第3部 永遠の影
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秋が深まり、ホグワーツの庭を覆っていた夏の名残の緑は、赤や黄色へ衣装を変えながら、はらはらと風に舞い散っていく季節になった。
禁じられた森の輪郭が、日に日にくっきりとその姿を現し始め、空は高く、そしてどこまでも青く澄み渡る日が増えた。
けれど、その透明な空気とは裏腹に、私の心の中には、晴れない霧のようなものが、ずっと立ち込めていた。
あの日、研究室の扉の前で彼の激しい拒絶に合ってから、私は彼と言葉を交わすどころか、まともに視線を合わせることさえできなくなっていた。
廊下ですれ違う気配を感じると、まるで条件反射のように身体が強張り、気づかれぬよう足早に通り過ぎる。
それでも目で追ってしまうのだ。
彼の、日に日に濃くなる目の下の隈、常に何かに怯えるように周囲を窺う仕草、不気味なほど大きな紫色のターバン。
遠くから見る限り、あのピリピリとした緊張感は薄れていないし、時折見せる虚ろな瞳は深い闇を湛えているように見える。
彼一人が深い孤独の井戸の底に沈んでいくようだ。
校内ではもっぱら、ハリー・ポッターの話題で持ちきりだった。
彼がどこそこを歩いた、あのベンチに座ったなど。
まるで古い英雄譚の主人公みたいに、彼の周りでは常に何かが起こり、それが生徒たちの間で尾ひれをつけて語られていた。
生徒たちは飽きることなく噂話を続けている。
まるで彼だけが特別な物語の主人公で、私たちはその観客であるかのように。
その喧騒の中にカレンも紛れることができれば良かったが、一歩引いてその熱病を遠くから眺めていた。
灰色にくすんでいたカレンは、どこか遠い世界の出来事のように感じており、彼女の孤独をより一層際立たせていた。
そんな、秋の終わりの、午後のことだった。
私は図書室の奥深く、古いルーン文字の書架が並ぶ、ひっそりとした書棚の一角にいた。
N.E.W.T.の選択科目である「古代ルーン文字」の課題に行き詰まり、参考になりそうな文献を探していたのだ。
高い書架に囲まれた空間は外の喧騒が嘘のように静まり返り、古い羊皮紙とインクの匂いが、眠気を誘うように漂っている。
集中して背表紙の文字を追っていると、すぐ近くで微かな物音がした。
はっとして顔を上げると、数メートル先の書架の陰に、クィレル教授が立っていたのだ。
彼は私と同じように何かを探しているのか、棚に並ぶ分厚い古書を、神経質そうな指先で辿っていた。
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
息を殺し、書架の陰に身を隠すようにして、彼の様子を窺う。
彼は、ひどく疲れているように見えた。
顔色は蒼白で、ターバンで隠しきれないこめかみには汗が滲んでいる。
彼は一冊の本を手に取ると、焦ったようにページをめくり、苛立ったように溜息をついて棚に戻した。
何か特定の情報を必死で探しているようだった。
(先生…)
声をかけたい衝動に駆られた。
でも、あの日の拒絶の言葉が蘇る。
『二度と、個人的なことで僕に話しかけないでください』
私は、ただ息を殺して彼の姿を見つめることしかできなかった。
その時、彼が、まるで私の気配に気づいたかのようにぴたりと動きを止め、ゆっくりとこちらを振り返ったのだ。
書架の隙間から彼の薄茶色の瞳と、私の視線が不意に絡み合った。
彼は驚いたように目を見開いた。
次の瞬間には、いつもの怯えた表情がその顔を覆った。
しかし、彼は逃げ出さなかった。
それどころか、少しだけ逡巡した後、おずおずといった様子で私の方へと歩み寄ってきたのだ。
「…カレン君」
彼の声は小さく、どもりがちだったが、あの研究室で聞いたような激しい響きはなかった。
「こ、こんなところで、何を?」
「あ…古代ルーン文字の、課題の資料を探しに…」
私は、緊張で声が上ずるのを感じながら答えた。
「先生こそ、何かお探し物ですか?」
「ええ、まあ…」
彼は視線を泳がせた。
「少し、個人的な研究で、行き詰まってしまいましてね。古い、特殊なルーン文字の解読なのですが…なかなか、手掛かりが見つからないのです」
彼は、困り果てたように溜息をついた。
その姿は、どこか頼りなく助けを求めているようにも見えた。
「古代ルーン文字、ですか?」
私は尋ねた。
「もし、私でよければ…少しだけ、拝見しても?」
私はN.E.W.T.で選択するくらいには、この分野に興味があり成績も悪くはなかった。
先生は驚いたように私を見た。
そして、少しだけ迷うような素振りを見せた後、鞄の中から古びて端が擦り切れた羊皮紙を取り出した。
「…君のような優秀な生徒に、見せるのは、お、お恥ずかしいのですが…」
その表情は、以前私を拒絶した時の冷たさではなく、ひどく怯え、助けを求めているかのように見えた
羊皮紙には、見たこともないような複雑な形状のルーン文字が、びっしりと書き込まれていた。
それは、ホグワーツで習うどの体系にも属さない、非常に古い、あるいは異質なもののようだった。
そして、その文字の連なりからは、なぜか、ぞくりとするような暗く冷たい気配が漂ってくる気がした。
「これは…?」
「ある、古い文献で見つけたものでしてね」
先生は、小声で説明した。
「おそらく、何か強力な守りの呪文の一部だと思うのですが…意味が、皆目見当がつかないのです。特に、この部分の、蛇のような形をした文字が…」
私は、その羊皮紙を食い入るように見つめた。
確かに、難解だ。
でも、どこかで見たことがあるような気もする…。
必死で記憶を探る。
「…もしかしたら」
私は言った。
「これは、特定の呪文、それもかなり危険なものと組み合わせることで、初めて効果を発揮するタイプの、古い束縛呪文の一部かもしれません。『守りの古代魔法』という文献で、似たような記述を読んだ記憶があります。」
私の言葉に、先生はハッとしたように顔を上げた。
「ほ、本当ですか!? 古代魔法の…?」
「はい。でも、確かその文献は…禁書に近い扱いだったような…」
マダム・ピンスが先学期に見せてくれた書物は生徒が入れない倉庫の中だった。
「…そう、ですか」
先生は、何かを深く考え込むように黙り込んだ。
やがて顔を上げると、私に向かって思いがけない提案をしてきたのだ。
「カレン君」
彼の声には、奇妙な熱がこもっていた。
「もし、君さえよければ…このルーン文字の解読を、少しだけ、手伝ってはいただけませんか?」
「え…?」
「もちろん、これは僕の個人的な研究ですから、君に強制するつもりは、全くありません。ですが、君の知識は、非常に役に立つかもしれない。それに…」
彼は、そこで言葉を切り、私をじっと見つめた。
「この研究は…その、あまり、他の者には知られたくないものでしてね。特に…スネイプには。彼は、僕の研究を、妨害しようとしているようなのです」
突然スネイプ先生の名前が出てきて驚きを隠せなった。
スネイプはいい教師ではないし、カレン自身も彼に少し苦手意識を持っていた。
OWL試験で良(A)を取ってしまい、N.E.W.T.クラスは受講していないのは、やはりスネイプの高圧的な態度の影響が多い。
彼の怯えたような表情。
そして目の前にある、明らかに普通ではないルーン文字。
私の頭の中では疑念だけではなく、先生を助けたいという気持ちが、ぐるぐると渦巻いていた。
これは、危険なことに関わることになるのかもしれない。
でも、ここで断れば、彼が一人でさらに深みにはまってしまうかもしれない。
そして、これが彼の秘密を知る唯一のチャンスなのかもしれない。
「…分かりました」
私は、ぐっと唾を飲み込み答えていた。
「私にできることがあるなら、お手伝いします。先生の研究のために」
その瞬間、先生の目に、キラリと鋭い光が宿ったのを私は見逃さなかった。
それはすぐに、いつもの怯えたような表情の奥へと隠されたけれど。
「ほ、本当ですか!? ありがとうカレン君! やはり、君は…頼りになります!」
彼は、心底嬉しそうに言った。
「では、また改めて、お願いすることがあるかもしれません。その時は…よろしくお願いしますよ」
彼はそう言うと、羊皮紙を素早く鞄にしまい込み、私に一礼して足早に書架の陰へと消えていった。
残された私は、まだドキドキと高鳴る心臓を押さえながら、その場に立ち尽くしていた。
先生の研究を手伝う。
それは彼に近づけるまたとない機会かもしれない。
でも同時に、何か得体の知れない暗い領域へと足を踏み入れてしまったような、そんな不安も感じていた。
図書室の窓から差し込む光は、もうすっかり弱くなり、書架の間に長い影が伸びている。
秋の日は、あっという間に過ぎていく。
私の心の中にも、気づかぬうちに冬の影が静かに忍び寄ってきているのかもしれない。
十月が駆け足で過ぎ去り、ホグワーツはハロウィーンの魔法にかけられた。
大広間には何百というカボチャのランタンが宙に浮かび、そのぎざぎざ刃の歯のような口から、温かいオレンジ色の光がゆらゆらと投げかけられている。
壁には影絵のような蝙蝠が舞い、テーブルには山海の珍味が並び、生徒たちの陽気な声がわいわいと響き渡る。
年に一度の、祝祭の夜。
けれど私の心は、その華やかな光景とは裏腹に、鉛色の雲に覆われているようだった。
あの日、図書室で先生の研究を手伝う約束をしてから、私は時々、彼に呼び出され古いルーン文字の解読を手伝っていた。
私の知的好奇心を刺激する、スリリングな時間でもあったけれど、同時に、彼の研究の真の目的や、彼が隠しているであろう秘密に対する疑念がもやもやと胸の中に広がっていくのを止められなかった。
彼は私が尋ねても、研究内容については決して詳しく語ろうとはせず、「これは、内密に…特にスネイプには知られぬように…」と繰り返すばかりだったのだ。
祝宴が始まる少し前、クィレル教授のドアをこつこつと控えめにノックした。
彼が許可した書類をもとに、マダム・ピンズ立ち合いのもと、例の書物を借りてきたのだ。
「どうぞ」という弱弱しい声をきいてからドアを開ける。
部屋の主は、ターバンを目深にかぶり薄暗い光の中に、まるで影のように佇んでいた。
「先生…本を持ってきたのですが、大丈夫ですか?」
「…カレン君。すまないのですが…少し、頼まれてはくれませんか」
彼の声は低く、切羽詰まっているように聞こえた。
吃音はない。
それは、彼が私と二人きりで話す時の、彼なりの「普通」なのだろうか。
「頼み、ですか?」
また、あのルーン文字のことだろうか。
彼は、神経質そうに視線を彷徨わせた。
「実は、調べたいことがありまして、誰にも邪魔をされたくないんです。それに、今日はひどく、気分が悪くて…」
彼はわざとらしく咳き込んで見せた。
「それで、もし…もし、誰かが僕の不在に気づいて、君に尋ねることがあったら…その、僕はずっと部屋で休んでいた、と…そう、言っておいてはもらえませんか? 君は、時々僕の研究を手伝ってくれているから…君の言葉なら、誰も疑わないでしょう」
アリバイ工作の依頼。
ぐっと息を呑む。
分かっていた。
彼が何かを隠していることも、私がそれに加担させられようとしていることも。
でも、彼の苦しげな表情、そして「君なら信用できるから」という言葉に、私の心はまたしてもぐらりと揺れてしまう。
彼を助けたい。
その気持ちが、どうしても勝ってしまうのだ。
「…分かりました」
私は、小さな声で答えた。
「もし聞かれたら、そう伝えます」
「ありがとう…!」彼は、心底ほっとしたように息をついた。
「君だけが、頼りです。今夜の祝祭が始まる頃には、部屋を出ていいので、まっすぐ、大広間に行ってください。」
そして、彼は思いがけない言葉を続けたのだ。
「…それから、カレン君」
彼の声が、さらに低くなった。
「これは、ただの僕の勘ですが…こ、今夜は、何かが起こるかもしれません」
ほんの少しだけ、吃音が戻ったように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「だから、君は、あまり、動き回らない方がいい。いいね? 念のためです。君のような心優しい生徒が、何かに巻き込まれてはいけませんから…。特に、あの三階の廊下などには、決して近づかないように」
それは、まるで私の身を案じるような言葉だった。
私のことを心配してくれている…?
戸惑いながらも、私の心に、ほんの少しだけ温かいものが流れ込んだような気がした。
でも、同時に、その言葉の裏にあるかもしれない別の意味…私を、何かから意図的に遠ざけようとしているのではないか、という疑念も冷たい水のように心を浸していく。
「…はい。気をつけます。先生も、お大事に」
私がそう言うと、彼はこくりと頷き、まるで影が形を成したかのように、音もなく廊下の闇へと消えていった。
彼の最後の言葉が、奇妙な余韻を残して、私の耳に残った。
*
陽がすっかり沈んだころ、私はクィレルの研究室を出て、大広間にk向かった。
10月の祝宴はきらびやかで、そしてどこか浮ついた空気の中で始まった。
私はミランダたちとテーブルについていたけれど、心は上の空だった。
先生の言葉が、ずっと頭の中を巡っている。
その時だった。
バン!
と音を立てて大広間の扉が開き、そこにクィレル先生が、血相を変えて飛び込んできたのだ。
彼のターバンは乱れ、顔面は蒼白だった。
「トロールが!!」
彼は、甲高い声で絶叫した。
「地下牢に! トロールがー――お知らせしなければと!!」
その言葉に、大広間は一瞬で水を打ったように静まり返り、次の瞬間、阿鼻叫喚のパニックに陥った。
生徒たちの悲鳴が響き渡る。
そして、まるで糸が切れた人形のように、その場にばったりと倒れ込んだ。
ダンブルドア校長の指示で、生徒たちは寮監に引率され、それぞれの寮へと避難することになった。
混乱の中、私は先生の元へ駆け寄った。
「先生、大丈夫ですか?先生?」
彼が私に告げた「忠告」が、パズルのピースのように頭の中で繋がりそうで、繋がらない、そんなもどかしい感覚に襲われながら、目の前の弱弱しく見える男性を支えた。
「す、すみません。」
クィレル教授は地下牢に行かなければと、ふらふらと教職員たちが集まるテーブルへと歩いて行った。
私は彼の背にそっと触れ、そしてなぜ涙が出そうになるのかわからないけれど、彼だけに聞こえる様に「頑張ってください」とささやいた。
大広間の入り口で私を心配そうに待つミランダと合流し、監督生たちと一緒に穴熊寮に戻った。
その後、ハリー・ポッターたちが、一年生だけでトロールを退治したという、信じられないようなニュースが駆け巡った。
やはりと言うべきか、翌日、私はマクゴナガル先生とスプラウト先生、そしてなぜかスネイプ先生までいる部屋に呼ばれ、昨夜のクィレル先生の様子について尋ねられた。
私は、俯きながら、練習した通りの嘘をついた。
「先生は、祝宴の前からずっと気分が悪そうで…お部屋で休まれていました…私が様子を見ていましたから、間違いありません。」
マクゴナガル先生の厳しい視線が、私に突き刺さる。
罪悪感が胸を占めていたが、押し潰されそうになるほどではなかったのは、私がもう腹をくくり始めていたからだろう。
先生を助けるため。
嘘をついた事実は重く、冷たい影のように、私の心にじっとりと纏わりついていたが、それでもまっすぐ立って居られたのは、クィレル教授のためだと言い聞かせてたからだ。
先生の、あの「配慮」めいた言葉が、本当に私を心配してくれたのか、それとも、これもまた彼の計画の一部だったのか。
真実は、ハロウィーンの夜の闇の中に、深く隠されたままだった。
カボチャのランタンの、不気味な笑顔だけが私の不安を嘲笑っているかのようだった。
禁じられた森の輪郭が、日に日にくっきりとその姿を現し始め、空は高く、そしてどこまでも青く澄み渡る日が増えた。
けれど、その透明な空気とは裏腹に、私の心の中には、晴れない霧のようなものが、ずっと立ち込めていた。
あの日、研究室の扉の前で彼の激しい拒絶に合ってから、私は彼と言葉を交わすどころか、まともに視線を合わせることさえできなくなっていた。
廊下ですれ違う気配を感じると、まるで条件反射のように身体が強張り、気づかれぬよう足早に通り過ぎる。
それでも目で追ってしまうのだ。
彼の、日に日に濃くなる目の下の隈、常に何かに怯えるように周囲を窺う仕草、不気味なほど大きな紫色のターバン。
遠くから見る限り、あのピリピリとした緊張感は薄れていないし、時折見せる虚ろな瞳は深い闇を湛えているように見える。
彼一人が深い孤独の井戸の底に沈んでいくようだ。
校内ではもっぱら、ハリー・ポッターの話題で持ちきりだった。
彼がどこそこを歩いた、あのベンチに座ったなど。
まるで古い英雄譚の主人公みたいに、彼の周りでは常に何かが起こり、それが生徒たちの間で尾ひれをつけて語られていた。
生徒たちは飽きることなく噂話を続けている。
まるで彼だけが特別な物語の主人公で、私たちはその観客であるかのように。
その喧騒の中にカレンも紛れることができれば良かったが、一歩引いてその熱病を遠くから眺めていた。
灰色にくすんでいたカレンは、どこか遠い世界の出来事のように感じており、彼女の孤独をより一層際立たせていた。
そんな、秋の終わりの、午後のことだった。
私は図書室の奥深く、古いルーン文字の書架が並ぶ、ひっそりとした書棚の一角にいた。
N.E.W.T.の選択科目である「古代ルーン文字」の課題に行き詰まり、参考になりそうな文献を探していたのだ。
高い書架に囲まれた空間は外の喧騒が嘘のように静まり返り、古い羊皮紙とインクの匂いが、眠気を誘うように漂っている。
集中して背表紙の文字を追っていると、すぐ近くで微かな物音がした。
はっとして顔を上げると、数メートル先の書架の陰に、クィレル教授が立っていたのだ。
彼は私と同じように何かを探しているのか、棚に並ぶ分厚い古書を、神経質そうな指先で辿っていた。
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
息を殺し、書架の陰に身を隠すようにして、彼の様子を窺う。
彼は、ひどく疲れているように見えた。
顔色は蒼白で、ターバンで隠しきれないこめかみには汗が滲んでいる。
彼は一冊の本を手に取ると、焦ったようにページをめくり、苛立ったように溜息をついて棚に戻した。
何か特定の情報を必死で探しているようだった。
(先生…)
声をかけたい衝動に駆られた。
でも、あの日の拒絶の言葉が蘇る。
『二度と、個人的なことで僕に話しかけないでください』
私は、ただ息を殺して彼の姿を見つめることしかできなかった。
その時、彼が、まるで私の気配に気づいたかのようにぴたりと動きを止め、ゆっくりとこちらを振り返ったのだ。
書架の隙間から彼の薄茶色の瞳と、私の視線が不意に絡み合った。
彼は驚いたように目を見開いた。
次の瞬間には、いつもの怯えた表情がその顔を覆った。
しかし、彼は逃げ出さなかった。
それどころか、少しだけ逡巡した後、おずおずといった様子で私の方へと歩み寄ってきたのだ。
「…カレン君」
彼の声は小さく、どもりがちだったが、あの研究室で聞いたような激しい響きはなかった。
「こ、こんなところで、何を?」
「あ…古代ルーン文字の、課題の資料を探しに…」
私は、緊張で声が上ずるのを感じながら答えた。
「先生こそ、何かお探し物ですか?」
「ええ、まあ…」
彼は視線を泳がせた。
「少し、個人的な研究で、行き詰まってしまいましてね。古い、特殊なルーン文字の解読なのですが…なかなか、手掛かりが見つからないのです」
彼は、困り果てたように溜息をついた。
その姿は、どこか頼りなく助けを求めているようにも見えた。
「古代ルーン文字、ですか?」
私は尋ねた。
「もし、私でよければ…少しだけ、拝見しても?」
私はN.E.W.T.で選択するくらいには、この分野に興味があり成績も悪くはなかった。
先生は驚いたように私を見た。
そして、少しだけ迷うような素振りを見せた後、鞄の中から古びて端が擦り切れた羊皮紙を取り出した。
「…君のような優秀な生徒に、見せるのは、お、お恥ずかしいのですが…」
その表情は、以前私を拒絶した時の冷たさではなく、ひどく怯え、助けを求めているかのように見えた
羊皮紙には、見たこともないような複雑な形状のルーン文字が、びっしりと書き込まれていた。
それは、ホグワーツで習うどの体系にも属さない、非常に古い、あるいは異質なもののようだった。
そして、その文字の連なりからは、なぜか、ぞくりとするような暗く冷たい気配が漂ってくる気がした。
「これは…?」
「ある、古い文献で見つけたものでしてね」
先生は、小声で説明した。
「おそらく、何か強力な守りの呪文の一部だと思うのですが…意味が、皆目見当がつかないのです。特に、この部分の、蛇のような形をした文字が…」
私は、その羊皮紙を食い入るように見つめた。
確かに、難解だ。
でも、どこかで見たことがあるような気もする…。
必死で記憶を探る。
「…もしかしたら」
私は言った。
「これは、特定の呪文、それもかなり危険なものと組み合わせることで、初めて効果を発揮するタイプの、古い束縛呪文の一部かもしれません。『守りの古代魔法』という文献で、似たような記述を読んだ記憶があります。」
私の言葉に、先生はハッとしたように顔を上げた。
「ほ、本当ですか!? 古代魔法の…?」
「はい。でも、確かその文献は…禁書に近い扱いだったような…」
マダム・ピンスが先学期に見せてくれた書物は生徒が入れない倉庫の中だった。
「…そう、ですか」
先生は、何かを深く考え込むように黙り込んだ。
やがて顔を上げると、私に向かって思いがけない提案をしてきたのだ。
「カレン君」
彼の声には、奇妙な熱がこもっていた。
「もし、君さえよければ…このルーン文字の解読を、少しだけ、手伝ってはいただけませんか?」
「え…?」
「もちろん、これは僕の個人的な研究ですから、君に強制するつもりは、全くありません。ですが、君の知識は、非常に役に立つかもしれない。それに…」
彼は、そこで言葉を切り、私をじっと見つめた。
「この研究は…その、あまり、他の者には知られたくないものでしてね。特に…スネイプには。彼は、僕の研究を、妨害しようとしているようなのです」
突然スネイプ先生の名前が出てきて驚きを隠せなった。
スネイプはいい教師ではないし、カレン自身も彼に少し苦手意識を持っていた。
OWL試験で良(A)を取ってしまい、N.E.W.T.クラスは受講していないのは、やはりスネイプの高圧的な態度の影響が多い。
彼の怯えたような表情。
そして目の前にある、明らかに普通ではないルーン文字。
私の頭の中では疑念だけではなく、先生を助けたいという気持ちが、ぐるぐると渦巻いていた。
これは、危険なことに関わることになるのかもしれない。
でも、ここで断れば、彼が一人でさらに深みにはまってしまうかもしれない。
そして、これが彼の秘密を知る唯一のチャンスなのかもしれない。
「…分かりました」
私は、ぐっと唾を飲み込み答えていた。
「私にできることがあるなら、お手伝いします。先生の研究のために」
その瞬間、先生の目に、キラリと鋭い光が宿ったのを私は見逃さなかった。
それはすぐに、いつもの怯えたような表情の奥へと隠されたけれど。
「ほ、本当ですか!? ありがとうカレン君! やはり、君は…頼りになります!」
彼は、心底嬉しそうに言った。
「では、また改めて、お願いすることがあるかもしれません。その時は…よろしくお願いしますよ」
彼はそう言うと、羊皮紙を素早く鞄にしまい込み、私に一礼して足早に書架の陰へと消えていった。
残された私は、まだドキドキと高鳴る心臓を押さえながら、その場に立ち尽くしていた。
先生の研究を手伝う。
それは彼に近づけるまたとない機会かもしれない。
でも同時に、何か得体の知れない暗い領域へと足を踏み入れてしまったような、そんな不安も感じていた。
図書室の窓から差し込む光は、もうすっかり弱くなり、書架の間に長い影が伸びている。
秋の日は、あっという間に過ぎていく。
私の心の中にも、気づかぬうちに冬の影が静かに忍び寄ってきているのかもしれない。
十月が駆け足で過ぎ去り、ホグワーツはハロウィーンの魔法にかけられた。
大広間には何百というカボチャのランタンが宙に浮かび、そのぎざぎざ刃の歯のような口から、温かいオレンジ色の光がゆらゆらと投げかけられている。
壁には影絵のような蝙蝠が舞い、テーブルには山海の珍味が並び、生徒たちの陽気な声がわいわいと響き渡る。
年に一度の、祝祭の夜。
けれど私の心は、その華やかな光景とは裏腹に、鉛色の雲に覆われているようだった。
あの日、図書室で先生の研究を手伝う約束をしてから、私は時々、彼に呼び出され古いルーン文字の解読を手伝っていた。
私の知的好奇心を刺激する、スリリングな時間でもあったけれど、同時に、彼の研究の真の目的や、彼が隠しているであろう秘密に対する疑念がもやもやと胸の中に広がっていくのを止められなかった。
彼は私が尋ねても、研究内容については決して詳しく語ろうとはせず、「これは、内密に…特にスネイプには知られぬように…」と繰り返すばかりだったのだ。
祝宴が始まる少し前、クィレル教授のドアをこつこつと控えめにノックした。
彼が許可した書類をもとに、マダム・ピンズ立ち合いのもと、例の書物を借りてきたのだ。
「どうぞ」という弱弱しい声をきいてからドアを開ける。
部屋の主は、ターバンを目深にかぶり薄暗い光の中に、まるで影のように佇んでいた。
「先生…本を持ってきたのですが、大丈夫ですか?」
「…カレン君。すまないのですが…少し、頼まれてはくれませんか」
彼の声は低く、切羽詰まっているように聞こえた。
吃音はない。
それは、彼が私と二人きりで話す時の、彼なりの「普通」なのだろうか。
「頼み、ですか?」
また、あのルーン文字のことだろうか。
彼は、神経質そうに視線を彷徨わせた。
「実は、調べたいことがありまして、誰にも邪魔をされたくないんです。それに、今日はひどく、気分が悪くて…」
彼はわざとらしく咳き込んで見せた。
「それで、もし…もし、誰かが僕の不在に気づいて、君に尋ねることがあったら…その、僕はずっと部屋で休んでいた、と…そう、言っておいてはもらえませんか? 君は、時々僕の研究を手伝ってくれているから…君の言葉なら、誰も疑わないでしょう」
アリバイ工作の依頼。
ぐっと息を呑む。
分かっていた。
彼が何かを隠していることも、私がそれに加担させられようとしていることも。
でも、彼の苦しげな表情、そして「君なら信用できるから」という言葉に、私の心はまたしてもぐらりと揺れてしまう。
彼を助けたい。
その気持ちが、どうしても勝ってしまうのだ。
「…分かりました」
私は、小さな声で答えた。
「もし聞かれたら、そう伝えます」
「ありがとう…!」彼は、心底ほっとしたように息をついた。
「君だけが、頼りです。今夜の祝祭が始まる頃には、部屋を出ていいので、まっすぐ、大広間に行ってください。」
そして、彼は思いがけない言葉を続けたのだ。
「…それから、カレン君」
彼の声が、さらに低くなった。
「これは、ただの僕の勘ですが…こ、今夜は、何かが起こるかもしれません」
ほんの少しだけ、吃音が戻ったように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「だから、君は、あまり、動き回らない方がいい。いいね? 念のためです。君のような心優しい生徒が、何かに巻き込まれてはいけませんから…。特に、あの三階の廊下などには、決して近づかないように」
それは、まるで私の身を案じるような言葉だった。
私のことを心配してくれている…?
戸惑いながらも、私の心に、ほんの少しだけ温かいものが流れ込んだような気がした。
でも、同時に、その言葉の裏にあるかもしれない別の意味…私を、何かから意図的に遠ざけようとしているのではないか、という疑念も冷たい水のように心を浸していく。
「…はい。気をつけます。先生も、お大事に」
私がそう言うと、彼はこくりと頷き、まるで影が形を成したかのように、音もなく廊下の闇へと消えていった。
彼の最後の言葉が、奇妙な余韻を残して、私の耳に残った。
*
陽がすっかり沈んだころ、私はクィレルの研究室を出て、大広間にk向かった。
10月の祝宴はきらびやかで、そしてどこか浮ついた空気の中で始まった。
私はミランダたちとテーブルについていたけれど、心は上の空だった。
先生の言葉が、ずっと頭の中を巡っている。
その時だった。
バン!
と音を立てて大広間の扉が開き、そこにクィレル先生が、血相を変えて飛び込んできたのだ。
彼のターバンは乱れ、顔面は蒼白だった。
「トロールが!!」
彼は、甲高い声で絶叫した。
「地下牢に! トロールがー――お知らせしなければと!!」
その言葉に、大広間は一瞬で水を打ったように静まり返り、次の瞬間、阿鼻叫喚のパニックに陥った。
生徒たちの悲鳴が響き渡る。
そして、まるで糸が切れた人形のように、その場にばったりと倒れ込んだ。
ダンブルドア校長の指示で、生徒たちは寮監に引率され、それぞれの寮へと避難することになった。
混乱の中、私は先生の元へ駆け寄った。
「先生、大丈夫ですか?先生?」
彼が私に告げた「忠告」が、パズルのピースのように頭の中で繋がりそうで、繋がらない、そんなもどかしい感覚に襲われながら、目の前の弱弱しく見える男性を支えた。
「す、すみません。」
クィレル教授は地下牢に行かなければと、ふらふらと教職員たちが集まるテーブルへと歩いて行った。
私は彼の背にそっと触れ、そしてなぜ涙が出そうになるのかわからないけれど、彼だけに聞こえる様に「頑張ってください」とささやいた。
大広間の入り口で私を心配そうに待つミランダと合流し、監督生たちと一緒に穴熊寮に戻った。
その後、ハリー・ポッターたちが、一年生だけでトロールを退治したという、信じられないようなニュースが駆け巡った。
やはりと言うべきか、翌日、私はマクゴナガル先生とスプラウト先生、そしてなぜかスネイプ先生までいる部屋に呼ばれ、昨夜のクィレル先生の様子について尋ねられた。
私は、俯きながら、練習した通りの嘘をついた。
「先生は、祝宴の前からずっと気分が悪そうで…お部屋で休まれていました…私が様子を見ていましたから、間違いありません。」
マクゴナガル先生の厳しい視線が、私に突き刺さる。
罪悪感が胸を占めていたが、押し潰されそうになるほどではなかったのは、私がもう腹をくくり始めていたからだろう。
先生を助けるため。
嘘をついた事実は重く、冷たい影のように、私の心にじっとりと纏わりついていたが、それでもまっすぐ立って居られたのは、クィレル教授のためだと言い聞かせてたからだ。
先生の、あの「配慮」めいた言葉が、本当に私を心配してくれたのか、それとも、これもまた彼の計画の一部だったのか。
真実は、ハロウィーンの夜の闇の中に、深く隠されたままだった。
カボチャのランタンの、不気味な笑顔だけが私の不安を嘲笑っているかのようだった。
