二話

 日付が変わってから家路についてマンションの一室へ。誰かが出迎えてくれるわけもなく、真っ暗な玄関に明かりをつけると、靴箱の上に散乱している郵便物が目についた。少し視線をずらせば、コンビニ弁当の容器などでいっぱいになったゴミ袋がいくつか放置されている。安酒の空き缶があちこちに転がり、リビングのカーテンレールに掛けたハンガーには干しっぱなしの洗濯物。ほとんど自炊をしないからか、キッチンだけはやけに綺麗だ。

 思わず深い溜め息が出る。帰ってくるだけで気が滅入る部屋だ。

 鞄を投げ出し、スーツを着たままソファに身を沈める。そのまま目を閉じて情報を遮断しても、頭の中は常に忙しなく働いていた。スーツがシワになるだの、早くシャワーを浴びるべきだの、明日も早いのだから無駄な時間を過ごす暇は無いだのと理性ではわかっている。けれど体が動かない。

 明日──いや、とうに日付が変わっているので正確には今日になるのだが、このまま朝が来なければいいのにとさえ思う。そもそも本来ならば土日は休日であるはずなのだ。しかし例の新人の尻拭いに時間を取られて、誠司が受け持つ仕事はほとんど終わっていないため、やむなく休日出勤が確定した。

 だからこうしてソファでグルグルものを考えるよりも起き上がるべきなのだ。シャワーを浴びて、数時間でも寝ればいい。わかっている。わかっているのに瞼が上がらない。指先一つだって動かせない。
 とても眠い。疲れた。いつもは酒を飲んで無理やり睡魔を呼んで眠っているというのに、この日ばかりは座ったまま気絶するように眠った。

──そして朝。寝ている間に体制を変えたのか、目が覚めたときの誠司はソファに横になっていた。カーテンの隙間から漏れる光が眩しい。

……眩しい?

「──はっ!」

 瞬時に目が冴えて体を起こす。眩しいと感じるほど明るいのなら早朝でないことは確かだ。スマートフォンで時間を確認すると、普段の出勤時刻をとうに過ぎていた。──もっともそれは社員の中で暗黙の了解となっていた早朝出勤での時刻であり、本来の出勤時刻にはまだ間に合う。
 しかし、それでもギリギリだ。悠長に風呂になど入っている余裕はなく、帰ってきた姿のままバタバタと部屋を出て車を飛ばした。

──結果的に言えば、なんとか間に合った。しかし上司からは激しく叱責されてしまう。正規の時間には間に合ったし、そもそも休日を返上しているというのに、そのあたりの事情は丸ごと無視され怠け者扱いを受けた。

 寝過ごしたと気付いた時点で連絡は入れていたが、会社へ向かう間もしつこく着信音が鳴り響いていた。信号待ちの隙に対応すれば「あと何分で着くのか」と急かされる。
 そんなやり取りを何度続けただろうか。利益重視の上司は運転中だろうがお構い無しに何度も電話をかけてくる。一歩間違えば事故に遭いかねない。
 それでも誠司に許される発言は一つだけ。

「申し訳ありません」

 社内で怒鳴られていても庇ってくれる同僚はどこにもいない。皆自分のことで手一杯なのだ。そして誠司も、いちいち心を潰している暇もなく仕事にとりかかった。
 足元がふわふわとおぼつかない。視点が定まらない。キーボードを叩いて資料をまとめ、外回りへ向かう自分をどこか俯瞰したところから見ているような気分になった。

 今、客と話しているのは自分なのだろうか。そんなことすら曖昧になってきた。なのに会話の内容はしっかり拾っていて、常に最適の受け答えを意識している。

 変な感覚だ──と、どこか他人事のように考えた。ぼんやりとしているのにどこかハッキリしている。

 まるで深い霧の中にある古い吊り橋のようだ。古くほつれた縄は糸のような細さで、なんとか繋がったままピンと張っているような危うい状態。今の誠司はそんな吊り橋を渡ろうとしている。足元も前も良く見えない真っ白な視界の中で。

 ふと現実世界の誠司に意識を戻す。商談相手の表情は明るく、気さくに握手を求めてくるので誠司もそれに応えた。どうやら良い方向に話がまとまったらしい。

──よかった。これでひとまず手持ちの仕事は片付いた。

 気が抜けた誠司はそのまま会社へ戻ることにした。直帰してもよかったのだが、入社してから植え付けられた習性で、車は勝手にオフィス街へと進んでいく。
 あのまま家に帰ればよかった。そう思ったのは、自身のデスクに腰掛けてからだった。

 帰るという発想にならなかったのは、外がまだ明るかったというのもあるだろう。時間など気にしていなかったが、窓から入ってくる光がオレンジ色をしていたので、おそらく夕方だ。
 そういえば昨日の夜から何も食べていなかった。いや、昼も食べていたかどうかも怪しい。朝は?

「……はぁ」

 深く息を吐き眉間をグッと抑える。前日に口にしたものを一つも覚えていないことに危機感を覚えた。

「かえろう」

 声にならないほど小さく呟く。せっかく仕事が一段落したのだ、今日は帰って久しぶりにコンビニへ行こう。そして真澄の笑顔を見れば、心に張り詰めた糸もきっとゆるむはず。そう思って席を立った。のだが──

「なぁ、手が空いてんならこれ手伝ってくれよ」

 いくつもの紙の束がドサリと目の前に現れた。顔を上げると、顔色の悪い同僚が少し苛立ったような様子でこちらを見下ろしている。

「……?」

 ぼんやりした頭では素早く状況を整理できない。返答に迷っているうちに同僚はサッと背を向けて立ち去ってしまう。いけない、このままでは──

「待っ……あ!」

 その瞬間、目の前の景色が極端に遅く再生された。咄嗟に立ち上がったはずみでデスクが揺れ、不安定な位置に置かれた書類の山が崩れ落ちていく。紙のタワーが斜めにズレて崩壊していく様子や、散乱していく一枚一枚がハッキリ見て取れた。
 それでも誠司は何をするでもなく、ぼうっと立ち尽くしていた。突然のことで体が動かなかったのか、それとも動く気すら起きなかったのか、そのどちらとも言えない。

 ただひとつ言えることといえば、誠司の頭の中で糸がミチミチと音を立てて裂けていき、そして──プツリと切れたことだけだった。

「……あぁ」

 そういえば辞めた後輩も同じことを言っていたなと思い出す。シチュエーションも似ている。平常時ならば紙が落ちただけだという些事で片付くことなのに、今回はなぜだか看過できなかった。
 目の前で崩れて落ちていく書類をどうすることもできずにいる無力感と、足元に散らばる紙を拾って整理する煩わしい作業を思う虚無感が誠司の糸を切った。

「……」

 時間にしてどれくらいだろうか。虚ろな目で床を見つめ、誠司はようやくゆらりと動く。鞄に貴重品を入れて、のろのろとオフィスを出た。
 世界から音が消えたように静かだ。声をかけてくる人物がいたのかどうかもわからない。視界がグラグラ揺れて、真っ直ぐ歩けているかどうかも怪しい。

 自分が何を考えながら歩いているのかもわからない。ただ、この状態で車の運転は危険だという理性は残っているらしく、自家用車は会社の駐車場に置き去りにして駅へと向かった。
 ほぼ無意識に近い感覚で切符を買って、久しぶりに電車に揺られ、気が付けば家の最寄り駅に着いていた。

 薄暗くなりつつある町は街灯が点々としている。ほんのり暗いが、町がちゃんと町の色をしていることに妙な新鮮さを覚えた。いつもならここは白々しい街灯と、真っ暗な町並みというモノクロの世界だった。そんな中でコンビニに入ると、色とりどりの商品が見えて安心したものだ。

 そんなことを思い出しながら歩いていると、足が勝手にピタリと止まる。そこにあったのは、あのコンビニだった──
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