第1部 チャリング・クロス・ロード
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
九月一日。
キングス・クロス駅の喧騒は、まるで遠い世界の響きのように感じられるだろうが、ホグワーツ5年生の私にとってはもう慣れた光景だ。
9と4分の3番線のホームに滑り込んだ深紅の蒸気機関車、ホグワーツ特急。
その窓際の席に座り、流れゆく景色を眺めていると、夏のロンドンでの出来事が、淡い光を纏ったフィルムのように心の中で再生される。
あの、チャリング・クロス・ロードの白い陽射し。
クィレル教授の吃音のない、少し早口な声。
擦りむいた手のひらを隠す不器用な仕草。
そして最後に向けられた、はにかむような笑顔。
思い出すだけで、胸の奥がきゅんと音を立てる。
頬が熱くなるのを感じて、私は慌てて窓の外に視線を戻した。
空は高く澄んで、ゆっくりと秋の色を帯び始めている。
あの日まっすぐ家に帰った私は、ふとした瞬間、何気ない日常の中であの出来事を思い出していた。
友人のミランダには伝えないつもりであったが、もう心内を誰かに話したくてたまらなかった。
コンパートメントで二人きりになると、向かいの席に座るミランダに、私は小さな声で夏の思い出を打ち明けた。
「…でね、結局その人がクィレル先生だったってわけ」
夏の日、あの秘密の出会いを。
声が少し震えてしまうのを止められない。
「えー! マジで!?」
ミランダは目を丸くして、手にした魔法雑誌を取り落としそうになった。
「あのクィレル先生が? ターバンなしで? しかも吃音もなし? 超レアじゃない!」
彼女は好奇心いっぱいの顔で身を乗り出してくる。
「うん…すごく、優しくて…あと、ちょっと困ってるみたいで…」
「へえー。で? カレンはその先生に惚れちゃった、と?」
ミランダはニヤニヤしながら言う。
「そ、そんなんじゃ…ただ、ちょっと気になってる、だけ」
顔が熱くなり、少し早くになる。
「ふーん」
ミランダは意味ありげに私を見た。
「まあ、先生相手とか、ウチなら絶対無理だけど、カレンなら応援するよ! なんかあったら、いつでも相談乗るからね!」
そう言って、ウインクしてくれた。
彼女のそういう、カラッとした明るさに、私はいつも救われる。
私をすぐに否定せず、受け止めて秘密を守ってくれる。
だから、私も彼女を大切にする。
思いやりが私たちのきずなを強くするのだ。
列車が速度を落とし、やがて深い緑の中にそびえ立つ、見慣れた城のシルエットが見えてきた。
ホグワーツ。
私の、私たちの帰る場所。
今年は、ただ「帰る」だけじゃない。
あの先生がいる場所へ、私は帰るのだ。
期待と、それと同じくらいの不安を抱えて。
新学期開始の宴が催される大広間は、何百本もの蝋燭の光できらめき、生徒たちの賑やかな声で満たされていた。
組分け帽子が新入生たちの運命を歌い上げ、それぞれの寮へと送り出していく。
私の視線は、自然と、高い天井の下に設けられた教師陣のテーブルへと吸い寄せられていた。
教授はどこだろうか。
「…いた。」
他の教授たちと少し離れた席に、彼は座っていた。
クィレル教授。
今はちゃんとあの紫色のターバンを巻いている。
でも、夏のロンドンで見た時と同じように、どこか落ち着きがなく、やつれたように見えるのは気のせいだろうか。
彼はほとんど俯いたまま、目の前のゴブレットを神経質そうに指でなぞっている。
その時、ふと、彼が顔を上げた。
目が、合った。
ほんの一瞬。彼の薄茶色の瞳が驚いたように私を捉えた。
時間が止まったような気がした。
大広間の喧騒が遠のき私と彼の間だけに、張り詰めたような静寂が流れる。
でも、それは本当に一瞬のことだった。
彼はすぐに、まるで何かを見てはいけないものを見たかのように、慌てて視線を逸らし、隣に座る小さなフリットウィック先生に、何か早口で話しかけ始めた。
胸が、ちくりと痛んだ。
(…やっぱり、覚えててくれたんだ)
それは小さな喜びのはずなのに、逸らされた視線が、見えない壁のように感じられて、切なかった。
これから、どうなるのだろう。
この一年、私は彼に対してどんな風に向き合っていけばいいのだろう。
降り始めた秋の雨のように、心の中に静かな不安が広がっていく。
それでも、諦めたくない、と思った。
この気持ちは、ひと夏の恋のような気の迷いではないのだから。
マグル学の教室は、ホグワーツの中でも特に日当たりの悪い場所にあったけれど、私はこの授業が好きだった。
未知の世界のことを知るのは、単純に面白い。
そして何よりこの授業は、クィレル先生に会える唯一の時間だったから。
私は、いつもの窓際の席を選んで座った。
突然前の席で授業を聞くなんて、態度ががらりと変わるのは気まずかったからだ。
しかし少しでも、先生の声を近くで聞きたかったし、彼の表情を仕草を見逃したくなかった。
「えー…こ、こんにちは、諸君。きょ、今日は…その…マグルの、医療について、で、ですな…」
教壇に立った先生は、いつものように少し猫背で、そして、やはり吃音がひどかった。
夏のロンドンでの、あの流暢な話し方が嘘のようだ。
ターバンの下からのぞく顔色も、あまり良くない。
それでも、私は彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、必死に耳を澄ませ、羽ペンを走らせた。
時折、彼がこちらに視線を向けるのを感じる。
そのたびに、私の心臓は小さく跳ね、ノートに取る文字が少しだけ震えた。
目が合うと、彼はすぐに動揺したように視線を逸らしてしまうけれど。
授業の終わりに、質疑応答の時間があった。
私は、震える手で、そっと挙手をした。先生が、少し驚いたように私を見る。
「…は、はい、カレン君」
「先生、マグルの民間療法について質問があります」
私は、できるだけ落ち着いて話し始めた。
「薬草学で習ったのですが、マグルの世界でもハーブを薬として使うことがあると聞きました。例えば、安眠効果のあるカモミールとか…」
そこまで言って、私は少しだけ言葉を切った。
そして、思い切って付け加えた。
「先生は、カモミールティーはお好きですか?」
教室の中が一瞬、しんとなる。
先生は、目をぱちくりさせて私を見ていた。
その顔には、驚きと、戸惑いが浮かんでいる。
彼の頬が、微かに赤く染まったように見えた。
「か、カモミール…ですか?」
彼は動揺を隠せない様子だった。
「ああ、ええ…まあ、その…嫌いでは、ありませんが…。そ、それは、また、個人的な…い、いや、大変、良い質問ですね、カレン君!」
彼は急に早口になり、話題を逸らすように続けた。
「そ、そうです、マグルも、経験的に、多くの薬草の効果を、知っていたのですよ! 例えば…」
先生はその後、マグルの薬草利用について、少しだけ熱っぽく語ってくれた。
吃音は相変わらずだったけれど、その瞳には、ほんの一瞬だけ、知的な探求心のような輝きが宿った気がした。
授業が終わると、先生は「し、失礼!」とだけ言って、足早に教室を出て行ってしまった。
私は、自分の席で、まだドキドキしている心臓を抑えていた。
先生と話せた。
私の質問に、少しだけ、個人的な反応を見せてくれた。
カモミールティー、嫌いじゃないって。
それだけのことが、私にとっては空も飛べるような大きな出来事だった。
(少しだけ、近づけたかな…)
教室に残る、チョークの粉と古い本の匂い。
そして、先生が残していった微かな気配。
私は、それらを胸いっぱいに吸い込んで、小さく微笑んだ。
キングス・クロス駅の喧騒は、まるで遠い世界の響きのように感じられるだろうが、ホグワーツ5年生の私にとってはもう慣れた光景だ。
9と4分の3番線のホームに滑り込んだ深紅の蒸気機関車、ホグワーツ特急。
その窓際の席に座り、流れゆく景色を眺めていると、夏のロンドンでの出来事が、淡い光を纏ったフィルムのように心の中で再生される。
あの、チャリング・クロス・ロードの白い陽射し。
クィレル教授の吃音のない、少し早口な声。
擦りむいた手のひらを隠す不器用な仕草。
そして最後に向けられた、はにかむような笑顔。
思い出すだけで、胸の奥がきゅんと音を立てる。
頬が熱くなるのを感じて、私は慌てて窓の外に視線を戻した。
空は高く澄んで、ゆっくりと秋の色を帯び始めている。
あの日まっすぐ家に帰った私は、ふとした瞬間、何気ない日常の中であの出来事を思い出していた。
友人のミランダには伝えないつもりであったが、もう心内を誰かに話したくてたまらなかった。
コンパートメントで二人きりになると、向かいの席に座るミランダに、私は小さな声で夏の思い出を打ち明けた。
「…でね、結局その人がクィレル先生だったってわけ」
夏の日、あの秘密の出会いを。
声が少し震えてしまうのを止められない。
「えー! マジで!?」
ミランダは目を丸くして、手にした魔法雑誌を取り落としそうになった。
「あのクィレル先生が? ターバンなしで? しかも吃音もなし? 超レアじゃない!」
彼女は好奇心いっぱいの顔で身を乗り出してくる。
「うん…すごく、優しくて…あと、ちょっと困ってるみたいで…」
「へえー。で? カレンはその先生に惚れちゃった、と?」
ミランダはニヤニヤしながら言う。
「そ、そんなんじゃ…ただ、ちょっと気になってる、だけ」
顔が熱くなり、少し早くになる。
「ふーん」
ミランダは意味ありげに私を見た。
「まあ、先生相手とか、ウチなら絶対無理だけど、カレンなら応援するよ! なんかあったら、いつでも相談乗るからね!」
そう言って、ウインクしてくれた。
彼女のそういう、カラッとした明るさに、私はいつも救われる。
私をすぐに否定せず、受け止めて秘密を守ってくれる。
だから、私も彼女を大切にする。
思いやりが私たちのきずなを強くするのだ。
列車が速度を落とし、やがて深い緑の中にそびえ立つ、見慣れた城のシルエットが見えてきた。
ホグワーツ。
私の、私たちの帰る場所。
今年は、ただ「帰る」だけじゃない。
あの先生がいる場所へ、私は帰るのだ。
期待と、それと同じくらいの不安を抱えて。
新学期開始の宴が催される大広間は、何百本もの蝋燭の光できらめき、生徒たちの賑やかな声で満たされていた。
組分け帽子が新入生たちの運命を歌い上げ、それぞれの寮へと送り出していく。
私の視線は、自然と、高い天井の下に設けられた教師陣のテーブルへと吸い寄せられていた。
教授はどこだろうか。
「…いた。」
他の教授たちと少し離れた席に、彼は座っていた。
クィレル教授。
今はちゃんとあの紫色のターバンを巻いている。
でも、夏のロンドンで見た時と同じように、どこか落ち着きがなく、やつれたように見えるのは気のせいだろうか。
彼はほとんど俯いたまま、目の前のゴブレットを神経質そうに指でなぞっている。
その時、ふと、彼が顔を上げた。
目が、合った。
ほんの一瞬。彼の薄茶色の瞳が驚いたように私を捉えた。
時間が止まったような気がした。
大広間の喧騒が遠のき私と彼の間だけに、張り詰めたような静寂が流れる。
でも、それは本当に一瞬のことだった。
彼はすぐに、まるで何かを見てはいけないものを見たかのように、慌てて視線を逸らし、隣に座る小さなフリットウィック先生に、何か早口で話しかけ始めた。
胸が、ちくりと痛んだ。
(…やっぱり、覚えててくれたんだ)
それは小さな喜びのはずなのに、逸らされた視線が、見えない壁のように感じられて、切なかった。
これから、どうなるのだろう。
この一年、私は彼に対してどんな風に向き合っていけばいいのだろう。
降り始めた秋の雨のように、心の中に静かな不安が広がっていく。
それでも、諦めたくない、と思った。
この気持ちは、ひと夏の恋のような気の迷いではないのだから。
マグル学の教室は、ホグワーツの中でも特に日当たりの悪い場所にあったけれど、私はこの授業が好きだった。
未知の世界のことを知るのは、単純に面白い。
そして何よりこの授業は、クィレル先生に会える唯一の時間だったから。
私は、いつもの窓際の席を選んで座った。
突然前の席で授業を聞くなんて、態度ががらりと変わるのは気まずかったからだ。
しかし少しでも、先生の声を近くで聞きたかったし、彼の表情を仕草を見逃したくなかった。
「えー…こ、こんにちは、諸君。きょ、今日は…その…マグルの、医療について、で、ですな…」
教壇に立った先生は、いつものように少し猫背で、そして、やはり吃音がひどかった。
夏のロンドンでの、あの流暢な話し方が嘘のようだ。
ターバンの下からのぞく顔色も、あまり良くない。
それでも、私は彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、必死に耳を澄ませ、羽ペンを走らせた。
時折、彼がこちらに視線を向けるのを感じる。
そのたびに、私の心臓は小さく跳ね、ノートに取る文字が少しだけ震えた。
目が合うと、彼はすぐに動揺したように視線を逸らしてしまうけれど。
授業の終わりに、質疑応答の時間があった。
私は、震える手で、そっと挙手をした。先生が、少し驚いたように私を見る。
「…は、はい、カレン君」
「先生、マグルの民間療法について質問があります」
私は、できるだけ落ち着いて話し始めた。
「薬草学で習ったのですが、マグルの世界でもハーブを薬として使うことがあると聞きました。例えば、安眠効果のあるカモミールとか…」
そこまで言って、私は少しだけ言葉を切った。
そして、思い切って付け加えた。
「先生は、カモミールティーはお好きですか?」
教室の中が一瞬、しんとなる。
先生は、目をぱちくりさせて私を見ていた。
その顔には、驚きと、戸惑いが浮かんでいる。
彼の頬が、微かに赤く染まったように見えた。
「か、カモミール…ですか?」
彼は動揺を隠せない様子だった。
「ああ、ええ…まあ、その…嫌いでは、ありませんが…。そ、それは、また、個人的な…い、いや、大変、良い質問ですね、カレン君!」
彼は急に早口になり、話題を逸らすように続けた。
「そ、そうです、マグルも、経験的に、多くの薬草の効果を、知っていたのですよ! 例えば…」
先生はその後、マグルの薬草利用について、少しだけ熱っぽく語ってくれた。
吃音は相変わらずだったけれど、その瞳には、ほんの一瞬だけ、知的な探求心のような輝きが宿った気がした。
授業が終わると、先生は「し、失礼!」とだけ言って、足早に教室を出て行ってしまった。
私は、自分の席で、まだドキドキしている心臓を抑えていた。
先生と話せた。
私の質問に、少しだけ、個人的な反応を見せてくれた。
カモミールティー、嫌いじゃないって。
それだけのことが、私にとっては空も飛べるような大きな出来事だった。
(少しだけ、近づけたかな…)
教室に残る、チョークの粉と古い本の匂い。
そして、先生が残していった微かな気配。
私は、それらを胸いっぱいに吸い込んで、小さく微笑んだ。
