汚泥より顕現せし黒き闇(龍之介side)
ある日の休日、龍之介は隼人と共に寮の談話室で寛いでいた。
茶菓子の煎餅を齧る隼人を微笑ましい気持ちで眺める龍之介はそっと目を細め、ゆったり流れる平和な日常も悪くない――と、優雅に熱い日本茶を啜る。
すると突如ドアが音を立てて開き、何事かと目を向けると同時に早足で入室してきた望が隼人にひしと縋り付いていた。
「助けて……」
蚊の鳴くような声だ。常に笑顔を振り撒く望がどうしてこんな――ともかく何かただならぬ事が起こったというのは確かだろう。瞬く間に湯呑みを持つ手に力が入る。
「どうかしたかィ?」
つとめて平静を保ちつつ問いかけると、望はおずおず顔を上げた。すっかり青くなって、涙の膜が張った瞳はユラユラ揺れている。可哀想に、随分怯えているようだ。
「実は……出たんだ」
「出た?」
震える唇から返ってきた言葉はいまひとつ要領を得ない。ひとまず落ち着かせて詳しい話を聞くことにした。
「――つまり柿原の部屋に例の虫が出たと」
部屋のドアの前で腕を組む隼人は静かに口にする。
正直なところ顛末を聞いた龍之介は胸を撫で下ろしていた。そこまで大変な事件でなくて良かったと。しかし先程から隼人の服にしがみつく望にとっては、何にも変え難い大事件らしい。
「毎日こまめに掃除しているんだよ? 食べ物だって持ち込んでいないし……」
涙声で訴える望の心掛けは確かに立派だが、ここは多数の生徒が暮らす学生寮、一人が気を付けていても必ず誰かが過ちをおかす。部屋同士が隣接している寮内ならばどこに出てもおかしくないのだ。
「ともかく、話はわかった。要は退治すればいいんだろう、そのゴ――」
「隼人くん!」
小柄な望から聞いたこともないような大声が出て、流石に隼人も驚いたのか口を噤んだ。驚いたといっても眉一つ動いていないのだが。
肩に力が入っている望を宥めつつ、今度はどうしたと聞くと、例の虫の固有名詞を出してほしくないと返ってくる。名前を聞くのも嫌なのかと思ったが、嫌悪感を抱くポイントは人それぞれ、ここは大人しく従っておくのが吉か。
「じゃあ何て呼べばいいんだィ?」
「代わりの名を呼んで。そうだな……汚泥より顕現せし黒き闇、これでいこう」
これから俺の前では奴をそう呼んで、と望は付け加える。別にそれ自体に文句は無いのだが、なんとも言い難い個性的な名称である。中学2年生が特に好みそうな。
茶菓子の煎餅を齧る隼人を微笑ましい気持ちで眺める龍之介はそっと目を細め、ゆったり流れる平和な日常も悪くない――と、優雅に熱い日本茶を啜る。
すると突如ドアが音を立てて開き、何事かと目を向けると同時に早足で入室してきた望が隼人にひしと縋り付いていた。
「助けて……」
蚊の鳴くような声だ。常に笑顔を振り撒く望がどうしてこんな――ともかく何かただならぬ事が起こったというのは確かだろう。瞬く間に湯呑みを持つ手に力が入る。
「どうかしたかィ?」
つとめて平静を保ちつつ問いかけると、望はおずおず顔を上げた。すっかり青くなって、涙の膜が張った瞳はユラユラ揺れている。可哀想に、随分怯えているようだ。
「実は……出たんだ」
「出た?」
震える唇から返ってきた言葉はいまひとつ要領を得ない。ひとまず落ち着かせて詳しい話を聞くことにした。
「――つまり柿原の部屋に例の虫が出たと」
部屋のドアの前で腕を組む隼人は静かに口にする。
正直なところ顛末を聞いた龍之介は胸を撫で下ろしていた。そこまで大変な事件でなくて良かったと。しかし先程から隼人の服にしがみつく望にとっては、何にも変え難い大事件らしい。
「毎日こまめに掃除しているんだよ? 食べ物だって持ち込んでいないし……」
涙声で訴える望の心掛けは確かに立派だが、ここは多数の生徒が暮らす学生寮、一人が気を付けていても必ず誰かが過ちをおかす。部屋同士が隣接している寮内ならばどこに出てもおかしくないのだ。
「ともかく、話はわかった。要は退治すればいいんだろう、そのゴ――」
「隼人くん!」
小柄な望から聞いたこともないような大声が出て、流石に隼人も驚いたのか口を噤んだ。驚いたといっても眉一つ動いていないのだが。
肩に力が入っている望を宥めつつ、今度はどうしたと聞くと、例の虫の固有名詞を出してほしくないと返ってくる。名前を聞くのも嫌なのかと思ったが、嫌悪感を抱くポイントは人それぞれ、ここは大人しく従っておくのが吉か。
「じゃあ何て呼べばいいんだィ?」
「代わりの名を呼んで。そうだな……汚泥より顕現せし黒き闇、これでいこう」
これから俺の前では奴をそう呼んで、と望は付け加える。別にそれ自体に文句は無いのだが、なんとも言い難い個性的な名称である。中学2年生が特に好みそうな。