真澄くんと秀虎くん(真澄の一人称視点)

 なんの前触れもなく教室の真ん中で転んだ。わわっと情けない声を上げて咄嗟に手をついたけど、持っていた紙パックのミルクティーを派手にぶちまけてしまった。

「ごめんねーぇセンパイ? 足が滑っちゃったァ」

 背後から聞こえたのは茶化すような謝罪と、釣られるように笑うクラスメイトたちの声。間違いなくオレに向けられたものだし、足が滑ったとか言った子も十中八九わざと足を引っ掛けてきた。

 硬い床に転ぶのってこんなに痛いんだなぁ。膝の骨が折れるかと思ったし、手をついたつもりが力が足りなくて、前腕全体で滑り倒れてしまった。
 座り込んで腕を擦ってみる。たぶん血は出てない。だけどまさか今時こんな古典的な嫌がらせを受けるなんて、正直お兄さん想像もしてなかったや。

「あのさぁ……キミら、どーいうつもりなワケ?」

 床にへたりこんだまま振り返ると、オレをからかってた子たちはピタリと笑い声を止める。そのうち一人は舌打ちしてオレの髪を掴み、至近距離から睨みをきかせた。

「ヘラヘラしてんなよ。留年してるくせにデカいツラしやがって。年上だからって俺らのことナメてんのか?」

「えぇ〜……別にデカいツラしてるつもりもないし、ナメてもないよ。具体的にオレのどういうトコがそう思わせるワケ?」

「そういうとこだよ! ヘラヘラすんなっつったろうが!」

 鷲掴みにされた髪を更に強く握り込まれる。さすがに痛くて顔を歪めると、彼は満足したように鼻を鳴らして解放した。
 やっと終わった……なんて思ったのもつかの間、今度は別の子が白々しく大声で叫ぶ。

「あーっ! 床スゲェ濡れてんじゃん! 最悪! どーすんだよセンパイ! だいたい学校でそんなモン飲んでフラフラしてんのが悪ィんだよ! 責任取って掃除しろよ!」

 その子が言った通り、オレがミルクティーを落としたせいで床が悲惨なことになっている。センパイセンパイ言うけど、この子ら絶対オレのこと敬ってないよね。っていうか、そう呼んでくれと言った覚えもない。オレが留年してるって知ってて、あえて侮蔑の意味を込めて呼んでんだろうね。あぁヤダヤダ。

 幸い誰かの持ち物や服を汚したわけじゃなかったから、サッサと片付けてこの場をおさめるとしよう。下手に言い返して、また髪を掴まれても嫌だしね。

 ごめんねーと、とりあえず謝って彼らに背を向けた。雑巾でも取ってこようかな──なんて立ち上がろうとしたとき、不意に背中を強く蹴られ、ミルクティーの池に倒れ込んだ。痛みのあまり咳き込むオレをよそに教室はまたバカにするような笑い声に包まれる。

「ダッセ! 普通あんくらいで倒れねぇだろ! 鈍臭ェなぁセンパイ!」

「早く掃除してくださいよーセンパーイ。あ、こんなとこに丁度いい雑巾が」

「ケホッ、ぃっ……!」

 這いつくばる背中を踏みつけにされて、更にみんなの笑いを誘った。二度転んだことで手脚は痛いし、背中はきっと痣ができてる。ぐっしょり濡れた制服からミルクティーが染み込んで、冷たいしベトベトするしで気持ち悪い。

 爆笑の渦の中、オレは思い出した。この子ら、この辺の地域で結構ヤンチャしてた子らだ。オレの地元もこの街だから、暴れてんのをなんとなく見たことがある。もちろん絡んだことはないけど。

 我が強い子らだから、自分たち以外の人が目立つのがイヤなんだろうね。ただでさえオレは留年生でネクタイや体操服の色が一人だけ違うし、見た目もまぁ目立つ方だから、この子らを刺激するには十分だったみたい。オマケに二年や三年とも交流があるから尚更かな。

 だからといって、こんなことされていい理由にはならないけど。

「あ、のさ……キミらいいかげんにッ、んッ!」

「なんですかーぁ? 聞こえねぇよセンパーイ」

 口を開けば頭を踏まれて、もう一度言ってみろよと頬を叩かれる。色々言いたいことはあるけど、とりあえず顔はやめてほしいな。週末は彼氏と会う約束してんだよ。
 でもま、ここは黙って時間が経つのを待つしかないか。これ以上何か言おうものなら、それこそ跡の残る怪我をさせられそうだ。チャイムが鳴る頃には先生も来るし、そうなる前にこの子らは何事も無かったように散り散りになるはず。

 あとどれくらいで終わるかな。気晴らしに素数でも数えようかな。……って、素数って何だっけ?

 濡れた床に突っ伏して、踏まれたり蹴られたりしながらそんなことを考えていた。
 教室の中は冷やかすような笑い声でいっぱいだ。関わりたくない子らはひっそり息を潜めている。だから聞こえてくるのは手を叩いて笑う声だけ。

 そんな中、静かに、でも低く唸るような声がひとつ現れた。

「おい」

 たったそれだけ。言葉かどうかも怪しい二文字の呼びかけが、騒々しい教室を一瞬で鎮めた。
 心なしかオレを踏んでる足の重みも軽くなった気がして、ふと声のした方を振り返ってみる。みんな彼の方を見ていた。金と黒が混じったような髪色をした、虎みたいな鋭い眼光の彼を。

「……秀虎くん」

 天野秀虎くん。オレのルームメイトの一人。ルームメイトとはいえ、知り合って間もない関係で、お互いのことはまだほとんど知らない。正直怖くてあまり話しかけられないし。
 だけどそんな彼がこんなタイミングで来たってことは、まるでオレを助けに来たみたいじゃないですか? えっ、嬉しい! 秀虎くんって実はいい子だったんだね!

──なんて感激していたオレがバカでした。

 ズカズカと大きな足音を鳴らしてオレの方へやって来る秀虎くん。その不機嫌そうな顔はオレだけに向けられていて、他の子らには一切目もくれない。

「えっ、えっ、なに? 秀虎くん……えっ?」

 もしかして秀虎くんが怒ってるのはこの子らじゃなくてオレ!? オレ何かしましたか!?

「ちょ、待って待って! 秀虎くん! 話せばわかる……っ!」

 床に伏せたまま情けなく命乞いするけど、秀虎くんの手は容赦なくオレの方へ伸びてくる。子猫を持つみたいに襟首を掴まれたかと思えば、強い力で引っ張り上げられて座らされた。

「グェッ! ちょ……っ! イキナリ、ッ……なに?」

 喉にシャツが食い込んだ影響で軽く咳き込みながら見上げると、秀虎くんの眉間のシワが更に深くなっていく。下瞼に力が入った目は、オレの悲惨な状態の制服を見ているような気がした。

「おい」

「ひぇっ! ゴメンナサイ!」

「サッサと着替えてこい」

「……へ?」

 秀虎くんにしては落ち着いた声だった。聞き間違いか? と思ったけど、秀虎くんはこれ以上オレに用は無いと言いたげに背を向ける。そして今度はオレをからかっていた子らに向かって啖呵を切った。

「おいお前ら、寄ってたかって無抵抗の奴ボコッて楽しいかよ? 群れねぇとイキれねぇ雑魚がつまんねぇ事してんじゃねぇぞ!」

 怒り任せに机を蹴る秀虎くんの迫力に、なぜかオレが震え上がってしまった。こわ……。
 だけど一人だけ、秀虎くんに歯向かう子がいた。彼らのリーダー格だ。

「あ? つまんねぇのはどっちだよ。弱いモン助けて正義の味方気取りか?」

 頭のサイドに剃り込みの入った彼が、ポケットに手を突っ込んで真正面から秀虎くんと相対する。それに対し秀虎くんは彼を見下すように顎を上げて、睨むわけでもなく孤高の肉食獣を思わせる威厳を見せつけた。まるでお前は敵ではないと言うように。
 まさに一触即発だ。何かの拍子に二人の戦いの火蓋が切って落とされるかと思うと、オレも含めこの場にいる全員が指ひとつ動かせない。

 そんなとき、沈黙を破るように朝のホームルームを報せるチャイムが鳴った。秀虎くんは何かを思い出したように「ああ」と呟いて、オレを蹴り飛ばした子の髪を掴む。そしてオレがされたのと同じように背中を蹴り飛ばして、床に倒された子がミルクティーまみれになってしまった。

「床はテメェで拭けよ」

「えと……秀虎くん? そんなとこしたらキミまでその子と同じレベルになっちゃうカンジだけど……大丈夫そ?」

 思わず口を開くと、秀虎くんは大きく振り返って大口を開けた。

「まだいんのかよ! いつまでいやがんだテメェ! サッサと着替えてこいつったろうが!」

「ひぇっ! はいっ! ゴメンナサイ!」

 やっぱこえぇ~秀虎くん。

 オレはこれ以上彼の逆鱗に触れないよう、大人しく従うことにした。そそくさと着替えのジャージを持って廊下へ出ると、教室の戸から顔だけ出した秀虎くんに呼び止められる。

「おい」

「は、はいっ」

「ついでに保健室行っとけよ」

「……はい」

 やっぱいい子だ──


【完】
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