ママみある望の話
──今日は最悪な日だ──秀虎はいつも以上に眉をひそめて背中に影を落とす。所属している園芸部でこれまでにない失敗をしてしまったのだ。
誰にも会いたくなかったから、寮に戻っても人気のないベンチに腰掛けてぼうっとしていた。けれどそういう時に限って人は寄ってくるもので──
「虎くん、こんにちは」
ひょこっと顔を出したのは恋人の柿原望。高鳴る心臓とは裏腹に逃げ出したい気持ちになるのは、今の秀虎が一番会いたくない人だから。
沈んだ精神状態ではまともな態度を取れずに不快な思いをさせるかもしれない。
しかしそんな心境を知る由もない望は秀虎の隣に座り、甘えるように身を寄せてきた。
「なんか元気ないね」
会ってまだ一分と経っていないのに早速秀虎の異変に気付いたらしい。さすがは処世術の匠、人間観察もお手の物ということか。
「別になんもねぇよ」
「ふぅん」
バレるとわかっていても咄嗟に嘘をついた。突き放すような言い方をしてしまったが、望はさほど気にしていない様子で膝を抱えて座り直す。
しばしの沈黙を誤魔化すように空を見上げた。つい先程までオレンジに染まっていたのに、今はほとんどが濃い紫に侵食されている。
時間が流れるのは早いな──そう思った時、不意に望が口を開いた。
「ところでさ、以前君は俺の全部が好きって言ってくれたよね。良い所も良くない所も、ちょっと情けない所も。あれ、凄く嬉しかったよ」
「そ、すか……」
改めて言われるとなんとも気恥しい。思わず下を向くと横に座る恋人がクスリと笑う。
「良い所を認めてもらうのは勿論嬉しいよ。けれどそうでない所も全てひっくるめて受け入れてくれるとね、言い様のない安心感というか……心が満たされたような気持ちになれたんだ」
だからね──と前置きして、望は体ごとこちらを向いた。
「俺は君の心も満たしたい。君が俺にしてくれたように、俺も君の全部を受け入れたい。情けないとか格好悪いとか君は気にするかもしれないけれど、俺は君のそういう所も含めて全部愛おしいって思える自信がある」
だから俺に話してほしい──とその目が言っている。そっと握られた手は俺じゃ駄目? と言わんばかりに指を絡ませてくる。
恋人にここまで言われた以上、意地を張って口を噤むとかえって見苦しい。秀虎は吐き出す言葉を急いで整理した。
「……失敗、したんだ。部活で」
ぽつぽつ語り始める。その間望は、うんうんと相槌をうつだけでその他は一切口を挟まなかった。
秀虎がおかした失敗とは、園芸用の土を大量にぶちまけてしまったというもの。すぐさま飛んできた部員総出で掃除や後片付けを行ったため、今日予定していた植え込み作業は少しも進まなかった。
「なのに、あいつら一回も俺を責めなくて。それがなんか……スッキリしねぇっていうか、俺の中でまだ終わってねぇ感じがして」
全て言い終わり、大きく息を吐いて項垂れる。なるほどねぇーと間延びした声が耳に届く。
「失敗したのに怒られなかったのが納得いかなかったんだね。皆の優しい態度が逆に辛かったんだね──」
秀虎が言った事を一つ一つわかりやすく言語化していく望。まるで秀虎の気持ちを代弁するように並べられていった言葉のおかげで、自分の胸にあったモヤモヤの正体がわかってきた。
するとおもむろに立ち上がった望に正面から抱き締められる。秀虎より小さな体に包まれて、甘くて安心する匂いに肺が満たされていく。
「虎くん。皆が君に怒らなかったのはね、その必要が無かったからだよ。君が十分に反省していたから、それ以上叱責する必要が無かったんだ。そして失敗を悔やんだ君はもう二度と同じ轍は踏まない。もしまだ罪悪感が残っているなら、これから取り戻せばいいだけの話だよ。部員の人達もきっとそれを望んでる」
心地いい力加減で頭を撫でてくる望の手つきは慈しみに溢れていて、つい擦り寄ってしまいたくなる。いつの間にか秀虎は望の細い腰に腕を回していた。
それに応えるように望も秀虎を再度抱き締める。
「大丈夫、もう終わったんだよ。大事なのはこれから。今日の君の失敗は次に活かす為の材料であって、ずっと抱えるような荷物じゃない。……ほら、空見てごらん。あと数時間で今日も終わる。君の失敗ももう終わったことなんだよ」
望の体が少し離れたので上を見ると、空の色は更に深みを増していた。ちらほら瞬く星を背景にやんわり微笑む望は神秘的な美しさを纏っていて、まるで聖母のよう。
「さ、そろそろ食堂行こう。夜ご飯食べなきゃ」
すっと伸ばされた手を取り立ち上がる。心を潰していた重石から解放されたからか、体も幾分か軽い。
いつもならこの時点で手を離すところだが、今日はこのまま食堂へ向かう。目線を下にして望の反応を確認すると、秀虎の何もかもを肯定してくれそうな笑みを向けられる。
たまには年下らしく甘えてもいいよ──そう言われた気がして、握った手を少しだけ強めた。
【完】
誰にも会いたくなかったから、寮に戻っても人気のないベンチに腰掛けてぼうっとしていた。けれどそういう時に限って人は寄ってくるもので──
「虎くん、こんにちは」
ひょこっと顔を出したのは恋人の柿原望。高鳴る心臓とは裏腹に逃げ出したい気持ちになるのは、今の秀虎が一番会いたくない人だから。
沈んだ精神状態ではまともな態度を取れずに不快な思いをさせるかもしれない。
しかしそんな心境を知る由もない望は秀虎の隣に座り、甘えるように身を寄せてきた。
「なんか元気ないね」
会ってまだ一分と経っていないのに早速秀虎の異変に気付いたらしい。さすがは処世術の匠、人間観察もお手の物ということか。
「別になんもねぇよ」
「ふぅん」
バレるとわかっていても咄嗟に嘘をついた。突き放すような言い方をしてしまったが、望はさほど気にしていない様子で膝を抱えて座り直す。
しばしの沈黙を誤魔化すように空を見上げた。つい先程までオレンジに染まっていたのに、今はほとんどが濃い紫に侵食されている。
時間が流れるのは早いな──そう思った時、不意に望が口を開いた。
「ところでさ、以前君は俺の全部が好きって言ってくれたよね。良い所も良くない所も、ちょっと情けない所も。あれ、凄く嬉しかったよ」
「そ、すか……」
改めて言われるとなんとも気恥しい。思わず下を向くと横に座る恋人がクスリと笑う。
「良い所を認めてもらうのは勿論嬉しいよ。けれどそうでない所も全てひっくるめて受け入れてくれるとね、言い様のない安心感というか……心が満たされたような気持ちになれたんだ」
だからね──と前置きして、望は体ごとこちらを向いた。
「俺は君の心も満たしたい。君が俺にしてくれたように、俺も君の全部を受け入れたい。情けないとか格好悪いとか君は気にするかもしれないけれど、俺は君のそういう所も含めて全部愛おしいって思える自信がある」
だから俺に話してほしい──とその目が言っている。そっと握られた手は俺じゃ駄目? と言わんばかりに指を絡ませてくる。
恋人にここまで言われた以上、意地を張って口を噤むとかえって見苦しい。秀虎は吐き出す言葉を急いで整理した。
「……失敗、したんだ。部活で」
ぽつぽつ語り始める。その間望は、うんうんと相槌をうつだけでその他は一切口を挟まなかった。
秀虎がおかした失敗とは、園芸用の土を大量にぶちまけてしまったというもの。すぐさま飛んできた部員総出で掃除や後片付けを行ったため、今日予定していた植え込み作業は少しも進まなかった。
「なのに、あいつら一回も俺を責めなくて。それがなんか……スッキリしねぇっていうか、俺の中でまだ終わってねぇ感じがして」
全て言い終わり、大きく息を吐いて項垂れる。なるほどねぇーと間延びした声が耳に届く。
「失敗したのに怒られなかったのが納得いかなかったんだね。皆の優しい態度が逆に辛かったんだね──」
秀虎が言った事を一つ一つわかりやすく言語化していく望。まるで秀虎の気持ちを代弁するように並べられていった言葉のおかげで、自分の胸にあったモヤモヤの正体がわかってきた。
するとおもむろに立ち上がった望に正面から抱き締められる。秀虎より小さな体に包まれて、甘くて安心する匂いに肺が満たされていく。
「虎くん。皆が君に怒らなかったのはね、その必要が無かったからだよ。君が十分に反省していたから、それ以上叱責する必要が無かったんだ。そして失敗を悔やんだ君はもう二度と同じ轍は踏まない。もしまだ罪悪感が残っているなら、これから取り戻せばいいだけの話だよ。部員の人達もきっとそれを望んでる」
心地いい力加減で頭を撫でてくる望の手つきは慈しみに溢れていて、つい擦り寄ってしまいたくなる。いつの間にか秀虎は望の細い腰に腕を回していた。
それに応えるように望も秀虎を再度抱き締める。
「大丈夫、もう終わったんだよ。大事なのはこれから。今日の君の失敗は次に活かす為の材料であって、ずっと抱えるような荷物じゃない。……ほら、空見てごらん。あと数時間で今日も終わる。君の失敗ももう終わったことなんだよ」
望の体が少し離れたので上を見ると、空の色は更に深みを増していた。ちらほら瞬く星を背景にやんわり微笑む望は神秘的な美しさを纏っていて、まるで聖母のよう。
「さ、そろそろ食堂行こう。夜ご飯食べなきゃ」
すっと伸ばされた手を取り立ち上がる。心を潰していた重石から解放されたからか、体も幾分か軽い。
いつもならこの時点で手を離すところだが、今日はこのまま食堂へ向かう。目線を下にして望の反応を確認すると、秀虎の何もかもを肯定してくれそうな笑みを向けられる。
たまには年下らしく甘えてもいいよ──そう言われた気がして、握った手を少しだけ強めた。
【完】