隼人と龍之介が喧嘩した話(龍之介の一人称視点)
──俺はさっき藤咲と喧嘩した。きっかけは藤咲の口元に貼られた絆創膏。少し血が滲んでいるそれを指して、どうしたんだと訊けば喧嘩の仲裁をしていた際に殴られたのだと言う。
藤咲は風紀委員だからこういうことは珍しくない。それどころかコイツは自ら揉め事に突っ込んで行くような節がある。冷静そうに見える反面意外と喧嘩っ早くて、正直危なっかしいし心配だ。だというのに当の本人はいつもみたいに涼し気な顔をして、怪我をした事すら忘れたみたいに別の話題を振ってくる。絆創膏ばかり追いかけている俺の視線にも気付きやしない。
だから言ってやった、もう少し気を付けてくれって。出来る限り怪我をしないように工夫してほしいって。普段の俺ならこんな風に自分の意見を押し付けるようなことは絶対に言わない。だけど今回は藤咲があまりにも自分の怪我に無頓着だから、つい……。
「仕事熱心なのは結構だが、前もそうやって傷作ってたろ。今日はこれくらいで済んでたとしても、次もそうとは限らねェんだぞ」
ここまで口うるさく言うのはらしくないと自分でも思う。藤咲も物珍しそうにこちらをじっと見て、その黒い瞳で俺の真意を探ろうとしているようだった。だからそのまま真正面から見つめ返してやる。俺は本音しか言っていない。
大切な友達だから自分の体を粗末に扱ってほしくないし、危険だとわかっている所へ単身突入する鉄砲玉のような真似はよしてほしいんだ。この気持ちが届けばいいんだけど、そう簡単にはいかないのが世の常なんだよな。
「……ほんのかすり傷だから心配することはない」
そう言うと思ったよ。頑固なところあるもんなお前さん。でも俺だって今回ばかりは譲れない。
「たまたま運が良かっただけだろ。当たりどころが悪かったら今日だって怪我じゃすまなかったかもしれねェんだぞ」
「俺はそんなヘマはしないから大丈夫だ」
目を伏せて溜息混じりにそっぽを向かれてしまう。これ以上この話はしたくないってことなんだろうけど、俺は素直に黙ってやれなかった。
「っ……油断すると取り返しがつかねェことになるって言ってンだよ!」
思わず語気が強くなってしまった。咄嗟に口を押さえて藤咲の顔色を伺ってみるが、さっきまでと変わらず無表情。驚いたり怖がったりしてはいないようで安心した。
「……なぁわかってくれよ、俺は藤咲に怪我してほしくない。もっと自分を大事にしてくれ」
努めて冷静に穏やかな口調で諭そうとした。すると今度は藤咲が静かに口を開く。俺を責めるような目をして。
「それを言うなら蘇芳こそ自分を大事にしていないじゃないか。クラス委員に環境美化委員、そして園芸部、それ以外にも頼み事は全て引き受けているだろう。そんな調子でいたらいつか潰れるぞ」
「へ……?」
何でコイツは俺の話をしているんだ? 今は藤咲の話をしているのに。藤咲のことが心配で危ない目に遭ってほしくなくて、だから自分を大切にしてほしいって言ったのに、どうして俺に同じことを言って誤魔化すんだ?
「藤咲、俺は大丈夫だ。潰れたりしねぇ。そんなことよりお前さんの──」
「そんなことよりってなんだ。何が大丈夫なんだ、しょっちゅう体調を崩しているくせに。……熱を出しながら元気そうなふりをして笑うお前を、俺はあと何回見ればいい?」
もうたくさんだ、と言いたげな声色だ。だけどな藤咲、それは俺も同じなんだぞ。俺だってお前さんが怪我するところなんて見たくない。
話は依然として平行線だ。お前が大丈夫と言うなら俺も大丈夫だと藤咲が言うから、どっからくるんだその自信はと返してやる。
「それはこちらの台詞だ」
藤咲が珍しく苛立ちを隠さない声でそう言い放ち、いよいよ足早に部屋を出ていった。ルームメイトが去った今、この部屋にいるのは俺一人。
しんと静まり返った部屋でベッドに倒れ込み、天井をぼうっと見つめる俺は──密かに浮かれていた。
「初めて……友達と喧嘩した!」
誰もいないとわかっているのに、枕を顔に押し付けて緩んだ表情を隠す。こんなに嬉しいことはない。だって俺は中学二年生までずっとボッチで、高校生になってようやくハル以外の友達ができて、そして今初めてその友達と喧嘩したんだ! 藤咲は遠慮なくズケズケものを言って、俺も包み隠さず本音をぶつけたからこそ成り立つ。対等で親しい証拠だ。
勿論さっき藤咲に言ったことは全て本心だし、積極的に喧嘩したいとも思っていない。だけど初めての経験ってのはいつだって未知でワクワクするものなんだ。喧嘩は一人じゃできないから。
心を弾ませた勢いで携帯を手に取った。今日の日付に『喧嘩記念日』と打ち込みそうになるほど浮ついていた。だけど喧嘩と打ち込んだ瞬間、ふと思う。このままずっと藤咲と仲違いしたままだったらどうしようって。
急に不安になってきた。これ……どうすりゃあいいんだ? 喧嘩して、その後は? こんなこと誰にも教えてもらったことがないし、教わる機会もなかった。なら今から誰かに相談するしかない。
「ハル……は無理だな。失礼だけどアイツはこういう相談には向かねェ。となると水樹さんだ!」
第二寮の代表で面倒見のいいあの人なら知恵を貸してくれるかもしれない。そう結論付けた時には既に部屋を出て階段を駆け上がっていた。
「──てなわけで藤咲と喧嘩してしまって。このままずっと仲直りできなかったらって思うと、居てもたってもいられなくなったんです」
息を切らせて突然部屋へやってきた不躾な俺を、水樹さんは快く部屋へ迎え入れてくれた。事の顛末を全て話すと、不思議なことにそれだけで少し落ち着いてきたように思う。
「俺、友達と喧嘩すんの初めてだから、こういう時どうすりゃいいのかわかんなくて」
硬い床に正座して膝先をグッと睨みつめる。自分の無知が愚かしくて恥ずかしい。だけど水樹さんは叱るでもなく呆れるでもなく、どこか安心したような溜息を漏らして笑った。
「なんて言うか……お前ららしい喧嘩の理由だな」
そう言って水樹さんは、まぁ座れよと自身が腰かけているベッドを気さくに叩くけど、俺は頑なに首を振った。目上の人に対する振る舞いは子供の頃から叩き込まれてるんだ。しばらくそうしていると、やがて諦めたように再び笑い混じりの溜息が聞こえてきた。
「お前らの場合、お互いを思いやりすぎて少し意地になっただけだから、すぐ仲直りできると思うんだけどな」
「そう……でしょうか」
「そうだ。意地張ったことを謝って、今後気をつけるって約束すれば充分だ。そうすれば隼人も同じように謝って行動を改めてくれるはずだぜ」
水樹さんの言葉には説得力がある。さすがは藤咲の幼馴染みだ。アイツの考えそうなことは全てお見通しってわけか。それに中立的な意見を聞かせてくれたおかげで、俺の悪かったところを自覚できた。
「水樹さん、ありがとうございます。俺、藤咲に謝ってきます」
何も解決してないってのに、相談するだけでこんなにも心晴れやかになるもんなんだな。軽い足取りで自分たちの部屋へ帰った……が、それもつかの間。一時間もしないうちに俺はまた水樹さんの部屋へ駆け込んでいた。
「水樹さん……っ! 藤咲が帰ってこねェ!」
無視されるのが怖いからメッセージも送れないと嘆くと、まぁこれでも抱いて落ち着けと大きなぬいぐるみを渡された。
「……なんですかこれ、豆? 蝶?」
ふにふにと柔らかいコイツは妙な見た目をしている。オレンジっぽい体は豆みたいなフォルムなのに薄い水色の羽が生えていて、とぼけたような笑顔がなんとも言えない。少なくとも水樹さんの趣味ではなさそうだ。
「こいつなぁ、少し前に隼人がゲーセンで取ってきたゆるキャラなんだ。嬉しそうにプレゼントしてくれた日から俺の部屋の一員になってる」
ああやっぱりそういう感じか。藤咲からのプレゼントってのも納得だ。
「名前はチャーリー・ビーン。愛称はチャンビーだとよ」
「チャンビー……」
よくある一人用の枕よりもでかいコイツを抱き抱えて、相変わらず硬い床に座り込む。水樹さんはさっきと同じようにベッドに座れと促しつつ、携帯を手に誰かとやり取りをしているようだった。
「蘇芳、隼人はいま望の部屋にいるらしいぞ」
どうやら俺の代わりに藤咲にメッセージを送ってくれていたらしい。だけど──
「望……の部屋ですか?」
嫌な予感が脳裏を駆け回り、思わずチャンビーを強く抱き締めた。
「おいどうした蘇芳、望の部屋だと何か都合悪いのか?」
「望の……部屋、確かあそこはベッドが一台空いてるから、もしかすると今夜はそこに泊まって、なんならハルもそこに加わってお菓子パーティーとかして……! 俺だけ……俺だけ仲間はずれに……ッ!?」
望やハルと楽しく騒ぐ藤咲の姿を想像してしまって、チャンビーの頭に顔を押し付けた。水樹さんは考えすぎだなんて言ってカラカラ笑うけど、俺にとっては決して杞憂でも悲観的でもなくて、容易に想像できる現実《リアル》なんだ。
「水樹さん……俺のボッチ歴を甘く見ねェでくれますか!? 約十四年ですよ! 中学生の頃は体育祭や文化祭の打ち上げにも呼ばれなかったし、修学旅行のバスじゃあ隣に誰も座ってくれなかったし、観光だってハルがいなかったらほぼ一人で回ることになってたんですよ!」
キッと見上げた目に涙が滲む。歪んだ景色の中で水樹さんは一瞬戸惑ったような顔をしたけど、すぐに笑みを見せた。経験豊富な大人が無知な子供に向けるような、何かを懐かしむような笑顔で俺の頭を優しく撫でてくる。
「まぁまぁ落ち着けって。隼人には部屋へ戻るように言っとくからお前も部屋に戻れ、な?」
「……はい」
諭すような低い声色に自然と体の力が抜けていく。
ああこの感覚……実家を思い出すな。周りに大人しかいない環境で育ってきたから、今の水樹さんが醸し出す大人の雰囲気に心底安心する。
そうか、だから俺はここまで取り乱すことができたのかもしれない。水樹さんならこうしてくれるかもしれないって、無意識のうちにわかってたんだな。甘えちまって、恥ずかしい。
もう一度礼を言ってから改めて自室へ戻ると、今度は割とすぐに藤咲が帰ってきた。普段とあまり変わらない態度の藤咲に対し、俺は上手く視線を合わせられなくて、後ろ手に組んだ指をいじいじと弄んでいる。この場合どうやって話を切り出すべきなんだ? わからない以上、下手に動けない。
そんな調子でどれくらいのあいだ向かい合っていただろう。やがて視界の端に佇んでいた黒い影がゆるりと動き、ベッドに腰掛けた。そのまま藤咲が薄い唇を開く。
「……お前と言い合いをした直後、柿原と浅葱に相談したんだが、奴らときたら惚気だの痴話喧嘩だのと茶化してきてまともに聞いてくれなかった」
あれは完全に面白がっていた、と少々疲れた声で付け加えられる。
「仕方がないから自分で考えてみた結果、あいつらに笑われてもおかしくない喧嘩内容だったことに気が付いた。俺たちは二人して同じことを言い合っていたんだ」
「あ……」
そうだ、水樹さんにも言われた。俺達は相手を見ているようで全く見えていなかった。自分の願いばかりぶつけて、それが聞き入れられないと心を擦り減らしてしまう。
でも結局は互いを思い合う気持ちが強すぎるが故に強情になっていただけだった。無茶してほしくない、自分を大切にしてほしい、そう思えば思うほど思いやりは焦りと怒りに変わって冷静さを失っていた。
「藤咲……」
今度は自然と口が開いた。
「ごめん」
たった三文字。たったこれだけのこと。それなのに鼓動は早くなって手の平が汗ばむ。
この言葉が届かなかったらどうしよう、拒絶されたらどうしよう。目の前の藤咲を見ればそんな結末にならないことくらいわかっているのに、心の中で密かに怯えている。喧嘩した相手に謝罪するって、こんなにも怖いものだったのか。
けれどこの緊張感も藤咲の言葉で一気に緩むことになる。
「俺も勢いに任せて言い過ぎた、ごめん。これからはできるだけ自重するよう努力する」
瞬間、ほうっと肩の力が抜けた。たぶん今の俺はとてつもなく情けない顔をしているに違いない。
「おう……俺も気を付けるよ」
へらっと力無く笑って自分の髪を一束指に絡ませる。思ったより簡単で呆気なくて、ああ良かったと安堵して、少しだけ遠慮しながら藤咲の隣に腰掛けた。
「えっと、仲直り……ってことでいいんだよな?」
「ああ勿論だ」
自然な動作で差し出される手。その指先をそっと掴むと、半ば強引に手を掴まれて握手の形になった。ひんやりした藤咲の手に包まれて、俺は今日一番の幸せを噛み締めたのだった。
【完】
藤咲は風紀委員だからこういうことは珍しくない。それどころかコイツは自ら揉め事に突っ込んで行くような節がある。冷静そうに見える反面意外と喧嘩っ早くて、正直危なっかしいし心配だ。だというのに当の本人はいつもみたいに涼し気な顔をして、怪我をした事すら忘れたみたいに別の話題を振ってくる。絆創膏ばかり追いかけている俺の視線にも気付きやしない。
だから言ってやった、もう少し気を付けてくれって。出来る限り怪我をしないように工夫してほしいって。普段の俺ならこんな風に自分の意見を押し付けるようなことは絶対に言わない。だけど今回は藤咲があまりにも自分の怪我に無頓着だから、つい……。
「仕事熱心なのは結構だが、前もそうやって傷作ってたろ。今日はこれくらいで済んでたとしても、次もそうとは限らねェんだぞ」
ここまで口うるさく言うのはらしくないと自分でも思う。藤咲も物珍しそうにこちらをじっと見て、その黒い瞳で俺の真意を探ろうとしているようだった。だからそのまま真正面から見つめ返してやる。俺は本音しか言っていない。
大切な友達だから自分の体を粗末に扱ってほしくないし、危険だとわかっている所へ単身突入する鉄砲玉のような真似はよしてほしいんだ。この気持ちが届けばいいんだけど、そう簡単にはいかないのが世の常なんだよな。
「……ほんのかすり傷だから心配することはない」
そう言うと思ったよ。頑固なところあるもんなお前さん。でも俺だって今回ばかりは譲れない。
「たまたま運が良かっただけだろ。当たりどころが悪かったら今日だって怪我じゃすまなかったかもしれねェんだぞ」
「俺はそんなヘマはしないから大丈夫だ」
目を伏せて溜息混じりにそっぽを向かれてしまう。これ以上この話はしたくないってことなんだろうけど、俺は素直に黙ってやれなかった。
「っ……油断すると取り返しがつかねェことになるって言ってンだよ!」
思わず語気が強くなってしまった。咄嗟に口を押さえて藤咲の顔色を伺ってみるが、さっきまでと変わらず無表情。驚いたり怖がったりしてはいないようで安心した。
「……なぁわかってくれよ、俺は藤咲に怪我してほしくない。もっと自分を大事にしてくれ」
努めて冷静に穏やかな口調で諭そうとした。すると今度は藤咲が静かに口を開く。俺を責めるような目をして。
「それを言うなら蘇芳こそ自分を大事にしていないじゃないか。クラス委員に環境美化委員、そして園芸部、それ以外にも頼み事は全て引き受けているだろう。そんな調子でいたらいつか潰れるぞ」
「へ……?」
何でコイツは俺の話をしているんだ? 今は藤咲の話をしているのに。藤咲のことが心配で危ない目に遭ってほしくなくて、だから自分を大切にしてほしいって言ったのに、どうして俺に同じことを言って誤魔化すんだ?
「藤咲、俺は大丈夫だ。潰れたりしねぇ。そんなことよりお前さんの──」
「そんなことよりってなんだ。何が大丈夫なんだ、しょっちゅう体調を崩しているくせに。……熱を出しながら元気そうなふりをして笑うお前を、俺はあと何回見ればいい?」
もうたくさんだ、と言いたげな声色だ。だけどな藤咲、それは俺も同じなんだぞ。俺だってお前さんが怪我するところなんて見たくない。
話は依然として平行線だ。お前が大丈夫と言うなら俺も大丈夫だと藤咲が言うから、どっからくるんだその自信はと返してやる。
「それはこちらの台詞だ」
藤咲が珍しく苛立ちを隠さない声でそう言い放ち、いよいよ足早に部屋を出ていった。ルームメイトが去った今、この部屋にいるのは俺一人。
しんと静まり返った部屋でベッドに倒れ込み、天井をぼうっと見つめる俺は──密かに浮かれていた。
「初めて……友達と喧嘩した!」
誰もいないとわかっているのに、枕を顔に押し付けて緩んだ表情を隠す。こんなに嬉しいことはない。だって俺は中学二年生までずっとボッチで、高校生になってようやくハル以外の友達ができて、そして今初めてその友達と喧嘩したんだ! 藤咲は遠慮なくズケズケものを言って、俺も包み隠さず本音をぶつけたからこそ成り立つ。対等で親しい証拠だ。
勿論さっき藤咲に言ったことは全て本心だし、積極的に喧嘩したいとも思っていない。だけど初めての経験ってのはいつだって未知でワクワクするものなんだ。喧嘩は一人じゃできないから。
心を弾ませた勢いで携帯を手に取った。今日の日付に『喧嘩記念日』と打ち込みそうになるほど浮ついていた。だけど喧嘩と打ち込んだ瞬間、ふと思う。このままずっと藤咲と仲違いしたままだったらどうしようって。
急に不安になってきた。これ……どうすりゃあいいんだ? 喧嘩して、その後は? こんなこと誰にも教えてもらったことがないし、教わる機会もなかった。なら今から誰かに相談するしかない。
「ハル……は無理だな。失礼だけどアイツはこういう相談には向かねェ。となると水樹さんだ!」
第二寮の代表で面倒見のいいあの人なら知恵を貸してくれるかもしれない。そう結論付けた時には既に部屋を出て階段を駆け上がっていた。
「──てなわけで藤咲と喧嘩してしまって。このままずっと仲直りできなかったらって思うと、居てもたってもいられなくなったんです」
息を切らせて突然部屋へやってきた不躾な俺を、水樹さんは快く部屋へ迎え入れてくれた。事の顛末を全て話すと、不思議なことにそれだけで少し落ち着いてきたように思う。
「俺、友達と喧嘩すんの初めてだから、こういう時どうすりゃいいのかわかんなくて」
硬い床に正座して膝先をグッと睨みつめる。自分の無知が愚かしくて恥ずかしい。だけど水樹さんは叱るでもなく呆れるでもなく、どこか安心したような溜息を漏らして笑った。
「なんて言うか……お前ららしい喧嘩の理由だな」
そう言って水樹さんは、まぁ座れよと自身が腰かけているベッドを気さくに叩くけど、俺は頑なに首を振った。目上の人に対する振る舞いは子供の頃から叩き込まれてるんだ。しばらくそうしていると、やがて諦めたように再び笑い混じりの溜息が聞こえてきた。
「お前らの場合、お互いを思いやりすぎて少し意地になっただけだから、すぐ仲直りできると思うんだけどな」
「そう……でしょうか」
「そうだ。意地張ったことを謝って、今後気をつけるって約束すれば充分だ。そうすれば隼人も同じように謝って行動を改めてくれるはずだぜ」
水樹さんの言葉には説得力がある。さすがは藤咲の幼馴染みだ。アイツの考えそうなことは全てお見通しってわけか。それに中立的な意見を聞かせてくれたおかげで、俺の悪かったところを自覚できた。
「水樹さん、ありがとうございます。俺、藤咲に謝ってきます」
何も解決してないってのに、相談するだけでこんなにも心晴れやかになるもんなんだな。軽い足取りで自分たちの部屋へ帰った……が、それもつかの間。一時間もしないうちに俺はまた水樹さんの部屋へ駆け込んでいた。
「水樹さん……っ! 藤咲が帰ってこねェ!」
無視されるのが怖いからメッセージも送れないと嘆くと、まぁこれでも抱いて落ち着けと大きなぬいぐるみを渡された。
「……なんですかこれ、豆? 蝶?」
ふにふにと柔らかいコイツは妙な見た目をしている。オレンジっぽい体は豆みたいなフォルムなのに薄い水色の羽が生えていて、とぼけたような笑顔がなんとも言えない。少なくとも水樹さんの趣味ではなさそうだ。
「こいつなぁ、少し前に隼人がゲーセンで取ってきたゆるキャラなんだ。嬉しそうにプレゼントしてくれた日から俺の部屋の一員になってる」
ああやっぱりそういう感じか。藤咲からのプレゼントってのも納得だ。
「名前はチャーリー・ビーン。愛称はチャンビーだとよ」
「チャンビー……」
よくある一人用の枕よりもでかいコイツを抱き抱えて、相変わらず硬い床に座り込む。水樹さんはさっきと同じようにベッドに座れと促しつつ、携帯を手に誰かとやり取りをしているようだった。
「蘇芳、隼人はいま望の部屋にいるらしいぞ」
どうやら俺の代わりに藤咲にメッセージを送ってくれていたらしい。だけど──
「望……の部屋ですか?」
嫌な予感が脳裏を駆け回り、思わずチャンビーを強く抱き締めた。
「おいどうした蘇芳、望の部屋だと何か都合悪いのか?」
「望の……部屋、確かあそこはベッドが一台空いてるから、もしかすると今夜はそこに泊まって、なんならハルもそこに加わってお菓子パーティーとかして……! 俺だけ……俺だけ仲間はずれに……ッ!?」
望やハルと楽しく騒ぐ藤咲の姿を想像してしまって、チャンビーの頭に顔を押し付けた。水樹さんは考えすぎだなんて言ってカラカラ笑うけど、俺にとっては決して杞憂でも悲観的でもなくて、容易に想像できる現実《リアル》なんだ。
「水樹さん……俺のボッチ歴を甘く見ねェでくれますか!? 約十四年ですよ! 中学生の頃は体育祭や文化祭の打ち上げにも呼ばれなかったし、修学旅行のバスじゃあ隣に誰も座ってくれなかったし、観光だってハルがいなかったらほぼ一人で回ることになってたんですよ!」
キッと見上げた目に涙が滲む。歪んだ景色の中で水樹さんは一瞬戸惑ったような顔をしたけど、すぐに笑みを見せた。経験豊富な大人が無知な子供に向けるような、何かを懐かしむような笑顔で俺の頭を優しく撫でてくる。
「まぁまぁ落ち着けって。隼人には部屋へ戻るように言っとくからお前も部屋に戻れ、な?」
「……はい」
諭すような低い声色に自然と体の力が抜けていく。
ああこの感覚……実家を思い出すな。周りに大人しかいない環境で育ってきたから、今の水樹さんが醸し出す大人の雰囲気に心底安心する。
そうか、だから俺はここまで取り乱すことができたのかもしれない。水樹さんならこうしてくれるかもしれないって、無意識のうちにわかってたんだな。甘えちまって、恥ずかしい。
もう一度礼を言ってから改めて自室へ戻ると、今度は割とすぐに藤咲が帰ってきた。普段とあまり変わらない態度の藤咲に対し、俺は上手く視線を合わせられなくて、後ろ手に組んだ指をいじいじと弄んでいる。この場合どうやって話を切り出すべきなんだ? わからない以上、下手に動けない。
そんな調子でどれくらいのあいだ向かい合っていただろう。やがて視界の端に佇んでいた黒い影がゆるりと動き、ベッドに腰掛けた。そのまま藤咲が薄い唇を開く。
「……お前と言い合いをした直後、柿原と浅葱に相談したんだが、奴らときたら惚気だの痴話喧嘩だのと茶化してきてまともに聞いてくれなかった」
あれは完全に面白がっていた、と少々疲れた声で付け加えられる。
「仕方がないから自分で考えてみた結果、あいつらに笑われてもおかしくない喧嘩内容だったことに気が付いた。俺たちは二人して同じことを言い合っていたんだ」
「あ……」
そうだ、水樹さんにも言われた。俺達は相手を見ているようで全く見えていなかった。自分の願いばかりぶつけて、それが聞き入れられないと心を擦り減らしてしまう。
でも結局は互いを思い合う気持ちが強すぎるが故に強情になっていただけだった。無茶してほしくない、自分を大切にしてほしい、そう思えば思うほど思いやりは焦りと怒りに変わって冷静さを失っていた。
「藤咲……」
今度は自然と口が開いた。
「ごめん」
たった三文字。たったこれだけのこと。それなのに鼓動は早くなって手の平が汗ばむ。
この言葉が届かなかったらどうしよう、拒絶されたらどうしよう。目の前の藤咲を見ればそんな結末にならないことくらいわかっているのに、心の中で密かに怯えている。喧嘩した相手に謝罪するって、こんなにも怖いものだったのか。
けれどこの緊張感も藤咲の言葉で一気に緩むことになる。
「俺も勢いに任せて言い過ぎた、ごめん。これからはできるだけ自重するよう努力する」
瞬間、ほうっと肩の力が抜けた。たぶん今の俺はとてつもなく情けない顔をしているに違いない。
「おう……俺も気を付けるよ」
へらっと力無く笑って自分の髪を一束指に絡ませる。思ったより簡単で呆気なくて、ああ良かったと安堵して、少しだけ遠慮しながら藤咲の隣に腰掛けた。
「えっと、仲直り……ってことでいいんだよな?」
「ああ勿論だ」
自然な動作で差し出される手。その指先をそっと掴むと、半ば強引に手を掴まれて握手の形になった。ひんやりした藤咲の手に包まれて、俺は今日一番の幸せを噛み締めたのだった。
【完】