第1章 新天地へ
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
あの日、エレナ・スズキが降り立ったロンドンの空は、まるで使い古された羊毛のブランケットのように重たく湿った灰色をしていた。
絶えず降り続く霧雨が石畳を濡らし、車が道路を通るたびに水しぶきが上がる。
休憩室の窓にもたれかかり、外を眺めている姿を両親が見ていたら、何をサボっているのかと叱責が飛びそうである。
だがここはロンドン。日本から遠く離れ、両親とはしばらく連絡を取っていない。彼らは半ば強引にこの地を選んだ私を快く思っていないため、便りも連絡もない。
実際に小言が飛んでくることは一生ないだろう。
故郷は息苦しい閉鎖空間で、どこで誰が見ているかわからない。常に神経を張り詰めていなければならなかった。思春期まっさかりのエレナには耐えられず、故郷に嫌気がさすのは当然に流れであった。
田舎を出て都会に出る方針も選択肢にはあったが、母国そのものが嫌になり島国から島国へと飛び出したのだ。
日本を発つ時の、あの抜けるような青空が、今はもう遠い記憶の中の絵画のようだ。
学校を卒業したばかりで、古びた旅行鞄を強く握りしめながら、己を叱咤激励していた頃を思い出していた。
聖マンゴ魔法疾患傷害病院。
その名は魔法界の医療を志す者なら誰もが知る、歴史と権威ある学び舎であり、同時に最前線でもある。
エレナは、この病院が提供する外国人ヒーラー志望生向けの短期留学制度——語学研修と実習を兼ねた特別なプログラム——に参加するため、遥か東の島国からこの英国にやって来たのだ。
魔法医療を学んで、ヒーラーになりたい。漠然と癒術師の道を志したのは己の中に眠る責任感と使命感に突き動かされていたのだろう。
高校を卒業したばかりのエレナはまぶしいほどやる気に満ち溢れていた。
未熟な知識と技術、拙い英語を持ってこの地に降り立った最初の一年はエレナにとって最高の一年だったと言えるだろう。
日本の教育機関の卒業月とイギリスは半年間時期がずれているのだで、3月で学校を卒業した後、コーディネーターが手配したアパートに住み込み、9月までの半年間は午前中を語学勉強、午後は観光に費やした。
新しい土地、見知らぬ人々、10代の少女には刺激が強すぎて、あっという間に目的を忘れてしまった。
それから9月はオリエンテーションに魔法医療の基本講座、友達はできなかったけれど、ただ体力とガッツがあり、勉強に明け暮れる日々であった。
一年という月日をスキップしたかのように楽しい日々はあっという間に終わってしまった。
そう、英国に降り立ってから1年が経過し、4月からの実地訓練が始まるまでは。
実地訓練が始まって2ヶ月しか経っていないのに、まるで遠い過去のように思い出したエレナは、深くため息をついた。
ふーっと長く吐いた息が休憩室に響き渡る。
聖マンゴの内部は、外の灰色の静けさとは対照的だった。
慌ただしく行き交う白衣のヒーラーたち、空中を漂う診断用の魔法球、奇妙なうめき声や、時折聞こえる小さな爆発音。壁には得体の知れない染みがいくつも残り、空気には消毒薬と、それだけでは消しきれない甘く不快な病の匂いが混じり合っている。
エレナは、その空気に圧倒され疲れ切った見習いヒーラーである。
長い一日の中に訪れるつかの間の休息を噛みしめるように、両手を上げて背筋を伸ばした。
ここが自分の新しい戦場なのだ、もう少し、あともう少しと、言い聞かせる。
実地訓練と併せて、短期留学生向けに設けられた週に数コマの座学は、エレナの予想を遥かに超えて高度だった。
最初の半年の基礎講座は一体何だったのかと思わせるほど、教授の早口な英語、飛び交う専門用語、複雑な魔法理論。
必死でノートを取り、授業が終われば図書館にこもり、分厚い専門書と首っ引きになる。
そして実習の一環として、エレナが最初に配属されたのは病院の地下深くにある資料室だった。
迷宮のように入り組んだ書架には、何世紀にもわたる患者記録や研究論文が羊皮紙や古びた紙の束となって眠っている。
彼女の仕事は、その膨大な記録の整理と古い言語で書かれた記録の翻訳作業の補佐。
とくに日本語を母語とする彼女の英訳技術が求められていたのだ。だが、日本語と思しき文字は明治時代に英国に渡ったとされる書物ばかりで、20世紀生まれのエレナに読めるわけがない。
書道や古文、漢文が得意であればもっとうまくやれていたのかもしれない。
わからないなりにも必死で調べ上げ、1週間に1冊(資料)を目標に目録を作りあげる。
全体像が分からない分、明確な期限を求められていないのが唯一の救いである。
ヒーラーとしての華やかな仕事とは程遠い、地味で根気のいる作業だ。
資料室の中は地上とは違う種類の静寂に満ちていた。
空気はひんやりと乾燥し、積年の白い埃が光の筋に舞いう。古いインクと羊皮紙の匂いが、エレナの鼻腔をくすぐる。
彼女は黙々と、インクが掠れた文字を追い辞書を引き、翻訳を試みる。指先はインクで汚れ、肩は凝り固まる。
だがこの静寂と単調さがむしろ心地よかった。
誰とも話さなくていい。ただ、目の前の文字と向き合っていればいい。壁に掛けられた古い時計の音だけが、彼女の孤独な努力の証人であるかのように、規則正しく時を刻んでいた。
一番の憂鬱な時間は、他の短期留学生たちとともに行うヒーラー業務の補佐である。
週3日の勤務でよいが、拘束時間が長い。
最低12時間は働きづめである。
もちろん、働く分、実のある仕事である。
ただ、くらいつくのに必死で…努力する真面目な学生である。
いや、正直に記述すると、エレナは落第生であった。
あまりにも不器用、いや指導教官である上位ヒーラーの言葉が聞き取れず間違いばかり犯すのだ。
だから、今もこうして一人で落ちこんでいる。
加えて、19歳の一人暮らしはあまりにも孤独だった。
資料室の地下迷宮から上は、セント・マンゴ魔法疾患傷害病院という巨大な生命体が絶えず呼吸し、脈打つ場所だ。
エレナが実習や教育補助として足を踏み入れる病棟や治療室は、資料室の静謐な孤独とは対極にある。制御された混沌と、生々しい現実が支配する空間だ。廊下には薬草を煮詰める匂い、消毒液の鋭い匂い、そして微かに甘く危険な瘴気のような匂いが混じり合い、壁には原因不明の発光する苔が生えていたり、時折り、閉ざされたドアの向こうから獣のような咆哮や、ガラスの割れる甲高い音が響いたりした。
エレナはまだ、本格的な治療行為を許可されているわけではない。彼女の役割は、ベテランヒーラーたちの補助——膨大な量の羊皮紙カルテの整理、指定された魔法薬の準備と管理、患者のバイタルサイン(脈拍、魔力反応、体温なども含む)の記録、そして時には、パニックを起こした患者を落ち着かせるための基本的な精神安定呪文の詠唱などだ。
それでも、彼女は魔法医療の現実を目の当たりにするには十分すぎるほどの機会に恵まれていた。
ある時は、禁止されている決闘呪文を浴びて、皮膚が鱗のように硬化してしまった少年。彼の苦痛に満ちたうめき声を聞きながら、エレナは指定された軟化薬を震える手で塗り込んだ。
またある時は、魔法薬の調合ミスで、猫の耳と尻尾が消えなくなった中年魔法使い。彼はプライドを傷つけられ、ひどく不機嫌そうに悪態を吐いていたが、エレナは毛並みを整えるための特殊な櫛の使い方を説明しなければならなかった。
そして、最もエレナの心を揺さぶったのは、禁じられた森で未知の魔法生物に襲われ、徐々に体が白い石膏のように変化していく呪いを受けた若い女性だった。
彼女の瞳から生気が失われていくのを、エレナは記録を取りながら、ただ無力に見ていることしかできなかった。
「感傷的になる暇があったら、次の手順を確認なさいスズキ」
背後からかけられた声に、エレナはびくりと肩を震わせた。
振り返ると、そこにはマージョリー・ホプカークが、白鳥が水面を滑るかのように音もなく立っていた。
彼女の白衣は、病院の混沌の中にあってもまるで魔法のように一点の汚れもなく、糊がきいて角張っている。その鋭い灰色の瞳は、エレナの心の奥底まで見透かすように、真っ直ぐに彼女を射抜いていた。
「貴女が翻訳した昨日の記録、古代ルーンの解釈に誤りがあったわ。あの呪いは単純な衰弱効果じゃない、魂そのものを蝕む類のものよ。基礎がなっていないわね。もう一度、関連文献を読み返しなさい。それから、第3病棟のゴブリン風邪の患者、熱が下がっていないわ。解熱薬の調合手順、貴女が説明できる?」
ホプカークの指導は常に厳格で、一切の言い訳を許さなかった。
彼女の言葉は短く、的確で、エレナの知識不足や経験の浅さを容赦なく暴き出した。
しかし、その厳しさの中に、エレナは時折、深い経験に裏打ちされた確かな知識と、患者に対する揺るぎない責任感を感じ取ることができた。彼女が難解な呪いを解き明かし、瀕死の患者を救う場面に立ち会うたび、エレナは自身の未熟さを痛感すると同時に、この厳しい上司に対する畏敬の念を深めていった。
それでも、魔法医療の限界という現実は、エレナの心を重くした。先の記憶改竄呪文の犠牲者だけでなく、強力な闇の魔術によって魂に深い傷を負い、もはや人格そのものが変質してしまった者。
あるいは、魔法的な遺伝疾患により、徐々に魔力が枯渇し、衰弱していく運命にある者。
聖マンゴには、現代の魔法医療技術をもってしても、根本的な治療が不可能な患者たちが数多く存在した。彼らの虚ろな瞳や、家族の絶望的な表情を見るたびに、エレナは「誰かを救いたい」という自身の願いの、なんと無力で、傲慢なものであったかを思い知らされた。
魔法は万能ではない。
そして、癒せない傷は、この世界に確かに存在するのだ。
その事実は、彼女が抱いていた理想の白い輝きに、暗い影を落とした。
長い一日が終わり、疲れ切った体を休める唯一の場所へ帰宅した。
窓の外を眺めると、ロンドンの夜霧が白く街灯を滲ませている。
魔法医療への道は、この埃っぽいアパートの片隅から、静かに始まっているのだ。
ベットに体を埋めたい衝動を抑えて、何とか机の前に座る。
夜は小さな部屋のランプの下で、インクの染みを指でなぞりながら辞書を繰る時間は、孤独でありながらも、焦燥感を減らすことのできる唯一の時間だった。
最初にコーディネーターが用意した部屋は既に引き払い、安くて居心地の良いアパートを紹介してもらった。
聖マンゴのすぐ近くであるが、職場の人間ともマグルとも会うことのない一人になれる唯一の時間。
1LDKの部屋を照らす月明りが新居の決め手でもある。
故郷の家族とは、もうずいぶん連絡を取っていなかった。
彼女をこの場所へと駆り立てたのは、誰かを救いたいという純粋な願いと、それと同じくらい強い逃避だった。
だが、時折誰かにこの苦しさと痛みを話したくてたまらなくなる。
あの資料室で未知の知識に触れた時の喜び、そして、いつか誰かの痛みを和らげることができるかもしれないという、僅かな希望。それだけを頼りに、エレナは顔を上げて本に向きあった。
夜はまだ長い。
絶えず降り続く霧雨が石畳を濡らし、車が道路を通るたびに水しぶきが上がる。
休憩室の窓にもたれかかり、外を眺めている姿を両親が見ていたら、何をサボっているのかと叱責が飛びそうである。
だがここはロンドン。日本から遠く離れ、両親とはしばらく連絡を取っていない。彼らは半ば強引にこの地を選んだ私を快く思っていないため、便りも連絡もない。
実際に小言が飛んでくることは一生ないだろう。
故郷は息苦しい閉鎖空間で、どこで誰が見ているかわからない。常に神経を張り詰めていなければならなかった。思春期まっさかりのエレナには耐えられず、故郷に嫌気がさすのは当然に流れであった。
田舎を出て都会に出る方針も選択肢にはあったが、母国そのものが嫌になり島国から島国へと飛び出したのだ。
日本を発つ時の、あの抜けるような青空が、今はもう遠い記憶の中の絵画のようだ。
学校を卒業したばかりで、古びた旅行鞄を強く握りしめながら、己を叱咤激励していた頃を思い出していた。
聖マンゴ魔法疾患傷害病院。
その名は魔法界の医療を志す者なら誰もが知る、歴史と権威ある学び舎であり、同時に最前線でもある。
エレナは、この病院が提供する外国人ヒーラー志望生向けの短期留学制度——語学研修と実習を兼ねた特別なプログラム——に参加するため、遥か東の島国からこの英国にやって来たのだ。
魔法医療を学んで、ヒーラーになりたい。漠然と癒術師の道を志したのは己の中に眠る責任感と使命感に突き動かされていたのだろう。
高校を卒業したばかりのエレナはまぶしいほどやる気に満ち溢れていた。
未熟な知識と技術、拙い英語を持ってこの地に降り立った最初の一年はエレナにとって最高の一年だったと言えるだろう。
日本の教育機関の卒業月とイギリスは半年間時期がずれているのだで、3月で学校を卒業した後、コーディネーターが手配したアパートに住み込み、9月までの半年間は午前中を語学勉強、午後は観光に費やした。
新しい土地、見知らぬ人々、10代の少女には刺激が強すぎて、あっという間に目的を忘れてしまった。
それから9月はオリエンテーションに魔法医療の基本講座、友達はできなかったけれど、ただ体力とガッツがあり、勉強に明け暮れる日々であった。
一年という月日をスキップしたかのように楽しい日々はあっという間に終わってしまった。
そう、英国に降り立ってから1年が経過し、4月からの実地訓練が始まるまでは。
実地訓練が始まって2ヶ月しか経っていないのに、まるで遠い過去のように思い出したエレナは、深くため息をついた。
ふーっと長く吐いた息が休憩室に響き渡る。
聖マンゴの内部は、外の灰色の静けさとは対照的だった。
慌ただしく行き交う白衣のヒーラーたち、空中を漂う診断用の魔法球、奇妙なうめき声や、時折聞こえる小さな爆発音。壁には得体の知れない染みがいくつも残り、空気には消毒薬と、それだけでは消しきれない甘く不快な病の匂いが混じり合っている。
エレナは、その空気に圧倒され疲れ切った見習いヒーラーである。
長い一日の中に訪れるつかの間の休息を噛みしめるように、両手を上げて背筋を伸ばした。
ここが自分の新しい戦場なのだ、もう少し、あともう少しと、言い聞かせる。
実地訓練と併せて、短期留学生向けに設けられた週に数コマの座学は、エレナの予想を遥かに超えて高度だった。
最初の半年の基礎講座は一体何だったのかと思わせるほど、教授の早口な英語、飛び交う専門用語、複雑な魔法理論。
必死でノートを取り、授業が終われば図書館にこもり、分厚い専門書と首っ引きになる。
そして実習の一環として、エレナが最初に配属されたのは病院の地下深くにある資料室だった。
迷宮のように入り組んだ書架には、何世紀にもわたる患者記録や研究論文が羊皮紙や古びた紙の束となって眠っている。
彼女の仕事は、その膨大な記録の整理と古い言語で書かれた記録の翻訳作業の補佐。
とくに日本語を母語とする彼女の英訳技術が求められていたのだ。だが、日本語と思しき文字は明治時代に英国に渡ったとされる書物ばかりで、20世紀生まれのエレナに読めるわけがない。
書道や古文、漢文が得意であればもっとうまくやれていたのかもしれない。
わからないなりにも必死で調べ上げ、1週間に1冊(資料)を目標に目録を作りあげる。
全体像が分からない分、明確な期限を求められていないのが唯一の救いである。
ヒーラーとしての華やかな仕事とは程遠い、地味で根気のいる作業だ。
資料室の中は地上とは違う種類の静寂に満ちていた。
空気はひんやりと乾燥し、積年の白い埃が光の筋に舞いう。古いインクと羊皮紙の匂いが、エレナの鼻腔をくすぐる。
彼女は黙々と、インクが掠れた文字を追い辞書を引き、翻訳を試みる。指先はインクで汚れ、肩は凝り固まる。
だがこの静寂と単調さがむしろ心地よかった。
誰とも話さなくていい。ただ、目の前の文字と向き合っていればいい。壁に掛けられた古い時計の音だけが、彼女の孤独な努力の証人であるかのように、規則正しく時を刻んでいた。
一番の憂鬱な時間は、他の短期留学生たちとともに行うヒーラー業務の補佐である。
週3日の勤務でよいが、拘束時間が長い。
最低12時間は働きづめである。
もちろん、働く分、実のある仕事である。
ただ、くらいつくのに必死で…努力する真面目な学生である。
いや、正直に記述すると、エレナは落第生であった。
あまりにも不器用、いや指導教官である上位ヒーラーの言葉が聞き取れず間違いばかり犯すのだ。
だから、今もこうして一人で落ちこんでいる。
加えて、19歳の一人暮らしはあまりにも孤独だった。
資料室の地下迷宮から上は、セント・マンゴ魔法疾患傷害病院という巨大な生命体が絶えず呼吸し、脈打つ場所だ。
エレナが実習や教育補助として足を踏み入れる病棟や治療室は、資料室の静謐な孤独とは対極にある。制御された混沌と、生々しい現実が支配する空間だ。廊下には薬草を煮詰める匂い、消毒液の鋭い匂い、そして微かに甘く危険な瘴気のような匂いが混じり合い、壁には原因不明の発光する苔が生えていたり、時折り、閉ざされたドアの向こうから獣のような咆哮や、ガラスの割れる甲高い音が響いたりした。
エレナはまだ、本格的な治療行為を許可されているわけではない。彼女の役割は、ベテランヒーラーたちの補助——膨大な量の羊皮紙カルテの整理、指定された魔法薬の準備と管理、患者のバイタルサイン(脈拍、魔力反応、体温なども含む)の記録、そして時には、パニックを起こした患者を落ち着かせるための基本的な精神安定呪文の詠唱などだ。
それでも、彼女は魔法医療の現実を目の当たりにするには十分すぎるほどの機会に恵まれていた。
ある時は、禁止されている決闘呪文を浴びて、皮膚が鱗のように硬化してしまった少年。彼の苦痛に満ちたうめき声を聞きながら、エレナは指定された軟化薬を震える手で塗り込んだ。
またある時は、魔法薬の調合ミスで、猫の耳と尻尾が消えなくなった中年魔法使い。彼はプライドを傷つけられ、ひどく不機嫌そうに悪態を吐いていたが、エレナは毛並みを整えるための特殊な櫛の使い方を説明しなければならなかった。
そして、最もエレナの心を揺さぶったのは、禁じられた森で未知の魔法生物に襲われ、徐々に体が白い石膏のように変化していく呪いを受けた若い女性だった。
彼女の瞳から生気が失われていくのを、エレナは記録を取りながら、ただ無力に見ていることしかできなかった。
「感傷的になる暇があったら、次の手順を確認なさいスズキ」
背後からかけられた声に、エレナはびくりと肩を震わせた。
振り返ると、そこにはマージョリー・ホプカークが、白鳥が水面を滑るかのように音もなく立っていた。
彼女の白衣は、病院の混沌の中にあってもまるで魔法のように一点の汚れもなく、糊がきいて角張っている。その鋭い灰色の瞳は、エレナの心の奥底まで見透かすように、真っ直ぐに彼女を射抜いていた。
「貴女が翻訳した昨日の記録、古代ルーンの解釈に誤りがあったわ。あの呪いは単純な衰弱効果じゃない、魂そのものを蝕む類のものよ。基礎がなっていないわね。もう一度、関連文献を読み返しなさい。それから、第3病棟のゴブリン風邪の患者、熱が下がっていないわ。解熱薬の調合手順、貴女が説明できる?」
ホプカークの指導は常に厳格で、一切の言い訳を許さなかった。
彼女の言葉は短く、的確で、エレナの知識不足や経験の浅さを容赦なく暴き出した。
しかし、その厳しさの中に、エレナは時折、深い経験に裏打ちされた確かな知識と、患者に対する揺るぎない責任感を感じ取ることができた。彼女が難解な呪いを解き明かし、瀕死の患者を救う場面に立ち会うたび、エレナは自身の未熟さを痛感すると同時に、この厳しい上司に対する畏敬の念を深めていった。
それでも、魔法医療の限界という現実は、エレナの心を重くした。先の記憶改竄呪文の犠牲者だけでなく、強力な闇の魔術によって魂に深い傷を負い、もはや人格そのものが変質してしまった者。
あるいは、魔法的な遺伝疾患により、徐々に魔力が枯渇し、衰弱していく運命にある者。
聖マンゴには、現代の魔法医療技術をもってしても、根本的な治療が不可能な患者たちが数多く存在した。彼らの虚ろな瞳や、家族の絶望的な表情を見るたびに、エレナは「誰かを救いたい」という自身の願いの、なんと無力で、傲慢なものであったかを思い知らされた。
魔法は万能ではない。
そして、癒せない傷は、この世界に確かに存在するのだ。
その事実は、彼女が抱いていた理想の白い輝きに、暗い影を落とした。
長い一日が終わり、疲れ切った体を休める唯一の場所へ帰宅した。
窓の外を眺めると、ロンドンの夜霧が白く街灯を滲ませている。
魔法医療への道は、この埃っぽいアパートの片隅から、静かに始まっているのだ。
ベットに体を埋めたい衝動を抑えて、何とか机の前に座る。
夜は小さな部屋のランプの下で、インクの染みを指でなぞりながら辞書を繰る時間は、孤独でありながらも、焦燥感を減らすことのできる唯一の時間だった。
最初にコーディネーターが用意した部屋は既に引き払い、安くて居心地の良いアパートを紹介してもらった。
聖マンゴのすぐ近くであるが、職場の人間ともマグルとも会うことのない一人になれる唯一の時間。
1LDKの部屋を照らす月明りが新居の決め手でもある。
故郷の家族とは、もうずいぶん連絡を取っていなかった。
彼女をこの場所へと駆り立てたのは、誰かを救いたいという純粋な願いと、それと同じくらい強い逃避だった。
だが、時折誰かにこの苦しさと痛みを話したくてたまらなくなる。
あの資料室で未知の知識に触れた時の喜び、そして、いつか誰かの痛みを和らげることができるかもしれないという、僅かな希望。それだけを頼りに、エレナは顔を上げて本に向きあった。
夜はまだ長い。
1/10ページ
