前編〜誠司の糸〜

 根岸誠司は疲れていた。大学を卒業し、社会人になってもう4年目になるだろうか。連日連夜の激務に加えて上司からの理不尽な叱責、仕事を押しつけてくる同僚と、いつまでたっても仕事を覚えない後輩に胃を痛める日々。
 半ば強制的な早朝出勤はもはや当たり前で、社員の人権を無視した仕事量のせいで残業と持ち帰り仕事が日常になっている。

 いわゆる社畜──疲れきった顔で自嘲気味にエナジードリンクを開け、ただでさえ弱った体に刺激物のカフェインを流し込む。帰りの電車の窓に映る自分が年齢以上に老けて見えた。筋肉も落ちたかもしれない。学生時代は頭一つ抜けた身長と恵まれた体格で、柔道では数々の大会で好成績を残していたというのに。

 ひんやり冷えた車両を降りると湿度の高い夜風を感じて、ワイシャツの袖を捲れば梅雨特有のジトジトした空気が肌にまとわりつく。街頭だけが頼りの暗い道をゾンビのように歩いて、今日も自宅付近のコンビニへ足を運んだ。

「いらっしゃいませー」

 機械音と間延びした少年の声が誠司を出迎えた。空調の効いた店内は涼しく、明るい照明が世界に色をつけて、まるで別の世界に来たような錯覚をおぼえる。

 今日も弁当をカゴに入れて、迷いのない足取りでレジへと向かう。すっかり顔馴染みになった店員と目が合えば自然と笑みが浮かび、クマのできた目を細めた。

「いらっしゃいませ〜。お兄さんまた来てくれたんすねぇ。なぁんかますます顔色悪くなってません? またシゴト無茶振りされたの〜?」

 ゆるい口調の少年は、これまた締まりのない笑顔で世間話を始める。誠司はこの時間が何よりも好きだ。

「はは……まぁそんなとこ。でも真澄くんの顔見たら少し元気出たかも」

「なんすかぁそれぇ? カリスマ店員ってやつ? コンビニだけど〜。なははっ!」

 少年の名前は瑠璃真澄。16歳の高校生らしい。肩まで伸びているであろう黒髪を後ろでひとつに結び、長い前髪をピンで留めている彼は、疲れきった誠司を笑顔で迎えてくれるたった一人の存在だ。
 へらへらと笑う真澄に頬が綻ぶ。この笑顔のために生きていると言っても過言ではない。



 真澄との出会いは数週間前まで遡る。ゴールデンウィークが終わった頃、激務を終えて体を引き摺るようにして入店した誠司は新人アルバイトの顔を見て眉をひそめた。
 なんて不真面目そうな子なんだろう──それが真澄の第一印象だった。

 業務態度云々ではなく、単純に見た目が気になった。長い髪、耳にしっかり定着した無数のピアスホール。仕事中はアクセサリー類を外しているようだが、日頃の姿を容易に想像できる。話すたびに口内からチラチラ見えるセンタータンのピアスも忌避の対象だった。
 だからしばらくは彼の担当するレジを意図的に避けていた。どうせすぐに辞めるだろうと決め付けて。

 しかしある日、運悪く真澄の接客を受けることになった。あろうことか他に店員がいなかったのだ。
 できるだけ目を合わさず液晶に表示される値段と財布の中だけに意識を集中させていたのだが、どういうわけか真澄は唐突に話しかけてきた。

「お兄さん、よく来るけど家近いんすかぁ? いっつもこれくらいの時間っすよね〜」

 砕けた敬語につられて壁時計に目をやると、もう22時になるところだった。帰宅の時間なんてここしばらくは気にしていなかったが、終電より早く帰れただけでも御の字だ。

「この辺に住んでるサラリーマンのほとんどは19時とか、遅くても21時前には帰ってくんのに、こんな時間になってようやく帰ってくんのはお兄さん含めて数人くらいっすよ〜。大変っすね〜、みーんな疲れた顔してんだから」

「はは……」

 これは遠回しに馬鹿にされているのだろうか。「早く帰れないのは効率が悪いだけだろ?」と、ホワイト企業に就職できた同級生の言葉が脳裏をよぎる。劣悪な職場環境の愚痴を吐き出すつもりが、かえって心がざらついた去年の夏の夜。

 うつむくと自身のみすぼらしいスーツが目に入った。安物の薄い生地に皺が寄ってますますみっともない。靴も最後に磨いたのはいつだったか。ゴミ出しのタイミングを逃しに逃し、部屋も心も荒れるばかり。

 惨めだ、こんな子どもにまで馬鹿にされるなんて……もうこの店に来るのはよそう。誠司は力なく愛想笑いだけを残して早々に立ち去ろうとした。
 安売りの弁当が入った袋を受け取る寸前、不意に真澄の白い手が止まる。

「いつもお疲れ様です。あんま無理しないでくださいね?」

「……え」

 瞬間、誠司の動きも止まる。思いがけない一言に思考が僅かにフリーズした。

 今、彼はなにを言ったのだろうか。なにを言ってくれたのだろうか。罵倒でもない、怒鳴って急き立ててもいない。人の口から出てくる言葉が重くもなく痛くもない。いやむしろ……あたたかい?
 店内BGMが遠くなり、自分たち以外の景色が薄くなっていく。誠司の目には真澄だけが映っていて、二人の視線がしっかりと絡み合った。

──あ、この子タレ目だったんだ──

 目を合わせたことで、彼の顔の特徴を初めて知る。目尻の下がった双眸を細めて、元気よく眉を上げて気持ちのいい笑顔を見せてくれる。社会人になってから久しく触れていない、忖度なしの温もりに心がじんわり熱を持つ。

「疲れたときには甘いもんがいいらしいっすよ〜。あと酸味? 酸っぱいもんも疲労回復に効果があるって。……あ、今日のお兄さん天才〜。どっちも買ってるし。もしかして知ってた?」

 親しみと彼なりの思いやりを感じる雑談。ねぎらいの言葉なんて随分久しぶりに聞いた。
 接客用の営業スマイルじゃなくて、入店退店の義務的な挨拶じゃなくて、誠司にだけに向けられた……少年からの純粋ないたわり。
 それに気付くと同時に目から熱いものが込み上げてくる。いけない──と、咄嗟に前髪を崩して目元を隠した。

 体育会系の環境には慣れているはずだった。体力にも自信があったし多少のイビリには耐えられるつもりだった。けれどいつの間にか役立たずだと罵られるだけの無能な人間に成り下がり、学生時代に発揮していた社交性も自尊心も根こそぎ削り取られて、もう二度と他人から優しい言葉をかけてもらえないと思っていた。自分にそんな価値は無いと心から──

「あ、あれ? えっと、オレ……なんか変なこと言いました? あのー、お兄さーん。もしもーし。おーい」

 なかなか反応を返さない誠司に戸惑っているのか、真澄は困ったように笑いながら呼びかけては小首を左右に傾けているようだった。
 彼が揺れるたびに青みがかった黒髪もサラサラ動く。艶やかなそれに照明が当たって、反射してできた光の輪が綺麗だ。

 誠司は単純な男である。

 舌のピアスもよく見たら似合っているし、耳にたくさん空いたピアスホールが定着しているのも、日頃からしっかり手入れをしているからだ。派手な見た目をしていても、きっと根は真面目な少年なのだろう。
 なんてことない、ただの若者のお洒落に何を今まで嫌悪していたのか。数分前とは打って変わって、誠司は疲労の上に笑みを浮かべてみせた。

「ううん、なんでもないよ。ボーッとしてごめんね」

 自分の声がいつもより優しげに聞こえる。荒んだ気持ちも心なしか穏やかになった。真澄のあたたかな言葉が胸を満たし、緊張感のない笑顔が世界に色を付ける。久しぶりに人間に戻れた気がした。

──ああ、この子は俺のオアシスだ──

 この日から誠司のコンビニ通いが始まる。目的はただひとつ、癒しを求めて。
 どんなに疲れていても足を運び、真澄の姿を見つけると弁当を持ってレジに並んだ。ほとんどの種類の弁当を食べ尽くし、コンビニの味に飽きていても『瑠璃』の名札を付けた店員と他愛ない会話をするために足繁く通う。

 思えば真澄のレジはいつも人が並んでいた。誠司のように疲れた顔をした人、やたら騒がしい若者グループ、気難しそうな老人。老若男女さまざまな客が光に誘われる虫のように真澄のいるほうへやって来る。
 その全てに真澄はへらりと笑って接客をこなす。真澄と世間話をした客は、入店直後より穏やかな目付きになっていた。

 そう、誠司は特別な客ではない。真澄は誰に対してもそうなのだ。通ううちに嫌でも理解する。真澄はただ一生懸命に仕事をこなしているだけだ。
 そんな苦い現実を思い知りながらも、楽しそうに誇りを持って働く彼の姿を見れば活力が湧いてくる。他の客に抱く嫉妬心を飲み込んででも眺めていたいと思えるほどに。
 真澄にとっては大勢いるうちの一人にすぎないとわかっていても、誠司は懲りずにコンビニへ癒しを求める。今日も、明日も、その次も──
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