時雨先生と晴馬が早朝にパン屋さんへ行くだけの話
全寮制の男子校、東雲学園。ここで生徒と共に寮で暮らし教員として働く藍染時雨には密かな楽しみがある。
今日はその内のひとつ──早朝の焼きたてパンを求めて、太陽の光がかすかに空を白くさせた時間帯に車のキーを手に取った。
「……さむ」
ひとたび外へ出れば刺すような冷気が肌に当たる。コートを着ていても吐く息は白く、露出している頬と耳は冷たいを通り越して痛いほどだ。
それでもこれから向かう先の楽しみを考えれば、多少の寒さも耐える価値があるというもの。肩をすぼめてできるだけ早足に駐車場へ向かえば、蜂蜜色の髪の少年が待ち構えていた。
「せんせー! おはよー!」
いったい何分くらいそこで待っていたのだろうか。彼──浅葱晴馬は幼児のように頬を真っ赤にして早く早くと急かすように飛び跳ねている。
「はい、おはよう。早いね晴馬」
苦笑ぎみにドアロックを解除して車に乗り込み、流れるようにエンジンをかければ暖かい空気が徐々に車内を満たす。助手席の晴馬は寒さで強ばっていた体の力を抜いて、だらりと背もたれに体重を預けていた。
「はーっ、寒かった! せんせー今日の天気予報見た? 気温ヤバいよ! 雪降らねーのがおかしいレベル! てかパン屋楽しみー! 何買おっかなー。せんせーはなに買うの? オレはねー、とりまクロワッサンサンドかな。あとはクリームパン! あそこのクリームパンってホイップクリーム入ってるんでしょ? あれがいーんだよねー!」
寒さから解放されたせいか、それとも早朝に出かけるという特別感からか、晴馬のテンションはいつも以上に高く、矢継ぎ早に話しかけてくる。
高校生といえども、興奮を隠しきれないところはまだまだ子供。そんな愛おしい時期を大切にしたいから、時雨はあえて指摘せずニコニコと相槌を打つ。
「そうだね、今日はチョココロネとチョコデニッシュな気分かな」
「チョコばっかじゃーん! せんせーチョコ好きだよねー!」
まだ冷えているであろう指先を袖に隠してケラケラ笑う晴馬を横目にクスリと微笑み、時雨は静かに車を動かした。
学園の敷地である山を降り、辺りの景色から木々が減っていく代わりに人工物の匂いがする建物が増えていく。
人の姿はほとんど見えず、車もまばらでとても走りやすい。年中無休のコンビニやその他の商業施設だけが看板を光らせ、それ以外は灯りを落としてシャッターを閉めている。
こんな街中でも今だけはさぞかし空気が澄んでいることだろう。真冬でなければ窓を開けて走行したいくらいだ。
隣の晴馬は好奇心のままに車内のラジオチャンネルを切り替え続けている。本来なら今日は彼はここにいないはずだった。というより時雨が早朝のパン屋へ行く時はいつも一人だった。
先日ちょっとした世間話でその話をした時に晴馬が食いついて、結果こうして連れていくことになったのだ。
「せんせーオレさー、昨日の夜ぜんぜん寝れなかったんだー」
「そうなの?」
「だって今から行くパン屋って超うまいんっしょ? そんなの楽しみすぎて寝れねーよー! なに買おっかなーってホームページの商品画像ずっと見てたし!」
キラキラした目で語る割には瞬きが多いし、時々あくびを噛み殺している。確かに昨夜は眠れなかったようだ。それを自覚したのか、彼は急に大人しくなり、ついには目元を擦り始めた。
「んー……ははっ、せんせーの運転って眠くなるねー。車の中もあったかいしー」
「ふふ、あともう少しで着くから頑張って」
「がんばるー……」
言葉とは裏腹に椅子に深く腰かけて、顔を窓の方へ傾けて動かなくなった。
あぁこれは寝るな──時雨はやれやれと眉尻を下げて微笑み、信号待ちの間にラジオの音量を落とすのだった。
今日はその内のひとつ──早朝の焼きたてパンを求めて、太陽の光がかすかに空を白くさせた時間帯に車のキーを手に取った。
「……さむ」
ひとたび外へ出れば刺すような冷気が肌に当たる。コートを着ていても吐く息は白く、露出している頬と耳は冷たいを通り越して痛いほどだ。
それでもこれから向かう先の楽しみを考えれば、多少の寒さも耐える価値があるというもの。肩をすぼめてできるだけ早足に駐車場へ向かえば、蜂蜜色の髪の少年が待ち構えていた。
「せんせー! おはよー!」
いったい何分くらいそこで待っていたのだろうか。彼──浅葱晴馬は幼児のように頬を真っ赤にして早く早くと急かすように飛び跳ねている。
「はい、おはよう。早いね晴馬」
苦笑ぎみにドアロックを解除して車に乗り込み、流れるようにエンジンをかければ暖かい空気が徐々に車内を満たす。助手席の晴馬は寒さで強ばっていた体の力を抜いて、だらりと背もたれに体重を預けていた。
「はーっ、寒かった! せんせー今日の天気予報見た? 気温ヤバいよ! 雪降らねーのがおかしいレベル! てかパン屋楽しみー! 何買おっかなー。せんせーはなに買うの? オレはねー、とりまクロワッサンサンドかな。あとはクリームパン! あそこのクリームパンってホイップクリーム入ってるんでしょ? あれがいーんだよねー!」
寒さから解放されたせいか、それとも早朝に出かけるという特別感からか、晴馬のテンションはいつも以上に高く、矢継ぎ早に話しかけてくる。
高校生といえども、興奮を隠しきれないところはまだまだ子供。そんな愛おしい時期を大切にしたいから、時雨はあえて指摘せずニコニコと相槌を打つ。
「そうだね、今日はチョココロネとチョコデニッシュな気分かな」
「チョコばっかじゃーん! せんせーチョコ好きだよねー!」
まだ冷えているであろう指先を袖に隠してケラケラ笑う晴馬を横目にクスリと微笑み、時雨は静かに車を動かした。
学園の敷地である山を降り、辺りの景色から木々が減っていく代わりに人工物の匂いがする建物が増えていく。
人の姿はほとんど見えず、車もまばらでとても走りやすい。年中無休のコンビニやその他の商業施設だけが看板を光らせ、それ以外は灯りを落としてシャッターを閉めている。
こんな街中でも今だけはさぞかし空気が澄んでいることだろう。真冬でなければ窓を開けて走行したいくらいだ。
隣の晴馬は好奇心のままに車内のラジオチャンネルを切り替え続けている。本来なら今日は彼はここにいないはずだった。というより時雨が早朝のパン屋へ行く時はいつも一人だった。
先日ちょっとした世間話でその話をした時に晴馬が食いついて、結果こうして連れていくことになったのだ。
「せんせーオレさー、昨日の夜ぜんぜん寝れなかったんだー」
「そうなの?」
「だって今から行くパン屋って超うまいんっしょ? そんなの楽しみすぎて寝れねーよー! なに買おっかなーってホームページの商品画像ずっと見てたし!」
キラキラした目で語る割には瞬きが多いし、時々あくびを噛み殺している。確かに昨夜は眠れなかったようだ。それを自覚したのか、彼は急に大人しくなり、ついには目元を擦り始めた。
「んー……ははっ、せんせーの運転って眠くなるねー。車の中もあったかいしー」
「ふふ、あともう少しで着くから頑張って」
「がんばるー……」
言葉とは裏腹に椅子に深く腰かけて、顔を窓の方へ傾けて動かなくなった。
あぁこれは寝るな──時雨はやれやれと眉尻を下げて微笑み、信号待ちの間にラジオの音量を落とすのだった。