二話

 しばらく橋の上で呆然としていた。咄嗟のことで思考が追いつかない割に心臓が早鐘を打ち、遅れて冷や汗が吹き出てくる。その理由も意味も理解しないまま、やけに乱れた呼吸を繰り返した。乗り越えようとした手すりが前方にあり、それを見上げて座り込んでいる。尻が痛いし、尻餅をつく寸前に手をついたのか両の手のひらも痺れるように痛む。
 この現状を作り出したのは誰か──聞くまでもない。先程から苦しいほどに腰にしがみついている人間が、身投げしようとした誠司を力ずくで引き戻したのだ。顔も知らない他人ならまだいい、けれど目線を下げた先にいたのは今一番会いたくない人だった。

「ますみ、くん……」

 感情のこもっていない呟きが零れる。どうして彼がここに? なぜ? いいや、それよりも──

「余計な、ことを……」

 ようやく状況が理解できた。真澄に邪魔をされたのだと。一言で表せられない感情が腹の底からフツフツと沸いて、今すぐにでも払い除けたい衝動に駆られた。止められなければ今頃は全てが終わっていたはずなのに。せっかく会社から解放されると思ったのに。
 それに何よりこのような自分を見られたくなかった。身投げしようとしただなんて知られたくなかった。真澄さえ来なければ今頃楽になれたのに。真澄さえ来なければ醜態を晒さずにすんだのに。真澄さえ来なければコンビニでの些細なやり取りを綺麗な思い出としてあの世へ持っていけたのに。
 これは怒りか悲しみか……先刻まで愛しく思っていたというのに身勝手な感情が生まれる。腰にまとわりつく青白い腕が逃がさないとばかりに締め付けてくるのが癪に触って、今にも折れそうな細腕を握り潰すように掴んだ。

「い゙っ……!!」

 苦痛に顔を歪めるも、遊び人のような風貌の少年はかたくなに離れない。それどころか自身の手首を掴んでまで固くホールドして、絶対に離さないという強い意思を見せつけてくる。しかし顔を上げた彼の表情はただひたすら穏やかで。

「……っ、なはは、間に合った〜。ちょっとヤな予感したからさぁ、バイト上がりにソッコー原チャ走らせて正解だったね〜」

 汗を浮かべて、いつものゆるい笑顔を見せてくる。
 何が間に合っただ、余計なことをするな──と、細い首根っこを引っ掴んで拘束を解くことは容易いが、何度か試そうとしても寸前で手が止まってしまう。約半年ものあいだ社畜生活を支えてくれた笑みを見てしまったからだろうか。
 どのみち自決する絶好のタイミングを逃してしまった今、ふたたび橋を乗り越えようとする気にはなれない。ぼうっと真澄を見下ろすと、ようやく腰に回っていた腕の力が緩んだ。

「ここじゃアレだし、移動しよ?」

 その言葉を受けて周りを見渡せば、一部始終を目撃していたであろう通行人が足を止めてこちらの様子を伺っている。無関心そうでいて物珍しそうな視線を一身に浴びていると、見世物にされているようで不快だ。立ち上がるのも億劫だったが、真澄に促されて渋々重い腰をあげ、ゆっくりとその場をあとにした。



 ほとんど上の空でたどり着いたのは今朝飛び出したばかりのマンションだ。いつの間に帰ってきたのだろうか。道中では時おり真澄からの質問に答えていた気がするが、内容はあまり覚えていない。
 派手なピンクの原付を押して歩く真澄が気の抜けた表情で笑いかけてくる。いったい何を考えているのだろうか。そしてなにより、いつまでついてくるつもりなのだろうか。

「……もういいよ、ここで。真澄くんも早く帰りな」

「ん〜? やぁ〜だ。お兄さんと一緒にいる〜」

 素っ気なくあしらっても傍を離れない。あえて駐輪場の場所を案内せず歩くペースを早めても、自分で勝手に見つけて原付を停め、パタパタと小走りで追いかけてくる。

 そんなに心配しなくとも抜け殻のようになった誠司に早まる気力など残っていない──などと伝えたところで真澄は引き下がらないだろう。それならと、鍵を開けて大人の現実を見せつけてやることにした。簡単な飲食とシャワー、そして就寝でしか利用していない一室は、それはもう荒れに荒れているのだから。

「わぁ〜お」

 胸辺りの高さから聞こえてきた声色でどんな顔をしているかが容易に想像できる。身なりを気にして着飾る年頃の少年にとっては目を覆いたくなる光景だろう。
 コンビニでは店員と客として会話をし、台風の日は2人きりで奇妙なドライブをした男の実態がこれだと知ればきっと幻滅したに違いない。いっそそれでいいとさえ思う。いよいよ自棄になり、言葉もかけずに1人でさっさとリビングのソファに横になった。自然と瞼が落ちて、僅かに耳に届く「おじゃましまーす」の遠慮がちな声と、足の踏み場を探すように近付いてくる足音を聞き流す。

「うわぁ〜こりゃ大変だー。お兄さんせめて寝室で寝なよ〜。てか換気していい? するねー」

 何も答えていないのに真澄は気ままにペラペラと喋る。窓を開けたのか新鮮な空気が頬を撫で、更に眠気が増した。

「あーっ! やっぱりプラごみと缶が同じ袋に入ってる〜! オレの兄貴もそうなんだよね〜。でも任して! 家じゃ分別作業はオレの仕事だから」

 ガサゴソとゴミ袋をいじって何をしているのやら。それでも誠司は返事はおろか目を開けることもしなかった。どうせ盗めるような価値のある物は置いていない、好きにしてくれ。起きる頃にはきっといなくなっているだろう。



 疲れが溜まっていたのか、それとも緊張状態から解放されたからなのか、しばらくは泥のように眠った。徐々に意識が浮上してくると照明の明かりが瞼越しに感じられ、反射的に手をかざして影を作りながら薄目を開ける。
 眩しい。ここしばらくリビングの照明をつけていなかったせいか、目が慣れるまでに時間がかかった。それになんだかいい匂いがする。温かい食事の……味噌汁の匂い──

「──っ!?」

 ハッと体を起こし、対面式キッチンの方を向くと、ちょうどそこでしゃがみこんでいる真澄と目が合った。

「うおっ!? いきなり飛び起きないでよー心臓に悪いから〜」

 蛇を見た猫のように跳ねたが、驚いたのはこちらだ。まだ帰っていなかったのか。いや、それよりも何をしているのだろうか、その手には雑巾が握られている。

「なははっ、かるーく掃除するつもりだったんだけどだんだん楽しくなってきてさ〜。やめ時がわからないからお兄さんが起きるまで床でも拭いてようかなーって思ったんだ〜」

「掃除……?」

 そういえば……と部屋を見渡せば確かに散乱していたはずのゴミ袋が跡形もなく消え去っており、視認できる範囲には空き缶どころかホコリひとつない。見違えるように綺麗になっている。この部屋はこんなにも広く明るかっただろうか。

「勝手なことしてゴメンね〜。あっ、でも捨てたのは明らかにゴミってわかるやつだけで、よくわかんないモンはそこにまとめて置いてるよ。書類っぽいのはあっち。中身見てないから安心して〜」

 リビングの隅を指し示しテキパキと要点だけを伝えた真澄は「元気になったら確認してね〜」と言い残して、雑巾片手に洗面所の方へ消えていった。手を洗いにでも行くのだろう。迷いのない足音が止まるとすぐに水音が聞こえてくる。誠司が眠っている間に部屋の構造はすっかり覚えてしまったらしい。

 フラフラと立ち上がり、ベランダ側の大きな窓越しから外を見る。すっかり暗くなっているが今は何時だろうか、少し休んだお陰で夕方よりは頭の中がハッキリしている気がした。しかしそれは複雑な感情を自覚する余裕ができたということでもあり、キッチンから漂う匂いに胸が締め付けられる。

「同情……」

 真澄がここにいる理由はもはやそれしか考えられない。飛び降りを止めたのも、マンションまで着いてきたのも、部屋の片付けも、食事の用意も惨めな大人を哀れんでいるが故。
 押し付けがましい幼稚な正義感を思いやりと勘違いして、安全圏から手を差し伸べて良いことをしたつもりなのだろう。

 これ以上惨めな思いをするのはごめんだ、彼には帰ってもらおう。そう決めて真澄のいる洗面所へ向かった。横目に映るキッチンの調理台はカップ麺の空き容器や放置していた洗い物がすっかり片付いていて、ますます己がみっともない。ラップに包まれたおにぎりと味噌汁の入った鍋を見ないようにして、こちらへ戻ってくる小さな足音の方へ目線を流した。

「帰ってくれないか」

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