二話

 一歩足を踏み入れると、お馴染みの機械音と空調の効いた心地いい空間。そして──

「いらっしゃいませ〜」

 間延びした真澄の声。

──ああこれだ、これがずっと聴きたかった。

 カラカラに乾いた心に一滴の潤いが落ちる。もうそれだけで充分だった。けれどもう少しだけ、最後に一言二言会話をしたい。そんな思いが届いたのか、真澄は誠司の姿を目にした途端にわかりやすく反応して「あっ!」と声を上げた。

「お兄さんお久しぶりで〜す。元気してた……ようには見えないなぁ。だいじょぶ?」

 軽い調子でヒラヒラと手を振ってきたかと思えば急に表情を曇らせた。それでも彼の口元はゆるい笑みを形作っている。いついかなる時でも笑顔を絶やさない真澄に、誠司はどこか勇気や活力のようなものを貰っていた。当たり前のように癒されていた日々が今となっては懐かしい。

「えーっと、かなりお疲れっぽいですね〜。心配だな〜……あっ、そうそう! お兄さんに傘返さないとだ。ずっと借りっぱですみませんでした〜!」

「……」

「? えーっと……ちょっと待ってて〜」

 何も答えない誠司に不安そうな顔をした真澄は一旦バックヤードへ引っ込んでいった。ほんの数秒ほどで戻ってきた彼の手には、いつぞやの台風の日に貸した誠司の傘が大事そうに握られている。

「この前はありがとうございました。あれからタイミングが合わなくてヒヤヒヤしてたけど、まさか土曜に会えるなんてねぇ。シフト入れててよかった〜」

「ああ……うん」

 本来なら誠司も気の利いた言葉のひとつでもかけてやる場面なのかもしれない。けれど何も浮かんでこない。力無く目を細めてうわ言のような返事をするだけで精一杯だ。
 だからなのか、先程までへにゃへにゃしていた真澄の面持ちが、みるみるうちに険しくなっていった。

「……お兄さんマジで大丈夫? 顔色が悪いってレベルじゃないよ」

 彼特有のゆったりした話し方が消え、いつの間にか敬語も取れている。心から誠司を心配しているのだと伝わってきた。

「……真澄くん、ありがとう」

 今日の誠司はどうにも情緒が不安定だ。久しぶりの人間扱いに浮ついたのか、不思議と穏やかな気分になって体の力が抜けていく。一時的に表情筋が柔らかくなった気さえした。

「きみのおかげで俺はここまでやってこれたんだと思う。きみにとっては仕事だったかもしれないけど、俺は真澄くんと話す時間が好きだったよ」

 あれだけ出てこなかった言葉がつらつらと滑り出てくる。全てを言い切ると、何か大きなことを成し遂げたような気になった。
 もうなにも思い残すことは無い。こうしてまた真澄と話せたのだから。

 しかし穏やかな心情の誠司とは逆に、今度は真澄がひっそり眉を寄せた。訝しげな目は何かを慎重に探っているように見える。そして彼はいつになく静かに、そっと声を落とした。

「……お兄さん、今日はなんも買ってかないの? 新作スイーツあるよ?」

「うん、今日はいいかな」

「そっか……」

 そうして何も買わずに傘だけを持って店を出た。その背中を真澄がどのような顔をして見つめていたのかも知らずに、フラフラと宛もなく歩いて、たまにふと立ち止まり、道路を走る車を何台も何台も見送って、また歩く。

 気が付けば大きな橋の上で川を眺めていた。背後では車の音が絶えず過ぎ去って、すぐ近くでは人がまばらに行き交っている。それらの音を聞きながら橋の手すりに肘をかけて、脱力した手の甲に顎を乗せた。

 太陽の光が遠のいた時間帯だからか、川の水は眩しくはない。けれど上流から下流へ流れていく様子はわかる。水面下の石や地形の影響で、場所によって水の流れ方が違うことを発見し、それを観察した。

 今まで見向きもしてこなかった川だが、こうして見るとなかなか面白い。流れが速く白い水飛沫が見えるところ、比較的緩やかに見えるところ、小さな池のように水が溜まってほとんど動かないところなど様々だ。

 そしてどの部分も絶え間なく同じことを繰り返している。その光景になぜだか心が安らいだ。突発的な問題の対応を目まぐるしく繰り返し、常に理不尽で気の抜けない環境に身を置いてきたからだろうか、一定の動きを見ていると落ち着く。この水の流れをずっと見ていたいと思った。
 鉄製の手すりに手をかけて、少し身を乗り出して真下の川を見下ろす。そうすると川と橋の正確な高低差がわかってくる。誠司が思っていたよりも高い位置に橋がかかっているらしい。

──ここから飛べば、どうなるだろう──

 思いがけずそんなことが頭をよぎった。ピンときたとはこのことなのかもしれない。

──ここから飛べば、落ちる。落ちて、死ぬ。会社に行かなくて済む──

 まばたきが止まる。音も消え、一瞬だが呼吸も止まった。そうだ、その手があった。目から鱗が落ちる思いだ。
 まるで世紀の大発見でもしたような心地になった。どうして今まで気付かなかったんだ、自分は天才だ。不自然なほどの万能感と多幸感に溢れて胸が踊った。これは今すぐにでも実行しなければならないと思った。

 善は急げだ。とにかくここから飛び降りよう。手すりに手をかけ身を乗り出し足をかける。もはや周り声は聞こえず、誰の姿も見えない。あるのは真下の川だけ。
 だから誠司は気が付かなかった。全速力で駆けつける少年の存在に。

「ダメ!」

 切迫した声がすぐ側で聞こえた。同時に何かが体に巻きついて、グンと後ろへ引っ張られる。
 バランスを崩した体は前ではなく後ろへ倒れ、そのまま硬い橋へ尻餅をついた。
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