オアシス

「──ふぅ、ごちそうさまでした。こんなに美味いご飯は久しぶりに食べたよ。真澄くんは料理上手なんだね」

「なはは〜っ、おそまつさまぁ。あっ、待って! 洗い物ならオレがやるから誠司くんはゆっくりしててよ〜!」

「そんな、色々やってくれたのにそこまでしてもらうわけにはいかないよ。せめて後片付けくらいさせて」

「じゃあ誠司くんが洗ったものをオレが拭く。これでいいでしょ? はい、片付けスタート〜」

 一悶着を終えて情が湧いたのか、真澄からの呼び名が〝お兄さん〟ではなく名前に変わっていた。誠司が皿を洗い始めると小走りで寄ってきて、洗い終わったものを拭いて片付けてくれる。
 真澄はよく喋るうえに甘えん坊で、誠司が半歩離れると一歩近付き、腕が触れ合うと嬉しそうに見上げてふにゃふにゃ笑う。その警戒心の欠片もない愛らしさに何度理性を砕かれそうになったことか。

 誠司は同性愛者であるものの、さすがに年端もいかない真澄に手を出そうとは思わない。年齢にそぐわぬ色香を漂わせることがあったとしても、16歳なんて子供もいいところだ。
 無防備に懐いてくれるのは嬉しいが、相手が誠司だから無事でいられるのであって、邪な心を持つ悪い大人に目をつけられたらと考えるとおぞましい。一人の大人として、少しは人との距離感を教える必要があるだろうか。

「っ……真澄くん、せっかく拭いてくれてるんだからもう少し離れよう? こう近いと跳ねた水がかかってしまうから」

「えぇ〜……はぁ〜い、わかりましたぁ〜」

「そんな不満そうな声出さなくても……」

 拗ねた横顔もまた微笑ましい。洗い物の最中で助かった。手が濡れていなければ頭を撫でていたところだったから。
 濡れるといえば風呂にも入りたい。思えば昨日も入っていなかったので体が気持ち悪いし、真澄もバイト終わりに部屋を片付けてくれたのでさぞかし疲れているに違いない。伏せられた目も心なしか眠そうで──

「──ん?」

 ふと皿を洗う手が止まった。思えばこのキッチンやリビングは真澄のおかげで見違えるほど快適になったが、こうなるまでにいったいどれほどの時間を要しただろうか。おまけに先ほど振舞ってくれた食事の材料を近くのスーパーで調達し、誠司が起きる頃には調理も済ませていた。いくら手際がいいといっても一時間やそこらで終わる作業量でないことは明白。

 泡まみれのスポンジから水が滴り落ちていく。隣でまだ何か話している真澄の声が遠くなる。大人として最も大切なことを思い出して嫌な汗が吹き出した。

「しまった! 真澄くん、今の時間わかる!?  家は……いや、寮の門限は!? とにかく時間──ああっ、この家に時計は無かったんだ! それならスマホで……あれ? どこだ? スマホが無い!?」

 慌てて手を拭き、リビングに戻ってスマートフォンを探すが、焦って視野が狭まっているせいかなかなか見つからない。確か帰ってすぐソファで寝落ちてしまったので、あるとするならその周辺が怪しいのだが、クッションの間にもソファの下にもましてや穿いているスラックスのポケットにも無かった。

「……ねぇ、いいじゃんそんなの。時間が知りたいならオレのスマホあるからさ」

 一人であたふたしているとキッチンから声がかかる。なぜだか阻止するような口ぶりに違和感をおぼえたし、その的外れな指摘にも疑問を抱いた。時間を知りたいだけじゃない、あれが無ければ仕事も生活もままならないのだから必死に探して当然だ。

「どこにある? 鞄の中は……ないか。はっ! まさか会社……に──っ!?」

 振り返った先、すぐ目の前に真澄がいて思わず息を飲んだ。いつの間に背後に立っていたのだろうか。ギョッとしたが、落ち着いて彼の名を呼んだ。

「真澄くん……?」

「……せっかく楽しい話してたのに」

 ぼそぼそと抑揚のない声。キッチンの明かりが逆光して顔に影が落ち、長い前髪で左目を隠した隻眼は暗く冷たく静かに、悲しみや怒りなどの負の感情が見て取れる。唐突に雰囲気を変えてくるから理解が追いつかない。これが真澄なのだろうか。

「……真澄くん、俺のスマホ知らない?」

 おそるおそる尋ねると、真澄は無言でテレビを指す。目で追えば確かにテレビ台の端に目立たないよう伏せられていたのでホッと胸を撫で下ろした。

「ははっ。なんだ、あるなら早く言ってくれればいいのに……って、あれ?」

 さっそく時間を確認しようと手に取ったが、今度は画面が暗いまま反応しない。どうやら電源が切られているようだ。
 電源ボタンを長押しするあいだも真澄の冷たい視線が刺さり、起動するまでの時間がやけに長く感じた。ようやく見慣れたディスプレイに安堵したのも束の間、電源を切っていたあいだに届いたであろう着信履歴やメッセージの通知がずらりと流れ込んでくる。その内容を確認する前に、画面は真澄の手に覆われて隠されてしまった。

「……見なくていいじゃん、そんなの」

 背中からのくぐもった声は子を宥める親ように──または真逆の、後ろめたいことを誤魔化そうとする子どもの悪足掻きのようにも聞こえた。背後に密着されているせいで表情は読めないが、前に回った冷たい手が誠司の手ごとスマートフォンを握って離さないので、どうしてもこれを隠しておきたいのだろうということはわかる。
 そしてその理由も、あるていど見当はついていた。

「真澄くん、俺はもう大丈夫だから、見せて?」

「……ヤダ」

「こうしていても仕方がないよ。どうせいつか見ることになるんだ。真澄くんのおかげで俺はすっかり大丈夫だから。……ほら、見せて?」

 何度か説得を繰り返せば惜しむようにゆっくり手が離れる。真澄の見守るなか改めて画面を確認すると、やはり上司からの暴言がいくつも送られてきていた。電話に出ろという催促から始まり、逃げるなだとか役立たずだとか幼稚な苦言が続き、最後には人格否定と金銭の要求をほのめかす言葉で締められていた。
 なるほどこれは見せたがらないはずだ。振り返ると真澄は今にも泣き出しそうな顔をしている。

「ゴメン……見るつもりはなかったんだよ。でも見えちゃったんだ。誠司くんが寝てるときに何回も着信がくるから起こしちゃいけないと思って、せめてマナーモードにしようって……それで……」

 言葉を詰まらせた真澄はお守りに縋るようにネックレスを握る。あまりにも謝ってくるので、その低い位置にある頭をひと撫でした。怒るわけがない、どちらかと言うなら誠司を思いやる気持ちが嬉しかった。それを伝えたが真澄の顔は晴れないままだ。

「この人、誠司くんの上司なんでしょ? 誠司くんいつもこんな酷いこと言われてたの?」

「それは……」

 改めて言葉にされるとなんとも情けない。答えあぐねていると真澄の表情がいっそう悲しみに染まっていく。

「オレ、大人になるのが夢なんだ。働いて遊んで誰かに必要とされて、自分の力でしっかり立ってる大人がカッコよくてキラキラしてて、ずっと憧れてた。なのに……コレ、なに?」

 真澄は憎々しげにスマートフォンを指差す。その見るに堪えないメッセージは、誠司と同じく心身ともに限界だった先輩や同僚、そして問題児の後輩からも届いていた。大の大人が寄ってたかって子供じみた️ことをするものだから、無邪気に大人を見上げていた真澄は相当なショックを受けただろう。

「この人たち大人なんでしょ? 大人ってこんな酷いメッセージ送るの? これを受け取った人がどんな気持ちになるかなんてオレでもわかるのに、この人たちはこんな当たり前のこともわからないの? それとも世間はこういう人が大半なの? オレが憧れた大人の世界って、こんななの?」

 悲痛な言葉が胸に刺さる。思えば誠司もこの会社の在り方に付き合ってきた張本人。潰されて去っていった仲間を何人も見てきたというのに黙って耐えて、あげくに自決を選ぶまでに追い詰められた。誠司を含む大人たちの姿が真澄をここまで失望させたのだ。
 ゆるく握ったこぶしに力が入る。

「……情けないな、俺。この期に及んで、また君に教えられるなんて……」

 ため息混じりに苦笑したあと、一呼吸置いて決心した。
 このままではいられない。何度も誠司を助けた真澄にこんな顔をさせてはいけない。この優しい少年の夢を壊したくない、澄んだ瞳を濁らせたくない──その一心で小さな両肩に手を置いた。

「真澄くん、俺この会社辞めるよ。君のおかげで目が覚めたんだ。転職して、君の憧れた大人の景色はもっと輝いているんだってことを証明してみせる」

 真澄のタレ目がそっと開かれた。

「辞めるって……できるの? メッセージ見る限りそう易々と辞められない雰囲気だったけど……」

「大丈夫、そこは問題ないよ。4年も世話になったから筋は通して、きちんと正規の手順を踏んで円満に辞めてみせる。辞める選択を心のどこかで諦めていたけど、たぶんストレスで思考が鈍っていたんだろうね。でも真澄くんのおかげで頭がスッキリしたからもう大丈夫だよ。ありがとう、心配かけてごめんね」

 白く柔らかい頬をそっと撫でれば、ようやく安心した顔を見せてくれた。

「あんな人たちにも真っ向から挑むんだね。うん……OK、わかった。負けないでね誠司くん!」
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