前編〜誠司の糸〜
真澄の口から説明されたそれは誠司もよく知る病気だった。空気の通り道である気道が狭く且つ刺激に敏感で、発作時には激しい咳と共に呼吸困難を引き起こす。物心つく前からの付き合いで、先ほど使った吸入薬は今でも手放せないらしい。
「──そっか、てっきり俺が怒鳴ったせいかと……」
「なははっ、怒鳴られたくらいでいちいち凹まないよ〜。兄貴や弟とのケンカでさんざんやり合ってるし、なんなら2・3発殴られるの覚悟してたくらいだし」
へらりと笑いながら物騒なことを口にする。ゆったりした言動でいつも癒しを与えてくれる真澄でも兄弟喧嘩くらいはするんだなと、どうでもいいことを考えた。考えることは他にも山ほどあるだろうに。
そう、例えば真澄の発作の件だ。聞くところによると埃っぽい空気が苦手らしいのだが、誠司が暮らすこの1LDKはここしばらくは掃除機すらまともにかけていなかった。手入れを放棄した部屋はさぞかし埃にまみれていただろう。
「……あの、もしかして俺の部屋のせいで発作を起こしたんじゃないか? 自分で言うのもなんだけどかなり汚かったし……」
ボソボソと歯切れの悪い声はちゃんと届いただろうか。彼は誤魔化すような笑みを浮かべるほかは何も言わない。この反応は肯定と受け取っていいだろう。
「やっぱり俺のせいだよな……ごめん」
「あーっ、やっぱそうくると思ったー! いいよぉ別にぃ〜誰のせいとかじゃないしぃ? そんなことよりまずご飯食べよ〜? オレ腹減り〜。味噌汁あっためなおすねー」
呆気なく許されてしまうと余計に胸が重くなる。自分が情けない。命を救われても感謝のひとつもできず、ろくにもてなしもせず、感情のままに八つ当たりをして、掃除をさせて料理まで。冷蔵庫の中はほぼ空だったはずなので、材料も近所のスーパーでわざわざ調達したのだろう。
全くこれではどちらが大人かわかったものではない。
「……真澄くんは、どうしてこんな俺なんかに──っ!?」
卑屈な質問は唐突に差し出された皿によって阻止された。大人の拳ほどの大きなおにぎりがラップに包まれて4つ並んでいる。
「テーブルに運ぶの手伝って〜」
「あ、うん……」
甘えた声で頼まれては拒否する選択肢なんて生まれるはずもなく、言われた通りに食事用のテーブルへ置いた。ほぼ荷物置き状態だったというのに椅子まで綺麗になっている。
再びキッチンに戻れば「次はコレ」と、言われるまま次々と運んでいき、残すは味噌汁のみとなった。
「──あのさ、さっきお兄さんが言いかけてた質問の答えになるかわかんないけど、ここまで首を突っ込んだ理由は単にオレのワガママみたいなモンなんだよね」
「ワガママ?」
「そ。実はオレもあるんだ、死にたいって思ったコト」
「え……」
思いもよらない言葉に固まっているうちに真澄は火を止めて、お椀に味噌汁を入れながら語る。
「オレの場合、産まれた時点で問題だらけだったみたいでさ〜。体重は平均の半分くらいで、一時は大人になれないかもなんて言われてたこともあって……まぁつまり、ずーっとこの虚弱体質や病気と戦ってきたってワケ」
幼少期は特に入院がちで、誕生日などのイベントを病院で過ごすことも珍しくなかったという。
「寂しかったし、怖かったし、悔しかった。どうしてオレはこうなんだろうって。七夕の短冊に願ってもサンタさんに頼んでも強い体は貰えなくて。この体のせいで諦めることが増えるたびに夜中に一人でこっそり泣いたりしてさぁ」
真澄は白い指で味噌汁に葱を散らしながら自嘲気味に顔を歪めた。けれど過酷な生活にも良い思い出があったのか、しだいに優しげな微笑みに変わっていく。
「そんなオレを元気付けてくれた奴がいたんだ。オレの親友。同い年で、オレと同じように赤ちゃんの頃から入院病棟の常連で、なのにアイツ明るくてさ。一緒にいることが増えて、二人揃って小児科の主みたいに呼ばれてて……楽しかったなぁ〜」
どこか遠い目で語る真澄は本当に楽しそうで、無意識なのか首に下げたネックレスの細長いスティック状の飾りに触れて、ほぅと一息ついた。そうして今度は少し表情を曇らせて、誤魔化すように手を洗いながらわざとらしく笑う。
「なははっ……ま、この話はいーや! とにかくオレ、お兄さんの気持ちはわかるんだ。自分を支えていた頼みの綱が細い糸になるまで擦り切れて、それがプツンと切れて全部が崩れてくようなかんじ? 似たよーなこと、オレにもあったから」
図星をつかれた気分だったが、否定も肯定もできずに苦笑いするしかなかった。
「オレのばあいこの体のせいで何度かガチで死にかけたし、体にメスを入れたこともあった。そうやって誰かの力を借りて、たくさん迷惑をかけながら無理やり生きてきたけど、それを全部捨ててしまいたいって思った瞬間があって……」
「真澄くん……」
「あの時は心から寂しくて……ほんとうに寂しくて。支えてくれる糸が無いとオレは一人で立てないから……生きていけないから。だけどそうまでして生きていく必要ってあるのかなって。治したそばから新しい病気にかかるし、治療は辛いし、家族にだって色々負担かけてるし……それこそお金とか。だから──」
それならいっそ──真澄の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。いつだって緊張感のない笑顔を浮かべて、間延びした口調と言葉で張り詰めた糸を緩めてくれる。そんな真澄が。
断片的でまとまりのない言葉だったが、その胸の内の苦しみがこちらにも伝わってくるようだった。
「ま、結局今もこうして生きてるんだけどね。闘病生活が長いと、そういう時もあるよね〜って話。でもねお兄さん、コレだけは言わせてほしいんだけど……」
「ん?」
「オレ超絶寂しがり屋だから、好きな人が居なくなるのは絶対耐えらんないんだ。お兄さんの飛び降りを止めたのは、最初に言った通りオレのワガママ。勝手なことしてゴメン。やっぱ殴っていいよ」
「殴らないよ……!? というか今、好……いや、なんでもない」
真澄の言う好きは恋愛的な意味ではないという自戒はさておき、誠司を助けた理由はどちらかというとエゴに近く自己満足の域を出ないものだが、それでもその生い立ちを考えれば無下にする気にもなれなかった。
瑠璃真澄という不思議な少年を形作った過去がどのようなものだったのか詳しくはわからない。けれど無理にはぐらかそうとしたり、そのタレ目が涙で滲んでいたのを見るに、気軽に踏み込んではいけない話だということは想像できた。
「とりま、食べよっか」
しんみりした空気を打ち消すような明るさで「はいっ」と手渡されたお椀は温かく、味噌汁の香りが湯気とともに上がってくる。そうして促されるまま食卓につくのであった。
「──そっか、てっきり俺が怒鳴ったせいかと……」
「なははっ、怒鳴られたくらいでいちいち凹まないよ〜。兄貴や弟とのケンカでさんざんやり合ってるし、なんなら2・3発殴られるの覚悟してたくらいだし」
へらりと笑いながら物騒なことを口にする。ゆったりした言動でいつも癒しを与えてくれる真澄でも兄弟喧嘩くらいはするんだなと、どうでもいいことを考えた。考えることは他にも山ほどあるだろうに。
そう、例えば真澄の発作の件だ。聞くところによると埃っぽい空気が苦手らしいのだが、誠司が暮らすこの1LDKはここしばらくは掃除機すらまともにかけていなかった。手入れを放棄した部屋はさぞかし埃にまみれていただろう。
「……あの、もしかして俺の部屋のせいで発作を起こしたんじゃないか? 自分で言うのもなんだけどかなり汚かったし……」
ボソボソと歯切れの悪い声はちゃんと届いただろうか。彼は誤魔化すような笑みを浮かべるほかは何も言わない。この反応は肯定と受け取っていいだろう。
「やっぱり俺のせいだよな……ごめん」
「あーっ、やっぱそうくると思ったー! いいよぉ別にぃ〜誰のせいとかじゃないしぃ? そんなことよりまずご飯食べよ〜? オレ腹減り〜。味噌汁あっためなおすねー」
呆気なく許されてしまうと余計に胸が重くなる。自分が情けない。命を救われても感謝のひとつもできず、ろくにもてなしもせず、感情のままに八つ当たりをして、掃除をさせて料理まで。冷蔵庫の中はほぼ空だったはずなので、材料も近所のスーパーでわざわざ調達したのだろう。
全くこれではどちらが大人かわかったものではない。
「……真澄くんは、どうしてこんな俺なんかに──っ!?」
卑屈な質問は唐突に差し出された皿によって阻止された。大人の拳ほどの大きなおにぎりがラップに包まれて4つ並んでいる。
「テーブルに運ぶの手伝って〜」
「あ、うん……」
甘えた声で頼まれては拒否する選択肢なんて生まれるはずもなく、言われた通りに食事用のテーブルへ置いた。ほぼ荷物置き状態だったというのに椅子まで綺麗になっている。
再びキッチンに戻れば「次はコレ」と、言われるまま次々と運んでいき、残すは味噌汁のみとなった。
「──あのさ、さっきお兄さんが言いかけてた質問の答えになるかわかんないけど、ここまで首を突っ込んだ理由は単にオレのワガママみたいなモンなんだよね」
「ワガママ?」
「そ。実はオレもあるんだ、死にたいって思ったコト」
「え……」
思いもよらない言葉に固まっているうちに真澄は火を止めて、お椀に味噌汁を入れながら語る。
「オレの場合、産まれた時点で問題だらけだったみたいでさ〜。体重は平均の半分くらいで、一時は大人になれないかもなんて言われてたこともあって……まぁつまり、ずーっとこの虚弱体質や病気と戦ってきたってワケ」
幼少期は特に入院がちで、誕生日などのイベントを病院で過ごすことも珍しくなかったという。
「寂しかったし、怖かったし、悔しかった。どうしてオレはこうなんだろうって。七夕の短冊に願ってもサンタさんに頼んでも強い体は貰えなくて。この体のせいで諦めることが増えるたびに夜中に一人でこっそり泣いたりしてさぁ」
真澄は白い指で味噌汁に葱を散らしながら自嘲気味に顔を歪めた。けれど過酷な生活にも良い思い出があったのか、しだいに優しげな微笑みに変わっていく。
「そんなオレを元気付けてくれた奴がいたんだ。オレの親友。同い年で、オレと同じように赤ちゃんの頃から入院病棟の常連で、なのにアイツ明るくてさ。一緒にいることが増えて、二人揃って小児科の主みたいに呼ばれてて……楽しかったなぁ〜」
どこか遠い目で語る真澄は本当に楽しそうで、無意識なのか首に下げたネックレスの細長いスティック状の飾りに触れて、ほぅと一息ついた。そうして今度は少し表情を曇らせて、誤魔化すように手を洗いながらわざとらしく笑う。
「なははっ……ま、この話はいーや! とにかくオレ、お兄さんの気持ちはわかるんだ。自分を支えていた頼みの綱が細い糸になるまで擦り切れて、それがプツンと切れて全部が崩れてくようなかんじ? 似たよーなこと、オレにもあったから」
図星をつかれた気分だったが、否定も肯定もできずに苦笑いするしかなかった。
「オレのばあいこの体のせいで何度かガチで死にかけたし、体にメスを入れたこともあった。そうやって誰かの力を借りて、たくさん迷惑をかけながら無理やり生きてきたけど、それを全部捨ててしまいたいって思った瞬間があって……」
「真澄くん……」
「あの時は心から寂しくて……ほんとうに寂しくて。支えてくれる糸が無いとオレは一人で立てないから……生きていけないから。だけどそうまでして生きていく必要ってあるのかなって。治したそばから新しい病気にかかるし、治療は辛いし、家族にだって色々負担かけてるし……それこそお金とか。だから──」
それならいっそ──真澄の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。いつだって緊張感のない笑顔を浮かべて、間延びした口調と言葉で張り詰めた糸を緩めてくれる。そんな真澄が。
断片的でまとまりのない言葉だったが、その胸の内の苦しみがこちらにも伝わってくるようだった。
「ま、結局今もこうして生きてるんだけどね。闘病生活が長いと、そういう時もあるよね〜って話。でもねお兄さん、コレだけは言わせてほしいんだけど……」
「ん?」
「オレ超絶寂しがり屋だから、好きな人が居なくなるのは絶対耐えらんないんだ。お兄さんの飛び降りを止めたのは、最初に言った通りオレのワガママ。勝手なことしてゴメン。やっぱ殴っていいよ」
「殴らないよ……!? というか今、好……いや、なんでもない」
真澄の言う好きは恋愛的な意味ではないという自戒はさておき、誠司を助けた理由はどちらかというとエゴに近く自己満足の域を出ないものだが、それでもその生い立ちを考えれば無下にする気にもなれなかった。
瑠璃真澄という不思議な少年を形作った過去がどのようなものだったのか詳しくはわからない。けれど無理にはぐらかそうとしたり、そのタレ目が涙で滲んでいたのを見るに、気軽に踏み込んではいけない話だということは想像できた。
「とりま、食べよっか」
しんみりした空気を打ち消すような明るさで「はいっ」と手渡されたお椀は温かく、味噌汁の香りが湯気とともに上がってくる。そうして促されるまま食卓につくのであった。