第1部 チャリング・クロス・ロード
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八月の午後の光は、白く、容赦なくアスファルトを焼いていた。
チャリング・クロス・ロードにはよく来ていたので、通りどの店があるのか、マグルの風貌で観光客か地元の人間か区別できるほど慣れ親しんだ町である。
他の魔族には言えないがマグルの世界では有名な探偵小説を愛読しており、エンパングメント駅近くにあるパブへ両親と一緒に何度か訪れたことがある。
両親はマグルには良くも悪くも興味がない人で、私がいくらマグルの娯楽に興じようが眉間にしわをよせない人たちだ。
なので存分にあの有名な二人組はどんな会話をしていたのか妄想できるのだ。
有名なパブも立ち並ぶ、雨の匂いが染みついたような通りは、週末の気だるい熱気に満ちて、行き交う人々の影を長く、頼りなく伸ばしている。
埃っぽいショーウィンドウに並ぶ背表紙の群れ。
その前をティーンが一人、目的もなく彷徨っているように見えたかもしれない。
ただホグワーツの夏休みの課題に必要な本を探しているだけなのだが、あまりの人の多さに、まるで広い海に投げ出された小舟みたいに、寄る辺なく感じられた。
観光客でにぎわう汗が混じった匂いと、遠くで響くバスのクラクション。
慣れない喧騒は、耳の奥で鈍い音を立て続けている。
(…ミランダも誘えばよかったかな)
ふと、そんな考えがよぎる。
でも親友はきっと、こんな退屈な本探しには欠片も興味を示さないだろう。
分かりきった後悔はやめにして、この人混みの中、目当ての店の看板を探して俯きがちに歩くのだ。
すでに左腕には本が抱えられていた。
家に帰るつもりだったが、あともう何冊か購入してから袋をもらう算段であった。
しかし少し腕がつかれてきていた。
買い出しが終わったらアイスでも食べよう。
夏の光がアスファルトに反射して、目を細めた。
これはもう耐えられそうにない…サングラスでも買おうかと頭を上げて反対側の通りに目をやる。
その時、だった。
視界の隅を、ふわりと掠めた影があった。
人波に逆らうように、しかしどこか所在なげに、古いツイードのジャケットを着た背中。
猫背気味で、神経質そうに左右の店を窺っている。
あの後ろ姿は見覚えがある気がした。
ホグワーツの、あのマグル学の教授。
そう、クィレル教授…ではないだろうか。
いや、でも、違う…
いつもの大きな紫色のターバンがない。
肩にかかる髪は少し癖があって、光に透けて茶色く見えた。
何かを探しあぐねているような、小さなため息だけが聞こえる表情であたりをゆっくり見まわしている。
(…先生、なのかな)
確信はなかった。
けれど、目が離せなかった。
まるで磁石に引かれるみたいに、私は無意識にその背中を追っていた。
2階建ての赤い観光バスが通り過ぎるのを待ってから、反対側へ横切る。
横顔を見て確信した。
やはりクィレル教授だ。
彼が醸し出す、どこか頼りなく、孤独な影のような空気に、心が引き寄せられたのかもしれない。
正直にいうと、夏休み明けにミランダに話すネタとして野次馬気分があったことも否めない。
ただ彼だと確実な証拠が欲しく、彼の背中を小走りで追いかけた。
彼が一軒の古書店の、煤けたドアに手を伸ばした、その瞬間。
私の腕から、抱えていた数冊の本が、まるで意思を持っているかのように滑り落ちた。
スローモーションのように、宙を舞い、鈍い音を立てて石畳に散らばる。
「あっ…」声にならない声が漏れた。
慌てて屈み込み、無我夢中で本を拾い集めようとする。
顔を上げた瞬間、すぐ目の前に大きな革靴と、苛立ったような男性の顔が見えた。
ぶつかる、
「危ない!」
低く、けれどよく通る声。
知らない声だ、と思った。
次の瞬間、前から腕を強く引かれ、体がふわりと浮いたような感覚。
体制を崩し、石畳の冷たさが手のひらに伝わる。
見上げると、ツイードのジャケットを羽織る背中が、私を庇うようにしてそこにいた。
彼は体勢を崩し、片手を地面についていた。
その手のひらには、赤い擦り傷が滲んでいる。
「っと…だ、大丈夫かい? 怪我はない?」
彼はすぐに立ち上がり、何事もなかったかのように手のひらをジャケットの袖で隠した。
息が少し弾んでいる。
彼の声にはあの吃音はなかった。
少し早口な、でも落ち着いた声。間近で見る彼の顔は、思ったよりずっと若々しく、少しだけ頬が赤く染まっている。
私は、ただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。
助けられたことへの驚きと、目の前にいる人が、やはりクィレル先生だという確信と、そして、今まで知らなかった彼の姿に対する、名前のない感情と。
「せ、先生…! クィレル先生、ですよね…?」 やっとのことで絞り出した声は、震えていた。「ありがとうございます! 私、大丈夫です! それより先生こそ、その手…」
心配そうに彼の手を見つめる。
後ろ手に隠そうとしている仕草が、なんだかとても人間らしくて、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
それは、今まで彼に対して感じていた感情とは明らかに違う、もっと個人的で、甘酸っぱい響きを伴う感情だった。
先生は、私の言葉に一瞬、息を呑んだようだった。
「あ、いや、僕は…その…」言いよどみ、視線を彷徨わせる。
その困ったような表情に、また胸が鳴る。やがて観念したように、小さなため息をついた。
「…ああ、ハッフルパフのカレン、だったかな。君こそ、こんな賑やかな場所でどうしたんだい?」
名前を呼ばれた。
ただそれだけなのに、心臓が大きく跳ねた。
「はい、カレンです! 夏休みの課題で…。先生こそ、マグルの格好で…それに、吃音も、ないんですね…」
思ったことがそのまま口をついて出た。先生はますます困ったように眉を寄せた。
「ああ、僕は…少し、個人的な調査でね。マグル界について、本で読むだけでは、分からないこともあるだろう? いや、大したことじゃないんだが、なかなか…その、道に迷ってしまってね」
彼は照れくさそうに、でも少し寂しそうに笑って頭を掻いた。
額の汗が光っている。
(先生も、迷子になるんだ…)
その不器用さが、どうしようもなく愛おしく思えた。
ホグワーツの教壇に立つ姿とは違う、迷子の子供のような頼りなさが、私の心を強く揺さぶった。
助けてあげたい。
「あの、もしよかったら、私が道案内しましょうか? それとも、何か探している本があるなら、一緒に探します!」
気づけばそう申し出ていた。
健気、というより、もう少し彼を知りたくて必死だったのかもしれない。
先生は一瞬、驚いたように私を見つめた。
その瞳の奥に、何か温かいものが灯ったように見えたのは、気のせいだろうか。
でもすぐに、彼は力なく首を横に振った。
「いや、いいんだ。ありがとう、カレン君。君の貴重な時間を、僕なんかのために使わせるわけにはいかないからね。それに、自分で見つけなければ意味がないこともある。」
彼は少しだけ口角を上げて、微かに笑った。
「君も、課題、頑張って」
その笑顔は、夏の終わりの夕暮れみたいに、儚く、綺麗だった。
彼は、そう言うと、少しぎこちなく手を振り、まるで何かから逃れるように、足早に雑踏の中へと消えていった。
あっという間の出来事。
私は、ただ彼の背中が人波に飲み込まれていくのを、呆然と見送ることしかできなかった。
彼の背負っていた古びた革鞄の口が、去り際に一瞬だけ開いたのを、私は見逃さなかった。
そこから覗いていた本の背表紙。
爬虫類の鱗のような、ざらりとした質感の模様。
あれは確か…「イグアナ」に関する本だったような気がする。
なぜ、イグアナなんだろう。
その小さな疑問が、彼の残した余韻と共に、私の心の中にぽつんと灯った。
胸が、ドキドキと音を立て続けている。顔が熱い。
さっきまでの喧騒が嘘のように遠のき、彼の声と、最後の笑顔だけが、夏の光の中でいつまでもきらめいていた。
(これが…「恋」っていうのかな…)
確信はなかった。
けれど、このどうしようもない高揚感と、胸を締め付けるような切なさが、今まで知らなかった大切な感情なのだということだけは、はっきりと分かった。
先生は、イグアナが好きなのかな。
夏の日はまだ高く、私の初めての恋は、始まったばかりだった。
チャリング・クロス・ロードにはよく来ていたので、通りどの店があるのか、マグルの風貌で観光客か地元の人間か区別できるほど慣れ親しんだ町である。
他の魔族には言えないがマグルの世界では有名な探偵小説を愛読しており、エンパングメント駅近くにあるパブへ両親と一緒に何度か訪れたことがある。
両親はマグルには良くも悪くも興味がない人で、私がいくらマグルの娯楽に興じようが眉間にしわをよせない人たちだ。
なので存分にあの有名な二人組はどんな会話をしていたのか妄想できるのだ。
有名なパブも立ち並ぶ、雨の匂いが染みついたような通りは、週末の気だるい熱気に満ちて、行き交う人々の影を長く、頼りなく伸ばしている。
埃っぽいショーウィンドウに並ぶ背表紙の群れ。
その前をティーンが一人、目的もなく彷徨っているように見えたかもしれない。
ただホグワーツの夏休みの課題に必要な本を探しているだけなのだが、あまりの人の多さに、まるで広い海に投げ出された小舟みたいに、寄る辺なく感じられた。
観光客でにぎわう汗が混じった匂いと、遠くで響くバスのクラクション。
慣れない喧騒は、耳の奥で鈍い音を立て続けている。
(…ミランダも誘えばよかったかな)
ふと、そんな考えがよぎる。
でも親友はきっと、こんな退屈な本探しには欠片も興味を示さないだろう。
分かりきった後悔はやめにして、この人混みの中、目当ての店の看板を探して俯きがちに歩くのだ。
すでに左腕には本が抱えられていた。
家に帰るつもりだったが、あともう何冊か購入してから袋をもらう算段であった。
しかし少し腕がつかれてきていた。
買い出しが終わったらアイスでも食べよう。
夏の光がアスファルトに反射して、目を細めた。
これはもう耐えられそうにない…サングラスでも買おうかと頭を上げて反対側の通りに目をやる。
その時、だった。
視界の隅を、ふわりと掠めた影があった。
人波に逆らうように、しかしどこか所在なげに、古いツイードのジャケットを着た背中。
猫背気味で、神経質そうに左右の店を窺っている。
あの後ろ姿は見覚えがある気がした。
ホグワーツの、あのマグル学の教授。
そう、クィレル教授…ではないだろうか。
いや、でも、違う…
いつもの大きな紫色のターバンがない。
肩にかかる髪は少し癖があって、光に透けて茶色く見えた。
何かを探しあぐねているような、小さなため息だけが聞こえる表情であたりをゆっくり見まわしている。
(…先生、なのかな)
確信はなかった。
けれど、目が離せなかった。
まるで磁石に引かれるみたいに、私は無意識にその背中を追っていた。
2階建ての赤い観光バスが通り過ぎるのを待ってから、反対側へ横切る。
横顔を見て確信した。
やはりクィレル教授だ。
彼が醸し出す、どこか頼りなく、孤独な影のような空気に、心が引き寄せられたのかもしれない。
正直にいうと、夏休み明けにミランダに話すネタとして野次馬気分があったことも否めない。
ただ彼だと確実な証拠が欲しく、彼の背中を小走りで追いかけた。
彼が一軒の古書店の、煤けたドアに手を伸ばした、その瞬間。
私の腕から、抱えていた数冊の本が、まるで意思を持っているかのように滑り落ちた。
スローモーションのように、宙を舞い、鈍い音を立てて石畳に散らばる。
「あっ…」声にならない声が漏れた。
慌てて屈み込み、無我夢中で本を拾い集めようとする。
顔を上げた瞬間、すぐ目の前に大きな革靴と、苛立ったような男性の顔が見えた。
ぶつかる、
「危ない!」
低く、けれどよく通る声。
知らない声だ、と思った。
次の瞬間、前から腕を強く引かれ、体がふわりと浮いたような感覚。
体制を崩し、石畳の冷たさが手のひらに伝わる。
見上げると、ツイードのジャケットを羽織る背中が、私を庇うようにしてそこにいた。
彼は体勢を崩し、片手を地面についていた。
その手のひらには、赤い擦り傷が滲んでいる。
「っと…だ、大丈夫かい? 怪我はない?」
彼はすぐに立ち上がり、何事もなかったかのように手のひらをジャケットの袖で隠した。
息が少し弾んでいる。
彼の声にはあの吃音はなかった。
少し早口な、でも落ち着いた声。間近で見る彼の顔は、思ったよりずっと若々しく、少しだけ頬が赤く染まっている。
私は、ただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。
助けられたことへの驚きと、目の前にいる人が、やはりクィレル先生だという確信と、そして、今まで知らなかった彼の姿に対する、名前のない感情と。
「せ、先生…! クィレル先生、ですよね…?」 やっとのことで絞り出した声は、震えていた。「ありがとうございます! 私、大丈夫です! それより先生こそ、その手…」
心配そうに彼の手を見つめる。
後ろ手に隠そうとしている仕草が、なんだかとても人間らしくて、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
それは、今まで彼に対して感じていた感情とは明らかに違う、もっと個人的で、甘酸っぱい響きを伴う感情だった。
先生は、私の言葉に一瞬、息を呑んだようだった。
「あ、いや、僕は…その…」言いよどみ、視線を彷徨わせる。
その困ったような表情に、また胸が鳴る。やがて観念したように、小さなため息をついた。
「…ああ、ハッフルパフのカレン、だったかな。君こそ、こんな賑やかな場所でどうしたんだい?」
名前を呼ばれた。
ただそれだけなのに、心臓が大きく跳ねた。
「はい、カレンです! 夏休みの課題で…。先生こそ、マグルの格好で…それに、吃音も、ないんですね…」
思ったことがそのまま口をついて出た。先生はますます困ったように眉を寄せた。
「ああ、僕は…少し、個人的な調査でね。マグル界について、本で読むだけでは、分からないこともあるだろう? いや、大したことじゃないんだが、なかなか…その、道に迷ってしまってね」
彼は照れくさそうに、でも少し寂しそうに笑って頭を掻いた。
額の汗が光っている。
(先生も、迷子になるんだ…)
その不器用さが、どうしようもなく愛おしく思えた。
ホグワーツの教壇に立つ姿とは違う、迷子の子供のような頼りなさが、私の心を強く揺さぶった。
助けてあげたい。
「あの、もしよかったら、私が道案内しましょうか? それとも、何か探している本があるなら、一緒に探します!」
気づけばそう申し出ていた。
健気、というより、もう少し彼を知りたくて必死だったのかもしれない。
先生は一瞬、驚いたように私を見つめた。
その瞳の奥に、何か温かいものが灯ったように見えたのは、気のせいだろうか。
でもすぐに、彼は力なく首を横に振った。
「いや、いいんだ。ありがとう、カレン君。君の貴重な時間を、僕なんかのために使わせるわけにはいかないからね。それに、自分で見つけなければ意味がないこともある。」
彼は少しだけ口角を上げて、微かに笑った。
「君も、課題、頑張って」
その笑顔は、夏の終わりの夕暮れみたいに、儚く、綺麗だった。
彼は、そう言うと、少しぎこちなく手を振り、まるで何かから逃れるように、足早に雑踏の中へと消えていった。
あっという間の出来事。
私は、ただ彼の背中が人波に飲み込まれていくのを、呆然と見送ることしかできなかった。
彼の背負っていた古びた革鞄の口が、去り際に一瞬だけ開いたのを、私は見逃さなかった。
そこから覗いていた本の背表紙。
爬虫類の鱗のような、ざらりとした質感の模様。
あれは確か…「イグアナ」に関する本だったような気がする。
なぜ、イグアナなんだろう。
その小さな疑問が、彼の残した余韻と共に、私の心の中にぽつんと灯った。
胸が、ドキドキと音を立て続けている。顔が熱い。
さっきまでの喧騒が嘘のように遠のき、彼の声と、最後の笑顔だけが、夏の光の中でいつまでもきらめいていた。
(これが…「恋」っていうのかな…)
確信はなかった。
けれど、このどうしようもない高揚感と、胸を締め付けるような切なさが、今まで知らなかった大切な感情なのだということだけは、はっきりと分かった。
先生は、イグアナが好きなのかな。
夏の日はまだ高く、私の初めての恋は、始まったばかりだった。
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