体調不良の真澄くんと206号室

 夜も更けていよいよ眠りにつこうというとき、真澄は急な喉の不快感と息苦しさで目が覚めた。咳き込むたびに体を震わせて、少しでも楽な姿勢を見つけようと体を起こす。せっかくの心地いい眠気も吹き飛び、消灯した206号室に悲痛な咳を響かせた。

「ゲホッ、ケホ……コホッ」

 他のルームメイト三人はもう寝ているのだろう。スマートフォンの明かりもなく、本来ならば数人分の静かな寝息が聞こえるだけだったはずだ。
 その静寂を真澄が台無しにしてしまった。なんとか音を抑えようと口元を覆うが気休めにしかならない。自在にコントロールできればいいのだが、咽喉の異物を取り除こうとする生理現象には抗えず、前かがみになって何度も咳き込み耐えるしかなかった。

 早く終われ早く終われ──生理的な涙を滲ませながら念じるが、かえって悪化していく気がする。気が付けば苦痛を逃がすためにシーツを握りしめて大きな皺を作っていた。

「ケホ……ッ、ヒュー……ゴホッゴホ、痛……ッ」

 絶え間なく続く振動は痩せ細った身体に少しずつ負担をかけていき、回を重ねるごとに胸が痛くなり背骨が軋む。
 しかし、歪む表情に反して心は落ち着いていた。自身の咳と呼吸音を冷静に聞き分け、これは自力ではどうにもならないと判断するや、ベッドヘッドに置いていた吸入薬を手に取り一気に吸入した。狭まった気管支を速やかに広げるための薬だ。

「ッ……ケホ、っはァ……」

 強い薬とはいえ効くまでに五分はかかる。余韻の残る咳と特徴的な喘鳴ぜんめいは自分でも気持ちのいいものではない。睡眠を阻害するには十分な雑音だ。
 自身の体のことよりも同室で眠っている少年たちのほうが気にかかり、祈るような気持ちで二段ベッドから出て一人ひとり確認した。幸いなことに全員静かに横になったまま身動みじろぎひとつしていない。

「……よかった」

 掠れた声で安堵してカーディガンを羽織り、ひっそりと部屋を出た。

──どうか誰も起こしていませんように、と願いながら──

***

 部屋を一歩出れば別世界のような空気に迎えられる。夜とはいえ梅雨の蒸し暑さは寮の中にも影響していて、特にエアコンのない廊下はひときわじっとりと肌にまとわりつく湿度を含んでいた。
 けれど今の真澄にとってはむしろこちらの方が都合が良く、暑がりのルームメイトたちに合わせて冷やされた部屋から抜け出せば、芯まで冷えた体がじんわり熱を持つ。

 呼吸を整えながらゆっくり一階へ降りて、ロビー中央の太い柱を囲うようにぐるりと設置されたソファに腰を落ち着かせた。

「はぁ〜静かぁ〜」

 柱にもたれてぼうっと天井を見上げる。
 このような深夜でなければ登下校したり食事をしに来たり風呂上がりに談笑したりなどして賑わう場所だが、今は人気ひとけのないフロアの暗がりに自動販売機と非常灯が街灯のように辺りを照らす。
 咳も少し落ち着いてきた。せっかくなのでこのまま眠気がくるのをぼんやり待つとしよう、そう思って目を閉じた。一人で過ごす夜には慣れている。もちろん人肌恋しくなることもあるが、寮内に限り発作時は一人でいるほうが気楽だ。うるさい、迷惑だと嫌な顔をされるよりよっぽどいい。

「……」

 ヤなこと、思い出した──膝に顔を埋めるように座り直す。

〝うるさいんだよその咳、どうにかなんねぇの? お前のせいで寝不足になるじゃん〟
〝持病だかなんだか知らんけど、そんならなんでわざわざ全寮制の学校なんて選んだわけ? 周りの迷惑考えろよ〟

 去年同室を過ごした、かつてのルームメイトたちの言葉が鮮明に蘇る。膝を抱える手に力が入った。
 予防をしても対策をしても発作がおきるときはおきる。そう開き直ることができればまだ楽だったが、真澄にはできない。今回のようにいちいち発作を起こしていれば、同じ部屋で過ごす人間にとってはたまったものではない──まずそんなことを考えてしまうのだ。

 幸い真澄は留年し、かつてのルームメイト達と学年が離れたので今後彼らと同室になることはないが、今年は今年で新しい同室者が三人もいる。個性的で一匹狼的な彼らだが、関わってみると気のいい連中だと感じることが多かった。できれば去年と同じように疎まれたくない。

 大丈夫だ、今年は発作のたびにこうして部屋から出て落ち着くのを待っている。部屋を出る際も音を立てないように気を付けている。少なくとも去年よりは配慮できているからきっと大丈夫だ。
 言い聞かせながらネックレスのタグにそっと触れる。いつも肌身離さず身につけているこれに触れれば不安が軽くなる気がした。その代わりに心細さが浮き彫りになって、ソファの上で更に身を縮める。

 寂しい──少しでもそう思ってしまうと、もう駄目だった。誰かに縋りたい、温もりを感じたい、声を聞きたい。自販機の明かりだけが頼りのロビーで、頭に思い浮かんだ一人の少年に語りかけるつもりでポツポツ弱音を零す。

「っ、あは……〝お前〟が今のオレを見たらなんて言うかな。また始まったって呆れて笑う? シャキッとしろって背中を叩いてくれる? こんなとき、お前がいてくれたら……お互い様だって言って、遠慮なく支え合えたのに。なんで、会えないかな。会いたいなぁ……会いたいよ……寂しいよ……」

 目元に押し付けた膝がじわりと濡れる。真澄が〝お前〟と呼ぶ人物は兄弟を除いてただ一人。どんなに探したってこの世のどこにもいない誰かを想うと、どうしようもない喪失感と孤独感が真澄を襲う。
 このまま泣き疲れれば眠りやすくなるだろうかと思ったとき、一人分の足音が微かに耳に届いた。いよいよ幻聴でも聞こえたか、どんどん近くなる音に顔を上げれば階段のわきに人影が見えた。

「……誰?」

 近眼の真澄にはそれが誰だかわからない。ましてや暗いロビーだ、その人影がゆっくり近付いてもなかなか正体に気付けなかった。

「なーにが〝誰?〟だよ。聞きたいのはこっち。なんでこんな時間にこんなとこにいるの」

 その声を聞いてようやくわかった。依然として顔はぼやけてよく見えないが、この幼さが残る声と小生意気な話し方はルームメイトの二葉だ。

「……なははっ、二葉くんかぁ〜。二葉くんこそ、なんでココにきたわけ? もしかして〜、オレがいないと寂しかったとか?」

 さりげなく目尻の涙を拭って軽口を叩けば、呆れるような溜め息が返ってくる。まるで何もかも見透かしているかのように、睫毛の長い猫目が真澄を見下ろした。

「はぁ……相変わらずチャラいなー。ぼくはそんなくだらないバレバレの強がりを聞きに来たんじゃないんだけど。だいたい体調が悪いなら部屋から出ないで寝てればいいじゃん」

「え……」

 ひくり、と作り笑いが崩れて思わず目を逸らした。誤魔化そうと取り繕ったつもりだったが、これではまるで意味がない。なんとかいつものペースを取り戻そうとしてみたものの、口から出た言葉はなんとも歯切れの悪いものになってしまう。

「あ、あ〜……もしかして、起きてた? っていうか……起こしちゃった……かな?」

「うん、起こされた。真澄くんの酷い咳で」

「うっ……ハッキリ言うじゃん。……や、ううん、ゴメン。もっと早く部屋を出ればよかった」

「だーから、出るなっつってんの! 風邪か何か知らないけど、あんな酷い咳してるのにフラフラ歩き回る馬鹿がどこにいんだよ! 大人しく寝てろ!」

 真澄の返答が気に入らなかったのか、二葉は駄々っ子のように足をダンッと踏み鳴らす。深夜にもかかわらず凄い剣幕で怒鳴るものだから意味もなく辺りを見渡したが、声を上げた張本人はそんなことはお構い無しに真澄を睨んでいる。

「とにかく部屋に戻るよ! ぼくらに気を遣ってるつもりだろうけど、そんなことされると逆に居心地悪くなるんだよね」

 言って手首を掴んで立たせようとしてくるけれど、咄嗟に腕を引いて抵抗してしまった。どうにもこの優しさに甘える勇気が持てないのだ。

「ッ……ゴメン。そう言ってくれんのは嬉しいけど、今日みたいなコトってそんなに珍しくもないんだよね実は。だから、悪いよ……実際うるさいし、毎回起こされたらたまったもんじゃないでしょ?」

 今はよくても頻繁に物音で起こすことになれば、いつかきっと限界がくる。真澄にとっては慣れたものだが、同室で過ごす彼らにとっては違うだろう。

「……オレ留年してるからさ、同じクラスだと君らしか知り合いいないし、残り半年以上も同じ部屋で過ごすんだから、嫌われたら学園生活が一気に地獄じゃん? オレ的にはそっちのほうが辛いから」

 去年を思い出すと目線がどんどん下がっていく。もう起こしてくれるなよというプレッシャー、起こしてしまったときのウンザリしたような溜め息、自室に居づらいことほど寮生活で苦しいことはない。

「だからこれからも発作が出たら部屋を出るけど、二葉くんたちは気にしないで。オレが好きでやってることだから──」

「うるさい! 泣いてたくせに!」

「泣っ、いてなんか……痛ッ!」

 苛立ちからか半ば乱暴な手つきで泣き腫らした目元を拭われ、涙で濡れたズボンを叩いてくる。泣いてなんかないだって? この目は? この膝は?──喧嘩腰に投げられた質問に上手く答えられず口ごもる。この年下には何もかもお見通しだったらしい。

「〝会いたい〟だの〝寂しい〟だの、誰に話しかけてたのか知らないけどさ、弱ってるくせに変な気回すなっての!」

「お、おお……けっこー最初から聞こえてたワケね」

「っていうか発作ってなんだよ! 言えよそういうことはさ! そりゃあ前々から体育見学してたり保健室行ったりしてるから体が弱いのかなと思ってたけどさ、持病があるなんて知らなかったんだけど!?」

 前のめりに詰め寄られて正直驚いた。二葉は兄を特別視することはあっても、ここまで他人に熱くなる人物ではなかったはずだ。普段から冗談半分で口説いてもほとんど無視に近い対応をされていたので、てっきり自分に利害がない限りは他人に関心がないのだと思っていたのだが。

「……なに」

 心境が顔に出ていたらしく、幼い猫目の少年が怪訝な顔で睨みつけてくる。

「なんか勘違いしてるみたいだけど、別に慈善活動ってわけじゃないから。病人を追い出したというレッテルを貼られたくないだけ。たとえ真澄くんが自主的に部屋を出たんだとし・て・も、ね」

 だから気にしなくていいと言いたいのだろう。真澄が気を遣わないようにあえて嫌な言い方をしたことも伝わった。その優しさは有難い。だけど、それでも──

「でも……っ、前のルームメイトだって嫌がってたんだよ? 二葉くんたちだって、きっといつか──」

「あーもうウルサイ! だったら文句言う奴全員ぼくが黙らせてやるよ! それでいいだろ!?」

 髪をかきあげ感情的に怒鳴ったと思えば、小柄に似合わぬ力で今度こそ強制的に立たされた。そのまま手を引かれ、なすがままに部屋へ向かって歩きだす。
 前を行く小さな少年は振り向かずにこう言った。

「もうこれきりにしろよ。ぼくこういうの苦手なんだから。悠太と秀虎はもっと苦手だって言うから、結局ぼくが行くしかなかったんだけどさ」

「え、それって、つまり──?」

 問い返すと、二葉の足がピタリと止まる。一瞬だけこちらを向いて、すぐさま拗ねたようにそっぽを向いてから一言。

「ぼくら206号室組はみんな同じ気持ちってこと」

 どうやら起こしてしまったのは二葉だけではなかったようだ。その上で真澄を受け入れる度量を垣間見て、年下の彼らのほうが一枚上手だと気付かされた。

「ちなみに、ぼくらは真澄くんを年上だと思ったことは一度もないから、何かあったら遠慮なく頼れば?」

 しかめっ面の横顔は頬がわずかに膨らんでいる。あと一歩素直になりきれない照れ隠しが年下らしくて可愛らしい。
 そうまでして柄にもないことをしてくれたのだから、ここで意地を張っては年上の名が廃るというもの。甘えるのは昔から得意だ。小さな背中に抱きつき、素直に感情を表に出した。

「なはは〜。んじゃぁ、よろしくお願いしま〜す」

「うわっ、いつにも増してヘラヘラしてる! さっきまでヘコんでたくせに! っていうかどさくさに紛れにくっつくな! 甘えるにも程があるだろ!」

 深夜の廊下、小声でじゃれ合いながら部屋へ戻る。窓から見える綺麗な満月の明かりに反射して、形見のネックレスがキラリと光った。

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