前編〜誠司の糸〜
そうして何日が経っただろうか。ほんの僅かな潤いを得て、毎日をギリギリで生きてきた誠司は今日もコンビニへ向かう。夏のはじめの、雨と風が酷い日だった。
「あっ、お兄さんお久しぶりで〜す。最近見かけなかったけど、仕事忙しいんすか?」
「そうなんだよ……。終電を言い訳に残業から逃げるなってことで、自家用車での通勤を余儀なくされててさ。あぁ……どうして車なんか買っちゃったんだろう。おかげさまで日付けが変わっても会社でキーボードを叩く日々さ……あははは……」
「し、焦点あってないけど大丈夫すか? でもま、今日はまだマシなほうかな〜。オレがいる時間に帰ってきてるし」
真澄が言った通り今の時刻は21時50分を過ぎたところだ。新年度を迎えるたびに労働環境は荒 みきり、最近はますます会社のブラック化が進んでいた。このような早い時間に帰宅できたのは実に一週間ぶりなのだが、それはつまり真澄に会えたのも一週間ぶりだということ。高校生のアルバイトは22時までしか働けないという制約が誠司にはもどかしく思えた。
「えっと……今日はあまりお客さんがいないんだな。こんな天気だからかな」
辺りを見渡しながら雑談を長引かせようと世間話を始める。気象情報によると警報級の嵐が発生しているらしい。
店内から見える外の様子は帰るのが億劫になるほど酷い。大きな雨粒が激しく降り続き、バケツやらなにやらが飛ぶような勢いで転がっていく。強風に揺られた自動ドアがガタガタと音を立て、驚いた真澄が楽しげな声をあげながら笑顔を引き攣らせた。
「あはっ、窓揺れてる〜。風も強いけど、雨もすごいっすねぇ。ホント」
「ああ、これからもっと酷くなるらしいね。今日ばかりは車通勤で良かったと思うよ。電車と徒歩だったらどうなってたか……」
そこまで言って重大なことに気が付いた。
「そうだ、真澄くんはここまで徒歩じゃなかった?」
「あ、はい。バスと歩きです」
「なっ……!?」
なんということだ。真澄との和やかな雑談モードから一変、誠司は途端に不安でいっぱいになった。へらへら笑う真澄のゆるい表情と、荒れ狂う外の景色を交互に見て額を押さえる。とてもじゃないがこの子が歩いて帰れる状況じゃない。
「あれ、お兄さんもしかして心配してくれてます? だぁいじょーぶっすよぉー。なんせオレ現役バリバリの男子高校生だから、こんくらいの雨風なんて余裕でっす。バス停にさえ辿り着ければコッチのもん。な〜んて」
「そう……なんだ?」
納得できず首を捻って苦笑した。どうにも真澄の言葉は説得力に欠ける。呑気に力こぶを作って見せているようだが、大人の誠司からしてみれば発展途上の少年の細腕に他ならない。おそらく同年代の少年たちと比べても体躯は小さい方だろうに。
本当に大丈夫だろうか。転んだり、飛んできた物に当たって怪我でもしないだろうか。吹けば飛ぶような体つきの彼のことだ、強風に耐えきれず吹き飛ばされるかもしれない……。
「……」
「なはは〜」
誠司が心配すればするほど、真澄は掴みどころのない笑顔を見せてくる。その笑みが急にハッと途切れたかと思うと、真澄は誠司の背後を覗き込むように姿勢を斜めにして会釈した。
「いらっしゃいませ」
誠司も振り返って納得する。いつの間にか後ろに客が並んでいた。
「あぁ……長話してごめんね。それじゃあ俺はこれで。気をつけて帰るんだよ」
それだけ言い残してコンビニを出た。嵐は弱まるどころか更に勢いを増して、横向きに降る雨を浴びながら車へ駆け込む。車内から真澄の姿を確認しつつ、後ろ髪引かれる思いでエンジンをかけ、車を発進させた。
*
そうして約10分後、誠司はいまだに車内にいた。いつもならとっくに帰宅してシャワーでも浴びている頃だろう。それがなぜだか道の脇に車を停めて、誰もいない歩道をぼうっと眺めていた。
辺りは真っ暗闇で、かと思えば激しく稲光が瞬いて轟音が鳴り響く。横殴りの雨と容赦ない風が恐怖心を煽り、車内のラジオからは不要不急の外出を控える呼びかけが流れてくる。
こんな状況で真澄はバス停まで無事に辿り着けるのだろうか──そういう懸念が誠司の車にブレーキをかけた。
ハザードランプが水浸しの道路にチカチカと反射する。歩道には誰もいない。当たり前だ。こんな時間にこんな天気で、のこのこと傘をさして歩くような勇者はそうそういない。きっと真澄もこの惨状を見て親に車を出してもらうなりしただろう。
取り越し苦労だったかと安堵の溜息をついた。自分も早く帰って少しでも長く寝よう。そう思って車を発進させようとした──そのとき、バックミラー越しにゆらりと動く影が見えた。頼りない街灯に照らされた人影を。
「は……?」
愕然とする。まさか本当に勇者がいたとは。一体どんな奴だろうかと水滴まみれの窓越しからジッと目を凝らせば、誠司はまたもや間抜けな声を出した。
「へ? 真澄くん!?」
学生服に身を包んだ少年が強風に煽られながらよたよたと歩いている。横降りの雨に対抗するためだろうか、傘を盾のように前方へ向けているから肝心の顔が見えない。けれど誠司にはわかる。あれは真澄だ。
「真澄くん!」
咄嗟に車から出て駆け寄った。雨に濡れるのも構わず走り寄る足音に気付いたのか、少年は前に構えていた傘を上げて──その瞬間、凄まじい突風とともに彼の傘が逆向きに開き、弱々しい体が強い風に押し飛ばされた。
「危ない!」
考えるより先に口と手が出た。小さく悲鳴をあげる少年を抱きとめて、少しでも風の抵抗を受けないようにとしゃがみこむ。
腕の中の人物は誠司が思った通りの少年で、びしょ濡れの真澄が困惑を隠さない顔で目をパチクリさせていた。
「はぇ? お、お兄さん? なんでここに?」
「……っごめん、お節介かと思ったんだけど、こんな天気で無事に帰られるのかなって気になってたんだ。……と言っても待ってたのは少しの間だけだぞ。そろそろ帰ろうと思ったときに真澄くんがフラフラ歩いてるのが見えたからさ。いやぁー丁度いいタイミングだったなー」
早口に、どこか言い訳がましく状況を説明した。いくら心配していたとはいえ、待ち伏せなどという行為はストーカーじみていて後ろめたかったのだ。けれど真澄は不審がる様子もなく、相変わらず締まりのない笑みを浮かべて礼を言う。
「そーなんだ。ありがとーございまぁす。お兄さん優し〜。てか体おっきーね、ビックリした〜」
「ま、まぁこれでも学生時代は柔道部の主将やってたから」
「へ〜っ! 主将! すご〜!」
警戒心の無い反応が嬉しかった。けれど同時に少しは他人を疑ったほうがいいのではと彼の未来を案じた。この先、悪い人間に騙されなければいいが。
「とにかくここで話してても仕方ないから車においで。傘も壊れてるし、風で色々飛んでくるから危ないよ」
すっかり冷え切った真澄の手を引いて車に戻った。冷たい雨に打たれたからだろうか、夏のはじまりとはいえ猛暑が年々早まっているはずなのに今夜は涼しいを通り越して寒いほどだ。
「はぁ……少し外に出ただけでびしょ濡れだ。真澄くん大丈夫? って、いつまで立ってるの。やっぱり他人の車に乗るのは怖い?」
「んーん、そこは全然ダイジョブなんだけど、オレが乗ると椅子が濡れるな〜っていう……」
「えっ、そんなこと!? 気にしなくていいから早くおいで。風邪ひくよ」
やはり真澄は不用心で、変なところで気が回る。遠慮する彼をなだめて助手席に座らせ、あらかじめ用意していたタオルを頭にかけてやった。
「あっ、お兄さんお久しぶりで〜す。最近見かけなかったけど、仕事忙しいんすか?」
「そうなんだよ……。終電を言い訳に残業から逃げるなってことで、自家用車での通勤を余儀なくされててさ。あぁ……どうして車なんか買っちゃったんだろう。おかげさまで日付けが変わっても会社でキーボードを叩く日々さ……あははは……」
「し、焦点あってないけど大丈夫すか? でもま、今日はまだマシなほうかな〜。オレがいる時間に帰ってきてるし」
真澄が言った通り今の時刻は21時50分を過ぎたところだ。新年度を迎えるたびに労働環境は
「えっと……今日はあまりお客さんがいないんだな。こんな天気だからかな」
辺りを見渡しながら雑談を長引かせようと世間話を始める。気象情報によると警報級の嵐が発生しているらしい。
店内から見える外の様子は帰るのが億劫になるほど酷い。大きな雨粒が激しく降り続き、バケツやらなにやらが飛ぶような勢いで転がっていく。強風に揺られた自動ドアがガタガタと音を立て、驚いた真澄が楽しげな声をあげながら笑顔を引き攣らせた。
「あはっ、窓揺れてる〜。風も強いけど、雨もすごいっすねぇ。ホント」
「ああ、これからもっと酷くなるらしいね。今日ばかりは車通勤で良かったと思うよ。電車と徒歩だったらどうなってたか……」
そこまで言って重大なことに気が付いた。
「そうだ、真澄くんはここまで徒歩じゃなかった?」
「あ、はい。バスと歩きです」
「なっ……!?」
なんということだ。真澄との和やかな雑談モードから一変、誠司は途端に不安でいっぱいになった。へらへら笑う真澄のゆるい表情と、荒れ狂う外の景色を交互に見て額を押さえる。とてもじゃないがこの子が歩いて帰れる状況じゃない。
「あれ、お兄さんもしかして心配してくれてます? だぁいじょーぶっすよぉー。なんせオレ現役バリバリの男子高校生だから、こんくらいの雨風なんて余裕でっす。バス停にさえ辿り着ければコッチのもん。な〜んて」
「そう……なんだ?」
納得できず首を捻って苦笑した。どうにも真澄の言葉は説得力に欠ける。呑気に力こぶを作って見せているようだが、大人の誠司からしてみれば発展途上の少年の細腕に他ならない。おそらく同年代の少年たちと比べても体躯は小さい方だろうに。
本当に大丈夫だろうか。転んだり、飛んできた物に当たって怪我でもしないだろうか。吹けば飛ぶような体つきの彼のことだ、強風に耐えきれず吹き飛ばされるかもしれない……。
「……」
「なはは〜」
誠司が心配すればするほど、真澄は掴みどころのない笑顔を見せてくる。その笑みが急にハッと途切れたかと思うと、真澄は誠司の背後を覗き込むように姿勢を斜めにして会釈した。
「いらっしゃいませ」
誠司も振り返って納得する。いつの間にか後ろに客が並んでいた。
「あぁ……長話してごめんね。それじゃあ俺はこれで。気をつけて帰るんだよ」
それだけ言い残してコンビニを出た。嵐は弱まるどころか更に勢いを増して、横向きに降る雨を浴びながら車へ駆け込む。車内から真澄の姿を確認しつつ、後ろ髪引かれる思いでエンジンをかけ、車を発進させた。
*
そうして約10分後、誠司はいまだに車内にいた。いつもならとっくに帰宅してシャワーでも浴びている頃だろう。それがなぜだか道の脇に車を停めて、誰もいない歩道をぼうっと眺めていた。
辺りは真っ暗闇で、かと思えば激しく稲光が瞬いて轟音が鳴り響く。横殴りの雨と容赦ない風が恐怖心を煽り、車内のラジオからは不要不急の外出を控える呼びかけが流れてくる。
こんな状況で真澄はバス停まで無事に辿り着けるのだろうか──そういう懸念が誠司の車にブレーキをかけた。
ハザードランプが水浸しの道路にチカチカと反射する。歩道には誰もいない。当たり前だ。こんな時間にこんな天気で、のこのこと傘をさして歩くような勇者はそうそういない。きっと真澄もこの惨状を見て親に車を出してもらうなりしただろう。
取り越し苦労だったかと安堵の溜息をついた。自分も早く帰って少しでも長く寝よう。そう思って車を発進させようとした──そのとき、バックミラー越しにゆらりと動く影が見えた。頼りない街灯に照らされた人影を。
「は……?」
愕然とする。まさか本当に勇者がいたとは。一体どんな奴だろうかと水滴まみれの窓越しからジッと目を凝らせば、誠司はまたもや間抜けな声を出した。
「へ? 真澄くん!?」
学生服に身を包んだ少年が強風に煽られながらよたよたと歩いている。横降りの雨に対抗するためだろうか、傘を盾のように前方へ向けているから肝心の顔が見えない。けれど誠司にはわかる。あれは真澄だ。
「真澄くん!」
咄嗟に車から出て駆け寄った。雨に濡れるのも構わず走り寄る足音に気付いたのか、少年は前に構えていた傘を上げて──その瞬間、凄まじい突風とともに彼の傘が逆向きに開き、弱々しい体が強い風に押し飛ばされた。
「危ない!」
考えるより先に口と手が出た。小さく悲鳴をあげる少年を抱きとめて、少しでも風の抵抗を受けないようにとしゃがみこむ。
腕の中の人物は誠司が思った通りの少年で、びしょ濡れの真澄が困惑を隠さない顔で目をパチクリさせていた。
「はぇ? お、お兄さん? なんでここに?」
「……っごめん、お節介かと思ったんだけど、こんな天気で無事に帰られるのかなって気になってたんだ。……と言っても待ってたのは少しの間だけだぞ。そろそろ帰ろうと思ったときに真澄くんがフラフラ歩いてるのが見えたからさ。いやぁー丁度いいタイミングだったなー」
早口に、どこか言い訳がましく状況を説明した。いくら心配していたとはいえ、待ち伏せなどという行為はストーカーじみていて後ろめたかったのだ。けれど真澄は不審がる様子もなく、相変わらず締まりのない笑みを浮かべて礼を言う。
「そーなんだ。ありがとーございまぁす。お兄さん優し〜。てか体おっきーね、ビックリした〜」
「ま、まぁこれでも学生時代は柔道部の主将やってたから」
「へ〜っ! 主将! すご〜!」
警戒心の無い反応が嬉しかった。けれど同時に少しは他人を疑ったほうがいいのではと彼の未来を案じた。この先、悪い人間に騙されなければいいが。
「とにかくここで話してても仕方ないから車においで。傘も壊れてるし、風で色々飛んでくるから危ないよ」
すっかり冷え切った真澄の手を引いて車に戻った。冷たい雨に打たれたからだろうか、夏のはじまりとはいえ猛暑が年々早まっているはずなのに今夜は涼しいを通り越して寒いほどだ。
「はぁ……少し外に出ただけでびしょ濡れだ。真澄くん大丈夫? って、いつまで立ってるの。やっぱり他人の車に乗るのは怖い?」
「んーん、そこは全然ダイジョブなんだけど、オレが乗ると椅子が濡れるな〜っていう……」
「えっ、そんなこと!? 気にしなくていいから早くおいで。風邪ひくよ」
やはり真澄は不用心で、変なところで気が回る。遠慮する彼をなだめて助手席に座らせ、あらかじめ用意していたタオルを頭にかけてやった。