第1部 チャリング・クロス・ロード
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クリスマス休暇が過ぎ、ホグワーツには春の気配が漂い始めていた。
待ちに待った春に浮かれ気味な下級生を尻目に、五年生たちOWL試験という名の分厚い壁が迫ってくる前の対策でピリついていた。
図書室は連日満員で、談話室の暖炉の前にも、夜遅くまで参考書を広げる生徒たちの姿があった。
私もその一人に混じり、クィレル教授のマグル学は「優」を取ろうと必死に机に齧り付いていた。
山のような課題と、終わりの見えない暗記作業。
眠気と焦りが、じわじわと精神を蝕んでいく。
そんな息の詰まるような日々の中で、私の心の支えとなっていたのは、あの雪の日のホグズミードでの出来事だった。
先生の、驚いたような顔。
赤くなった耳。
そして「君がいてくれて、心強かったです」という、思いがけない言葉。
あの一瞬の温かさが、私の中で消えずに灯り続けていた。
先生への想いは、もう抑えきれないほど大きくなっていた。
試験が終わったら、伝えよう。
今度こそ、ちゃんと私の言葉で。
この気持ちがただの憧れや、一方的な思い込みではないのだと。
たとえ、どんな答えが返ってきたとしても。
「私、先生に告白しようと思うんだ」
試験期間中のある夜、疲れてぼんやりと窓の外を眺めていた私に、隣で同じように疲れ果てた顔で羊皮紙と格闘していたミランダが驚いたように顔を上げた。
「…本気で?」
「うん」
私は、頷いた。
「振られるかもしれないけど、ううん、きっと振られると思う。でもね、言わないで後悔するのは、もっと嫌なんだ」
ミランダは、しばらく黙って私を見つめていたが、やがてふっと息を吐いて、私の手をぎゅっと握った。
「…そっか。決めたんだね。…うん、カレンなら大丈夫だよ。ウチ、応援してるから」
その力強い励ましに、涙が出そうになるのを必死で堪えた。
疲れ切っていた頭と恥ずかしくない姿でクィレル教授に会いたい。
私のモチベーションはそれだけで保たれていた。
そこからは本当に勉強、勉強の毎日だった。
今まで勉強を疎かに…試験の1週間まえだけ慌てて勉強するような寮生であったから、復習する範囲が多岐にわたっていた。
将来の展望がいまだにないため、捨て教科というものが選べない。
6年に進級した際、将来の選択の幅があるように、苦手なら闇の魔術に対する防衛術含め必死で暗記科目を叩き込んでいた。
だから、クィレル教授とは授業以外で会う接点がなかった。
そもそも、夏のチャリング・クロス・ロードでの出会いや、冬のホグズミードでの偶然はそうやすやすと起こらない。
自分から教授に声をかけに行くのは恥ずかしくてできず、ただ遠くから見つめるだけ。
そいて冬が通り過ぎ、短い春が終わり、最後の試験が終わった。
長かった戦いから解放された生徒たちの歓声が、城中に響き渡る。
私も、友人たちと喜びを分かち合ったけれど、心の中は別の緊張感でいっぱいだった。
その日の夕暮れ。
私はホグワーツの湖畔へと続く、なだらかな坂道を一人で歩いていた。
約束の時間まで、まだ少しある。
空と湖は、淡いオレンジ色と紫色に染まり始め、風は凪ぎ、水面は鏡のように静まり返っている。
世界があまりにも美しくて、それが逆に私の胸を締め付けた。
(大丈夫。言える。ちゃんと、伝えるんだ)
何度も、何度も、心の中で繰り返す。
柳の木が枝を垂らす、湖のほとり。
そこに彼はもう来ていた。
クィレル教授。
彼は湖の向こうの禁じられた森の方を、ぼんやりと眺めている。
私の足音に気づいて、ゆっくりと振り返った。
夕陽を背にした彼の表情は、影になってよく見えない。
「…先生」
呼びかける声が、掠れてしまった。
「ああカレン君。…試験、終わったのですね。お疲れ様でした」
彼は、静かに言った。
その声にはいつものような吃音も、あの雪の日に見せたような動揺もなかった。
ただ、ひどく疲れているようなそんな響きがあった。
「先生も、これから採点ですよね。」
「ええ、私は受け持つ生徒がそれほど多くないので、他の先生方に比べれば、すぐに終わりますが」
私たちはしばらくの間、何も言わずにただ湖を見ていた。
遠くで水鳥が鳴く声だけが聞こえる。
沈黙が重く、苦しい。
言わなければ。
今、この瞬間を逃したら、きっともう二度と言うことはできない。
「あの、先生…!」
意を決して、私は口を開いた。
心臓が、喉元までせり上がってくるような感覚。
指先が冷たい。
「私…」
言葉が、うまく続かない。
「私、先生のことが…好き、です…!」
声が震えた。
途切れ途切れだったかもしれない。
それでも、私は彼の目を、真っ直ぐに見つめて言った。
「夏に、ロンドンでお会いした時から…ずっと、 先生の、優しいところも、不器用なところも…一人で頑張っているところを、見てきました。だから…だから、私は…!」
視界が滲み始める。
だめ、泣いちゃだめだ。
ちゃんと、言わなくちゃ。
言葉にならない想いが、涙になって溢れそうになるのを、必死で堪える。
どうか、届いてほしい。
私の、この気持ちが。
先生は、ただ黙って、私の言葉を聞いていた。
その薄茶色の瞳が驚きに見開かれ、次の瞬間には、深い、深い苦悩の色に染まっていくのを、私は見た。
彼は息を呑み、何かを言おうとして、でも言葉にならずに、ただ唇を強く噛み締めた。
彼の喉が、ごくりと動くのが見えた。
長い、長い沈黙。
夕暮れの風が、私たちの間を吹き抜けていく。
それはまるで、永遠にも感じられる時間だった。
「……カレン君」
やがて、彼が絞り出すように言った声は、痛々しいほどに震えていた。
「君の…その気持ちは…本当に、嬉しいのです。僕のような人間に…そんな風に、真っ直ぐな気持ちを向けてくれるなんて…光栄、ですらあります。」
彼の目にも夕陽がきらりと反射して、それが涙のように見えた。
「だが…」
彼は、そこで言葉を切った。
俯いて、自分の足元を見つめている。
「駄目なのです、カレン君」
その声は、ほとんど囁きに近かった。
「僕は…君のような、才能に溢れた人の隣にいる資格なんて、ないのです。僕には君が期待するようなものは、何一つとしてありません。僕のような人間がそばにいたら…君のその輝きを、曇らせてしまうだけだ」
彼は、決して私の目を見ようとはしなかった。
「君には、もっと相応しい、輝かしい未来が待っています。僕では…駄目なのです。君には若い人が似あうと思います。」
それは優しい、あまりにも優しい拒絶の言葉だった。
彼の自己卑下と、私への気遣いが痛いほど伝わってきて、それが余計に私の心を締め付けた。
ガラス細工が砕け散るような、鋭い痛みが胸を貫いた。
分かっていたはずなのに。
心のどこかで、覚悟していたはずなのに。
彼の口から紡がれる言葉の一つ一つが、私の心を、希望を、粉々に砕いていく。
「でも…」
声にならない問いが、唇から漏れた。
涙がもう止めどなく頬を伝っていく。
視界が歪んで、彼の姿も、美しいはずの夕焼けも何もかもが滲んで見えた。
先生は苦しそうに顔を歪めたまま、ゆっくりと私に背を向けた。
「…忘れてください。僕のことなど」
その囁きは、風に掻き消されそうなくらい、小さかった。
彼は一度も振り返ることなく、夕闇が迫る湖畔を、静かに歩き去っていった。
茜色に染まる空の下、彼の孤独な影がどんどん小さくなっていく。
私は、その場に立ち尽くしたまま、彼の背中が見えなくなるまで、ただ泣いていた。
湖面を渡る風が、私の涙を冷たく乾かしていく。
伝えられた。
ちゃんと、言えた。
でも、届かなかった。
私の初めての恋は夕暮れの空の色みたいに美しくて、どうしようもなく切ない痛みだけを残して、終わった。
ホグワーツでの五年生の終わり。
それは私の青春の一つの時代の終わりでもあった。
初めての恋は、切ない痛みだけを残した。
待ちに待った春に浮かれ気味な下級生を尻目に、五年生たちOWL試験という名の分厚い壁が迫ってくる前の対策でピリついていた。
図書室は連日満員で、談話室の暖炉の前にも、夜遅くまで参考書を広げる生徒たちの姿があった。
私もその一人に混じり、クィレル教授のマグル学は「優」を取ろうと必死に机に齧り付いていた。
山のような課題と、終わりの見えない暗記作業。
眠気と焦りが、じわじわと精神を蝕んでいく。
そんな息の詰まるような日々の中で、私の心の支えとなっていたのは、あの雪の日のホグズミードでの出来事だった。
先生の、驚いたような顔。
赤くなった耳。
そして「君がいてくれて、心強かったです」という、思いがけない言葉。
あの一瞬の温かさが、私の中で消えずに灯り続けていた。
先生への想いは、もう抑えきれないほど大きくなっていた。
試験が終わったら、伝えよう。
今度こそ、ちゃんと私の言葉で。
この気持ちがただの憧れや、一方的な思い込みではないのだと。
たとえ、どんな答えが返ってきたとしても。
「私、先生に告白しようと思うんだ」
試験期間中のある夜、疲れてぼんやりと窓の外を眺めていた私に、隣で同じように疲れ果てた顔で羊皮紙と格闘していたミランダが驚いたように顔を上げた。
「…本気で?」
「うん」
私は、頷いた。
「振られるかもしれないけど、ううん、きっと振られると思う。でもね、言わないで後悔するのは、もっと嫌なんだ」
ミランダは、しばらく黙って私を見つめていたが、やがてふっと息を吐いて、私の手をぎゅっと握った。
「…そっか。決めたんだね。…うん、カレンなら大丈夫だよ。ウチ、応援してるから」
その力強い励ましに、涙が出そうになるのを必死で堪えた。
疲れ切っていた頭と恥ずかしくない姿でクィレル教授に会いたい。
私のモチベーションはそれだけで保たれていた。
そこからは本当に勉強、勉強の毎日だった。
今まで勉強を疎かに…試験の1週間まえだけ慌てて勉強するような寮生であったから、復習する範囲が多岐にわたっていた。
将来の展望がいまだにないため、捨て教科というものが選べない。
6年に進級した際、将来の選択の幅があるように、苦手なら闇の魔術に対する防衛術含め必死で暗記科目を叩き込んでいた。
だから、クィレル教授とは授業以外で会う接点がなかった。
そもそも、夏のチャリング・クロス・ロードでの出会いや、冬のホグズミードでの偶然はそうやすやすと起こらない。
自分から教授に声をかけに行くのは恥ずかしくてできず、ただ遠くから見つめるだけ。
そいて冬が通り過ぎ、短い春が終わり、最後の試験が終わった。
長かった戦いから解放された生徒たちの歓声が、城中に響き渡る。
私も、友人たちと喜びを分かち合ったけれど、心の中は別の緊張感でいっぱいだった。
その日の夕暮れ。
私はホグワーツの湖畔へと続く、なだらかな坂道を一人で歩いていた。
約束の時間まで、まだ少しある。
空と湖は、淡いオレンジ色と紫色に染まり始め、風は凪ぎ、水面は鏡のように静まり返っている。
世界があまりにも美しくて、それが逆に私の胸を締め付けた。
(大丈夫。言える。ちゃんと、伝えるんだ)
何度も、何度も、心の中で繰り返す。
柳の木が枝を垂らす、湖のほとり。
そこに彼はもう来ていた。
クィレル教授。
彼は湖の向こうの禁じられた森の方を、ぼんやりと眺めている。
私の足音に気づいて、ゆっくりと振り返った。
夕陽を背にした彼の表情は、影になってよく見えない。
「…先生」
呼びかける声が、掠れてしまった。
「ああカレン君。…試験、終わったのですね。お疲れ様でした」
彼は、静かに言った。
その声にはいつものような吃音も、あの雪の日に見せたような動揺もなかった。
ただ、ひどく疲れているようなそんな響きがあった。
「先生も、これから採点ですよね。」
「ええ、私は受け持つ生徒がそれほど多くないので、他の先生方に比べれば、すぐに終わりますが」
私たちはしばらくの間、何も言わずにただ湖を見ていた。
遠くで水鳥が鳴く声だけが聞こえる。
沈黙が重く、苦しい。
言わなければ。
今、この瞬間を逃したら、きっともう二度と言うことはできない。
「あの、先生…!」
意を決して、私は口を開いた。
心臓が、喉元までせり上がってくるような感覚。
指先が冷たい。
「私…」
言葉が、うまく続かない。
「私、先生のことが…好き、です…!」
声が震えた。
途切れ途切れだったかもしれない。
それでも、私は彼の目を、真っ直ぐに見つめて言った。
「夏に、ロンドンでお会いした時から…ずっと、 先生の、優しいところも、不器用なところも…一人で頑張っているところを、見てきました。だから…だから、私は…!」
視界が滲み始める。
だめ、泣いちゃだめだ。
ちゃんと、言わなくちゃ。
言葉にならない想いが、涙になって溢れそうになるのを、必死で堪える。
どうか、届いてほしい。
私の、この気持ちが。
先生は、ただ黙って、私の言葉を聞いていた。
その薄茶色の瞳が驚きに見開かれ、次の瞬間には、深い、深い苦悩の色に染まっていくのを、私は見た。
彼は息を呑み、何かを言おうとして、でも言葉にならずに、ただ唇を強く噛み締めた。
彼の喉が、ごくりと動くのが見えた。
長い、長い沈黙。
夕暮れの風が、私たちの間を吹き抜けていく。
それはまるで、永遠にも感じられる時間だった。
「……カレン君」
やがて、彼が絞り出すように言った声は、痛々しいほどに震えていた。
「君の…その気持ちは…本当に、嬉しいのです。僕のような人間に…そんな風に、真っ直ぐな気持ちを向けてくれるなんて…光栄、ですらあります。」
彼の目にも夕陽がきらりと反射して、それが涙のように見えた。
「だが…」
彼は、そこで言葉を切った。
俯いて、自分の足元を見つめている。
「駄目なのです、カレン君」
その声は、ほとんど囁きに近かった。
「僕は…君のような、才能に溢れた人の隣にいる資格なんて、ないのです。僕には君が期待するようなものは、何一つとしてありません。僕のような人間がそばにいたら…君のその輝きを、曇らせてしまうだけだ」
彼は、決して私の目を見ようとはしなかった。
「君には、もっと相応しい、輝かしい未来が待っています。僕では…駄目なのです。君には若い人が似あうと思います。」
それは優しい、あまりにも優しい拒絶の言葉だった。
彼の自己卑下と、私への気遣いが痛いほど伝わってきて、それが余計に私の心を締め付けた。
ガラス細工が砕け散るような、鋭い痛みが胸を貫いた。
分かっていたはずなのに。
心のどこかで、覚悟していたはずなのに。
彼の口から紡がれる言葉の一つ一つが、私の心を、希望を、粉々に砕いていく。
「でも…」
声にならない問いが、唇から漏れた。
涙がもう止めどなく頬を伝っていく。
視界が歪んで、彼の姿も、美しいはずの夕焼けも何もかもが滲んで見えた。
先生は苦しそうに顔を歪めたまま、ゆっくりと私に背を向けた。
「…忘れてください。僕のことなど」
その囁きは、風に掻き消されそうなくらい、小さかった。
彼は一度も振り返ることなく、夕闇が迫る湖畔を、静かに歩き去っていった。
茜色に染まる空の下、彼の孤独な影がどんどん小さくなっていく。
私は、その場に立ち尽くしたまま、彼の背中が見えなくなるまで、ただ泣いていた。
湖面を渡る風が、私の涙を冷たく乾かしていく。
伝えられた。
ちゃんと、言えた。
でも、届かなかった。
私の初めての恋は夕暮れの空の色みたいに美しくて、どうしようもなく切ない痛みだけを残して、終わった。
ホグワーツでの五年生の終わり。
それは私の青春の一つの時代の終わりでもあった。
初めての恋は、切ない痛みだけを残した。
