく世界の香りだった。
エレナは、首元の紫水晶のペンダントにそっと触れ、クィレルの顔が浮かぶ。彼へのあきらめきれない想いとこの静かで神秘的な森の雰囲気が重なり合い、エレナは感慨にふけった。
やがて、木々の切れ間から、遠くに巨大な城のシルエットが見え始めた。無数の尖塔が空を突き、威厳に満ちたその姿は、まるで古い絵物語から抜け出してきたかのようだ。
ホグワーツ魔法魔術学校。
生徒たちの喧騒が始まるよりも一足早く、エレナは、その静まり返った魔法の城へと、セストラルに導かれて到着しようとしていた。期待と緊張、そしてほんの少しの寂しさと、未知なるものへの微かな恐れが、エレナの心の中で静かに交錯していた。
