第3部 永遠の影
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時間の感覚が、まるで壊れた時計の針のように不確かに行きつ戻りつしていた。
重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、最初に目に映ったのは白い天井だった。
ひんやりとした、かすかに消毒薬臭が混じった空気が肌を撫でる。
身体の節々が、まるで石になったかのように硬く、痛む。
私は清潔な簡易ベットの上に横たわっていることに気づき、混乱したままゆっくりと身を起こした。
頭がガンガンと鈍く痛み、喉はカラカラに乾いている。
身体に、白い布団とその上に厚手のブランケットがかけられているのに気づいた。
なぜ私は医務室にいるのだろうか。
ふと枕元にあるサイドテーブルに目をやる。
そうだ、私は眠らされて…最後に、先生の涙と赤い閃光が…。
机の上に置いてあったのは、彼の無事を祈って縫い上げた、ハッフルパフのシンボルカラーである黄色いリボンで縁取られた、小さな布袋の護符。
私がクィレル教授に送ったものだ。
探さなければ、クィレル教授を。
慌ててベットから出ようとしたので、私にかけられていた上質な生地のブランケットが落ちた。
クィレル教授が好みそうなブランケットであるが、彼がここまで連れてきてくれたのだろうか。
重い身体を引きずるようにして、医務室を出た。
もう一人誰か寝ているような気がしたが、確かめなかった。
医務室から出て、中央の広場へと足を進める。
廊下は不気味なほど静まり返っていた。
まるで、大きな嵐が全てを薙ぎ払っていった後のような空虚な静けさ。
窓から差し込む光は、もう朝日ではなく午後の気配を帯びている。
どれくらい、眠っていたのだろう。
胸騒ぎが先ほどよりもずっと強く私の心を打ち始める。
よろめくように廊下を歩き出した。
誰か、誰かに会って、何があったのか聞かなければ。
先生は無事なのだろうか。
あの赤い閃光の後、彼はどうしたのだろう。
階段を降り、見慣れた談話室へと続く廊下に出ると、ようやく数人の生徒たちの話し声が聞こえてきた。
しかし、それはいつものような陽気なものではなく、どこか興奮と恐怖が入り混じったような異様な響きを持っていた。
私の姿に気づくと、彼らは一瞬、幽霊でも見たかのように目を見開き、そしてすぐにひそひそと囁き合いながら、私から視線を逸らした。
その時、廊下の向こうから、数人の男子生徒がやけに大きな声で、何かを称賛しながら歩いてくるのが見えた。
「聞いたかよ! ハリー・ポッターが、あのクィレルをやっつけたんだって!」
「ああ! あのターバンの下に『例のあの人』がいたらしいぜ! まるで怪物みたいだったって!」
「マジかよ! すっげえな、ポッター! さすが『生き残った男の子』だ!」
「これでホグワーツも平和だな! あのビクビクしてた変な先生もいなくなったし!」
「レイブンクローの女子生徒も巻き込まれたってよ」
「クィレルに騙されたらしいよ」
「でもクィレルは死んだんだろう?」
彼らの無邪気で、そして残酷な言葉がまるで鋭いガラスの破片のように私の耳に、心に突き刺さった。
クィレル先生が…?
例のあの人が…取り憑いて…?
死んだ、ということ…?
足元から、地面がぐらりと揺らぐような感覚。
壁に手をつかなければ、立っていられなかった。
嘘だ。
何かの間違いだ。
だって、先生は、私を危険から守ろうと…そう言っていたのに…。
「カレン!」
ミランダの声。
彼女が、血相を変えて駆け寄ってきて、私の腕を掴んだ。
「大丈夫!? 顔色が真っ青だよ! ウチ本当に心配したんだからね!あんなことがあって…マダム・ポンフリーは退院して良いって?」
「ミランダ…教えて…何があったの…? 今の話…本当なの…?」
私の声はか細く震えていた。
ミランダは悲しそうに顔を歪めた。
そして語られた事実は、私の最後の希望を無慈悲に粉々に打ち砕くものだった。
先生がヴォルデモートに取り憑かれていたこと。
賢者の石を狙っていたこと。
そして、ハリー・ポッターとの戦いの末に、死んだこと…。
ハリーを称賛する声が、遠くでまだ響いている。
その声と、私の絶望との間のあまりにも大きな溝。
世界が私だけを取り残して、違う物語を違う真実を紡ぎ始めてしまったかのようだった。
呆然とする私を見つけるのは容易かったようで、マダム・ポンフリーが厳しい顔で私の腕をつかんだ。
「アダムスさん! あなたは安静にしていなければなりません! 一体どこへ行こうというのです!」
彼女は、有無を言わせぬ口調で私をベッドへと連れ戻した。
ミランダが「すぐお見舞いに行くね」と手を振っていた。
私を寝かしつけ、手際よく体温計を口に差し込んだ。
抵抗する気力もなく、ただされるがままになっていた。
マダム・ポンフリーが私の脈を取り終え、何か薬を準備しようと背を向けた、まさにその時。
医務室の扉が再び静かに開きダンブルドア校長と、私の寮監であるスプラウト先生が入ってきた。
二人の表情はひどく厳粛でそしてどこか悲しげだった。
「…カレン」
ダンブルドア校長が、穏やかな、しかし重い声で私に語りかけた。
「気分はどうかな」
校長はゆっくりとベッドのそばまで来ると、スプラウト先生と視線を交わし、再び私に向き直った。
「クィレル先生のことは…もう聞いたかね」
私は、小さく頷いた。
「そうか…」
校長は、深いため息をついた。
「カレン、気の毒なことじゃが…君は、彼に利用され…騙されておったのじゃ。彼は、君の優しさや信頼を巧みに使い、自らの目的のために君を操っていた。ヴォルデモートの意思のままに、な」
その言葉は静かでしかし私の心に深く突き刺さった。
「騙されていた」
その一言が、私と先生の間にあった全てのものを、否定するかのようだった。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
涙は出ていなかったけれど、瞳の奥が、じんじんと熱くなるのを感じた。
そして、ダンブルドア校長の青い目を、真っ直ぐに見つめ返して言った。
「いいえ、校長先生」
私の声は、自分でも驚くほど、静かで、そしてはっきりとしていた。
「私は、騙されてはいません」
スプラウト先生が、驚いたように息を呑むのが分かった。
ダンブルドア校長も、わずかに眉を上げた。
「先生は…」
私は続けた。
「ただ、全てを教えてくれなかっただけです。彼も…彼自身も、苦しんでいたのですから。」
それは、強がりだったのかもしれない。
真実から目を背けているだけだったのかもしれない。
でも、そう信じたかったのだ。
私が感じた彼の苦悩も、彼が時折見せた優しさも、全てが嘘だったとは思いたくなかったから。
「…そうか。君にはそう見えておったのじゃな、カレン」
その声は穏やかで、しかしどこか哀しみを湛えているようだった。
「君が大きなショックを受けていることじゃろう。」
校長は言った。
「そして、君が彼に対して特別な感情を抱いていたことも、儂は知っておる。じゃが、君の心の健康のためにも、卒業までの短い間だが、マダム・ポンフリーと定期的に話す時間を設けなさい。これは義務じゃ。君を守るための」
要注意生徒。
カウンセリングの義務付け。
私は大丈夫で必要ない、と反論したかった。
その半月型の眼鏡の奥の青い瞳で、じっと私を見つめていた。
やがて校長がゆっくりと口を開いた。
「君が昨夜、あの古い物置部屋で無事に見つかったのは、本当に幸運じゃった。いや、あるいは…」
校長は、そこで一度言葉を切り、窓の外庭へと視線を向けた。
「…あるいは、それは、クィレル先生の、最後の配慮だったのかもしれん」
私は、思わず顔を上げた。
「昨夜、事件が全て終わった後、儂と数名の教師でお主を探しておったのじゃ」
校長は、ゆっくりと話し始めた。
「点呼を取ったら君がいなくなっていたことに気づいてな。あの忘れられたような物置部屋の扉に、複雑な隠蔽呪文と人避けの呪文、そして保護呪文がかけられているのを見つけたのじゃ。」
私の心臓が、どくんと大きく鳴った。
「見つけられたのは偶然じゃった。呪文を解いて中に入ると、君は長椅子の上で静かに眠っておった。そして君の身体には、このブランケットがかけられておった。」
私は視線を手元にやる。
ああ、このブランケットは先生が私に用意してくれたものなのか。
「これには強力な保温の魔法と、安眠を促す穏やかな呪文が幾重にもかけられておったのじゃよ。クィレル先生が、君が凍えぬように、そして悪夢にうなされぬようにと施したものじゃろう」
守ってくれていたのなら、私もつれていって欲しかった。
スプラウト先生の柔らかい手のひらがそっと握ってくれた。
彼女が心配そうに眉を寄せている、思わず口に出してしまっていたらしい。
「彼は、君を危険な最後の場所へは連れて行かなかった。そして、君の安全を確保しようとした。…それが、何を意味するのか、儂にも断言はできん。彼は、確かに恐ろしい過ちを犯した。闇の力に屈し、そして多くの者を危険に晒した。その罪は、決して消えるものではない」
校長はそこで言葉を切り、今度は真っ直ぐに私の目を見た。
その瞳の奥には、深い、深い慈愛の色が浮かんでいた。
「じゃが、カレン。儂の見る限り、そして昨夜の彼の最後の行動の数々を見る限り…おそらく彼は、君のことを…とても深く、そして大切に想っておったのじゃろうな。そうでなければ、あのような極限の状況で、君の安全を確保し、あのような温かい魔法を残そうとはすまい。彼自身の心の中にも、君という存在が特別な光として灯っておったのかもしれん」
その言葉は、まるで柔らかな陽射しのように、私の凍てついた心に染み込んできた。
涙が、今度こそ、堰を切ったように溢れ出す。
嗚咽が止まらない。
先生が、私を…大切に
「悪い人じゃないんです…だって、苦しんでたから…」
私は、しゃくりあげながら、どうにか彼の心情を理解してもらおうと弁明した。
「私がもっと、ちゃんと、してたらっ」
何をどうしていれば彼を救えたのだろうか。
わからない。
わからないけれど。
スプラウト先生が私にティッシュを渡す。
その配慮が少しだけ私の強張っていた心を解きほぐす。
ダンブルドア校長は、静かに頷いた。
「真実は、彼にしか分からぬことじゃ。じゃが、愛というものは、時に最も暗い闇の中にあっても、その輝きを失わぬものじゃよ」
スプラウト先生が、私の背中を優しくさすってくれる。
その温もりに、私はさらに声を上げて泣いた。
先生は、私を騙していたのかもしれない。
利用していたのかもしれない。
でも、最後の最後に、私を守ろうとしてくれた。
その事実が、私の心の中でほんの少しだけ救いになった。
「だからこそ、カレン」
ダンブルドア校長の声が、再び静かに響いた。
「君が今、これほどまでに混乱し、心を痛めておるのは、当然のことじゃ。この出来事は、君にとってあまりにも重く、そして複雑じゃ。だからこそマダム・ポンフリーと、そして必要であれば儂とも、ゆっくりと話す時間を作ろう。君の心が少しでも軽くなるように。これは君自身のための大切な時間じゃよ」
彼の言葉は、先ほどとは違い私の心にすんなりと受け入れられた。
私は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、小さく、しかしはっきりと頷いた。
医務室の窓の外では、雨が上がり雲の切れ間から、弱々しいけれど確かな陽射しが差し込み始めていた。
それは、まるでこれから私が歩き出す、長く、そしておそらくは困難な道のりを、静かに照らし出しているかのようだった。
医務室には、長い沈黙が落ちた。
窓の外では、いつの間にか降り始めていた雨が、静かにガラス窓を叩いていた。
卒業式の日が来た。
私は、他の卒業生たちと共に、ローブを着て大広間に並んだ。
華やかな雰囲気の中、私の心は上の空だった。
未来への希望よりも、過去への問いと喪失感が心を支配していた。
マダム・ポンフリーとの面談は続いたが、あの日以降、決してクィレル教授への気持ちを語ることはなかった。
列車に乗る前に私はホグワーツの近くにある、あの湖畔を訪れた。
彼に初めて想いを伝えた、あの場所。
公式な墓などない彼のために私が決めた、彼を弔う場所。
湖畔に立ち、静かな水面に一輪の白い花をそっと手向ける。
それは、彼が好きだと言っていたカモミールによく似た花だった。
あなたがくれた温もりも、痛みもそして最後に残されたこのどうしようもない名前のない想いも、このボロボロの護符と共に、全て抱きしめて、私は生きていきます。
あなたの影と共に。
それが、私の選んだ、愛の形だから。
湖畔に吹く風が、私の涙を静かに乾かしていく。
空は高く、どこまでも広がっている。
その空のどこかで、彼が見ていてくれるような気がして、私は、ただ、じっと空を見上げていた。
「もう先生と呼ばなくて済むのに、名前すら呼ばせてくれませんね。」
一度でいいから恋人のように名前で呼んでみたかったな。
~完~
重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、最初に目に映ったのは白い天井だった。
ひんやりとした、かすかに消毒薬臭が混じった空気が肌を撫でる。
身体の節々が、まるで石になったかのように硬く、痛む。
私は清潔な簡易ベットの上に横たわっていることに気づき、混乱したままゆっくりと身を起こした。
頭がガンガンと鈍く痛み、喉はカラカラに乾いている。
身体に、白い布団とその上に厚手のブランケットがかけられているのに気づいた。
なぜ私は医務室にいるのだろうか。
ふと枕元にあるサイドテーブルに目をやる。
そうだ、私は眠らされて…最後に、先生の涙と赤い閃光が…。
机の上に置いてあったのは、彼の無事を祈って縫い上げた、ハッフルパフのシンボルカラーである黄色いリボンで縁取られた、小さな布袋の護符。
私がクィレル教授に送ったものだ。
探さなければ、クィレル教授を。
慌ててベットから出ようとしたので、私にかけられていた上質な生地のブランケットが落ちた。
クィレル教授が好みそうなブランケットであるが、彼がここまで連れてきてくれたのだろうか。
重い身体を引きずるようにして、医務室を出た。
もう一人誰か寝ているような気がしたが、確かめなかった。
医務室から出て、中央の広場へと足を進める。
廊下は不気味なほど静まり返っていた。
まるで、大きな嵐が全てを薙ぎ払っていった後のような空虚な静けさ。
窓から差し込む光は、もう朝日ではなく午後の気配を帯びている。
どれくらい、眠っていたのだろう。
胸騒ぎが先ほどよりもずっと強く私の心を打ち始める。
よろめくように廊下を歩き出した。
誰か、誰かに会って、何があったのか聞かなければ。
先生は無事なのだろうか。
あの赤い閃光の後、彼はどうしたのだろう。
階段を降り、見慣れた談話室へと続く廊下に出ると、ようやく数人の生徒たちの話し声が聞こえてきた。
しかし、それはいつものような陽気なものではなく、どこか興奮と恐怖が入り混じったような異様な響きを持っていた。
私の姿に気づくと、彼らは一瞬、幽霊でも見たかのように目を見開き、そしてすぐにひそひそと囁き合いながら、私から視線を逸らした。
その時、廊下の向こうから、数人の男子生徒がやけに大きな声で、何かを称賛しながら歩いてくるのが見えた。
「聞いたかよ! ハリー・ポッターが、あのクィレルをやっつけたんだって!」
「ああ! あのターバンの下に『例のあの人』がいたらしいぜ! まるで怪物みたいだったって!」
「マジかよ! すっげえな、ポッター! さすが『生き残った男の子』だ!」
「これでホグワーツも平和だな! あのビクビクしてた変な先生もいなくなったし!」
「レイブンクローの女子生徒も巻き込まれたってよ」
「クィレルに騙されたらしいよ」
「でもクィレルは死んだんだろう?」
彼らの無邪気で、そして残酷な言葉がまるで鋭いガラスの破片のように私の耳に、心に突き刺さった。
クィレル先生が…?
例のあの人が…取り憑いて…?
死んだ、ということ…?
足元から、地面がぐらりと揺らぐような感覚。
壁に手をつかなければ、立っていられなかった。
嘘だ。
何かの間違いだ。
だって、先生は、私を危険から守ろうと…そう言っていたのに…。
「カレン!」
ミランダの声。
彼女が、血相を変えて駆け寄ってきて、私の腕を掴んだ。
「大丈夫!? 顔色が真っ青だよ! ウチ本当に心配したんだからね!あんなことがあって…マダム・ポンフリーは退院して良いって?」
「ミランダ…教えて…何があったの…? 今の話…本当なの…?」
私の声はか細く震えていた。
ミランダは悲しそうに顔を歪めた。
そして語られた事実は、私の最後の希望を無慈悲に粉々に打ち砕くものだった。
先生がヴォルデモートに取り憑かれていたこと。
賢者の石を狙っていたこと。
そして、ハリー・ポッターとの戦いの末に、死んだこと…。
ハリーを称賛する声が、遠くでまだ響いている。
その声と、私の絶望との間のあまりにも大きな溝。
世界が私だけを取り残して、違う物語を違う真実を紡ぎ始めてしまったかのようだった。
呆然とする私を見つけるのは容易かったようで、マダム・ポンフリーが厳しい顔で私の腕をつかんだ。
「アダムスさん! あなたは安静にしていなければなりません! 一体どこへ行こうというのです!」
彼女は、有無を言わせぬ口調で私をベッドへと連れ戻した。
ミランダが「すぐお見舞いに行くね」と手を振っていた。
私を寝かしつけ、手際よく体温計を口に差し込んだ。
抵抗する気力もなく、ただされるがままになっていた。
マダム・ポンフリーが私の脈を取り終え、何か薬を準備しようと背を向けた、まさにその時。
医務室の扉が再び静かに開きダンブルドア校長と、私の寮監であるスプラウト先生が入ってきた。
二人の表情はひどく厳粛でそしてどこか悲しげだった。
「…カレン」
ダンブルドア校長が、穏やかな、しかし重い声で私に語りかけた。
「気分はどうかな」
校長はゆっくりとベッドのそばまで来ると、スプラウト先生と視線を交わし、再び私に向き直った。
「クィレル先生のことは…もう聞いたかね」
私は、小さく頷いた。
「そうか…」
校長は、深いため息をついた。
「カレン、気の毒なことじゃが…君は、彼に利用され…騙されておったのじゃ。彼は、君の優しさや信頼を巧みに使い、自らの目的のために君を操っていた。ヴォルデモートの意思のままに、な」
その言葉は静かでしかし私の心に深く突き刺さった。
「騙されていた」
その一言が、私と先生の間にあった全てのものを、否定するかのようだった。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
涙は出ていなかったけれど、瞳の奥が、じんじんと熱くなるのを感じた。
そして、ダンブルドア校長の青い目を、真っ直ぐに見つめ返して言った。
「いいえ、校長先生」
私の声は、自分でも驚くほど、静かで、そしてはっきりとしていた。
「私は、騙されてはいません」
スプラウト先生が、驚いたように息を呑むのが分かった。
ダンブルドア校長も、わずかに眉を上げた。
「先生は…」
私は続けた。
「ただ、全てを教えてくれなかっただけです。彼も…彼自身も、苦しんでいたのですから。」
それは、強がりだったのかもしれない。
真実から目を背けているだけだったのかもしれない。
でも、そう信じたかったのだ。
私が感じた彼の苦悩も、彼が時折見せた優しさも、全てが嘘だったとは思いたくなかったから。
「…そうか。君にはそう見えておったのじゃな、カレン」
その声は穏やかで、しかしどこか哀しみを湛えているようだった。
「君が大きなショックを受けていることじゃろう。」
校長は言った。
「そして、君が彼に対して特別な感情を抱いていたことも、儂は知っておる。じゃが、君の心の健康のためにも、卒業までの短い間だが、マダム・ポンフリーと定期的に話す時間を設けなさい。これは義務じゃ。君を守るための」
要注意生徒。
カウンセリングの義務付け。
私は大丈夫で必要ない、と反論したかった。
その半月型の眼鏡の奥の青い瞳で、じっと私を見つめていた。
やがて校長がゆっくりと口を開いた。
「君が昨夜、あの古い物置部屋で無事に見つかったのは、本当に幸運じゃった。いや、あるいは…」
校長は、そこで一度言葉を切り、窓の外庭へと視線を向けた。
「…あるいは、それは、クィレル先生の、最後の配慮だったのかもしれん」
私は、思わず顔を上げた。
「昨夜、事件が全て終わった後、儂と数名の教師でお主を探しておったのじゃ」
校長は、ゆっくりと話し始めた。
「点呼を取ったら君がいなくなっていたことに気づいてな。あの忘れられたような物置部屋の扉に、複雑な隠蔽呪文と人避けの呪文、そして保護呪文がかけられているのを見つけたのじゃ。」
私の心臓が、どくんと大きく鳴った。
「見つけられたのは偶然じゃった。呪文を解いて中に入ると、君は長椅子の上で静かに眠っておった。そして君の身体には、このブランケットがかけられておった。」
私は視線を手元にやる。
ああ、このブランケットは先生が私に用意してくれたものなのか。
「これには強力な保温の魔法と、安眠を促す穏やかな呪文が幾重にもかけられておったのじゃよ。クィレル先生が、君が凍えぬように、そして悪夢にうなされぬようにと施したものじゃろう」
守ってくれていたのなら、私もつれていって欲しかった。
スプラウト先生の柔らかい手のひらがそっと握ってくれた。
彼女が心配そうに眉を寄せている、思わず口に出してしまっていたらしい。
「彼は、君を危険な最後の場所へは連れて行かなかった。そして、君の安全を確保しようとした。…それが、何を意味するのか、儂にも断言はできん。彼は、確かに恐ろしい過ちを犯した。闇の力に屈し、そして多くの者を危険に晒した。その罪は、決して消えるものではない」
校長はそこで言葉を切り、今度は真っ直ぐに私の目を見た。
その瞳の奥には、深い、深い慈愛の色が浮かんでいた。
「じゃが、カレン。儂の見る限り、そして昨夜の彼の最後の行動の数々を見る限り…おそらく彼は、君のことを…とても深く、そして大切に想っておったのじゃろうな。そうでなければ、あのような極限の状況で、君の安全を確保し、あのような温かい魔法を残そうとはすまい。彼自身の心の中にも、君という存在が特別な光として灯っておったのかもしれん」
その言葉は、まるで柔らかな陽射しのように、私の凍てついた心に染み込んできた。
涙が、今度こそ、堰を切ったように溢れ出す。
嗚咽が止まらない。
先生が、私を…大切に
「悪い人じゃないんです…だって、苦しんでたから…」
私は、しゃくりあげながら、どうにか彼の心情を理解してもらおうと弁明した。
「私がもっと、ちゃんと、してたらっ」
何をどうしていれば彼を救えたのだろうか。
わからない。
わからないけれど。
スプラウト先生が私にティッシュを渡す。
その配慮が少しだけ私の強張っていた心を解きほぐす。
ダンブルドア校長は、静かに頷いた。
「真実は、彼にしか分からぬことじゃ。じゃが、愛というものは、時に最も暗い闇の中にあっても、その輝きを失わぬものじゃよ」
スプラウト先生が、私の背中を優しくさすってくれる。
その温もりに、私はさらに声を上げて泣いた。
先生は、私を騙していたのかもしれない。
利用していたのかもしれない。
でも、最後の最後に、私を守ろうとしてくれた。
その事実が、私の心の中でほんの少しだけ救いになった。
「だからこそ、カレン」
ダンブルドア校長の声が、再び静かに響いた。
「君が今、これほどまでに混乱し、心を痛めておるのは、当然のことじゃ。この出来事は、君にとってあまりにも重く、そして複雑じゃ。だからこそマダム・ポンフリーと、そして必要であれば儂とも、ゆっくりと話す時間を作ろう。君の心が少しでも軽くなるように。これは君自身のための大切な時間じゃよ」
彼の言葉は、先ほどとは違い私の心にすんなりと受け入れられた。
私は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、小さく、しかしはっきりと頷いた。
医務室の窓の外では、雨が上がり雲の切れ間から、弱々しいけれど確かな陽射しが差し込み始めていた。
それは、まるでこれから私が歩き出す、長く、そしておそらくは困難な道のりを、静かに照らし出しているかのようだった。
医務室には、長い沈黙が落ちた。
窓の外では、いつの間にか降り始めていた雨が、静かにガラス窓を叩いていた。
卒業式の日が来た。
私は、他の卒業生たちと共に、ローブを着て大広間に並んだ。
華やかな雰囲気の中、私の心は上の空だった。
未来への希望よりも、過去への問いと喪失感が心を支配していた。
マダム・ポンフリーとの面談は続いたが、あの日以降、決してクィレル教授への気持ちを語ることはなかった。
列車に乗る前に私はホグワーツの近くにある、あの湖畔を訪れた。
彼に初めて想いを伝えた、あの場所。
公式な墓などない彼のために私が決めた、彼を弔う場所。
湖畔に立ち、静かな水面に一輪の白い花をそっと手向ける。
それは、彼が好きだと言っていたカモミールによく似た花だった。
あなたがくれた温もりも、痛みもそして最後に残されたこのどうしようもない名前のない想いも、このボロボロの護符と共に、全て抱きしめて、私は生きていきます。
あなたの影と共に。
それが、私の選んだ、愛の形だから。
湖畔に吹く風が、私の涙を静かに乾かしていく。
空は高く、どこまでも広がっている。
その空のどこかで、彼が見ていてくれるような気がして、私は、ただ、じっと空を見上げていた。
「もう先生と呼ばなくて済むのに、名前すら呼ばせてくれませんね。」
一度でいいから恋人のように名前で呼んでみたかったな。
~完~
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