第3部 永遠の影
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クリスマス休暇後、クィレル教授はさも用はないといった形で私を研究室には一切呼ばなかった。
6か月近く、全く音沙汰がなかった。
ペン先が折れた羽ペンを捨てるように、彼はゴミ箱の中まで見はしない。
なので、私はただ箱の中から彼を見続けることに徹した。
早く卒業すれば『全てが終わった時』に近付ける気がしていた。
早く卒業して、彼と対等な存在になれればどういった意図だったのか教えてくれる気がしていた。
私はそれから試験勉強に精を出した。
ハリー・ポッターがグリフィンドールの得点を150点下げた話題も気に留めず、ただ自分のことだけを考えていた。
そして長く悪夢のようでもあったN.E.W.T.の試験が、ようやく終わりの日を迎えた。
実技は自信がないものの、筆記試験だけはしっかり回答できたため、最後の試験が終わった時は心の底からホッとした。
もう二度と勉強なんてするもんか。
一生勉強なんてしてやらない、と友人たちと喜びを分かち合った。
ホグワーツの校内には、私たちと同じような解放感と間近に迫った卒業という大きな節目への期待、そして言いようのない寂しさが、まるで春霞のように漂っていた。
窓の外では、小鳥たちの賑やかなさえずりが開け放たれた窓から教室にまで届き、七年間の学び舎との別れが近いことを告げていた。
友人たちと互いの健闘を称え合い、ほんの少しだけ肩の荷が下りたような気がしていた。
分厚い参考書の山、インクで汚れた指先、眠れない夜。
それら全てが、もう過去のものになろうとしている。
けれど心の奥底では、ずっとクィレル先生のことが気がかりだった。
学年末の慌ただしい日々の中、私の机の上に一枚の羊皮紙が置かれているのに気づいたのは夕暮れが迫る頃だった。
心臓が、どくんと大きく鳴った。
まるで、運命の歯車が、ギシッと音を立てて回り始めたかのように。
震える手で、その羊皮紙を拾い上げる。
それは、ひどくくしゃくしゃで、所々に謎の染みがついていた。
そこに記されていたのは、見慣れた、しかし以前よりもさらに乱れ、まるで嵐の中で書かれたかのような筆跡だった。
『最後の試験、お疲れ様。
君に、どうしても話しておきたいことがある。
今夜、就寝時間前に古い天文台の螺旋階段下で待っている。
必ず、一人で来てほしい。
Q.Q』
息が詰まる。
彼からの、久しぶりの連絡。
でも、その文面からは切羽詰まったような、尋常ではない気配がひしひしと伝わってきた。
「話しておきたいこと」とは、一体何なのだろう。
良い予感は、全くしなかった。
それでも、私は行かなければならないと思った。
彼が、私を必要としているのかもしれない。
私は友人たちに「少し夜風に当たってくるから、先に寝てて欲しい」とだけ告げ、分厚いローブを羽織ると足早に談話室を後にした。
夜のホグワーツは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、石造りの廊下には、足音だけがこつ、こつ、と寂しく響き渡る。
古い天文台へと続く道は、城の中でも特に人気がなく窓から差し込む月明かりだけが私の進む先をぼんやりと照らしていた。
螺旋階段はひんやりとした空気に包まれ、どこかカビ臭いような古い匂いがした。
一段一段、石の階段を上るたびに、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。
踊り場にたどり着くと、そこには彼がいた。
壁に背を預け、月明かりの届かない深い影の中に佇んでいる。
ターバンを深く被り、その表情は窺えない。
ただ、その纏う空気が張り詰めた弦のように、ピリピリと震えているのが、こちらにまで伝わってきた。
彼はまるで石像のように、身じろぎ一つしない。
「先生」
私が声をかけると、彼は影の中で微かに肩を揺らした。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらを向く。
冷たい月光が彼の蒼白な顔の一部を、まるで舞台のスポットライトのように照らし出した。
その瞳には深い決意の色と、そしてそれを覆い隠すかのような、底知れないほどの悲しみが、暗い湖の底のように淀んでいた。
「…来てくれてありがとう、カレン君」
彼は私が何かを言う前に静かに口を開いた。
その声は、驚くほど落ち着いていて、しかしひどく掠れていた。
まるで、長い間声を出していなかったかのようだった。
吃音は、ない。
彼は私の顔を真っ直ぐには見ず、視線を少し下に落としたまま続けた。
その横顔は、驚くほど痩せまるで彫刻のように動かない。
「だが、君に伝えられるのは、別れの言葉だけです」
「え…?」
突然の、そしてあまりにも冷たい言葉に私はたじろいだ。
別れ…?
どういうこと。
彼は私の反応を意に介さず、一方的に言葉を続けた。
その声には、有無を言わせない、氷のような響きがあった。
「君には危険が迫っています。理由は聞かないでください。ただ、ここからすぐに、できるだけ遠くへ離れなさい。そして…二度と、僕に近づかないでください。僕のことは、綺麗さっぱり忘れるのです」
「先生、待って…! どういうことですか!? 危険って、一体何が…! 私に分かるように説明してください!」
私の懇願するような声が、静かな踊り場に虚しく響く。
「君の優しさには…本当に、感謝しています」
彼は、私の言葉を無視するように続けた。
「それは決して忘れません。ですが、それだけです。」
彼は、それだけ言うと懐からゆっくりと杖を取り出した。
その動きは、まるでスローモーションのように私の目に焼き付いた。
その杖先が私に向けられる。
私は直感的な恐怖を感じた。
全身の血が、さあっと引いていくのが分かった。
「先生、やめて…! お願いです、話を聞いて…!」
「許してください、カレン君」
彼は私の言葉を遮るように、悲痛な響きでそう呟いた。
その瞳には、一筋の涙が光っているように見えた。
「わたしっ…!」
あなたをずっと信じている
叫び終わるよりも早く、彼の杖先から、赤い閃光がパッと夜の闇を切り裂いた。
「ステューピファイ!」
抵抗する間もなく強烈な衝撃が私を襲い、意識は急速に深い、深い闇へと引きずり込まれていく。
最後に見たのは、月明かりの下、苦悩に歪み、涙を流しているかのように見えた彼の顔だった。
物置部屋の重い扉を、音もなく閉じる。
背後で眠る彼女の気配を断ち切るように、いくつもの呪文を扉にかけた。
隠蔽、人避け、そして保温の魔法も。
これで朝まで誰にも見つかることはないだろう。
カレン君…君の、あの真っ直ぐな瞳を思い出さないように僕は固く瞼を閉じた。
(これで、よかったのだ)
自分に言い聞かせる。
冷たく硬い石の廊下を、僕は一人歩き出す。
足音がやけに大きく響く。
僕が彼女にかけた眠りの呪文は深い。
目覚める頃には全てが終わっている。
良くも、悪くも。
(すまない…)
心の中で繰り返される、意味のない謝罪。
彼女を眠らせる瞬間、最後に見た彼女の顔が、懇願するような瞳が焼き付いて離れない。
僕が与えたのは優しさではない。
ただの欺瞞と裏切りだ。
それでも僕は君を守りたかった。
そして僕自身のプライドも。
この歪んだやり方でしか、それができなかったのだ。
『感傷に浸っている暇はないぞ、クィレル!』
頭の後ろから、甲高い、蛇のような声が響く。
ターバンの下で、我が君が苛立っておられるのが分かる。
『あの小娘、やはり始末しておくべきだったのだ。貴様のそのつまらぬ感傷が、全てを台無しにするやもしれんぞ!』
「…彼女はもう、我々の邪魔をすることはありません我が君」
静かに、しかしはっきりと答えた。
「計画に支障はきたすことはございません」
『ふん、どうかな…さあ、急げ!石は目前だ!グズグズするな!』
はい、我が君。
僕は、ただ従うしかない。
この道を選んだのは、他の誰でもない僕自身なのだから。
三階の、禁じられた廊下へと続く階段を、一歩一歩、踏みしめるように上る。
この先に、僕が渇望した「力」の源がある。
賢者の石。
それさえ手に入れれば、我が君は完全なる復活を遂げ、そして僕は…僕は、この惨めで臆病な自分から生まれ変わることができる。
そう信じていた。
信じたかった。
ユニコーンの生き血をすすってから、この現実世界は地獄だった。
カレンが目の前で殺される夢、僕が殺す幻。
身体がボロボロで酷くけだるい。
生き地獄とはこういう事かと思い知らされる。
これまでの人生が、走馬灯のように脳裏をよぎった。
ホグワーツの生徒だった頃。
才能ある同級生たちの中で、常に感じていた劣等感。
どれだけ努力しても、彼らのようにはなれないという焦り。
教師になってからも、それは変わらなかった。
生徒たちから侮られ、同僚たちからは憐れまれ…。
誰も、本当の僕を見てはくれなかった。
力を求めて、世界を旅した。
闇の魔術の断片に触れ、その深淵に魅入られもした。
そして、アルバニアの森で、僕は出会ってしまったのだ。
かつての闇の帝王の、弱り果てた魂に。
彼は僕に囁いた。
力を与えよう、と。
認められる存在にしてやろう、と。
僕は、その誘惑に抗えなかった。
カレン君。
君との出会いは、そんな僕の暗い世界に差し込んだ、唯一の光だったのかもしれない。
君の純粋さが、ひたむきさが、僕の凍てついた心を少しずつ溶かしていった。
君のそばにいられたら、と思った。
だがそれと同時に、君の光が眩しすぎて僕自身の闇を、醜さを、より一層際立たせるようにも感じたのだ。
君にふさわしい人間になりたい。
その思いが、皮肉にも僕をさらに深い闇へと引きずり込んだ。
次々と現れる、石を守るための魔法の防護。
悪魔の罠、空飛ぶ鍵、巨大なチェス盤…。
僕はそれらを突破していく。
スネイプが仕掛けた魔法薬の謎も解き明かした。
あの男…僕をずっと疑い、邪魔をし続けてきた忌々しい存在。
だが、それもここまでだ。
我が君が復活なされば、彼奴も終わりだ。
最後の部屋の扉が、目の前に聳え立つ。
この先に、全てがある。
僕の(いや、我々の)望むものが。
扉に手をかける。
ひやりとした金属の感触。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
(怖いのか…? 僕が?)
自嘲が漏れる。
あれほど望んだ力が目の前にあるというのに。
だが、これは恐怖だけではない。
何か、別の感情。
これで全てが終わるのだという、歪んだ興奮のようなもの。
そして、全てを失うかもしれないという、破滅への予感。
扉を、ゆっくりと開ける。
部屋の中央には、古めかしい、大きな鏡が静かに置かれていた。
みぞの鏡。
人の心の最も深い望みを映し出すという。
そして、その鏡の前に立ったが石はどこにもない。
どこだ、どこだ、どこだ。
小さな少年が鏡越しに映った。
ハリー・ポッター。
やはり、来たか。
運命の悪戯か、それとも必然か。
あの「生き残った男の子」が、僕の最後の障害として立ちはだかる。
後戻りはできない。
僕は、闇の帝王の意思を代行する者。
そして、自らの運命に、ここで決着をつける者だ。
覚悟は、できている。
カレン君。
君だけは、どうか僕のいない世界で、幸せになってほしい。
僕が君を眠らせたのは、そのためなのだから。
君の未来に、僕のような影が落ちることのないように。
最期の瞬間、僕の脳裏に、あの夏の日に転んだ君が困ったような優しい笑顔が、ふと蘇った気がした。
それは、あまりにも眩しく、そして、あまりにも…遠い光だった。
6か月近く、全く音沙汰がなかった。
ペン先が折れた羽ペンを捨てるように、彼はゴミ箱の中まで見はしない。
なので、私はただ箱の中から彼を見続けることに徹した。
早く卒業すれば『全てが終わった時』に近付ける気がしていた。
早く卒業して、彼と対等な存在になれればどういった意図だったのか教えてくれる気がしていた。
私はそれから試験勉強に精を出した。
ハリー・ポッターがグリフィンドールの得点を150点下げた話題も気に留めず、ただ自分のことだけを考えていた。
そして長く悪夢のようでもあったN.E.W.T.の試験が、ようやく終わりの日を迎えた。
実技は自信がないものの、筆記試験だけはしっかり回答できたため、最後の試験が終わった時は心の底からホッとした。
もう二度と勉強なんてするもんか。
一生勉強なんてしてやらない、と友人たちと喜びを分かち合った。
ホグワーツの校内には、私たちと同じような解放感と間近に迫った卒業という大きな節目への期待、そして言いようのない寂しさが、まるで春霞のように漂っていた。
窓の外では、小鳥たちの賑やかなさえずりが開け放たれた窓から教室にまで届き、七年間の学び舎との別れが近いことを告げていた。
友人たちと互いの健闘を称え合い、ほんの少しだけ肩の荷が下りたような気がしていた。
分厚い参考書の山、インクで汚れた指先、眠れない夜。
それら全てが、もう過去のものになろうとしている。
けれど心の奥底では、ずっとクィレル先生のことが気がかりだった。
学年末の慌ただしい日々の中、私の机の上に一枚の羊皮紙が置かれているのに気づいたのは夕暮れが迫る頃だった。
心臓が、どくんと大きく鳴った。
まるで、運命の歯車が、ギシッと音を立てて回り始めたかのように。
震える手で、その羊皮紙を拾い上げる。
それは、ひどくくしゃくしゃで、所々に謎の染みがついていた。
そこに記されていたのは、見慣れた、しかし以前よりもさらに乱れ、まるで嵐の中で書かれたかのような筆跡だった。
『最後の試験、お疲れ様。
君に、どうしても話しておきたいことがある。
今夜、就寝時間前に古い天文台の螺旋階段下で待っている。
必ず、一人で来てほしい。
Q.Q』
息が詰まる。
彼からの、久しぶりの連絡。
でも、その文面からは切羽詰まったような、尋常ではない気配がひしひしと伝わってきた。
「話しておきたいこと」とは、一体何なのだろう。
良い予感は、全くしなかった。
それでも、私は行かなければならないと思った。
彼が、私を必要としているのかもしれない。
私は友人たちに「少し夜風に当たってくるから、先に寝てて欲しい」とだけ告げ、分厚いローブを羽織ると足早に談話室を後にした。
夜のホグワーツは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、石造りの廊下には、足音だけがこつ、こつ、と寂しく響き渡る。
古い天文台へと続く道は、城の中でも特に人気がなく窓から差し込む月明かりだけが私の進む先をぼんやりと照らしていた。
螺旋階段はひんやりとした空気に包まれ、どこかカビ臭いような古い匂いがした。
一段一段、石の階段を上るたびに、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。
踊り場にたどり着くと、そこには彼がいた。
壁に背を預け、月明かりの届かない深い影の中に佇んでいる。
ターバンを深く被り、その表情は窺えない。
ただ、その纏う空気が張り詰めた弦のように、ピリピリと震えているのが、こちらにまで伝わってきた。
彼はまるで石像のように、身じろぎ一つしない。
「先生」
私が声をかけると、彼は影の中で微かに肩を揺らした。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらを向く。
冷たい月光が彼の蒼白な顔の一部を、まるで舞台のスポットライトのように照らし出した。
その瞳には深い決意の色と、そしてそれを覆い隠すかのような、底知れないほどの悲しみが、暗い湖の底のように淀んでいた。
「…来てくれてありがとう、カレン君」
彼は私が何かを言う前に静かに口を開いた。
その声は、驚くほど落ち着いていて、しかしひどく掠れていた。
まるで、長い間声を出していなかったかのようだった。
吃音は、ない。
彼は私の顔を真っ直ぐには見ず、視線を少し下に落としたまま続けた。
その横顔は、驚くほど痩せまるで彫刻のように動かない。
「だが、君に伝えられるのは、別れの言葉だけです」
「え…?」
突然の、そしてあまりにも冷たい言葉に私はたじろいだ。
別れ…?
どういうこと。
彼は私の反応を意に介さず、一方的に言葉を続けた。
その声には、有無を言わせない、氷のような響きがあった。
「君には危険が迫っています。理由は聞かないでください。ただ、ここからすぐに、できるだけ遠くへ離れなさい。そして…二度と、僕に近づかないでください。僕のことは、綺麗さっぱり忘れるのです」
「先生、待って…! どういうことですか!? 危険って、一体何が…! 私に分かるように説明してください!」
私の懇願するような声が、静かな踊り場に虚しく響く。
「君の優しさには…本当に、感謝しています」
彼は、私の言葉を無視するように続けた。
「それは決して忘れません。ですが、それだけです。」
彼は、それだけ言うと懐からゆっくりと杖を取り出した。
その動きは、まるでスローモーションのように私の目に焼き付いた。
その杖先が私に向けられる。
私は直感的な恐怖を感じた。
全身の血が、さあっと引いていくのが分かった。
「先生、やめて…! お願いです、話を聞いて…!」
「許してください、カレン君」
彼は私の言葉を遮るように、悲痛な響きでそう呟いた。
その瞳には、一筋の涙が光っているように見えた。
「わたしっ…!」
あなたをずっと信じている
叫び終わるよりも早く、彼の杖先から、赤い閃光がパッと夜の闇を切り裂いた。
「ステューピファイ!」
抵抗する間もなく強烈な衝撃が私を襲い、意識は急速に深い、深い闇へと引きずり込まれていく。
最後に見たのは、月明かりの下、苦悩に歪み、涙を流しているかのように見えた彼の顔だった。
物置部屋の重い扉を、音もなく閉じる。
背後で眠る彼女の気配を断ち切るように、いくつもの呪文を扉にかけた。
隠蔽、人避け、そして保温の魔法も。
これで朝まで誰にも見つかることはないだろう。
カレン君…君の、あの真っ直ぐな瞳を思い出さないように僕は固く瞼を閉じた。
(これで、よかったのだ)
自分に言い聞かせる。
冷たく硬い石の廊下を、僕は一人歩き出す。
足音がやけに大きく響く。
僕が彼女にかけた眠りの呪文は深い。
目覚める頃には全てが終わっている。
良くも、悪くも。
(すまない…)
心の中で繰り返される、意味のない謝罪。
彼女を眠らせる瞬間、最後に見た彼女の顔が、懇願するような瞳が焼き付いて離れない。
僕が与えたのは優しさではない。
ただの欺瞞と裏切りだ。
それでも僕は君を守りたかった。
そして僕自身のプライドも。
この歪んだやり方でしか、それができなかったのだ。
『感傷に浸っている暇はないぞ、クィレル!』
頭の後ろから、甲高い、蛇のような声が響く。
ターバンの下で、我が君が苛立っておられるのが分かる。
『あの小娘、やはり始末しておくべきだったのだ。貴様のそのつまらぬ感傷が、全てを台無しにするやもしれんぞ!』
「…彼女はもう、我々の邪魔をすることはありません我が君」
静かに、しかしはっきりと答えた。
「計画に支障はきたすことはございません」
『ふん、どうかな…さあ、急げ!石は目前だ!グズグズするな!』
はい、我が君。
僕は、ただ従うしかない。
この道を選んだのは、他の誰でもない僕自身なのだから。
三階の、禁じられた廊下へと続く階段を、一歩一歩、踏みしめるように上る。
この先に、僕が渇望した「力」の源がある。
賢者の石。
それさえ手に入れれば、我が君は完全なる復活を遂げ、そして僕は…僕は、この惨めで臆病な自分から生まれ変わることができる。
そう信じていた。
信じたかった。
ユニコーンの生き血をすすってから、この現実世界は地獄だった。
カレンが目の前で殺される夢、僕が殺す幻。
身体がボロボロで酷くけだるい。
生き地獄とはこういう事かと思い知らされる。
これまでの人生が、走馬灯のように脳裏をよぎった。
ホグワーツの生徒だった頃。
才能ある同級生たちの中で、常に感じていた劣等感。
どれだけ努力しても、彼らのようにはなれないという焦り。
教師になってからも、それは変わらなかった。
生徒たちから侮られ、同僚たちからは憐れまれ…。
誰も、本当の僕を見てはくれなかった。
力を求めて、世界を旅した。
闇の魔術の断片に触れ、その深淵に魅入られもした。
そして、アルバニアの森で、僕は出会ってしまったのだ。
かつての闇の帝王の、弱り果てた魂に。
彼は僕に囁いた。
力を与えよう、と。
認められる存在にしてやろう、と。
僕は、その誘惑に抗えなかった。
カレン君。
君との出会いは、そんな僕の暗い世界に差し込んだ、唯一の光だったのかもしれない。
君の純粋さが、ひたむきさが、僕の凍てついた心を少しずつ溶かしていった。
君のそばにいられたら、と思った。
だがそれと同時に、君の光が眩しすぎて僕自身の闇を、醜さを、より一層際立たせるようにも感じたのだ。
君にふさわしい人間になりたい。
その思いが、皮肉にも僕をさらに深い闇へと引きずり込んだ。
次々と現れる、石を守るための魔法の防護。
悪魔の罠、空飛ぶ鍵、巨大なチェス盤…。
僕はそれらを突破していく。
スネイプが仕掛けた魔法薬の謎も解き明かした。
あの男…僕をずっと疑い、邪魔をし続けてきた忌々しい存在。
だが、それもここまでだ。
我が君が復活なされば、彼奴も終わりだ。
最後の部屋の扉が、目の前に聳え立つ。
この先に、全てがある。
僕の(いや、我々の)望むものが。
扉に手をかける。
ひやりとした金属の感触。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
(怖いのか…? 僕が?)
自嘲が漏れる。
あれほど望んだ力が目の前にあるというのに。
だが、これは恐怖だけではない。
何か、別の感情。
これで全てが終わるのだという、歪んだ興奮のようなもの。
そして、全てを失うかもしれないという、破滅への予感。
扉を、ゆっくりと開ける。
部屋の中央には、古めかしい、大きな鏡が静かに置かれていた。
みぞの鏡。
人の心の最も深い望みを映し出すという。
そして、その鏡の前に立ったが石はどこにもない。
どこだ、どこだ、どこだ。
小さな少年が鏡越しに映った。
ハリー・ポッター。
やはり、来たか。
運命の悪戯か、それとも必然か。
あの「生き残った男の子」が、僕の最後の障害として立ちはだかる。
後戻りはできない。
僕は、闇の帝王の意思を代行する者。
そして、自らの運命に、ここで決着をつける者だ。
覚悟は、できている。
カレン君。
君だけは、どうか僕のいない世界で、幸せになってほしい。
僕が君を眠らせたのは、そのためなのだから。
君の未来に、僕のような影が落ちることのないように。
最期の瞬間、僕の脳裏に、あの夏の日に転んだ君が困ったような優しい笑顔が、ふと蘇った気がした。
それは、あまりにも眩しく、そして、あまりにも…遠い光だった。
