前編〜誠司の糸〜
「ありがとーゴザイマス」
真澄は申し訳なさそうに、あるいは安堵したように口元を緩めた。店で見かける姿とはまた違った印象を受けるのは髪型が違うからだろうか。ピンで留めていた長い前髪が左目を隠し、後ろで一つにまとめていた髪も下ろされ肩にかかっている。
長い前髪が濡れて毛束を作り、先端から水滴がポタポタ落ちて首筋から胸へとつたう。誠司の視線は自然とそこへ向かった。雨水の浸透したワイシャツが肌に密着し、なかなか際どい姿になっている。
「……っ」
思わず目を逸らして生唾を飲み込んだ。身体の内側から熱いものが込み上げて、願わくばその白い肌に触れたいという衝動に駆られる。
こんな感覚はいつ以来だろうか。長年の激務で疲弊し、己を慰めることすらおざなりになっていたが、どうやらまだ枯れてはいないらしい。
──とはいえこの状況は非常にまずい。
誠司は生粋の同性愛者だ。同性に好意を向けることは珍しくないのだが、今回は相手が悪い。まさか10歳も年下の高校生に劣情を抱くとは。
真澄は年齢にそぐわない色気を醸し出しているがまだ未成年。なにより客とコンビニ店員という関係で、特に親しくもない間柄。誠司と同じ同性愛者だという確証も無い。
全ては誠司が一方的に想いを寄せているだけだ。欲望に負けて真澄に迫ればどうなるか、そんなことは考えるまでもない。
「さ……さーて、もうこんな時間だし早く帰らないとだな。家どのへん?」
煩悩を振り切ってカーナビを適当に操作する。明るい液晶画面に意識を集中しながら真澄の言う住所を打ち込んでいくが、その途中で何度も繰り返される咳が気になった。
「んぇ? なぁーに? 急にこっち見て……」
真澄は笑っている。背中を丸めて小刻みに震えながら、紫色になった唇を緩く上げて寒さに耐えていた。全身ずぶ濡れなのだから無理もない。だというのに彼はなぜか不調を隠すように「だいじょぶだよ〜」などと言って呑気に笑っている。
「大丈夫じゃないだろ、震えてるじゃないか。寒いなら寒いって言えばいいのに」
慌てて暖房を強めたが当然すぐに温まるはずがなく、咳の合間に苦しそうな息継ぎが微かに聞こえてくる。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。気休めかもしれないが着ていたジャケットを真澄にかけてやった。
「えっ、いいの? これじゃお兄さんが寒くなるんじゃ……」
「いいから、到着するまで羽織ってな」
遠慮がちにジャケットを返そうとする手を柔く突き返す。少しでも寒さを凌いでほしかったし、はだけた胸元を隠せば目のやり場に困ることはないので一石二鳥だ。
「……ありがと。あは、お兄さんのスーツおっきいね〜。あったか〜」
「ん゙っ!!」
誠司のジャケットに顔を埋めてふにゃふにゃ笑う仕草に、胸をぎゅっと鷲掴みにされた心地を覚える。溢れ出る庇護欲を咳払いで誤魔化した。
「じ、じゃあ行こうか。早く帰らないと家の人が心配するだろ? シートベルトしめて」
「あーい。お願いしまぁす」
*
真澄とのつかの間のドライブは、ある意味で退屈しなかった。
「うぉ!? いまの雷!? どっか落ちたよね!? でっかいの! ……ひぇっ! なんか飛んできた!」
稲妻が走り轟音が響くと肩を震わせ、飛来物があると指をさす。その悲鳴は歓声にも似ていて、恐怖を滲ませているもののどこか楽しそうだ。
あちらこちらに興味を奪われている様子を見ていると“好奇心は猫をも殺す”という言葉を思い出した。案の定スマートフォンでこの惨状を撮影しようとしている。
一分一秒を争う有事の際、この子はきっと逃げ遅れるタイプだ──誠司はそう思った。
「……やっぱり送って正解だった」
「んぇ? お兄さんなんか言った?」
「ううん、なにも。あ、そろそろ着くよ」
真澄は他人に住居を教えることすら躊躇しないらしい。彼は山の中にある東雲学園に通っており、そこの学生寮で暮らしているのだとか。
誠司は感心した。よくもまぁただの客にここまで個人情報を晒せるものだと。もはやガードのゆるさに驚くこともない。
「真澄くん、降ろす場所に希望はある? 例えば、屋根がある所がいいとか」
「あー、できれば正門には近付かないでほしいかも。門限過ぎてるし、それ以前にバイト禁止だからバレたらヤバい」
真澄はイタズラっぽく微笑んで「ここ曲がって」と指さした。真面目で気遣い屋な反面、それなりにヤンチャはしているらしい。年相応の若気の至りを見せつけられて、誠司は苦笑しつつも「わかった」と彼の要求を飲んだ。
「あ、このへんで大丈夫です。お兄さんありがとうございま〜す!」
「ううん、どういたしまして。風邪ひかないようにね。そうだ、よかったら俺の傘使って。俺はこのとおり車だから必要ないし、遠慮しないで」
遠慮する真澄に半ば強引に傘を押し付けて、その背中が見えなくなるのを確認してから、誠司はようやく本来の帰路に着く。先ほどまで真澄に貸していたジャケットには、ほのかに香水の匂いが染み付いている気がした。
真澄は申し訳なさそうに、あるいは安堵したように口元を緩めた。店で見かける姿とはまた違った印象を受けるのは髪型が違うからだろうか。ピンで留めていた長い前髪が左目を隠し、後ろで一つにまとめていた髪も下ろされ肩にかかっている。
長い前髪が濡れて毛束を作り、先端から水滴がポタポタ落ちて首筋から胸へとつたう。誠司の視線は自然とそこへ向かった。雨水の浸透したワイシャツが肌に密着し、なかなか際どい姿になっている。
「……っ」
思わず目を逸らして生唾を飲み込んだ。身体の内側から熱いものが込み上げて、願わくばその白い肌に触れたいという衝動に駆られる。
こんな感覚はいつ以来だろうか。長年の激務で疲弊し、己を慰めることすらおざなりになっていたが、どうやらまだ枯れてはいないらしい。
──とはいえこの状況は非常にまずい。
誠司は生粋の同性愛者だ。同性に好意を向けることは珍しくないのだが、今回は相手が悪い。まさか10歳も年下の高校生に劣情を抱くとは。
真澄は年齢にそぐわない色気を醸し出しているがまだ未成年。なにより客とコンビニ店員という関係で、特に親しくもない間柄。誠司と同じ同性愛者だという確証も無い。
全ては誠司が一方的に想いを寄せているだけだ。欲望に負けて真澄に迫ればどうなるか、そんなことは考えるまでもない。
「さ……さーて、もうこんな時間だし早く帰らないとだな。家どのへん?」
煩悩を振り切ってカーナビを適当に操作する。明るい液晶画面に意識を集中しながら真澄の言う住所を打ち込んでいくが、その途中で何度も繰り返される咳が気になった。
「んぇ? なぁーに? 急にこっち見て……」
真澄は笑っている。背中を丸めて小刻みに震えながら、紫色になった唇を緩く上げて寒さに耐えていた。全身ずぶ濡れなのだから無理もない。だというのに彼はなぜか不調を隠すように「だいじょぶだよ〜」などと言って呑気に笑っている。
「大丈夫じゃないだろ、震えてるじゃないか。寒いなら寒いって言えばいいのに」
慌てて暖房を強めたが当然すぐに温まるはずがなく、咳の合間に苦しそうな息継ぎが微かに聞こえてくる。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。気休めかもしれないが着ていたジャケットを真澄にかけてやった。
「えっ、いいの? これじゃお兄さんが寒くなるんじゃ……」
「いいから、到着するまで羽織ってな」
遠慮がちにジャケットを返そうとする手を柔く突き返す。少しでも寒さを凌いでほしかったし、はだけた胸元を隠せば目のやり場に困ることはないので一石二鳥だ。
「……ありがと。あは、お兄さんのスーツおっきいね〜。あったか〜」
「ん゙っ!!」
誠司のジャケットに顔を埋めてふにゃふにゃ笑う仕草に、胸をぎゅっと鷲掴みにされた心地を覚える。溢れ出る庇護欲を咳払いで誤魔化した。
「じ、じゃあ行こうか。早く帰らないと家の人が心配するだろ? シートベルトしめて」
「あーい。お願いしまぁす」
*
真澄とのつかの間のドライブは、ある意味で退屈しなかった。
「うぉ!? いまの雷!? どっか落ちたよね!? でっかいの! ……ひぇっ! なんか飛んできた!」
稲妻が走り轟音が響くと肩を震わせ、飛来物があると指をさす。その悲鳴は歓声にも似ていて、恐怖を滲ませているもののどこか楽しそうだ。
あちらこちらに興味を奪われている様子を見ていると“好奇心は猫をも殺す”という言葉を思い出した。案の定スマートフォンでこの惨状を撮影しようとしている。
一分一秒を争う有事の際、この子はきっと逃げ遅れるタイプだ──誠司はそう思った。
「……やっぱり送って正解だった」
「んぇ? お兄さんなんか言った?」
「ううん、なにも。あ、そろそろ着くよ」
真澄は他人に住居を教えることすら躊躇しないらしい。彼は山の中にある東雲学園に通っており、そこの学生寮で暮らしているのだとか。
誠司は感心した。よくもまぁただの客にここまで個人情報を晒せるものだと。もはやガードのゆるさに驚くこともない。
「真澄くん、降ろす場所に希望はある? 例えば、屋根がある所がいいとか」
「あー、できれば正門には近付かないでほしいかも。門限過ぎてるし、それ以前にバイト禁止だからバレたらヤバい」
真澄はイタズラっぽく微笑んで「ここ曲がって」と指さした。真面目で気遣い屋な反面、それなりにヤンチャはしているらしい。年相応の若気の至りを見せつけられて、誠司は苦笑しつつも「わかった」と彼の要求を飲んだ。
「あ、このへんで大丈夫です。お兄さんありがとうございま〜す!」
「ううん、どういたしまして。風邪ひかないようにね。そうだ、よかったら俺の傘使って。俺はこのとおり車だから必要ないし、遠慮しないで」
遠慮する真澄に半ば強引に傘を押し付けて、その背中が見えなくなるのを確認してから、誠司はようやく本来の帰路に着く。先ほどまで真澄に貸していたジャケットには、ほのかに香水の匂いが染み付いている気がした。