幼少期の隼人がモブおじさんに悪戯未遂される話(神視点)

「ねぇ君、ちょっといいかな?」

 小太りな中年男は唐突に問い掛ける。唯一そこにいた黒いランドセルを背負った少年──藤咲隼人は振り返り、幼い顔でじっと男を見上げた。

 この辺りでは見かけない顔だ。のどかな田舎町では住民同士の付き合いが深い。知らぬ顔があればすぐにわかる。誰かの親戚かなにかだろうか、隼人は特に疑問を抱かずにどうしましたか、とだけ答える。中年男はにちゃり……と笑い、汗ばむ頬を白々しく掻いた。

「いやぁね、あそこの森で眼鏡を落としてしまったんだ。坂道で転んだ拍子に落ちたんだけど、裸眼だと視界がぼやけてどうしても見つけられなくて……」

 もっともらしい理由だ。純粋な子供なら簡単に信じてしまうだろう。現に隼人もあっさり信じた。

「それは大変ですね。俺でよければ探すのを手伝いますよ」

「あっ、ありがとう! 本当にすごく困ってたから助かるよ! ささっ、あっちの森なんだ。ついてきて!」

 男はさっそく白く小さな手を引いた。子供にしてはひんやり冷たいが、そんなことはどうでもいい。逸る気持ちで深い森を踏み荒らす。

 眼鏡を探してほしい、というのはこの少年を森の奥へ連れ込むための嘘だ。葉の一枚小枝の一本すら鮮明に映る視界の中、そっと振り返り無垢な少年の顔色を確認する。

 涼し気な目元をぱちくりさせて小首を傾げる様子を見るに、疑っていたり怖がっているようには見えない。というより表情がほとんど読めない。硝子玉のように澄んだ瞳がじっと男を見つめている。子供らしくない表情は人形のようで少々不気味だ。しかし目鼻立ちは整っている。

 ふと出来心で、男は繋いでいた手を強めに握ってみた。ぴくり、少年の眉が僅かに動くと密かに安堵し、同時に言いようのない高揚感を覚えた。表情が薄いとはいえ所詮は子供、痛みや不快感に顔を歪めるくらいはするのだ。

 男は濁った目を細めてほくそ笑む。どこまでそのような涼しい顔ができるのか見ものだと、新たな楽しみに胸を躍らせた。
 すでに頭の中では無垢な少年をめちゃくちゃに犯していた。涙で潤んだ黒真珠の瞳や、薄桃の唇から覗く赤い舌を想像するだけで、下劣な男は息を荒くし身体には熱が集まる。

 そんなこととは露知らず、幼い隼人は急に強く握られた手に多少驚いたが、呻き声ひとつあげなかった。眼鏡を落としたから周りが見えづらいという男の虚偽を信じていたものだから、きっとこのおじさんは心細いのだろうと解釈したのだ。

「大丈夫ですよ」

 そう言って、むしろ自分から手をしっかり握り直した隼人に、男はまたにちゃり……と笑う。
 ありがとうねぇ。ねっとり礼を言い、幼い手を引いてずんずん奥へ進もうとする男。そしてされるがままについていく隼人。しかし、その背後から「隼人!」と叱咤するような少年の声で名を呼ばれると、隼人の足がピタリと止まる。

 男がギョッとして振り返った先には、隼人と同じ黒いランドセルを背負った短髪の少年──水樹謙也が子供ながらに鋭い眼光を飛ばしていた。明らかに男を不審がっている目だ。
 しかし隼人は何も考えておらず、自身より少し背が高い謙也に手を振った。

「謙也、いいところに来た。この人の眼鏡を探したいから力を貸してくれ」

「眼鏡……?」

 訝しげな視線を男へ向ける謙也。そして急に快活な笑顔を見せたかと思えば、ランドセルを漁って何かを探す仕草を見せた。

「それなら運がいいな! 今日はたまたま父さんの携帯が教科書の間に紛れ込んでてさ、これ使って大人を呼んで皆で探そう。大勢で探せばすぐ見つかるぞ!」

 嘘だ。男は直感した。その父親の携帯とやらはここには存在しないと。しかし自分の携帯かもしれない。もしかすると防犯ブザーの可能性もある。

 確かなのは、この短髪の少年は明らかに男を怪しんでいるということ。そして、持っている何かを使って大人を呼びつけ、更に警察に通報するだろうということもなんとなくわかる。

 瞬時に判断した男は隼人の手を振りほどき、脇目も振らず走り出す。同時に、二度とこの地へは来ないと誓った。

 そもそも情報の共有が恐ろしく早い田舎町で何かを企むなど、この上なく愚かで浅はかな考えだったのだ。

「あ……行ってしまった。どうして?」

 分厚い手が離れた隼人の左手は行き場を失い、虚しく空気を掴む。しかし次はその手を謙也が握る。行くぞ! と声をかけながら。
 それから謙也は身を翻し、隼人の手をしっかり握って町の集会所へと向かった。そこへ行けば必ず誰かがいるからだ。

 けれど隼人の脳内には疑問符ばかりが浮かんでいた。なぜ困っていたあの男を放って集会所へ行くのか、なぜ父親の携帯を持っているという嘘をついたのか。謙也の嘘は簡単に見破れるが、肝心の目的がさっぱりわからない。

 口を開こうにも何一つ尋ねられる空気でないのは伝わってきたので、一言も発することもなくただ謙也についていく。そしてわけがわからないまま、大人達に事情を話す謙也の横顔をぼうっと眺めていた。
 何かを思うとするならば、その時の謙也が妙に真面目な顔をしていたから格好良かったこととか、老婦人に抱き締められ飴を貰ったことが嬉しかったということくらいだ。

 謙也もそんな隼人の心境はわかっていた。頭は良いが、どこかぼんやりしている幼馴染みの心を汚したくなくて、あの男の本当の目的は一切話さなかった。話さない方がいい、と主に老人達も言っていたので、謙也も納得の上で今回のことは適当に濁すことにしたのだ。

 ただし、この件は大人達の間ではあっという間に知れ渡り、一時間と経たないうちに不審者情報が町中に知れ渡ることになった。





「──で、結局その真相は隼人くんに話したんですか? 本当はあのおじさんは大嘘つきの変態だったんだよーって」

 夕食後の談話室にて、一連の話を聞いていた柿原望は謙也に詰め寄った。とろんと目尻の下がった目をした後輩を前に謙也はそっと首を振る。

「いや言ってない。あの頃の隼人はまだ小学生だったから、詳しく言わない方が精神衛生上いいと思ったし。今に至ってはわざわざ説明しなくてもいいかなって。あいつも流石にわかってるだろ」

 そう言って苦笑する謙也。望も確かに、と頷いた。当時は何もわからず戸惑っていた子供だったとしても、成長するにつれあの中年男の異常さは自ずと理解できているだろう、と。

 隼人にとっても良い思い出でもない筈なので、あえて掘り返す必要も無いかと二人の中でこの会話は終了したのだが、そこへ当の本人がフラフラとやってきた。

 ラフな部屋着姿の隼人は眉を寄せつつ目を細めて、いつもよりやや険しい表情で謙也を見やる。

「謙也、俺の眼鏡を知らないか」

「ん? ああ、それならケースごと脱衣場にあったぞ。ほらこれ」

 謙也は隼人に黒い眼鏡ケースを手渡した。入浴時間が終わった後の見回りで偶然見つけたものだ。

「ありがとう」

 やはりか、といった風に隼人は礼を言う。それものそのはず、入浴後の彼は蘇芳や浅葱との会話に花を咲かせ、二人の顔ばかり夢中で追っていたのだ。それこそ、大切な眼鏡の存在を忘れてしまうほどに。

 眼鏡を受け取った隼人は、程なくして何かを思い出したようにふと視線を落とした。伏せられた瞼の先で存在を色濃くする睫毛が、揺れる瞳に影を作る。

 どうした? すぐさま問い掛ける謙也に目を向けた隼人は、薄い唇でポツリと呟いた。

「……こういう時、たびたび思い出すんだ。あのおじさんの事を。昔、眼鏡を失くしたと言って一緒に探そうとしただろう?」

 謙也と望は思わず顔を見合せた。今まさにその話をしていたところだ。そうとも知らずに隼人は話を続ける。

「結局どうなったのだろうかと今でも気になっているんだ。無事に見つかっていればいいのだが」

 切なげに眉を少し下げた隼人。それを見て明らかに目を逸らす謙也を望は見逃さなかった。あららぁと鼻で笑ってから、謙也の肩に何度も指で円を描く。

「謙也さぁーん、ちょっと大事に囲いすぎたんじゃないですかぁ? いつまでも綺麗なままでいてほしいっていう気持ちはわからなくもないですけど、隼人くんがこんなにぼーっとした人になったのは謙也さんのせいですよぉ。こうなったら責任取らなきゃですよねぇ?」

 望のわざとらしい猫なで声にぐうの音も出ない謙也と、またもや何もわからず首を傾げる隼人。この対比が可笑しくて、望の囁きはもう暫く続いた。


【完】
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