前編〜誠司の糸〜

「いっただっきま〜す」

 上機嫌に手を合わせる真澄につられて箸を取る。二人がけのダイニングテーブルの中央には一際大きな皿におにぎりが四つ、その隣の皿には色も形も綺麗な玉子焼きとウィンナーが。そして手前には少量の漬物と味噌汁。真澄いわく〝こういうのでいいんだよセット〟らしい。

「好きなモンとかわかんないけど、これならだいたいみんな好きでしょ? ……いちおー言っとくけど、ちゃんとした料理も全然作れっからね。肉じゃがとか煮魚とか唐揚げとかぁ〜」

「……ふっ」

「あっ、笑ったな〜! 言っとっけどマジで作れっから!」

 こちらは何も言っていないのに勝手に言い訳を始めるものだから可笑しくなった。そんなに口を尖らせなくても作ってくれた具だくさんの味噌汁をひと口飲むだけでその技量が伝わってくる。しっかり出汁をとったのか風味が豊かで塩加減もちょうどよく、味の染みた野菜がたっぷり入って彩りも良い。

「……うまい」

 思わず口をついて出た。空腹感が麻痺するほど何も食べていなかったので、飲み込んだものが食道を通っていく感覚が伝わってくる。突然の食べ物に体が驚いて内側に切ない鈍痛が走るが、それもやがて充足感に変わり、眠っていた食欲が一気に呼び起こされる。
 皿からおにぎりをひとつ取ってラップを外して大きくかぶりついた。海苔がすっかり柔らかくなった梅干しおにぎりは程よく空気が含まれていてどこか懐かしい。幼い頃に運動会や遠足で食べた弁当を思い出した。
 この味噌汁もそうだ。なんとしてでも野菜を食べてもらおうという気遣いと思いやりが詰まった実家の料理を思い出す。優しくて温かくて愛情に溢れた日々だった。
 最近は多忙を理由にちっとも連絡をとっていなかったが、それでも電話の一本でもよこせば弾む声で歓迎してくれるに違いない。そう確信が持てるほど愛されているというのに、最近はその存在すら忘れていた。

「うまい……本当に美味いよ。なのに、どうして──」

 なぜだか胸が苦しい。悲痛に嘆いて俯くと、テーブルにぽたぽたと雫が落ちた。

「お、お兄さん? ちょ、どーしたの!?」

 狼狽える真澄の声に応えることができない。どうしようもない自責の念が渦巻いて、温かい涙が頬を濡らした。

 俺は、なんてことをしてしまったんだ──

 未遂に終わったとはいえ自分の浅はかな誤ちを後悔した。今こうしているうちも幸せを願ってくれている人達がいるというのに、自分の味方はどこにもいないと勘違いをして最悪な別れ方をするところだった。
 辞めた後輩も最後まで「逃げてください」と念を押してきたし、上手い辞め方まで提示してくれたのだから、自分もそれに倣えばよかったではないか。

 特に真澄に対しては酷い仕打ちしかしていない。助けてくれたあの細腕に赤い痕が残るほど強く握り締めてしまったし、その後の態度も酷いものだった。極めつけに暴言まで吐いて。

──どうせ心の中で笑ってるんだろ!? 大人の苦労も社会の厳しさも知らない子供のくせに! 欲しい物は何でも与えられて好きなことばかりして生きてきて、死にたいなんて思ったこともないんだろう!?──

 思い返せばとんでもないことを言ってしまった。真澄が心底欲した強い体は一度だって与えられたことはなかったし、生まれた時から様々な病気と戦う厳しい人生を送っていたというのに無神経にも程がある。
 知らなかったとはいえ、大の大人が発していい言葉ではなかった。自分が不甲斐ないせいで、健気な少年に「死にたいと思ったことはある」とデリケートな内情まで語らせてしまった。

「──めん」

 考えるより先に口が動いていた。その微かな声が真澄に届いたのか椅子から立ち上がってこちらへ歩み寄ってくる。どうしたのと優しく問われればますます目頭が熱くなってしまう。

「ご、めん……真澄くん。ごめん」

 背中をさすってくれる優しい体温を感じ、空いているほうの薄い手を両手で丁重に包みこんだ。思えば橋で助けてくれたあの時に拘束を解こうとして手首を強く握りすぎたことも謝っていなかった。痛かっただろうに、それを隠して気丈に笑って。

「だいじょうぶ、だいじょーぶ。謝んなくていーよ。お兄さん明らか余裕無かったの、ちゃんとわかってっし。全部気にしてないから大丈夫」

 背中を撫でながら軽い調子で全てを赦してくれる。大の大人が10も年下の少年に身を委ねるのは気が引けたが、それでも謝らずにはいられなくて小さな体を抱き締めた。

「余裕が無かったなんて言い訳だ。俺は自分の事しか見えていなくて、こんなに優しい君に酷いことをした。結局それが俺の本性で──」

「違うよ」

 すかさず耳元で否定された。真澄にしては珍しく厳しく諭すような声色だ。

「〝余裕が無いときに見せる顔が本性〟なーんて嘘っぱち。誰だって余裕が無いときは自分しか見えなくなるもんだよ。オレだってさっきの発作ではお兄さんのこと突き飛ばしたでしょ?」

 さっきはごめんね。と、腕の中の真澄が謝罪する。反射的に首を振り、そんなこと気にするわけないだろうと言う代わりにしっかり抱き締め直せば、宥めるように背中をぽんぽんと叩かれた。

「でも、それでいいんだよ。いっぱいいっぱいなのに人のこと考えてたら生きてけないよ。追い詰められたときに見えてくるのはその人の本性じゃなくて、切実なSOSだとオレは思ってる」

 真澄の声はその名の通りに澄みきって、真っ直ぐ誠司に届く。小さな体でも心は瑠璃色の海のように広くて清らかだ。

「お兄さんはさ、出会った頃から既にボロボロだったじゃん? でも店員のオレと楽しくお喋りしてくれたでしょ。オレらに八つ当たってくるお客さんだっているのに、お兄さんはずっと優しかった。大雨のときなんか自分だって早く帰りたかったはずなのに、オレの帰りを待って寮まで送ってくれたじゃん」

──その優しさがお兄さんの本性だと思うよ──

 穏やかに細められたタレ目が誠司に向けられる。間近で見る真澄は不健康なまでに青白くて、触れる体は少し力を加えれば折れてしまいそうなほどに儚げだ。
 なのにその薄い唇から発せられる言葉は、その見た目からは想像できないほど力強くて重みがある。

「凄い説得力だなぁ……驚いたよ、こんなに若いのに」

 すっかり荒れた手で真澄の頬を撫でれば、ハリのある滑らかな肌が手のひらに吸い付き、艶やかな髪が指を通る。真澄はくすぐったそうにしながらも無邪気に笑って、カサついた手をそっと包んでくれた。それだけで乾燥した手が、心が潤っていくような気がする。

「なははっ、ダテに修羅場くぐってないからね〜。それに、お兄さんも十分若いよ? 今はやつれてるけど、回復したら超カッコよくなりそ〜!」

 これまで幾度となく誠司を救ったオアシスは、その偉業に不釣り合いなまでの緩みきった顔でふにゃふにゃ笑う。緊張感の欠片もない表情に誠司もつられて破顔した。

「ははっ、ありがとう。真澄くんのお陰できっと良くなるよ。食欲も出てきたし、夕飯の続き食べてもいいかな?」

「もっちろん! お兄さんに食べてもらうために作ったんだからどんどん食べて! お味噌汁も残ってるし、なんならおにぎりと玉子焼き追加しちゃうよ〜!」

 わかりやすく声を弾ませた真澄が、おにぎりやおかずの乗った大皿をこちらへ寄せて「食べて食べて!」と急かしてくる。テーブルに手をつき、小さく跳ねる無邪気な仕草にまた自然と笑みがこぼれた。

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