二話


***


 あの酷い台風の日からどれほどの日数が経っただろう。気がつけば季節は巡り、残暑が落ち着いて冬の気配がやってくる。

 根岸誠司は相変わらず疲れていた。いや、疲れているどころの話ではない。つい最近、同僚の一人が逃げるように辞めた。これにより社員の負担はますます増加し、上司はこれまで以上に苛烈になった。せめて穏便に一日を終わらせるため、誠司を含めた他の社員は疲労を隠して不満を飲み込み、機械のように業務を片付ける日々。

 あれから真澄とは会えていない。残業が続くなか可能な日はコンビニへ足を運んでいるのだが、どうにもタイミングが合わなかった。
 一度だけ店長らしき人物に尋ねてみると、風邪で休んでいるとのことだった。聞くところによると真澄はたびたび体調を崩すらしく、多少の風邪ならふにゃふにゃした笑顔で誤魔化して隠してしまうのだという。そんな真澄が自主的に休むということは相当症状が重いに違いなかった。人は見た目ではないが、あの派手な外見で体が弱いというのは驚きだ。
 思えばあの台風の日も冷たく濡れた体を震わせながら苦しそうな咳を出していたし、枝のように細い手足とどこか青白い肌は病人のそれを彷彿とさせた。多少の不調なら隠してしまう自己犠牲精神は健気だが危うい。大事になっていなければいいが。

 もっとも、他人を心配する余裕は誠司にはもうほとんど残っていなかった。残業が続き、それどころか時間拘束はますます厳しくなり、日々つり上がっていく目標を死に物狂いで達成しなければならない。
 コミュニケーションは得意なほうなので営業の仕事は好きなのだが、理不尽な取り引きを持ち掛けられ、ギリギリの駆け引きに神経を尖らせると、ただでさえすり減っていた心身に追い打ちをかけられる気分だった。
 それを癒すために真澄に会いに行っていたのたが、その機会はことごとく潰されていく。まるで何者かが裏で阻んでいるかのように。

 もっともそれはただの不幸な偶然が重なっているだけだ。しかし、満身創痍で常にピリピリと疑心暗鬼になっている誠司にとっては、裏で誰かが糸を引いて追い詰めていると考えたほうがしっくりくる。それほどまでに誠司には余裕が無かった。

「──どうしてこの程度の案件も取って来れないんだ!」

 オフィスを震わせるほどの怒号にハッと顔を上げる。声のした方を見れば、上司が部下を叱責しているところだった。あの部下は誠司の後輩で、彼が入社してすぐに誠司が名目上の教育係として面倒を見ていた。
 実際にペアを組んで仕事をしたのは数える程度で、充分な教育もできないまま手を離さざるをえなかった。が、それもこれも全て人手不足のせいだ。人が足りないのにノルマばかり高く設定されているので、愛想をつかした社員が一人また一人と去り、残った者の負担はますます増えて、残業が当たり前の環境になっている。休日の概念などとうに消え失せていた。

「申し訳、ありません……」

「申し訳ありませんじゃないだろ! だいたいお前は──」

 深々と頭を下げる部下に上司はしつこく詰め寄る。やれ仕事ができないとデスクを叩き、やれ要領が悪いと書類を投げつけた。それでも部下は顔を床に向けたまま微動だにしない。
 仕事ができないなどと言うが、教育係だった誠司からして見れば、彼は贔屓目なしに物覚えが良く熱意に溢れた好青年だった。しかしその勢いも数ヶ月で鎮火した。
 働いても働いても終わりが見えない。ノルマを達成しても、次はより高い目標を設定されてキリがない。意味がない──いつの日か彼が休憩中にポツリとこぼしていた。

 彼はまだ入社して半年だ。他社の新卒はどの程度のレベルに達しているのかはわからない。しかしある日たまたま営業で向かった取り引き先で、いまだに先輩の後を着いてまわる新入社員らしき人物を見かけた。ほんのり自信がついてきた目をしつつも、何かを確認するように質問をしている姿は頼りなく、しかしやる気に満ち溢れていた。
 その光景を思い出しながら誠司は思う。今こうして罵声を浴びている彼も、あの会社で勤めていたらきっと重用されただろう、と。

 ようやく上司から解放された彼はフラフラとデスクへ戻り、鞄を持って出ていった。あれだけなじられた後でも外回りをするのだろう。ちょうどいい、誠司もこれから出かけるところだったので、荷物を抱えて後輩を追いかけた。

「大丈夫か?」

 上司の目の届かない廊下で肩を叩くと、後輩は淀んだ目で振り返る。少し前までハツラツとしていたのに今は見る影もない。酷いクマだ──と、誠司は自分の顔色を棚に上げて眉をひそめた。

「先輩、すみません……俺、なんか無理そうです。さっきも、なんかヤバくて」

 さっきとは、書類を頭に投げつけられたときのことらしい。所詮紙の束なので痛みはどうってことはなかったが、ヒラヒラ落ちる書類を見て、頭の中で細い糸がプツリと切れたそうだ。

「たぶん俺やめます。てか、明日から来ません。実は身内の仕事を手伝ってくれって誘われてたんです。田舎だから迷ってたけど、もう決めました」

 後輩はキッパリと言い放つ。せっかくなら冬のボーナスまで待つつもりだったらしいが、どうせたいした額出ないでしょと吐き捨てる言葉に、そうだなとしか答えられなかった。
 ただ思うところがあるとするならば、満足に教育してやれなかったことや、ろくに上司から守ってやれなかったことが悔やまれる。後輩は力無く、しかしどこか吹っ切れたような笑顔で許してくれた。

「先輩も次見つけたほうがいいですよ。と言っても転職活動できるほどの隙をこの会社が与えてくれるとは思いませんけど」

 その通りだった。更に付け加えると、退職届すらまともに受け取ってくれないと聞く。辞めそうな空気を纏った瞬間から目をつけられて、どんな手を使ってでも会社に縛り付けてくる。
 本来ならば少なくとも数ヶ月前から退職の意思を示すものだが、そういった正規の手順を踏んで円満に退職することは、この会社ではほぼ不可能であると言っていい。
 ならば行き着く先はだいたい同じ。ある日突然会社に来なくなり、連絡も取れなくなる。

 そうして次の日から後輩は姿を見せなくなった。綺麗になったデスクが物悲しい。田舎では幸せになれるといいが……

 しかし感傷に浸る間もなく、数日後には中途採用の新入社員がそこにドカリと座っていた。

「あ? あんたが根岸さん? よろしくお願いしまーす」

 椅子に座りながらの挨拶とは傲慢な男だと思ったが、社長の親戚だと聞いて悪い意味で納得してしまった。運の悪いことに誠司は彼の教育係を命じられる。

 共に仕事をこなせば印象が変わるかと思った。しかし彼の勤務態度はあまりにも悪く、何かを任せれば必ずミスをした。誠司がフォローに回っても平然としており、反省の言葉も出てこない。それどころか教え方が悪いだの、もっと大きな案件を寄越せなどと文句を言う始末。

 そして何より誠司にとって不幸なことは、他の社員に高圧的な連中は全員この新入社員の味方だということ。能力に見合わないと説得しても、彼に大きな仕事を割り振れと圧をかけられ、誠司は気を揉みながら社長の親戚に仕事を任せることにした。

 そうして案の定、取り引き先から大きなクレームがきた。

「申し訳ございませんでした!」

 大勢の社員が見ている前で頭を下げているのは誠司だった。当事者である新入社員はというと、なに食わぬ顔で突っ立っている。
 数字が合わない、電話での対応が悪い、伝えていたものとは違う商品の資料が送られてきた、納期に間に合わないとわかっていたのに黙っていたなど、言い出したらキリがない。

 いっそ故意にやったとしか思えないほどのミスの山だ。それもこれも全て誠司が傍で見ていれば防げるはずだった。しかし彼の仕事をチェックしようとすれば「俺の仕事を取らないでください」と跳ね除けられ、上司からは置い出されるように外回りへ行かされた。目をかけてやれる隙などなかったのだ。
 しかしこの新入社員はとんでもないことを口にする。

「電話対応中は常に根岸さんが傍にいたけど、何も言われませんでした。資料は全て根岸さんにチェックを頼んだらオーケー貰えたので、そのまま出しました。納期が遅れる件は黙ってても問題ないって」

「……は?」

 ありもしないことばかりを口にする彼に怒りと恐怖をおぼえた。こいつは何を言っているんだ?
 上司連中は一斉に誠司へ鋭い視線を向ける。社長の親戚である新入社員の言葉を疑う者はどこにもいない。この一件は全て誠司の責任になり、多数の社員の冷たい目が集まる中で晒し者のように罵声を浴びせられた。

 そして今日中に解決するようにと無茶な命令を下される。ただでさえ飽和状態な手持ちの仕事を一旦横に置いて、新入社員の尻拭いに時間を使い果たした。

 今日もコンビニには行けなかった。
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