二話

「こんなこと誰も頼んでない。頼むからもう帰ってくれ」

 冷たく言い放つと足音が止んだ。目の前の少年は何を言うでもなくこちらをじっと見つめている。長い前髪で左目を隠した隻眼は落ち着き払っていて、まるでこう言われることがわかっていたような顔つきだった。

「……ゴメン、さすがに掃除までするのはやり過ぎだった?」

 この重苦しい空気でも真澄は口角を上げるらしい。普段より多少声のトーンが落ちているものの、親しみを感じさせる気安さはそのままだ。しかし、この〝あえていつも通りに振る舞う気遣い〟が余計に神経を逆撫でする。

「っ……もういい加減にしてくれ!」

 キッチンの調理台を強く叩き、初めて真澄に声を荒げた。けれど目の前の少年は眉ひとつ動かさない。些細なことでもすぐに反応して、楽しい時も困った時も表情をコロコロ変える彼が今は冷静そのものだ。
 なぜだろうか、その見透かすような目がとてつもなく恐ろしい。10も年下の相手に恐怖して、苛立って、自己嫌悪に潰されて感情がコントロールできない。

「なんだよその目……馬鹿にしてるのか!? いい歳して自己管理もできない俺に何を言われても怖くないってか!?」

 拳を握って詰め寄り小柄な少年を見下ろしたが、それでも彼は怯まない。ちょっと肩を押せば倒れてしまいそうな体をしているくせに、こんなにも堂々としていられる根拠はなんだ。それほどまでに情けない大人に見えているということだろうか。

「どうせ心の中で笑ってるんだろ!? 大人の苦労も社会の厳しさも知らない子供のくせに! 欲しい物は何でも与えられて好きなことばかりして生きてきて、死にたいなんて思ったこともないんだろう!?」

 怒鳴りながら様々な人間の顔が浮かんだ。良心的な企業に就職できた同級生、上に媚びて下を足蹴にする上司、親の力だけで全てが叶う社長の息子。他にも自由気ままな学生や能天気そうな人々がニヤニヤ嘲笑ってくる。その中には真澄もいた。
 わかっている、全て被害妄想だ。真澄はちっとも悪くない。だけど行き場のない虚しさと自責の念をこれ以上溜めておけなかった。全て怒りに変換しなければどうにかなってしまいそうだ。

「ご、め……ッ」

 俯いた真澄の口から息を詰まらせたような謝罪が返ってくる。さすがに言い過ぎてしまっただろうか、あれだけ強気に目を合わせていたというのに彼はとうとう背中を丸めてしゃがみこんでしまった。顔は見えないが酷く傷付けてしまったに違いない。
 それでもいい。それで真澄との縁が切れるならこれ以上傷付けなくて済むのだから。

「──ケホッ」

 突如耳に咳の音が届いた。一度、二度、三度、小さな体が揺れるたびにそれは聞こえてくる。
 最初は啜り泣く声を誤魔化しているのだと思った。しかし激しくせるような湿った咳を連続で聞いた瞬間、これはただ事ではないと直感した。

「ヒュッ……! ケホッ、ゴホゴホッ! 」

「真澄くん!?」

 咄嗟に駆け寄り、胸を押さえる弱々しい背中をさすったが、苦しげな咳と笛の音に似た異様な呼吸音を交互に繰り返すだけで効果は見られない。呼びかけに反応する余裕もないのか、差し迫った様子で額に汗を滲ませている。
 よく見ると呼吸のたびに喉元が押し込まれるように凹んでいるのがわかった。涙目になりながらも必死で空気を吸おうともがいている。

「──ヒューッ、ゲホッ! はッ、ゴホ……ッ!」

「真澄くん……!? これって、どういう──」

 救急車を呼ぶべきだろうかと迷いながら痩せ細った体を支えた。先程まで確かにあった怒りは一旦消え、心が動揺でいっぱいになっているのがわかる。
 もしかするとこの症状は自分が怒鳴ったせいかもしれない。いつだったか会社内で部長に酷く叱責された女子社員も過呼吸をおこしていたから、今の真澄も精神的負荷で似たような症状に見舞われているのでは──などと確信を持てない罪悪感がグルグルと頭を駆け回る。

「待ってろ、いま救急車を……って、何? ソファに携帯があるから取りに行きたいんだけど」

 スマートフォンを取りに行こうとしたのに、なぜだか手首を掴まれて爪が食い込むほどの強さで制止された。呼ぶな、ということだろうか。
 なぜ? と問うより早く真澄は誠司を押し退けるようにして一目散にリビングへ駆けていった。穏やかな性格の彼にしては乱暴な手つきだったが、そうなってしまうほどに余裕が無いのだろう。激しく咳き込みながらふらついた足取りで向かう部屋の隅には、最近街でよく見る流行りのデザインのリュックが遠慮がちに置かれていた。

 真澄は異様な音の呼吸と咳を繰り返しながら中身を漁り、拳大の何かを取り出してすかさず吹き込み口のような部分に口をつけた。その円形の物体は何なのだろうか、一気に吸い込んだかと思えば今度は打って変わって咳と呼吸音が静かになったものだからますます訳がわからない。

「だ、大丈夫……?」

 おそるおそる近付いて壊れそうな肩にそっと手を置くと、意外にも笑顔が返ってきた。もっとも今まで見てきたものとは程遠いグッタリとした作り笑顔だったけれど。

「ごめ……」

 掠れた声でそう呟いて、今度はふらふらと洗面所へ向かったようなので後を追った。うがいをしている彼の小さな背中を見守って、もう一度声をかけてみる。

「大丈夫?」

「ん……ごめんね」

 口元を拭って振り返った青白い顔は少しだけ普段の面影を取り戻していた。声が小さく笑顔もぎこちないが、とりあえず症状はおさまったらしい。

「歩いて平気? 少し休む?」

 ついさっきまで帰れと怒鳴っていたのにどの口が言うんだと自分にツッコミを入れたが、あんな光景を見てしまえば誠司でなくともこう言っただろう。真澄も同じことを思ったのか苦笑ぎみに微笑んだ。

「だいじょーぶ。心配かけてごめん」

 ビックリした? なんて冗談めかしに訊いてくるものだから些か反応に困った。答えあぐねていると彼は見かねたようにへらりと笑って一言。

「オレ、びょーき持ちだから」

「病気……?」
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